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2004/01/27

2011.12.31

2011年の終わりに

今年も一年が終わろうとしている。一ヶ月前の大唐十郎展や一週間前の全州大学一行の早稲田公演などはずいぶん以前のことのような気もするし、4月にまだ震災の余韻が残る中でやった「美学vs.現代アート」のイベントなどは遥か昔のような気もするのだが、その反面、全体としての一年はあっと言う間に通り過ぎたような気もする。時間とは時間についての意識にほかならないわけだし、中学生の頃は一年前が既にノスタルジーの対象だったのだが、このところ5年くらいはあっという間のことだ。5年前と言えば三ヶ月半ヨーロッパを旅行したのだが、この時のことは細部も含めてとてもよく覚えている。記憶の量が増えていくにつれて時間のパースペクティヴがどんどん変わってきている。不惑とか知命とかいう年齢はとうに過ぎたのだが、不安定な感じ、ぐらつく足場の中で踏ん張っている感じはなかなか抜けない。大人になるとは、不要な情報を整理できて、本当に必要な情報の中で自分の位置を確定させることだとすれば、ますます分からないことが増えてきてしまって、加速する情報の中で自分の立ち位置がどんどん不安定になっていくような気もするし、まあそれでも生き物としての年齢は不可逆的に上がっていくわけだが、どこかでそのバランスが取れるようになっていくのだろうとひとごとのように考えている。今年もこなしきれないほど色々な出来事があった。

2009年の秋に北仲スクールを立ち上げて、椿昇展を浜川崎の古い体育館でやって、その直後に京都国立近代美術館でクシシュトフ・ヴォディチコに会って、今年の夏に国際会議を開くことができた。去年の今頃はまだメールでようやく日程を決めていた頃だ。その流れの中で3月11日、横浜トリエンナーレ記者発表の日、午前中に横浜美術館で記者発表に参列して、午後四谷三丁目の国際交流基金に助成をお願いしている最中にあの揺れがやってきた。あの日の夜、空にかかる明るい月を眺めながら歩いたことは忘れられない。そしてその後に起こった悪夢のような数週間も。家の中に入り込んできた近所の野良猫が子猫を三匹産んだ。その中で最初に食卓の下のフローリングの上で破水して出てきた雄の子猫と母親は今も家にいる。二匹の雌猫は里子に出した。また、慣れている近所のスーパーの駐車場で車をバックさせていたら柱に激突しリアウィンドウが全壊するなどという自分でもよく分からない事件も起こした。町は真っ暗で、ガソリンスタンドには長蛇の列、近所のスーパーやドラッグストアの商品棚がしばらく空っぽになった。海外からは日本が放射能汚染で危険だから早く脱出するようにというメールが何通も来るし、あらゆるイベントや委員会が中止になった。後期入試も結局中止になって、定員を遥かに越える新入生を迎えたりもした。

毎年、同じように春になり、同じように桜が咲き、同じように新学年が始まるという当たり前だと思っていたことが覆されたのだから、今年は本当に異常な年であったとも言える。こういうことが起こると、人はこれが何かのきっかけとなって歴史的な変化が訪れるのではないかと思いがちだ。そう思う人は、これがグローバル資本主義の終息へ向かう転換になるのではないかと期待している。だが、そんな甘い考えに懐疑的にならざるをえないのは、ちょうど10年前の9.11にも同じようなことが起こったのにもかかわらず世界はむしろ悪い方へと一直線に動き始めたことが心に重く残っているからだ。新自由主義に基づくグローバル資本主義が諸悪の根源であることは分かってはいても、それに代わる選択肢をまだ人々はきちんと認識することができないままでいる。見当はずれの公務員叩きや生産性や効率性重視の方に世論が動いて、大阪の橋下大阪市長フィーバーを筆頭として政治はまっしぐらに間違った方へと動いている。これが郵政民営化や国立大学の独立法人化と全く同じ流れのものであり、規制緩和や競争原理はそれをどんどん進めて行けば必ずいい方向に転化するという新自由主義の先鋭化にほかならないことに気づいている人はあまり多くないようだ。要するに対立項がどこにもないのである。2001年の時には、それは2003年のイラク空爆という形で暴発した。今回もいまの混乱に基づく破局が近い将来に起こるような気がしてならない。人間は過剰を蕩尽する動物であり、「生きる力」とか「意欲」とかはそこにしか生じない。「効率化」とか、「限られた資源を大切に使う」とか、「効率化」とか「節約」とかからは生きる力の減退しか産まれない。アートや演劇のように無駄に過剰を蕩尽する活動性がどうしても必要なのはそのためなのだ。

というわけで、もうすぐ新しい年が始まる。とりあえずの戦いは北仲スクールの活動の存続だ。まだまだ困難な状況は続いているが、正月休みで体力を蓄えてまた現場に戻ることにしよう。ヴォディチコの会議のまとめもまだ終わっていないが、まとめたり整理をしたりするのはまだ先のことだ。

2011/12/31 : 09:43 午後 日記・コラム・つぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.11.05

「大唐十郎展」始まる

 11月1日から、桜木町「ぴおシティ」地下2階での展示が始まった。「袋小路展示場」、「喫茶肉体」、「野毛トランク座」の三部構成。通路脇の4軒の空き店舗を借りたのだが、喫茶店とうどん屋は居抜きでそのまま営業できる状態。カウンターと椅子席の小さなうどん屋でも展示を考えたのだが、あまりにうどん屋のままなので諦めて事務局スペースにした。

 この企画、去年の秋に唐ゼミの中野敦之に相談を持ちかけたのだが、内容や運営に関してはすべて中野と唐ゼミにまかせて、ほとんどぼくが口を出す必要はなかった。8月のヴォディチコ・イベントが余りにも大変だったので、時々経過報告してもらって意見を言うくらいで、すべて任せっきりにしていたのだが、想像以上の出来映えでとても満足している。北仲スクールでやった、旧日本鋼管体育館での椿昇展、ヴォディチコとのプロジェクションと国際会議に並ぶ大型企画として誇りうる素晴らしい展覧会である。

 桜木町ぴおシティは昭和43年(1968)年。つまり、唐十郎が初めて新宿花園神社でテント公演を行った年に誕生した複合ビルで、競馬・競輪の場外車券場があり、近くには野毛のウィンズ横浜もあるので競馬・競輪の客でいつも賑わっている。地下二階の飲食街には、昭和を感じさせる喫茶店やパチスロ屋、立ち飲み屋が軒を並べ、朝から立ち飲み屋に人が群がるまるで戦後の闇市のような雰囲気を保っている。ただ、ある意味ギャンブルに特化したビルであるために空き店舗も多い。ここで「路地の展覧会」を開くことになった。オープンする時間は一般画廊に会わせて昼13:00から。東京から来る人のために夜8:00まで開けておくことにした(月曜休館。この時間を過ぎると、11:30までやっている地下街なので治安上の不安もあり)。

 まず、パチンコ屋の向かいにある「袋小路展示場」は、元中華料理店跡を全面的に作り替えて、お化け屋敷のような回廊となっている。展示されているのは、状況劇場、劇団唐組の芝居に使われた衣装・小道具や舞台装置。もちろん、観た人にはたまらなくなつかしいものだろうが、見ていない人たちも十分に楽しめる構成になっている。モニターにはそれらの小道具が使われた舞台映像がダイジェストで流れている。ちなみに、「袋小路」とは初期状況時代「腰巻きお仙」シリーズで麿赤兒さんが演じた当たり役「ドクター袋小路」から取られた。

 通路を挟んでその向かい側「野毛トランク座」。ここでは入手することがきわめて困難な状況劇場と唐組のビデオが日替わりで上映されている。どれだけの人が見てくれるのか分からないが、ここではダイジェストをやめて全編上映している。椅子も用意してあるのでじっくり楽しみたい人は通って欲しい。上映プログラムに関しては係の者に聞いて欲しい。かつて市販されたものばかりではなく、独自ルートで入手したきわめて貴重な映像も含まれている。「蛇姫様」、「女シラノ」、「新二都物語」、「電子城1,2」等々。日替わりで丸一日楽しめる無料の映画館となっている。

 そして路地の逆側には「喫茶・肉体」。「少女仮面」の舞台となっている喫茶店から名前をつけた。ここでは、ガラスケースに入った貴重な書籍、ポスター、上演台本などのほか、テーブルの上にはファイルされた雑誌記事やパンフレットが置かれている。また、会場にはいつも状況劇場の劇中歌が流れていて、なつかしい昭和の喫茶店が再現されている。残念ながら会場内は飲食禁止になっており、コーヒーを飲むことはできない。

 そして、11月4日。超目玉企画の第二弾「21世紀リサイタル〜うたと唐十郎『四角いジャングル』2011」が、赤レンガホールで開催された。「四角いジャングル」は、1973年に状況劇場が後楽園ホールでやった一晩限りのコンサート。きちんと唐さんが台本を書いて、録音はレコードとして発売された。その中から、唐さんが歌った曲のうち「さすらいの歌」、「月がかげれば」、「時はゆくゆく」、「ジョン・シルバーの歌」が再演され、その翌年の74年の「又三郎のテーマ」。全5曲を唐さんが歌った。それに「吸血姫」、「鐡假面」、「海の牙」、「蛇姫様」といった状況劇場の劇中歌、「透明人間」、「鯨リチャード」、「夕坂童子」などの唐組の劇中歌、「下谷万年町物語」、「風のほこり」など全28曲が、安保由夫、大久保鷹、稲荷卓央、近藤結宥花、椎野裕美子、渡会久美子などの豪華出演陣によって、芝居を差し挟みながら歌い上げられた。司会は十貫寺梅軒と赤松由美。満員に近い客席には唐組常連の皆さんに加えて、石橋蓮司・緑魔子、松岡正剛、佐野史郎、秋山祐徳太子、松田政男などの錚々たる面々。伴奏には38年前と同じ小室等、NRQ+向島ゆり子、張紅陽(めいなCo.)。そして、新宿梁山泊+唐組の作曲家・大貫誉、劇団唐ゼミの作曲家・サトウユウスケが参加した。唐ゼミの椎野裕美子は「鐡假面」の時の深紅のドレスと鬘をまとい四曲を歌った。2005年の「唐版・風の又三郎」韓国ツアーを最後に引退した、元新宿梁山泊の近藤結宥花が日本では7年ぶりに表舞台に復帰。「吸血姫」から「ガラスにキスをしたら」、梁山泊版の主題歌「ほうずきの歌」、そして2001年に唐組に客演した名作「闇の左手」からテーマ曲と3曲を熱唱。台詞も入って、全く変わらない姿を見せた。終演後の宴会でも復帰を望む声しきり。彼女の最後の舞台に関しては、このblogでも昔いくつか書いたことがある。驚くべきことに彼女が活躍していた中心の時期はこのblogよりも以前の時期だ(ホームページにもどり、過去の短信を参照しなくてはならない)。たとえば、2005年8月のソウル公演の記事と、全州公演の記事。それにしても時の流れは早い。

約400名の観客は、この夢の夜に熱狂し、アンコールで歌われた「ジョン・シルバーのテーマ」を大声で、あるいは小さな声で口ずさんだ。この様子は3組のクルーによって映像で記録されたが、そのうちの一組"TAEZ"さんから、冒頭のシーンの映像がYoutubeにアップされている。続けてダイジェストが紹介される予定なので注意して頂きたい。

 ぼくが唐さんと知り合って15年、中野たちが大学に入って12年。10年以上の長い時間をかけて初めて実現できたことだ。思えば、2001年に唐さんが第一回花園賞を受賞した時、花園神社に張られている紅テントで受賞パーティを開いた。あの時には、中野たちもまだ学生だし、唐組や梁山泊の金守珍さんなどの協力を得て手探りでやった。麿さん、四谷シモンさん、大久保鷹さん、佐野史郎さんも歌ってくれた。公演中だった近藤結宥花さんもやはり闇の左手を歌い、稲荷も歌った。楽しいパーティだったが、それから10年を経て、いろいろな人との関係も深まり、唐ゼミを応援してくれる人たちも増えて、これだけのことが実現できたのだと思う。基本的にはすべて唐ゼミと北仲スクールの学生によって運営されたが、音響に関しては開港博覧会やヴォディチコ・イベントでもお世話になった㈱ドリームの則行さんにお願いして、素晴らしいコンサートが実現できた。ぼくにとってきわめて感慨深い夢のコンサートだった。

 先週「西陽荘」の千秋楽を終えたばかりの唐さんは、疲れが顔に出てリハーサル中は不機嫌だったが、リングの上でのリハーサルからは目に見えて高揚。本番では一番元気に見えた。終わったあとは、2002年に唐組が同じ赤レンガホールのこけら落としの時と同じようにカフェスペースにゴザを敷いて大宴会。100人近い人が残った。ちょっと残った関係者が多すぎたかもしれないが、それだけみんな喜んでくれたのだと思う。唐さんは中野に送られて高円寺に戻った。アトリエで二次会が繰り広げられたことだろう。

 「大唐十郎展」はまだまだ終わらない。12,13日には劇団唐ゼミの「海の牙」。今の青テントのお披露目で「ジョン・シルバー」再演以来、7年ぶりに臨港パークの海沿いにテントを張る。長野公演を経て、芝居の成長が楽しみだ。地元横浜での公演も久しぶり。これも見逃せない。いつもより開演時間が早まるので注意されたい。そして、19,20日には、シネマ・ジャックアンドベティの大スクリーンでの「追跡・汚れた天使」上映会。いわく因縁付きのどこでも見られない貴重な映像だ。70年代の唐が唯一監督し、直前に放映中止となったテレビドラマ。ある意味で、最も唐らしいシュールレアリスティックで怪物的な作品である。全盛期の状況劇場の役者たちにも出会える。まだまだ夢の夜は続いていく。
 

F


2011/11/05 : 09:34 午後 唐ゼミ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.10.25

劇団唐組「西陽荘」と「大唐十郎展」

 劇団唐組の秋公演「西陽荘」が今週末10月29日、30日で千秋楽を迎える。
 唐組は秋には旧作を改訂して上演してきたが、今年に限ってはそれは新作となった。というよりも、唐さんはなぜか今年、4本も新作を書いた。この「西陽荘」のほかに、新宿梁山泊に一本、そして何と何と初めて劇団唐ゼミにも一本、そしてもちろん本家・劇団唐組の来年の春公演の新作まで書き下ろしている。もの凄い創作意欲である。
「西陽荘」はその中で初めて上演された新作。来年の春には残りの三本が見られる。みんな楽しみだけど、何と言っても唐ゼミの椎野裕美子と禿恵のために初めて台詞を書いてくれたのが楽しみ。
 そこで「西陽荘」なのだが、これがとても面白い。二年前の「夕坂童子」、昨年春「百人町」、秋の「姉と弟」、今年春の「冷やりん子」と同じようにコンパクトな二幕もので、一時間ちょっとで終わる。ただ中に含まれているイメージがきわめて多層的でしばらくは消化できないくらいに濃密だ。
 西陽荘というオンボロ・アパートに突然飛び込んで来た女から押し付けられた「残高30円」の預金通帳を返そうと、主人公は京成小岩のおでん屋「ちくわぶ」に赴く。そこで出会ったのは、「氷雨」一曲しか歌わない流し(安保由夫が怪演)、まるでミュージカル「キャッツ」のように「メモリー」を歌って思い出すことを促すおでん屋の親父と客のコーラス隊、自立した入れ歯を探す花屋の親父、「色気のぬか漬け」キャバレー「白粉」のママ・月村とその用心棒、狼二郎(唐)といった賑やかで不思議な面々だ。物語は「サフラン・ミルク」という生乳会社に勤めていた主人公が茨城県の大洗のそばにある涸沼町付近の酪農家の牛乳を買えなかったこと、そして通帳を残した女の弟の漁師と一緒にまるで瓦礫の山のようなゴミ捨て場で漁船に取り付けられていたバックミラーを見つけたことをめぐって展開する。と、粗筋を書いてもかえって分からなくなるだけなのだが、一言も津波や震災に触れていないにもかかわらず、観客はそれと重ね合わせて見るような仕掛けになっている。冒頭にちょっとだけ現れる「西陽荘」だが、それは「西日に照らされる巷」としての日本全体であることもだんだんと分かってくる。「振り込まれることのない」残高30円の通帳は、札を挟む「歯」として、舞台に登場する「爪」や「ウニ」や「入れ歯」といった小道具と重なって、消費の夢に浮かれていた自分たちに対する自罰的な痛みを象徴している。意表をつく隠喩が積み重ねられ、そこに浅草軽喜劇やイタリア喜劇ののような矢継ぎ早の展開が重なり、痛快でありながらもひりひりするような刺激が襲ってくる。
 これらは最近の唐組の新しいスタイルとして意識的に劇作家によって仕組まれたものであることがわかり、唐十郎のしたたかな作劇が冴えまくっているのがこの「西陽荘」なのだ。唐組の若手たちが楽しそうに演じている。それも今週末で終わる。見逃さないで欲しい。
 そして、それが終わるといよいよ来週から横浜で「大唐十郎展」が始まる。1日からの桜木町・ぴおシティ地下2階の路地で開かれる展示会。資料や秘蔵映像、そして何と言っても舞台で輝きを放った小道具たちの展示。そして、何と言っても4日の一日限りの21世紀リサイタルでは、73年の伝説のリサイタル「四角いジャングル」が再現されるボクシングのリングの上で、状況劇場、唐組、梁山泊、唐ゼミの面々による歌が披露される。演奏には小室等までが登場し、観客席には石橋蓮司・緑魔子といったこれまた伝説的な顔ぶれが揃う。まだチケットの残りが少しあるようなので、是非前売り券を予約していただきたい。二度と実現できない伝説のリサイタルになるだろう。さらには、これまた伝説の映像「汚れた天使」の上映会。73年に関西テレビで全国ネットで放映される予定の連続ドラマだが、直前に余りのハチャメチャぶりに放映中止となった作品だ。幻の映像作品であり、将来DVDになったりは絶対にしない貴重な映像なので、これも見逃せない。さらには、7年ぶりに海沿いの臨港パークで上演される劇団唐ゼミ★の「海の牙」最終ステージと盛りだくさんの企画だ。
 宣伝ついでだが、3日から6日まで、神奈川芸術劇場(KAAT)で上演される、やなぎみわ演劇プロジェクト「1924-海戦」も要チェックだ。美術界で国際的に活躍するやなぎさんが、初めて演劇に取り組む意欲作。第一部はモホイ=ナジと村山知義というアヴァンギャルド美術、そして今回は土方与志とメイエルホリドの出会いを築地小劇場の舞台の再現というきわめて知的な実験を行うと言う。横浜でしか見られないので是非チェックして頂きたい

2011/10/25 : 08:17 午前 文化・芸術 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2011.09.24

もう9月も終わりだ。

気づけば、8月16日からずっとさぼっていた。月に一度くらいは更新しとかないと…。

ヴォディチコたちが帰国した次の週は、ずっと浅草に通った。望月六郎監督の主催する「劇団DogaDoga+」の第十回公演『贋作たけくらべ』が浅草東洋舘で行われていたからだが、その間に浅草で「三十坪の秘密基地」「昭和歌謡・コシダカシアター」パンダバスなどさまざまな活動をしている三遊亭あほまろさんの江戸ネットにお邪魔したりする。あほまろさんを望月さんに紹介したことから浅草で新たな展開が生まれてきそうでとても楽しみだ。後日、報告します。

DogaDoga+の公演はこのところとても面白い。望月さんの台本がとても良くなって来ているばかりではなく、劇団員を中心に出演者やスタッフが本気で頑張っているのが伝わってくる。これで二回、チラシに宣伝文を書かせてもらったので、毎回観客数や声援が増えていくのはとてもうれしい。次回は2月に東洋舘で「
贋作・春琴抄」の公演が決まっている。

その次の週には父の病院通いに付き合ったり、黄金町バザールのオープニングに。翌週の9月5日からは、昨年に引き続き、京都精華大学の佐藤守弘さんのコーディネートによる集中講義。京都精華大学の大学院生二十数名に横浜の学部生二十数名が一緒に5日間の集中講義を受けた。その間、懇親会2回。楽しかったのだが、京都精華の院生たちの作品のプレゼンもあるともっと良かったかも。関西の美大生は飲ませるととても面白い。週末10日には、現役最長老のシナリオライター・石森史郎さんを迎えて、大林宣彦監督「青春デンデケデケ」上映と特別シナリオ講座。あほまろさん、望月さん、DogaDoga+の女優さん・黒沢美香さんも加えて手作りの鍋で宴会。望月さんの映画ワークショップに参加する学生たちも一緒に盛り上がった。

9月は、BankArtの池田さんに頼まれて、毎週水曜の晩に、新-港村(新港ピア)でのスーパースクールに参加している。一回目の7日は、京都精華の集中と重なったために佐藤君と二人で、2001年の第一回トリエンナーレの話。今回は新編集の「インセクト・ワールド」のメイキング・ヴィデオを上映した。これまで見たことのないシーンも入っていて新鮮だった。また、第二回目の14日は加須屋明子さんにポーランド現代アートの話。第三回目の21日は、京都から吉岡洋さんが来る予定が、台風直撃で中止せざるをえなかった。大垣のIAMASでの仕事を終えて名古屋で新幹線が再び動くのを待機してくれていたのだけど、結局東京方面は終日動かなかった。また、関東も直撃を受けて、新港ピアでは天井が破損。やはり自然の力には勝てない。

その他大学でいくつかの会議や委員会があったり、期待していたあることがうまく行かず落胆したり、活躍している卒業生が訪ねて来てくれてうれしかったりとまあいろいろあったが、もう後一週間で後期が始まり、今年も夏が終わる。とにかく今年はヴォディチコを呼んで会議を無事に実現できたのが何よりだった。この成果をどういう形で公刊するかということが現在の課題である。

10月2日には北仲スクールの後期授業ガイダンスと京都精華主催のシンポジウムが同時開催される。また、北仲スクールと劇団唐ゼミ☆共催の特別イベント「大唐十郎展」が11月1日から20日まで開催されるので、その準備が始まっている。これまた一度限りの凄いイベントになりそうだ。とりわけ4日のコンサートは歴史的な出来事になるだろう。そのほかにもいろいろ企画が目白押しです。10月14〜16日は美学会全国大会でまた仙台に行きます。

2011/09/24 : 10:50 午後 日記・コラム・つぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.08.16

「アートと戦争」の日々

 ヴォディチコが8月1日に来日して以来、怒涛の日々が続いた。13日の午後、彼らを無事成田空港まで送り届けて、ようやく一年がかりで準備してきたこのイベントが終了。次の日は一日中眠っていた。

 何が起こったのか頭が混乱していてよく思い出せなくなっているので、一日ずつ日記風に整理して書いてみたい。

 8月1日は10:00過ぎに北仲に行き、準備でばたばたしている中、宮本裕子と一緒にぼくの車で成田空港第一ターミナル南ウィングへ。渋滞もなく予定よりも少し早めについたのでカフェテリアで昼ごはんを食べ、午後1:30位に到着する便を待つ。かなり後の方から出てきたヴォディチコ、エヴァ、助手のロバート、その友達のコリンを迎え、彼らが携帯電話のレンタルを希望したので北ウィングと南ウィングの連絡通路にあるカウンターへ。エヴァのiPhoneがAT&TでSIMカードがプロテクトされているとか、ヴォディチコのマスターカードがソフトバンクでは一人分しか受け付けられないとか色々面倒なことがあり、時間のロスがあったが、高速を一気に走り山下公園沿いにある彼らのホテルへ。そのまま、チェックインする彼らを待ち、一時間ほど山下公園で宮本と時間を潰し、全員が待つ大学へ。これまた渋滞で遅れ、7:30頃到着。プロジェクションのテストと、歓迎のバーベキューパーティ。ジープを用意してくれた㈱ドリームの則行さんも顔を出してくれていたが、グリッドボードのような平面スピーカーに合わせて、プロジェクターボックスにもグリッドボードをつけたいというヴォディチコの要求に応えることになる。投影フォントの変更や、ヴォリュームのコントロールなど様々な指示をしたヴォディチコをホテルに送り出して、中野に家まで送ってもらう。学生チームも息が合ってきている。

 2日には、京都から加須屋明子も合流して、関連展示の準備、会議のための準備。午後からはヴォディチコも加わり、日本語版プロジェクションの最終調整を、ロバート、中川克志、室井の四人でホワイトボードに投影しながら詰めていく。この時には日本語による11個だけを使い、特にエンディングの調整に苦しみながら議論。ロバートの仕事中に、ヴォディチコにはTシャツへのサインを頼んだのだが、どうやらサイン用のペンの石油系顔料の臭いに極度に弱かったらしく、20枚で挫折。その後彼は建物内には入ってこなかった。サイン問題はまた会議最終日にも持ち上がる。そのまま、現場となるYCCを加須屋明子と共に見学。スライドをするには明るすぎると文句をつけ、近所の「サモワール」でハーブティとフレンチトーストをロバートを呼び出して食し、外に出ると驟雨。椎野裕美子に傘を持ってきてもらい、暗くなった時間になって北仲の駐車場スペースから赤レンガの倉庫に向けてリハーサルを行う。全員が意見を言い、今後の調整に向かうことになる。フレンチトーストは十分に食事代わりになったようでこの日はそのままホテルへ。帰る前に椎野と二人で清香楼で担々麺とスーラータンメン。

 3日にはようやく会議用のパンフレットが到着。夕方に行われる新港ピアでのリハーサルに向けて最終調整。ここで突然に方針変更。日本語版のみだと来場する外国人には何も分からなくなるということから、英語で行われたデンバー、リヴァプール版、ポーランド版で行われたワルシャワ版との三部構成になる。WarVeteranVehicleと差別化するために、Tsunami Veteran(津波経験者)版に関してはラストのテキストと音の効果を変えなくてはならないと、ぎりぎりまでロバートと作業。時間がないので、近所で寿司の折り詰めを買ってきてそれを食べながら作業をした。ヴォディチコは現場でも立ったまま食べていた。現場では、照明の状態や、案内係、受付等の配置をチェック。とりわけ、始まりと終わりのタイミングに関して何度もリハーサルをした。結局、8:00前から9:00過ぎまで、2時間近くずっとループし続けるという形で公開されることになった。車でホテルまで送り届けて終了。

 4日は1Fでの関連展示の仕込み。朝から始めてほぼ形が整ったと思われた午後4:00頃、ヴォディチコがチェックに現れて、全面的なやり直しを指示。ほとんど全面的な作りなおしにはなるが、何とかぎりぎり間に合いそうな微妙なダメ出しだった。夜は、ヴォディチコ夫妻と加須屋、中川、越前さんと一緒に中華街。馬さんの店新館で食事。その後ホテル・ニューグランドの老舗バー、シーガーディアンIIで会話(中川のみサンダル履きで入れず)。しんみりとしたいい夜だった。

 5日が、いよいよ横浜トリエンナーレの内覧会と一回目の新港ピアでのプロジェクション。ヴォディチコはずっとロバートと最終調整作業。急遽、翻訳シートを作成することになり、作られた原稿を本永さんがきれいに整形してくれた。昼、宮本、加須屋と小肥羊の担々麺。この日から暑さはピークになる。3:00頃からBankART-NYK会場、横浜美術館会場と早足で見て回るが、ヴォディチコたちも暑さにやられて疲弊している。この間に関連展示の設置終了。美術館からレセプション会場のパシフィコ横浜へ。千人以上いると思われる人混みを早々に抜けだして会場へ。この間、学生たちがチラシまきをしたり、案内板を抱えて場所に誘導したりと頑張ってくれている。7:30頃から開始したが、ピークの8:30頃には約500人が集まって静かに見てくれた。遠くからもよく見えるので、おそらくは1000人近くの人が目撃していると思う。21:30頃、人の姿がまばらになってから終了。まだ、建て込みが続いている新-港村の中を見て回り、いろいろな人に挨拶をして撤収。カメラマンの首藤さんと、五味香でスーラータンメンを食す。

 6日、7日は、ヴォディチコたちが一番のんびりできるはずだったのだが、6日にフィンランドから呼んだゲスト、ダグラス・フライが来日。吉岡洋もこの日から入る。ぼくはこの2日とも大学でオープンキャンパスがあったために、車で往復をした。6日の夕方にホテルでお茶を飲んでいるヴォディチコ夫妻、宮本と一緒にフライに挨拶。中華街に行くという彼らを残して帰宅。7日は午後から北仲に行くとヴォディチコとエヴァは明日の会議の原稿を準備していた。この日の昼はヴォディチコたちは宮本に連れられて日の出町、野毛坂の蕎麦屋で食事をしていたらしい。北仲では学生たちが会議の準備に大わらわ。ぼくも間に合いそうにないと思って7日はYCC前の東横インに前泊することにしたが、原稿は何とか間に合った。前泊する木幡和枝さんチームが到着。会場設営には東京芸大の学生たちが沢山来て手伝ってくれた。ヴォディチコ夫妻、加須屋、吉岡、中川と馬車道のとらふぐ亭でフグを食べる。

 8日、いよいよ国際会議の初日。思ったよりも人が集まってきている。開会宣言の後、ヴォディチコの基調講演。本当に一枚も画像を使わずに、言葉だけでほぼ一時間の講演を済ませた。お前がスライドなんて使うなというから頑張ったんだと言うが、この辺りの意地の張り方が彼らしい。その後、同じくぼくの基調講演。ランチ休憩の後、フライ、奥本京子、大西若人、エヴァがそれぞれ講演。休憩後、明日からのラウンドテーブルの登壇者紹介。この段階では、室井、吉岡、鎌田、椿、やなぎ、西尾、山出、遠藤、越前、東、范、河本、加須屋、猪股しか顔を揃えていないが、それでも一巡するだけで時間が過ぎた。そのまま、レセプション・パーティへ。ぼくとヴォディチコの挨拶の後、逢坂恵理子ディレクターによる乾杯、在日ポーランド大使、横浜市からは文化観光局の秋元氏、横浜市大の布施学長などのスピーチが続いた。横国の鈴木学長も顔を出してくれた。8:30過ぎに終了。この日は帰宅。

 9日。ラウンドテーブルが始まる。ぼくのテーブルには昨日に加えて大澤真幸そして、藤原徹平、長坂常、坂口恭平の若手建築家チームが参加。午前中に問題提起、午後のセッションではヴォディチコも参加して、建築家チームのプレゼンを中心に議論する。2:30に一旦終了して、3:00から全体討議。椿のラウンドテーブルには、昨日に加えて会田誠、津田一郎が増え、人数が多すぎてまとまらず。プロジェクションがあるので時間を伸ばすこともできず、6:00に終了。自分から参加してきてくれた三輪眞弘さん、吉岡、首藤さんたちと清香楼で軽くスーラータンメンを食した後、各自三々五々会場へ。歩いて行く途中、サークルウォークで観に来てくれた大久保鷹さんとばったり。以外にも観客数は十分で、いいプロジェクションになったが、スタートとエンディングにトラブルがあり、ヴォディチコたちは結構ぴりぴりとしていた。その後、全員を帰してから最低限のスタッフのみでの秘密作業。この日も東横インに泊まる。

 10日。会議最終日。午前は大澤真幸、鎌田東二、吉岡洋と四人で議論。鎌田東二の「空気神社」の話が面白く、午後でも紹介することになる。午後はいきなり全体会議。結構な数の観客が残ってくれている。各分科会の報告の後、休憩を取り、「3.11」に関するセッションと「メモリアル」に関するセッション。それぞれ充実していたが、こと原発問題に関しては感情的な議論が多く、まだ時期尚早なのかと思った。ヴォディチコは第二セッション終りで体調不良を訴え、冒頭話した後、ホテルへリタイア。暑さと疲れのせいと言うが、どうもきっかけとなったのは、前の休憩時間にぼくが彼に頼んだパンフレットへのサインのようだ。Tシャツへのサインで体調を悪くしたので、普通のサインペンなら大丈夫だろうと紙へのサインを頼んだのだが、どうやら揮発性の臭いに極度に弱いらしい。盛り上がった最後のセッションと、鎌田東二のパフォーマンスでこれまた異常に盛り上がったパーティに顔を出せなかったのは残念だが、それでも8:00過ぎには「回復したのでパーティが終わったら一緒に食事をしないか」と電話があったので、それほど深刻ではなかったようだ。片付けがあるからと椿さんと越前さん(そして、おそらくは河本さん夫妻も)を送り出した。いい会ができたようで良かった。この日にロバートが離日。エヴァは空港に送り出す荷物の整理と買い物を楽しんでいたらしい。会場撤収後の10:00過ぎ、全体ミーティングをしていたら、明日からの仙台に付いてくるメンバーが9人も居ると聞いて驚く。彼らもここまで頑張ったイベントの最後を見届けたいらしい。

 11日。仙台へ移動。前日の夜、ジープはトラックに載せられて運ばれていった。早朝6:00出発の高速バスで学生スタッフらは仙台に向かい、ジープをセットするためのスタッフも別便で向かう。ぼくたちは、東京駅でヴォディチコ、吉岡洋らと待ち合わせをし、帰省ラッシュで満員の東北新幹線に乗り込む。この日から参加する阿部由布子と合流し1:00過ぎにせんだいメディアテーク到着。様子の分からない建物内でのプロジェクションということでヴォディチコはかなりぴりぴりしている。メディアテーク側が準備した設営を根本的に変更。ジープ前の空間を何も置かないようにして、トークショーの客席も手前側の位置に変更させる。入念にカメラの位置まで決め、リハーサルも何度も繰り返した。その間に学生チームや木幡さんチームも到着。横浜からも何人も来てくれている。6:00からトークショー。6:50頃からプロジェクション開始。7:35頃終了。たまたま通りかかった人たちも含めて、沢山の人が静かに見てくれた。終了後、ただちに撤収。ジープを運び出し、搬入口のすぐ目の前にあるパーキングから、ジープが運びだされる。7月から付き合ってきたジープとの別れに、思わず全員拍手で送り出す。もうあのジープに会えることはないのだ。その後、近くの居酒屋の二階を貸し切り、大宴会。そのまま高速バスで横浜に帰る組も居て、10:30頃解散。ほんの短い滞留しかできない仙台の町を歩いて帰った。この日も震度3程の地震で目が覚めた。

 12日。8:15ホテル発。仙台で借りたトヨタ・ハイエースはデラックス仕様で快適。高速入口から渋滞で1時間半程度の遅れが出る。一関インターから気仙沼の中ほどにある「みちの駅・川崎」で各自弁当を買い、車の中で食事。そのお蔭で少し時間に余裕ができたので、被災地を見学。1時過ぎにミュージアム。その後、火事で全焼した地区を通り、酒屋さんへ行き、彼の案内で漁協の人にもご挨拶し、現地で陶芸をしている方の窯元へ。まだ、時間がありそうだったので、陸前高田、大船渡まで回った。全開は大船渡につながる橋が交通止めだったのだが、今回は復旧していた。全体に、瓦礫などはきれいに片付いていたし、臭いなどはほとんどなかったが、逆にこれをどうしていけばいいのかわからない程に徹底的に壊滅していることがよく分かった。ヴォディチコとエヴァは衝撃を受けながらも忙しくカメラのシャッターを切っていた。疲れきって、大船渡のそばにあるレストラン「まんぼう亭」にて夕食。漁港の一部が機能しているので魚は美味しかった。そのまま仙台到着したのが23時頃。車の中ではヴォディチコとずっと話していた。ホテル前で解散し、ヴォディチコたちは周辺のコンビニに買い物に。吉岡と阿部の三人てぼくたちは近くの居酒屋で軽く飲んでから就寝。

 13日。10:17仙台発の新幹線に乗り込む。上野駅で吉岡と別れ、駅弁を買い、京成スカイライナーで成田へ。その間、ずっとぼくたちは出版の計画に関して議論をしていた。40分ちょっとで成田に到着。預けた荷物を受け取り、レンタル電話を返却してチェックイン。エヴァのことを心配して、ヴォディチコは貯めたマイレージで、座席をエコノミーからビジネスクラスに変更していた。もう、これでマイレージ切れちゃったよと言う。少し、時間があるのでお茶でもと言っていたのだが、エヴァが早く入りたいと言うのであっけなく別れる。これは単に買い物をしたいというばかりでなく、どうやらエヴァが少し神経症的で早く出発ゲートに行かないとイライラするというようなこともあるらしい。おそらくは買い物するエヴァを待っていて暇なのか、彼の持っているBlackBerry端末から何度も電話やメールが送られてきた。たとえば、こんなメール。

Dear Hisashi,

My 30years long experience with public projections including 20 years of working on projects that required active involvement of people some developed under difficult circumstanced and conditions-- tells me that our project has succeeded very well- due to your great commitment, passion, skills and heart.
This is one more reason to thank you one more time.
Thank you!
Krzysztof

 というように、13日間に及ぶ「アートと戦争」イベントは無事に終了したのであった。と言っても、単にこれは起こったことを時系列に合わせて箇条書きにしただけにすぎず、まとめと呼ぶには程遠い。プロジェクションに関しては、もっと適切な会場を見つけることができなかったことに後悔が残る。いろいろと政治的なことがうまく解決できなかったのが心残りである。
 会議に関しては、木幡和枝さんの全面的な協力による優秀な同時通訳チームに支えられ、思っていた以上に素晴らしい会議ができたと思う。とりわけ、最終日の全体セッションは素晴らしかった。ひとえにコーディネータとなってくれた椿昇さんと越前俊也さんのご尽力の賜であり、また悪い条件にもかかわらず熱心に議論に参加してくれたパネリストの方々のおかげである。深く感謝したい。
 そして、北仲スクールでのワークショップで4月からずっと関わってきてくれた学生チームの活躍も素晴らしかった。ヴォディチコたちも、こんなによく働く学生はアメリカでは考えられないと驚いていた。このチームの活躍にも大きく力づけられた。

 それにしても、たまたま出会った一人の日本人との約束を最後まで全力をかけて貫いたクシシュトフ・ヴォディチコに一番の感謝を捧げたい。ここから、彼に何を返していくことができるかというのがぼくの課題である。彼は、最終日のパーティを「クロージング・パーティ」とぼくが呼んだ時に、すぐに否定した。「違う。これはクロージングではない。もうひとつのオープニングなんだ」と。そう。ここからまた何かが始まっていくのである。そして、またここで一つの約束が生まれ、相互の"responsibility"が生まれたのだ。

 長い13日間は終わったが、ぼくたちの暑い夏はまだまだ続いていく。

 「アートと戦争」のウェブサイトは、http://artandwar2011.kitanaka-school.net/ja/index.html

 全体会議の様子のUstreamはアーカイブされ一般公開の予定です。

2011/08/16 : 11:34 午前 文化・芸術 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.24

「クシシュトフ・ヴォディチコ:アートと戦争」のお知らせ

なかなか時間が取れず、ここも長いこと放ったらかしにしてしまいました。その間に劇団唐組の「冷やりん子」も終了、浅草花やしきでの劇団唐ゼミ☆の「海の牙-黒髪海峡篇」も終了。全然ここに感想も書いてくれないと愚痴られましたが、両方すごく面白かった。

8月にには望月六郎監督率いる「劇団DogaDoga+(plus)」の第十回公演「贋作・たけくらべ」があります。またチラシに文章を書かせてもらいました。

だが、その前にこの一年かけてずっと準備をしてきたあの大イベントが待っています。
以下は、先程いろんな人たちに送った案内のメールです。


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ヨコハマトリエンナーレ2011連携プログラム
横浜市先駆的芸術活動助成事業神奈川県文化芸術団体事業助成事業

 複合的アートイベント・
『クシシュトフ・ヴォティチコ:アートと戦争』開催のお知らせ

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 皆様、室井尚です。今年は第一回ヨコハマ・トリエンナーレから、そしてあの「9.11」からちょうど10年目の年となります。21世紀の最初の十年を振り返ると共に、最近我々が体験した「3.11」の大災害の記憶を胸に、北仲スクール(横浜文化創造都市スクール)では、上記アートイベントを開催いたします。

 来たる8月8日(月)~10日(水)の三日間ヨコハマ創造都市センター(みなとみらい線、馬車道駅1a出口)にて、ポーランド出身のアーティスト、クシシュトフ・ヴォディチコ(Krzysztof WODICZKO)と私の二人の共同企画で上記イベントを立ち上げます。

http://artandwar2011.kitanaka-school.net/

 第二次世界大戦中にポーランドで生まれたアーティスト、クシシュトフ・ヴォディチコとたまたま出会い、それから京都、東京、パリ、そしてネット上での長くて熱い議論を通して、この3日間の国際会議と世界初公開となる彼の新作プロジェクション『Survival Projection 2011』を準備してきました。
『Survival Projection 2011』の公開は、横浜で8月5日、9日の二日間(20:00-21:00)、また8月11日にはせんだいメディアテーク1Fでトークショーとプロジェクションを行います(18:00-19:30)。これは、軍用車の屋根に積んだ強力なプロジェクターとスピーカーで、建物の壁に音声付きの映像を投影する野外作品で、ヴォディチコはこのタイプのアートの創始者として知られています。数々の国際美術展で活躍し、さまざまな賞を授与されてきたこの世界的アーティストの作品が横浜で世界で初めて公開される瞬間に是非立ち会っていただきたいと思います。

 会議には、会田誠、大澤真幸、鎌田東二、椿昇、越前俊也、遠藤水城、大西若人、奥本京子、河本信治、津田大介、藤原徹平、坂口恭平、長坂常、やなぎみわ、吉岡洋ら30名近くの豪華メンバーが自発的に参加してくれることになっており、海外からもヴォディチコをはじめ5名が参加します(同時・逐次通訳つき)。

 共催としてヨコハマ創造都市センター、特別協力として(財)国際交流基金、駐日ポーランド共和国大使館、㈱Dreamほか、協力としてアサヒビール㈱、後援としてヨコハマトリエンナーレ2011組織委員会、横浜市文化観光局などからご支援を頂いております。

 この国際会議は3日間続き、その成果は出版物の形で世界中に発信されます。Ustream中継も予定されております。どなたでも参加できますので、上記ウェブサイトの「応募フォーム」からお申し込み下さい。

 震災後の日本に向けてヴォディチコが発信する熱いメッセージを是非受け止めていただきたく、ご協力よろしくお願い申し上げます。


プレスリリース:http://artandwar2011.kitanaka-school.net/PR.pdf

横浜国立大学教授/北仲スクール代表
室井 尚

2011/07/24 : 01:37 午前 文化・芸術 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.05.31

Krzysztof Wodiczkoのこと(4)パリでの邂逅

たまたま5月23,24,25日にポーランドのクラコフで開かれる美学関係の国際学会に招かれており、調べると直行便はなくヘルシンキか、フランクフルトか、パリ経由便しかないので、2006年に長期でヨーロッパに滞在してから、あれからもう5年も経ったのだなあということでパリ経由にした。1泊だと余りにせわしないので2泊の予定。結局会いたかったソルボンヌのFrançoit Jostには(彼が多忙すぎて)会えなかったのだが、出発前に、ちょうど二日目がWodiczkoのパリでの個展のオープニングだと気がついた。

 4月の29日にスカイプでのグループビデオ会議で、彼の背後に巨大な凱旋門の模型が置かれていて、フランスで個展をやることは知っていたのだが、偶然にパリに行く日がその展覧会のオープニングだとは全く気づいていなかった。彼に連絡を入れたが、すでにパリ入りしている彼からの返事がない。まあ、行けば何とかなるだろうと腹をくくった。

 5年ぶりのパリは相変わらずだった。北駅の辺りは以前よりも落ち着いた感じがしたが、日本よりも蒸し暑く、観光客で溢れている。相変わらず物価は高い。まずは、初めて凱旋門の上に昇ってみた。入場料が高いと思って初めてパリに滞在した1974年から今まで一度も登ったことがない。で、並んで昇ってみた。内部の展示は期待はずれではあったが、さすがに上からの眺めは素晴らしい。ここからまっすぐコンコルド広場とテュイルリー公園のカルーセル凱旋門までつながるシャンゼリゼ大通りが第一次大戦の凱旋や軍事パレードなどが行われた場所だ。そしてそこからずっと歩いてボーブールまで。近いようで一時間以上はかかる。工事中のフォーラム・デ・ザール(全くこれまでと違った建物になるらしい)を通りぬけ、ポンピドー・センターから市役所裏のタンプル通り付近。フリー・カフェといったゲイの聖地のような混雑した場所のある地区に、彼の個展をやっているギャルリー・ガブリエル・モーブリがあった。

 ウェブには2:00から7:00までと書いてあったので、2:00過ぎに行ったのだが、建物の入り口のドアが固く閉められている。ボタンキーを色々いじってみたが使い方が分からない。途中で落ちあって道案内をしてくれた京大の院生でパリ大学に留学している大久保美紀さんが画廊に電話をかけて聞いてくれたが、よく分からない。折角来たのに入れないのではと心配していると、人混みの中から突然ヴォディチコがにこにこしながら現れて、「今、画廊には入らないほうがいい。オーナーがクレージーになっているから」と声をかけてくる。よく分からないままにハグをして会えたのを喜んでいると、「これから3:00にフランスの文化大臣夫妻が来るので、それが終わった5:00くらいにもう一度来てくれないか? 6:00から8:00までオープニング・パーティのようなものがあるので、でなければ8:00過ぎでもいい。近くの角に“Les philosophes”(哲学者たち)というカフェがあるので、今もそこでお茶を飲んできたところだ」と言う。「分かった。じゃ5:00に戻ってくる。オーナーがクレージーとはどういうことなの? 何かトラブルが起こっているの?」と聞くと、「いや、彼女はアウシュビッツの孤児で、今でも戦争中だと思っているような人だから興奮しまくっているだけだ」というような答。小冊子を取り出して、「これは特別にこの展覧会のために作った、長いバージョンのマニフェストだ。これをお前に上げたことは彼女には内緒にしておくように」と渡してくれた。

 それからペール・ラシェーズのホテルまで歩き、ちょっと一息ついてから今度はメトロで同じ画廊に戻った。今度は門があいており、画廊に入ると60代の小柄なおばさんとスーツを着た男の人が居る。「クシシュトフと約束がある」と言うと、「日本人でしょ? さっきあなたに会うと言って外に出たわよ」と言われる。結局、"Les Philosophes」で話すことができた。ボストンから助手として連れてきたという長身の青年ブランコと一緒だ。パリには28日まで居て、ナントにも立ち寄ると言う。ナントには確かポンピドーセンターの別館が作られているはずだ。「6:00からは画廊に戻らなくてはいけない。来た人の相手をしなくてはならないからまた8:00頃に話そう」と言って、二人で画廊に戻るが、余り観客が集まっていない。結局、二人で立ち話を続けた。
Kw

 展覧会は二間ある奥の部屋にろうそくの炎がゆらめいている映像にぼそぼそと呟くホームレスの声が入る「War Veteran Flame」が壁に大きく上映されており、手前のメインの展示室に、スカイプ会議の時に見た凱旋門の模型が置かれ、壁には4枚ずつCGのパネルがかけられている。オープニングなのにパラパラとしか客が来ない。画廊主のガブリエルがやってきて、「これをあなたに上げる」とさっきと同じ小冊子を持ってきた。断れないので、ヴォディチコの顔を見るとウィンクをしてくるので、ありがたくもらった。彼女の母親はアウシュビッツで殺され、父親も終戦の直前にレジスタンスとして殺害されたと言う。本当の戦争孤児だ。「私は広島の時にも日本に行ったのよ。あなたたちのが夏なら私はまた行きたいわ」と言ってくれたのだが、ヴォディチコがごまかそうとしてるので、適当にこちらもごまかした。それでも7:00前になると話しかけてくる客も出てきたので「8時に戻ってくる」と言って一旦外に出た。5月末のパリではまだまだ太陽が明るい。

 戻ると画廊はほとんど閉まりかけていた。ガブリエルを無視して、一緒に外に出る。古い友だちのようなポーランド人の男女が5,6人ついてきた。店で、彼がL'evenment de Jeudiというどちらかと言えばリベラル系の新聞をみているので、「何か展覧会についての記事でも載っているのか」と聞くと、不機嫌そうに「いや、そうではない。正直言ってフランスの知識人が何を考えてるのか分からない。彼はほとんどこの展覧会に関心を持っていないようだ」と言う。確かに、文化大臣は来ても取材はほとんどなかったらしい。「フランス人には文化はないんだ。彼らにあるのは文化の文化だけで、世の中に本当に新しいものなんてないんだと思い込んでいる」と毒づく。ヴォディチコはパリの美術学校(ボーザール)で3年間教えてたこともあるし、フランス語もできるのだが、今日のオープニングの反響のなさには本人も少しショックを受けているらしい。確かに政治的に難しい展覧会ではあるが、たとえばグラン・パレでこの時に開催されているアニッシュ・カプーアの展覧会に長蛇の列が出来ている状況を考えると、これほどまでにメディアが来ないのは異常とも言える状況である。まあ、しかしそのせいで、ぼくは彼をほとんど独占できたわけだし、横浜のプロジェクトに関して彼と長い間議論をすることができた。

 一番印象に残ったのは、ユダヤ人問題である。彼の母親はユダヤ人だったが、宗教的と言うよりも知的な家庭で、彼自身もシナゴーグに通ったりしたことはない。自分がユダヤ人だとあまり意識して来なかったが、40万人いたユダヤ人が5万人しか生き残れなかったポーランドで育って、最近になってユダヤ的とはどのようなことであるかをよく考えると言う。ユダヤ人であることと、ユダヤ的であることとは全く違うことで、彼にとってのユダヤ的なるものの本質は「responsibility」なのだと言う。それを聞いて、ぼくが「そう言えば、昭和天皇のとても面白いエピソードがある。彼が外人記者に“あなたは、ご自身の戦争責任をどう考えるか?”と聞かれた時に、彼は“そういう「文学的」なことは私にはよく分かりません”と答えたのだ。彼は自分のことを人間ではなく神だと思っていたから、人間的な自己責任という概念を理解できなかったのだ」というようなことを言うと、とても面白がって、ポーランド人たちに通訳していたのが印象的だ。そして、真面目な顔をして、「responsibilityとは、その語源からして“私はきちんと答えます”という意味だ。何に対してもきちんと答える責任があるというのがユダヤ的ということだと思う」と言い、「エマニュエル・レヴィナスという思想家が他の思想家と異なっているのは、彼は“自己責任”ということではなく、“「他者」のresponsibilityのresponsibility”ということにこだわったただ一人の哲学者ということだと思う」と言う。また、広島のプロジェクトの時に、「自分はユダヤ人だから、できるだけ素早く行動するようにしている。ゆっくりしていると殺されるから」と言ったら、在日韓国人の組織のリーダーがすぐに彼のことを信用してくれ協力してくれた。彼らはぼくが彼らと同じ宿命を持っていると理解してくれたからだ、というようなことを言った。今回の凱旋門プロジェクトやWarVeteranVehicleについても、この「きちんと答えなくてはならない=応答可能性=責任」というようなことから彼が動いていることがよく分かった。具体的なことをだいぶ詰めることができて、パリでの会談は実りあるものとなった。

 ぼくはそれから、ワルシャワ経由でクラコフに移動した。クラコフでは、日本から9人が招待されており、ポーランド美学会の主催する「ポーランド/日本美学会議」なるものが開かれていた。5年ぶりに訪れるクラコフの観光地のど真ん中、フロリンスカ通りに面している大学の豪華なゲストハウスで古い仲間たちと楽しく過ごした。ポーランドの人たちはみんな親切だったが、彼らの日本好き、日本美学好きには少し違和感があったし、大学の体制やテレビ番組などから垣間見られるポーランド社会の現状にも多少の疑問を感じた。23,24と会議を続けて、25日は日本からの参加者だけで近くの塩鉱山に遠足。ぼくはそのままフランクフルト経由で帰国した。

 帰国してから、ヴォディチコに指示された人たちとの連絡を取り、今週末に行く東北ツアーの打ち合わせ、プロジェクターのリハーサル、場所探しなどさまざまな仕事に忙殺されている。企画書もつくり直す必要がある。しかし、協力してくれる人の数も増えてきているし、どんどんと色々な人のパワーが結集されつつある。ワークショップに参加している学生たちもプロジェクトのホームページやツイッター・アカウントを作って活動してくれている。ウェブサイトはこちら。

http://artandwar2011.kitanaka-school.net/index.html

2011/05/31 : 08:29 午前 文化・芸術 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.05.01

togetter:横浜国立大学、(旧マルチ)人間文化課程のことについて

 twitter上でのyamasawa8911君とのやり取りがここにまとめられている。編集が不正確だし、関係者の誰にも了承を取らずにアップしたりするのはマナーに欠けるとは思うが、ともかく既にアップされてしまい来訪者数も400を超えているので、ここでコメントしてみたいと思う。なぜなら、元々は「人間文化基礎論IA」という今年から新設された横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程の授業における、新一年生からの一連のリアクションにぼくが腹を立てていくつかtwitter上に書いたことがきっかけになっているからで、この授業に現在関わっている一年生諸君や、かつてこの授業の前身の授業「メディア基礎論」に関わった旧マルチメディア文化課程(マルチ)の過年度生たちも関わっていることだからである。たまたまyamasawa君の勇み足でこうなってしまったが、こうなったらこうなったで、どうせならできるだけ多くの学生諸君に読んでもらって、考えてもらいたいと思っている。次回の授業は5月11日だ。

 この授業は98年にマルチが最初の学生を受け入れた時から、3名の教員が新入生と正面から向かい合うという形式で始まった。初期にはぼくと梅本洋一と大里俊晴。梅本さんが腹を立てて5月の授業途中で帰ってしまい二度と戻ってこないという事件があってから、基本的にはぼくと大里君、榑沼範久君の3人で続けてきた。その後、榑沼君が(疲れて)抜け、清田友則君が代わりに入り、大里君が亡くなってから平倉圭君、そして今年は見習いで中川克志君にも入ってもらっている。ぼくも2001年に学生に腹を立てて授業を途中で打ち切ったことがある。こんなことをしているのは、学生たちがどうせ「授業」だし、教員たちも単に「システム」に従っているだけだろうと観客席におさまりかえっているのが耐えられなかったからだ。これはブートキャンプのようなつもりでやっているので、学生ばかりではなく教員側にも物凄いコストとリスクがかかっている授業なのだが、十年以上続けてきて、それだけの価値がある授業形式だと思っていて、「おっさんたちの雑談を聞かされるだけで苦痛だ」という学生たちと本気で闘いながら今年もまた続けている。

 旧マルチを作った時に、少なくともぼくは大学を辞める覚悟で自分の時間のほとんどを犠牲にした。だから、ぼくはマルチを愛していたし、それがやる気のない「普通の」学生たちで占められるのはたまらなかった。初期の学生たちは多少はそれに応えようという気風を持っていて、ほとんど既存の学内サークルには入らず、大学祭にもマルチ単位で参加したり、後には学祭に反発して独自の「マルチメディア文化祭」を開催したりしてくれたが、だんだんと惰性に流され風化していった。一部の学生は今でもまだ「マルチ」にこだわってくれているが、大多数は「そういうのウザい」と口にするようになって、最近はもう終りにする潮時かなと思っていたところ、さまざまな学内事情で学部の教員養成系を除いた文系だけが統合され、この新「人間文化課程」ができたのである。これまでの学生定員90名から150名に一気に定員数が増えたところに、震災による後期入試中止のせいで想定外の190名を超える一年生が入学してきた。

 彼、yamasawa君は、アカウントから察するに89年生まれのマルチの学生で、愛すべきところはあるが、根本的に大人や社会の既存のシステムに甘えており、思慮が浅いのに反射的かつ無責任に反応してしまうという欠点をもつ、まあ言わば普通の思春期後期の学生である。彼がぼくに対して基本的には好意をもっていてくれているのは分かっているのだが、最初にぼくが彼に腹を立てた発言は以下のものだった。

>てか室井先生って大学から金もらってるくせに日本の大学は終わってるとか言ってんだよなウケる。
>大学の外から言えば説得力あるけど、そしたらたぶんぼくとは出会わなかったんだろうなあ。そう考えると微妙だ。

 この発言には@がついていない。だから彼は「空中にリプされた」(意味不明)と言っているのだが、それくらいの調べはすぐつく(笑)。ぼくがフォローしていないからと言って学生諸君はけっして安心してはいけない(笑)。

 この言い方や、その次に彼が書いてくる、

>本当は違うのかもしれないですが、でかいバッタを作ったりその他内輪ネタっぽいアート
>的行動全てに授業料なり税金なりが使われてるように見えたりしますよ。
>それあっての「金もらってるくせにウケる」でしたね。

 も同工異曲で、こういう言い方は絶対に見逃さないし、許さない。ぼくが彼に文句をつけているのはその点にほかならないし、逆に言えば一貫してその点だけである。とても失礼である。

 なぜならぼくが「大学から金もらっている」とか、ぼくがやっていることに「授業料なり税金が使われている」というような言い方が含意している当てこすりは、意味が無いばかりではなく無知と無自覚な邪悪さをさらけ出しているからだ。これらの言い方には「金をもらったら批判する権利がない」とか「金を払っている人に還元されない内輪っぽい行動に、(ぼくたちが払っている)授業料や税金が好き勝手に使われている」というようないじけているばかりではなく、自分をクレームをつける権利を留保している良心的市民になぞらえるいやーな姿勢が含まれている。ちなみにバッタ("The Insect World")はけっして「内輪受け」ではないし、事実としてぼく自身も驚くような大きな社会的な反響をもたらしている。『巨大バッタの奇跡』(アートン新社)というドキュメント本も出しているので、これを読んでもまだそう思うのなら批判してもいいが、上記のような、よく知りもしないただの当てこすりや嫌味は一緒に命がけで戦った人たちのことを考えてもけっして許せない。そう言えば先週末に3,4年ぶりに学内公演をした劇団唐ゼミ☆の新歓にも一年生たちはあまり来なかった。一度も見もしない、知りもしないで、馬鹿にしたり決めつけたりする学生にはいつも腹がたつ。北仲スクールにしても、100人以上来る授業の後にも2Fのサロンに降りてきてコミュニケーションしようとする学生はとても少ない。北仲はけっして大学ではできない様々なことを実現してきたし、今も実現している。なぜあれをやっているのかということを理解しようとすらしないで冷笑している学生たちにも本当に腹がたつ。反面、理解者もどんどん増えてきてはいるのだけれど。

 ぼくが大学から貰っている給料や研究費は、文科省の大学運営交付金からシステムに従って配分されている。これは大学に着任した時の契約に基づいている。けっして「個別な組織としての大学から金を貰っている」のではない。その時にぼくは大学教員として自由な研究と高度な教育と教授会を中心とする大学運営の三つの業務を引き受けている。これは事務職員とは違い、自由な個人もしくは自分の良心にしたがう研究者としての契約である。2004年の国立大学の独法化に伴い、大学執行部の権限が強化され、教授会の権限が制限された(そのことに抗議して退職した教員たちも全国で沢山いた)が、少なくともぼくは今でも就任時の契約が有効であると思っている。また学長は教職員の選挙で決まるので最低限の「大学の自治」は担保されている。だから大学にいる限り、金もらおうがもらうまいが、自分は自由な人間として行動するし執行部も批判する。それが違うというならすぐに退職する。しかも、国立大学の給与は大企業や私立大学と比べるととても安い上に、このところの公務員批判のあおりを食って毎年減額が行われ定期昇給を入れてもほとんど増えていない。これほど働いているのに割に合わない。もちろんこんなのは比較の問題だから、大量の非正規雇用者や派遣社員、フリーターと比べれば恵まれているとは言える。だけど、長年にわたってそれなりのコストはかけているし、それなりの実績も積み重ねていると自負している。立ち腐れつつある大学を立て直すことができるのは、大学の中にいる人間たち以外にありえないではないか?!

 そもそも税金だろうが、私企業の収益だろうが、いったんそれらが集められ、再配分される時には全く別なシステムが介在して働く。税金が国家という暴力装置が国民から収奪する財であることは確かだが、私企業が消費者から収奪する財の方がより正しい収益であるなどということはない。マイクロソフトを初めとするIT企業や、最近の例で言えばJALや東電によるぼったくりによる収益の方がより犯罪的であり、より悪質な収奪であるとも言える。そこから国家がさらに掠め取る分が税である。山賊と山賊の棟梁のようなものだ。民間が善で国家が悪などというのは新自由主義経済学の広めたデマにすぎない(そういえばyamasawa君も竹中平蔵をRTしてたっけ?)。そもそも、元をたどればすべての財は自然から人間が勝手に収奪してくる「不正な富」にほかならない。ぼくは、自分のやりたいことをやるために税金や企業の寄付金が元になっている行政組織や財団からお金を「自分の力で取ってきている」のであり、そのためには企画書づくりから、面倒な予算書や何十ページにもわたる申請書を自分の時間を何十時間も割いて、何倍か何十倍かの「競争」に勝って助成金を獲得しているのであり(負けることも沢山ある)、何も知らない奴から「税金にたかっている」みたいな言われ方をする覚えはない。だから、「ふざけるな」ということになる。

 多分こういうことを言っても、yamasawa君は「ああ、そうでしたか。すみませんね。でも若い世代にはそんなことは分からなくて当然ですから、そちらにも説明責任があるんじゃないですか」というようなリアクションをしてくるだろう。こういうところも、彼のとてもよくない点である。とにかく「説明責任」とか「コストパフォーマンス」とか「経済原理」とか中途半端な概念を中途半端に使い、自分の責任だけは回避する。甘ったれているとしか言いようがない。それなら、ぼくや相手をしてくれた大人たちのかけたコストについてどう思うのかと問いたいが、まあそれはどうでもいい。コストとかのことをぼくは一切考えたくないからね。ただ、北仲に来るための数百円の「コスト」のことまで持ち出されるとムッとする。金がなければ歩いてくればいいじゃないか。貧乏なのは仕方ないが、貧乏たらしいことを口にするのは本人の問題である。結局彼は、メディアやネットで流通している断片的な知識を適当につぎはぎしているだけなのでこういうことになるのだろう。とても浅薄に見えてしまう。

 そこで、次のように書いたわけだ。意味は、ネットをやめるか、せめて一日数時間に限定して、じっくりと物を考えたり、集中して本を読んだりする習慣を付けた方がいいよ、ということである。ぼくに面会しにくる時間がないと言うが、連休中とは言えtwitterだけ見ていてもネットに繋げすぎで、完全にネット依存症だ。これではまともな知的営為ができるはずがない。勿論彼は試しに助言に従ってみるつもりは全くないようだ。

>さっきのようなタイプの学生への有効な助言は「ともかくネットにつなぐのヤメなさい」に尽きる。
>話はそこからだ。本当に滅びるぞ。それができればちゃんと相手をしよう。
>しかし仮想空間に逃避すらせず、ダンスサークルやテニサーに埋没するタイプにその薬は効かない。
>逃げ道を断つしかないが沢山ある。

 ここからが、彼が一番こだわっている(その程度の知識で、本気か?)ように思えるネット論に関わる話である。彼はどうしてもネットで議論したいらしく、ぼくと会うことを極度に避けようとしている。実際はまあ、怖いだけだと思うけどね。大丈夫。退学になんてしない(し、またできるわけない)から(笑)。ただね、ここまで読んでみれば分かるように、きちんと文字で会話をするためにはたいていこれくらいの分量と労力は必要なので、twitterの限られた文字数で「議論ができる」と思っていることの方がきわめて異常なことなのだ。その点でもネット依存から離れることを勧めたいと思う。

>ぼくは大切なのは"論"であって顔晒すとか自己同一性とかどうでもいいと思ってるんだけどね。
>重要なのはその論に対して論破できるものがあるか否か。TL汚して本当にすみませんでした。

>先生が知っている「ネット」というのと、SNSで作られた新しい空間には違いがあるのでは、ということです。
>違わないのならその根拠となる文章が読みたいですね。

 SNS(Social Network Service)とはまた古い話を持ち出したなというのが実感である。もちろん、何の違いもない。ネットはいつの時代でも現実のコミュニケーションではできないことを補完することはできても、けっして現実のコミュニケーションに追いついたり、完全にカバーできたりすることはないし、未来においてもそうだろう。ぼくが昔書いた『情報宇宙論』(岩波書店)や『電脳交響主義』(NTT出版)を読めばいい。80年代からネットを自由な「アゴラ」と考え、夢を賭ける人たちはいた。そして、それはすべて幻想だったことが10年ほど前になるとはっきりした。ちょうど西垣通が東大の「情報学環」を立ち上げた頃で、人々がインターネットを相対化し始めるようになった頃だった。

 ネットでの論争とか議論は、ごく一部を除いていつも不毛である。それは、文字だけが残るために細部の表現に対する当てこすりや恣意的な誤読や悪意の無限連鎖に引き込まれる傾向をとても強く持っているからだ。また、現実なら、話をしてみて「こいつ馬鹿だな」とか「適当に話を打ち切ろう」ということができるが、ネットではしつこく言い募る方が「勝ち」を宣言できるのでたちが悪い。以前タバコの話の時の嫌煙者や山形☆浩生にしても、こっちがこんな下劣な奴らと話は続けたくないと相手するのをやめて議論を打ち切ったら、勝手に「逃走した」とかネットでしつこく言われまくった。だから、「トラップをかけた方が勝利する」仕組みなのだよね。まあ、こんなのも見る人が見ればどっちが正しいかはすぐに分かるのだけど、分からない人たちにはいつまでも分からないようだ。だから、顔を知らない人と議論なんてしない方がいい。もちろん顔を知っていても議論したくない人もたくさんいるけど。世の中には話が通じない人や本当に品性が卑しい人は沢山いる。そんな人たちと関わり合いにならないためにもネットで議論をしかけたり、受けたりしてはいけない。本当に重要なことなら会って話すか、せめて電話で直接話すべきだ。だから、まあskypeは代用にならないこともない。

 歴史を見れば80年代の草の根のパソコン通信時代にBBS, Mail, Chatという基本サービスが始まり、95年頃からWebを中心とした現在のインターネットの形態が定着した。このころぼくはフリーソフトウェア運動と関わり、地域BBSによるネットコミュニティ作りの手伝いをしていた。その後、日記を統合する八谷和彦の「メガ日記」やメールのコミュニケーションをデザインした「ポストペット」、クリエーターだけを会員にした「タイガーマウンテン」BBS、ヴァーチャル・ワールドを作ろうとした「World Chat」や「ハイパーメディアクリエーター」高城剛が始めた「フランキーオンライン」、松岡正剛の「イシス」など数多くのネットコミュニティ作りの試みがあったが、結局はWebだけになってしまった(濱野智史の『アーキテクチャの生態系』はこの辺りのことを全く知らないらしく議論の前提が間違っており、単に2ch.とニコ動を自慢したいだけの無内容な本としか言いようがない)。その後2003年ころにRSSを用いたblogが始まり(このころNTTのGooの設計思想に研究会で関わったりもした)、次に2005年頃からSNSブーム。当初はGreeのようなセレブと業界人たちのプレミアム・サービスだったのが、大衆化されたmixiのような匿名許容のサービスになってしまった。ただ、韓国のCyworldやMySpace、Facebookのような個人ページを中心とし、現実の人間関係の拡張につながるようなシステムから、当初は有名人やジャーナリストがリアルタイムで情報を発信する速報メディアとして始まったtwitterのように、匿名の大衆が無数の呟きを発信する「呟きの海」のようなメディアに変質していく流れにはかなり日本の特殊性が見られるように思う。結局は、それは2ch.やニコ動のような匿名による会話空間に接合されていることによって無責任なゴシップ雑誌のようなダメな方向に流されているように思われるのだ。

 端的に言って、匿名による個人批判や告発は常に「卑怯」である。トイレの差別落書きと同じく、自分が安全な位置に居て他人を攻撃したり中傷したりするのは人としてやってはいけない行為だ。yamasawa君は「匿名だから企業の内部告発とかできるんでしょ?」と書いていたが、あれだって「卑怯」で人としてやってはいけないことに変りない。ソフトの不法コピーに対して「密告」システムが作られているが、「内部告発」って卑劣な「密告」であることに変りない。自分のリスクを賭けて告発すべきなので、まるで内部告発が社会正義のように言い繕う社会の方が間違っているのである。その点で「尖閣ビデオ」を流出させた職員は辞職したし名乗りでたのでまだしも筋が通っている。もっともあれを有罪にできない社会はおかしいと思うけどね。というわけで「弱者」や「被害者」や「学生」だから、「匿名」で社会批判していいということにはけっしてならない。なぜ、もっと誇りをもって生きられないのかと思う。いつでも顔を晒して話すべきなのだ。余りに耐え難い状況に置かれて、口を開けなくなっているのでなければね。アウシュヴィッツのユダヤ人や奴隷はけっして話すことすら許されていなかったのだから。

 ただ、yamasawa君が「しがらみや、利益や、立場に縛られない自由な言説空間」を求めるのは正しい。ぼくたちもそういう古代ギリシャの広場のような空間(アゴラ)や、すべてを話すこと(パレーシア)について、ちょうど今ヴォディチコと一緒に考えているところだ(ミシェル・フーコーの『真理とディスクール:パレーシア講義』筑摩書房は読むべきだ)。

 けれどもそうした自由な言説空間はけっしてネットではないし、ましてやtwitterでもない。そんな安易なものではありえない。また、そうした空間は環境としてあらかじめ誰かによって用意されるものではなくて、自分自身を危険に晒しながら血を流して創りだしていくものでしかありえないと思う。パレーシアはつねにリスクの中に身を晒しながら自分の考えを話すことなのである。まあ、もはやyamasawa君や彼と会話を交わしているマルチの上級生たちのツイートは、下らないシモネタや情けないぼやきも含めて、ぼくに全部モニタリングされているからね。ある意味君たちはツイッターを続ける限り顔は晒さなくても、中身を晒されているとも言えるけど(笑)。

 というわけで、これだけ長い文章をぼくに書かせたのだから、yamasawa君は勝ったのだと言うこともできる。だから論争はもういいから、一度研究室でも北仲にでも挨拶に来なさい。来たことないのなら北仲に来ることを勧める(笑)。

2011/05/01 : 02:32 午後 大学 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.03.26

「9.11」と「 3.11」/雑感

 言うまでもなく「9.11」とは2001年9月11日。アメリカでいわゆる「同時多発テロ」が起きた日付である。日本の午後10時頃、アメリカでは同日の早朝に事件は突然起こった。マンハッタン島の南端にある世界貿易センターのツインタワーに二機の旅客機が衝突する映像を全世界がリアルタイムで見た。その後ハイジャックされた別の二機の旅客機がそれぞれ国防総省(ペンタゴン)とホワイトハウスに向かっているというニュースが流れ、結果的にはペンタゴンの建物には小さな被害しか与えられなかったし、もう一機はおそらくは乗客の反抗によって違う場所に墜落したが、刻々と伝えられるその情報を見ながら、世界は一体どうなってしまうのかと震撼した。アメリカの経済と軍事と政治の三つの中枢を標的にしたきわめてスマートな攻撃であり、もし全部が意図通りの結果になったらもっと凄いことになっていただろう。ちょうど、バッタのプロジェクトをやっている時で、Wodiczkoに教えてもらった巨大バッタがシカゴの町を襲うというB級映画「The Beginning of the End」を何度も観ていたのだが、いよいよ終末が始まったのかと思った。

 それが21世紀の幕開けだった。

 それまで暗黙の裡にそう簡単には動かないと思われていた文明のシステムがきわめて脆いものであることを否応なくぼくたちに突きつけた出来事であり、それ以降のぼく自身の思想や生き方にきわめて大きな影響を与えた。自分たちが生きているのではなく、個々の生命が必ず死に向かいながら、巨大な宇宙や自然の摂理の中で刹那的に「生かされている」こと。文明や社会といったシステムはすべて幻想や虚構にすぎないということ。フラジャイルな個々の生き物としての輝きを、歴史的、社会的、心理学的にどんなに限定された状況の中でも引き出していくことだけが、ぼくたちにできる唯一のポジティブなことなのではないかと考えるようになった。だから社会やシステムの改革よりも自分の周囲の人たちをいかに輝かせることができるかということをより大切に考えるようになったのである。いまぼくが取り組んでいることにはこうした考え方が強く反映していると思う。

 そして、そのWodiczkoのプロジェクトをやろうと思っていたその矢先に「東日本大震災」が起こったのである。なぜそれが「3.11」なのだろうかということがずっと心に渦巻いていた。天災なのだから、もちろん偶然に決まっている。また、カレンダーなんて所詮人間が作った虚構にすぎない。また、照応するというのなら同じ9月でなくてはならないし、中途半端に9年半ぴったりに起こったこの大災害が、もちろんその範囲が日本のローカルな出来事であることも言うまでもない。だから、この不思議な照応を気にしているのは、ぼくという個人の完全に私的な問題にすぎないことはよく分かっている。しかし、それでも気になって仕方ないのだ。
 
 それは、言い換えるなら、9.11という事件を契機にしてぼくが考えたことと、今回の地震によって、まだ言葉にうまく表すことはできないが、心のなかで渦巻いている落ち着かない感じとが、心の中で切り離せないものとして結びついているということから来ているのだと思う。

 同じ地震というつながりから、その5年前の95年に起こった阪神淡路大震災や、直後に起こったオウム真理教事件のことを思い出す人もいるようだ。確かにこれは大地震・大津波による災害と、福島原子力発電所の事故による放射能流出とが重なっている今回の事件とよく似ている点もある。どちらも「天災」の後から起こった「人災」の方に、より多くの人の関心や怒りが向けられているという構図が似ているのだ。「天災」には誰も抗議ができないけれども、「人災」には徹底的に怒りと攻撃を加えるという人の心の動きが共通して見られる。

 同じことが未だに「犯人」の組織や思想が謎のままでよく分かっていない「9.11」に関しても言える。なぜ、アメリカがそれほどまでに中近東のムスリムに憎まれ、自爆をもためらわないあれほどの攻撃を受けなくてはならないのかということをきちんと問題にすることなく、この「目に見えない敵」に「テロリスト」という一方的なレッテルを貼り、関係のないイスラム教徒たちを検挙し、監視し、「文明の衝突」とか「十字軍」とか「悪の枢軸」とかいう乱暴な構図を世界中に無理やり押し付け、また直接にはほとんど関係のないことが今やはっきりしたアフガニスタンやイラクに容赦のない攻撃を加えたのである。これも、人間の心という「自然」が起こした一種の自然現象である。ちょうど、何かを異変を感じた動物の群が一斉に走りだすように、いまぼくたちの怒りの衝動はゆるやかなレミングの群のように原発の即時廃止と責任者たちの処罰へと向かって、ほとんど盲目的に進んでいる。

 ぼくたちの生の時間は短い。それに比べて地殻変動や気候の変動などの地球の変化のスパンはきわめて長い。数千、数万、数十万、数百万年のタイムスパンの中で自然は大規模な変動を続けている。数千年前には日本の気候はきわめて温暖で、青森や岩手に縄文文明が栄えていたし、数万年前には日本と大陸はつながっていたことをぼくたちは知識としては知っている。遠い未来には日本列島そのものが消えてなくなるかもしれないことも予測できる。土地の私有とか、貨幣とか、経済とかいった人間が勝手に決めたシステムとガイアとは元々原理的に折り合わないものなのだ。

 他方、原発による放射能汚染もそれとちょっと似ている。プルトニウム等の「高レベル核廃棄物」は、今問題になっているヨウ素やセシウムのような半減期の短い物質とは異なり、5000年とか一万年とかの長い半減期を持っている。鉛やガラス繊維で厳重に閉じ込める以外にないこれらの物質はきわめてコントロールすることが難しい。10年ほど前に、人文系研究者としてこの「高レベル核廃棄物保管」の会議に参加した時の経験から言えば、いったん事故が起きると完全にコントロールすることがきわめて困難な原子力発電という技術が永遠に続くと考えているエネルギー関連の専門家はほとんどいない。ほぼ全員が半世紀以内にもっと安全でもっとコントロールしやすい技術に転換すると思っていることが分かった。それが、いわゆる「水素エネルギー」である。

 現在のところ「燃料電池」といった不十分な形としてしか実用化されていないこのエネルギーの活用には技術的にまだ数十年かかると予測されている。しかも、それらの資源は現在の石炭や石油の地下資源とは比べようのないくらい豊穣であり、地球上のエネルギーの総量は全く「限られた資源」などではなく、ほぼ人類の滅亡まで無限に残っていることも試算されている。地球は元々エネルギー的に「過剰な惑星」なのだ。原子力発電とはそれまでの限定的な「つなぎ」にすぎないというのがほとんどの人の考えだった。事故が起こらないように注意深く運転しながら、徐々に廃止していくというシナリオが前提とされていた。

 しかし、今回の事故は日本ばかりではなく世界中に衝撃を与えた。人の心もまた「自然」の一部であることを考えると、これからは急速にあらゆるところで原発の廃止が進められていくことになると予測できる。もう、放射能汚染を心配して生活をするのは耐えられないという人々が黙ってはいないことだろう。しかし、そうは言っても環境や大気を汚染する上に石油の供給に不安がある火力発電には戻れないし、発電量がきわめて不安定な水力や風力発電や、土地の狭い日本には不向きな地熱や太陽熱発電では全く代用にならない以上、重工業を捨てて農業国に戻るしか選択肢がなくなる。環境論者やエコロジストの言うような文明の転換をするならば、電化生活は不可能になるし、エアコンや自動車は使えなくなり、都市の機能は現在の計画停電などとは比較にならないほど大幅に低下することになる。個人的には、それも悪くないような気がするし、元々昭和30年代を経験しているので平気だと思うが、恒常的な食料不足や生産力の減退や社会治安の悪化が訪れることは明らかである。

 いや、そんなことはない。この地震で日本は大きく変わった、みんなが発想を大転換し新しいエコな文明を築くのだと言っている人も大勢いるが、残念ながら人間の習慣というものはそう簡単に変わるものではない。復旧が進めば、不便さに耐えられなくなることは眼に見えている。これから大規模な反原発運動が始まり、圧倒的な電力不足が常態化していくことになれば、また人の心も変わることだろう。みんな自分は「科学」や「理性」で行動していると信じているが、そうではなく人間の身体と心もまた巨大な「自然」なのであり、集団幻想に引きづられているだけなのである。ただ、資本主義という欲望のドライブを掻き立てるシステムの暴走を止められなくなっていた日本がこれで冷水を浴びせられて冷静になるとしたら、それは悪いことではない。被災民の支援や個人の利益や競争ではなく、自己犠牲や共同体の維持や共存を重視するかつての農村共同体的なエートスが戻ってくることは、それ自体けっして悪いことではないように思われる。

 それにしても、保存食の買い占め事件や、微細な量の放射能に過度に怯えるいまの状態はちょっと尋常ではない。昭和30年に生まれたぼくたちの世代は、DDT、大気中核実験(これだけで、チェルノブイリ事故の時の数百倍の被爆量になる)、アスベスト(石綿だらけの建物で育った)、光化学スモッグ、食品の化学添加物にまみれて生きてきた。なのに、いまや多くの人々によってその有害性がきわめて疑わしい煙草の副流煙や洗えば全く無害なほうれん草すらも忌避されるようになっている。二年前に「タバコ狩り」を出したのはこんな防疫都市文明に異議を唱えるためだった。自分たちの生活をこれまで通りにすることばかりに執着していると、かえって心が荒廃していくのである。

 9.11事件のあと、肥大する欲望をそのままにしておきながら異物や毒や外部を徹底的に排除し目の前から消し去ろうとする巨大な不寛容の時代が始まった。グローバル資本主義の脅威となるすべての敵は「テロリスト」の名の下に攻撃・排除され、それはSARSや鳥インフルエンザ、新型インフルエンザといった防疫にも適用され、環境ホルモン騒ぎ、禁煙運動、アスベスト問題などにも見られるように過度な衛生思想と防疫第一主義のきわめて息苦しい文明が生まれた。心理学大隆盛のPTSD/国民総鬱病時代、ゴミ箱や灰皿を街角から撤去し、ホームレスが地下街から通報される潔癖神経症の時代である。3.11以降、ぼくたちが気を付けなくてはならないのは、この傾向がさらに推し進められ、その結果ますます心が荒廃していくことなのではないだろうか。それは放射能汚染などよりさらに恐ろしい。
 
 そしてどうやら現在のその標的は原子力発電所とリビアのカダフィになっているようだ。確かにカダフィは悪いのかもしれないが、それにしても国連や各国政府による対話的解決の努力もなしに、いきなりカダフィ個人を標的にしたミサイル攻撃までが肯定される空気は不気味である。そして今の原発に対する即時廃止の大合唱にも同じような嫌な空気を感じる。現実的にはさまざまな安全対策を練りながら段階的に違う発電システムに移行していくしかないと思うのだけれどね。

2011/03/26 : 02:17 午後 日記・コラム・つぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.03.15

地震後の光景

11日の午後2:30から四谷三丁目にある国際交流基金で打ち合わせすることになっていた。

Wodiczkoの件が急ピッチで進んでいる。8月8日から10日までの三日間、横浜で国際シンポジウムを開くことが決まり、彼自身は8月4日から12日まで来日することになっている。それに合わせて小規模な展示や路上パフォーマンスの計画も持ち上がり、文化庁や国際交流基金などいろいろな関係部局に支援をお願いしている。相当エキサイティングなプロジェクトになりそうだ。

11日は、横浜トリエンナーレ2011の記者発表の日でもある。午前11:00から横浜美術館で開かれた記者会見に出席をし、そのまま東京に移動した。四谷三丁目交差点近くの交流基金は移転後初めて訪れたが、9F建ての古いビルだった。そこの応接コーナーで打ち合わせをした。そのプレゼン中に地震。中断し、ヘルメットをつけ、窓の外を眺め、構内放送と悲鳴が鳴り響き、一旦やむと話の続きをし、強い余震でまた机の下に潜り、終わるとまたその説明を続けた。言うまでもなく横揺れはこれまで体験したことのない激しさで、これは大変なことだとは思ったが、不思議に揺れが止むと話の続きを続けていた。多分心のバランスをとるためにかえって集中できたのだと思う。

打ち合わせは3:30頃に終わり、外に出た。元々、六本木ヒルズで開かれているメディア芸術全体会議というのに顔を出すことなっていたので、連絡をしてみたら、会議は中止になったと言う。早めに京都から来ていた吉岡洋や島本浣、企画者の四方幸子さんらが、エレベータ停止で49階に閉じ込められているらしい。となると、行かなくてもいいのだが、どうやら地下鉄も山手線も動いていないらしいし、六本木は南方向なのでとりあえず歩いて行こうということになったのだ。

歩いている途中、非常持出袋やヘルメットを被って既に歩き始めている帰宅難民たちの群に出会った。最初は、電車も1,2時間で動き始めるだろうし、ヒルズから脱出したメンバーと飲んでいようかとのんびりとしたことを考えていたのだが、どうもそんな事態ではないらしいことが分かってきた。

六本木では多くの店やカフェが閉店していた。空いている店には長蛇の列。歩道を歩く人の群と、道路の大渋滞で混乱していた。そこで、諦めて渋谷方面へまた歩いた。ターミナルに行けば代替バスとかタクシーとかあるだろうと考えたのだが、それが甘い考えだったことはすぐに判明する。パスは何時間も並んでたとえ乗れたところで道が大渋滞で動けない。タクシーは絶対につかまらない。結局は歩くか都内で夜を過ごすしかないのである。幸い、渋谷は終夜営業の店がたくさんあってそれらの半分ほどは開店している。

みんな考えることは同じで渋谷駅には物凄い人が集まっていた。ホームは電気が消されていて全く動く気配がないし、バス乗り場には長蛇の列とうろたえてどんどんと集まってくる群衆とで溢れかえっている。逆に言えば、あの状態でパニックにならなかったことが不思議だが、歩道も歩道橋もまるで花火の日のように混み合っていた。この選択は間違いだったことに気づいたが、既にどうしようもない。7:30頃で、まだ国道246を渡った向こう側は人混みが少なく、居酒屋やレストランのネオンもついていたのでそちらへ移動。雑居ビルの中にある焼肉安安があったので、入ってビールと焼肉で腹ごしらえをする。こういう時の焼肉はすごくよく効く。

そこからはひたすら歩いた。代官山を抜け、中目黒から駒沢通りを南下。途中で道を間違えて遠回りになったけど目黒通りの方に向かい自由が丘まで歩く。雨が振りそうだった空も晴れ上がり、三日月がきれいだった。さすがにこれだけ歩くと寒さも感じない。足腰が少し痛くなってきたがどうということはなかった。幹線道路は帰宅難民の群で溢れていたがあとは住宅地を通る。途中で自転車を盗みたくなる誘惑に駆られた。

四谷から六本木まで3.6km、六本木から渋谷まで3km。群衆の中を歩いた。渋谷から自由が丘まで7km、しかし家まではまだ6,7kmある。疲れたなと思ったら踏切から警報音が聞こえてきた。電車が動き始めたらしい。自由が丘駅で東横線に乗る。たいして混んでいなかった。11:00前後から動き始めたらしい。綱島に無事到着。そこから家まで最後の2.5kmは短く感じられた。深夜0:30に帰宅。そこで初めてTVを見て津波のことを知って驚いた。これほどまでの被害は見たことのない、まさしく未曽有の天災としか言いようがない。波に飲み込まれた町や田畑、波にさらわれた、おそらくは一万人を超える数の死者たち。一挙に何十万にも殺した核兵器と比べてみてもあれだけの広い範囲を破壊した自然エネルギーの凄さは比較にならない。北茨城から仙台までの海岸線の風景はよく見慣れているだけに、あそこで起こった悪夢のような大惨事に衝撃を受けた。

この間に、次の日の後期入試の中止、週末イベントの中止などの知らせがメールで入ってくる。土日は比較的穏やかに過ごしたが、月曜になると東京電力の計画停電発表でまたしても異常事態になっていた。電車が止まり、道路は大渋滞。何よりもパニックになった人々がスーパーやホームセンター、ガソリンスタンドに殺到し、スーパーの棚は空っぽ、ガソリンスタンドには長蛇の列が続き、大渋滞を引き起こした。電車もないし、バスも渋滞で全く動かないという状態で新しい週を迎えたのだ。食料も、ガソリンも少なくとも数日は全く手に入らなくなり、こうしてぼくたちは、地震それ自体によってはほとんど被害を受けていないにもかかわらず、備蓄に頼る避難民生活を余儀なくされるようになっている。北仲スクールも森ビルから耐震基準に達していない建物の使用停止という決定を受け、22日まで一週間の閉鎖を余儀なくされ、イベントも展覧会も中止になった。

大学も後期入試の延期を取り消して、センター入試による書類選考に変更すると発表した。停電して電車や信号が止まるのではないかという不安と、食料が足りなくなるのではないかという不安が人々を神経症にしている。原発事故による放射能の拡散に対する不安もあり、まるでオイルショックの時みたいなトイレットペーパーやティッシュ、ラーメンなどの保存食の買い占めにみんな走っている。乾電池もコメも、カップラーメンもどこにもない。こんな物資不足になるとは思いもよらなかった。

さすがに計画停電は部分的にしか実施されていないけれども、これが二ヶ月も続いたら大変なことになる。まともに出勤も通学もできず、トイレもエレベータもない生活は、人々の活力を低下させるだけだ。こんな時こそ、イベントや展覧会やライブが必要なのではないかと思うのに、テレビも似たような被災者番組しか流さない。役所関連の年度内イベントはすべて中止になっている。これもどうなのかと思う。

最後に、自宅は全く物が落ちたりしないで無事なのだが、何重にも本が重ねて置いてあった大学の研究室はかなり悲惨な状態になっていた。機械類は全く壊れていないし、片付けて元通りにはしたのだけど。

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2011/03/15 : 11:22 午前 日記・コラム・つぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.02.21

アイロニカルな半演劇/チェルフィッチュ「ゾウガメのソニックライフ」

Twitterでちょっと書いただけでずらずらとフォロワーが増えたのは、やはりこのカンパニーに対する関心がいまとても高いからだろう。単につまらないと言っているだけではよく分からないだろうから、まだ地方巡回が残ってはいるが、横浜での公演が終わったところなので、本業の美学者に戻ってちょっとだけその根拠となる分析をしてみたいと思う。

まず、このカンパニーの作品に関しては、NHK教育テレビで「三月の5日間」という、岸田戯曲賞を獲り、彼らを有名にした作品のビデオを途中で集中力を失いながらも最後まで見たことがあること、岡田利規氏の書いた上演台本を演劇雑誌か何かで何本か読んだことがあること。その結果その作風とか、作品構造とかに関してはある程度わかっていたので、実際に見に行く必要性をあまり感じていなかった。したがって、神奈川芸術劇場(KAAT)の大スタジオのこけら落としに彼らの公演があることは知っていても自分からは行く気にならなかったところ、たまたまこの劇場の館長の真野純氏と一緒にトークをしたご縁でご招待して頂いたので見に行ったのである。だから、元々そんなに期待していなかった。が、実際の舞台はその期待をさらに下回っていた。

見終わった後、かなり苛々して、ツイッターに書き込んだのは下のような呟きだった。

"思っていたよりも果てしなく退屈で見るべき価値のない演劇ごっこだ。「三月の5日間」以来進歩なくて頭を使っていない。これを面白いと騙されている人が多いらしいので、ちゃんとダメな所を分析してあげた方がいいのだろうか?いやまあ二度と観ない方がいいか。"

なせ苛々したのかと言うと、基本的にはまるでダンスの舞台のように空間をいくつかのゾーンに分割して、それぞれの場所と俳優の仕草の役割を決めて、そこに日常のだらだらとした動きとどうでもいい内容の呟き(この作品の場合には、日常と旅行の対比を通して、満ち足りた人生って何だろうというような問を蜿蜒と呟き続ける)と、日常の仕草や身振りを振付化した意味のない動きの反復という単純な仕掛け(しかもユニットがひとつ追加されただけで、6年前の「三月の5日間」とほとんど変わらない新鮮さのない空間構成)だけで、まるで新しい実験や挑戦がそこで行われているかのような錯覚を観客に与えようとしているアイロニカルな姿勢にうんざりしたからである。コンテンポラリーダンスの舞台構造の上に、どうしようもなく自堕落でくだらない独り言を載せているだけの話だ。ダンスならもう少し真面目な身体的表現が見られるだろうが、岡田氏の場合は日常的なだらだらした動きを何度も適当に繰り返すだけ(しかも、出演者の一人が異常に身体が固いのは、本当に身体訓練ができていない俳優なのか、演出上の意図なのかわからないが、あのやる気のない動きを延々と見せられるのは耐えられない)。もはや新鮮ではない。

何かここには観客には簡単に分からない深遠な仕掛けがあるかのように見せかけていて、実はなんにもない。何もないという徒労のような作業を観客に押し付けてくるのが気に障った。要するにこれに意味があると思った観客は、自分の「空虚な日常」を、目の前で行われるパフォーマンスに鏡のように重ね合わせているだけなのである。これは、「作品の意味は観客自身が作る」というのとは根本的に異なる。

これと、ちょっと似ているものに平田オリザの「青年団」や宮城聰の「ク・ナウカ」のような「システムやメソッドを見せる演劇」がある。こういうジャンル系パフォーマンスの特徴は形式と内容が分離しているために、何でもできるけれども、何一つ本気でやっているものがないということである。しかし、たとえどんなにダメなものでも、やっている側が演劇という形式でどうしてもこれを伝えたいと本気で真摯にやっているものならこれほどまでに苛々することはない。ダンスのジャンルにしても同じことである。ところがチェルフィッチュの場合には中途半端なテキストと役者の動きを、あたかもそれが「現在」を反映している忠実な鏡であるかのような装いで意図的にぐだぐだしたものにしている(おそらくは役者の自然な反応すらも演出的に抑圧して)ので、「真面目になんかやっていないし、ストレートな真剣さなんて嘘っぽいし不誠実だ」と言わんばかりに力を抜いた演出になっている。それが一番耐えられなかった。人間をナメているとしか言いようがない。つまり、自分の暮らしている世界の「外部」に対する意識と想像力が皆無なのだ。

これに間違って感動している人は、だらだらした舞台に自分自身のだらだらした日常を重ねあわせて、勝手に自分自身の回想や日頃やり過ごしているような自問自答を真似して、反復するのが「リアル」だとでも思っているのだろう。その意味で、動物園の管理のような生政治的支配を及ぼされているのかもしれない。健康な神経を持っている客なら即退屈して居眠りをするというのが正しい反応だと思う。休憩があったらそこで席を立つのが正しい。起きて見続ける価値はほとんどない(仕方ないから頑張って起きてたけど…アフタートークは耐えられないと思い退出した)。

何か新しい演劇を作っているかのように勘違いして真面目な顔をして観て、あたかもそれが現実の正確な描写であるかのような間違った感想を語ったりしている観客たちにも腹がたった。これは演劇というシステムを全く信用していない人(たち)による、ニヒリスティックでアイロニカルな何も生み出すことのない遊戯にしかすぎない。

何もこんなことを肩に力を入れて力説するまでのことはないのではないかとも思った。なぜなら、そもそも現代における大半の上演芸術、演劇やパフォーマンスはたいていはとてもつまらなく面白くないからである。もちろん、魅力的な役者や舞台美術や照明効果に出会えることはあるが、そうではなくその企画意図や構想や演劇史的に見た演出上の革新にはほとんど出会えないからである。それは、もちろんポストモダンという時代状況と大いに関係がある。一つには近代演劇とそのジャンルの「解体」の結果、前衛や実験演劇という構図が無効になってしまっていることが挙げられるだろう。演劇が社会や観客の意識を変えることができる「解放の窓」と思われていた時代はもうとっくに終わったし、オペラやコントから実験演劇にいたるまですべてが刹那的なエンターテイメントとしてしか考えられなくなって随分久しい。演劇やパフォーマンスに関わる人の数は減っていないが、いずれにしても劇団四季のように産業化するか、テレビタレントの掛け持ちをするか、文化行政の中で補助金で生きるか、企業とタイアップでもしない限り、チケット収入だけで利益を上げることができないジャンルなので、表現芸術としてそれが自立していくことはかなり難しい。かつての演劇人は演劇論や演劇学を勉強した。ピーター・ブルックやアルトーの本を読み、翻訳戯曲や演劇批評を読み、人類学や宗教学のテキストを勉強したが、今の演劇サークル上がりの演劇人は勉強しようとはしない。彼らは単に沢山舞台を見れば、あとはセンスの良さとハッタリだけで面白い舞台が作れると思っているようだ。こうして、中身の空っぽの商品リストだけが並べられていく。

ゾウガメのソニックライフという一見なぞめいたタイトルの意味は、舞台の後半で解き明かされる。どんどん坂道を下っていく地下鉄に乗った主人公がクラブイベントで他人の踊りをただ観ている後に帰ってみたら、そこには折りたたみ椅子に仮託された250歳になってしまった年寄りがいて、目の前で15分後に死んでしまったという語りがあった。これは「浦島太郎」を竜宮城に乗せていった大きな「カメ」の話なのだということが示される。ウミガメではなくて、より動きが緩慢での部屋の中をのたのた歩くゾウガメが、くだらないおしゃべりが蜿蜒と海のように続く「ソニックライフ」を生きて、全く輝かしくない人生を過ごしていくという話なのだが、これもあまりにひどすぎるオチだと思う。こんなものを真面目な顔をして一生懸命意味を読み取ろうとしている観客を嬲っている作り手側の姿勢がひどすぎると思った。中身も志も真剣な思考も、すべてが欠落していることに腹が立ったのだ。

だが、考えて見ればこれと似たような表現はコンテンポラリーダンスや演劇の一部で広がりつつあることも事実だ。そういえば、横浜美術館で見た高嶺格展のパレスチナをテーマにした映像作品にも似た感想を持った。一緒に見てすっかり呆れていた劇団唐ゼミ☆の椎野裕美子も「仕方ないですよ。世間はこっちに流れているんですから」と言っていたが、そんなことはない。どんなに数が少なくともちゃんとやっている人たちは確実にいるのだ。ぼくはそっち側にずっとついていたいと思うので、もう「これ系」のものにはたとえ招待されても付き合わないことにしようと思う。

2011/02/21 : 12:48 午前 文化・芸術 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.02.05

高嶺格/小谷元彦/曽根裕展を見る

 文化庁の「メディア芸術祭」にちょっとだけ関わりがありそうなので一度見ておこうと思い、乃木坂の国立新美術館に行ってみた。実はこの美術館、前を通り過ぎたことはあるが、入るのは初めて。黒川紀章設計のこの建物、外から見るとまるでガラスのヤカンのような変な曲線の建物でやな感じ。内部はコンベンション・センターのようなもの。壁がガラスなので空港の待合室のような感じがする。どこかの空港で見たことがあるような逆円錐形の柱の上に空中カフェがある。威圧的ではないがやはり落ち着かない。夜になってライトアップされれば少しはきれいに見えるのかもしれないが、今後もあまり行きたくはない場所である。最近の公共建築ブームでやたら有名建築家による美術館が増えたし、ミースが設計したベルリンの新ナショナルギャラリーにも行ったことがあるが、どうもどこも居心地が良くないなあ。古い低層の美術館の方がどれほど落ち着くか分からない。特にガラス張りの建物が最近は多すぎてうんざりする。

 ところが、肝心のメディア芸術祭だが、実はほとんど見られなかった。余りの観客の多さにだ。入場無料ということもあるが、アート、エンタテイメント、ゲーム、マンガ、アニメというごちゃごちゃの部門構成のため子供から大人までごった返して展示が人の頭越しでないと見られない。ポケットゲームコーナーには子どもが群がり、インタラクティブな作品には行列ができている…のでほとんどお手上げで諦めた。この「国策」展に関係している人は沢山知っているが、この展示を見に来たのは実は初めて。妙な盛り上がりに驚いた。それでも、これだけ雑多なものを「美術展」という形式で行うのにはやはり無理がある。いっそのことコンヴェンション・センターを貸し切って、コミフェス方式でやった方がいいのではないだろうか? ついでに、「メディア芸術アンデパンダン」や同人誌即売会も併催にすれば盛り上がるのではないかと思う。そうなるときっと海外からも沢山の人がやってくるようになる。

 これだけではあんまりなので、近くの六本木ヒルズ/森美術館でやっている「小谷元彦・幽体の知覚」展へも行ってみた。地下鉄の通路に「メディア芸術祭」とともに一杯ポスターが貼ってあったが、ここも超満員だった。展望室やプラネタリウムとセットで見に来る人も多いのだろうが、入場料1500円もするのにこの混雑ぶりは凄い(ちなみに展望室とプラネタリウムのセット券は1800円。微妙な料金設定だ)。土日に六本木に来るものではないと思った。だが、さすがに一部の体験型作品以外は広い館内でゆっくり見ることができた。森美術館に来るのは昨年3月の六本木アートナイト、六本木クロッシング展以来。もちろん、大嫌いな場所なので、できることならなるべく来たくはないところだ。観終わって早々に立ち去るにこしたことはない。

 実はこの展覧会、金曜日に行った横浜美術館の「高嶺格・とおくてよくみえない」展と、オペラシティ・アートギャラリー「曽根裕・PerfectMoment」展とが、若手三人の展覧会と言うことでチケット相互割引という連携をしている。そこで、ついでにと言うことで初台のオペラシティまで足を延ばすことにした。一日に3箇所の美術展、昨日の高嶺展と連続で4つというのは、国内ではめったにしたことはなく、ぼくにとってはそれだけで大事業だ。しかも、予定外だったのでICCの招待券は持って来なかった(と言うよりも多分行くことはないだろうと捨ててしまったような気もする)ので、こちらの展覧会「みえないちから」は入り口でスルーした。三輪眞弘さんも出しているのに申し訳ないことをした。しかし、まあ展覧会があまり好きではない(たいてい落胆してぐったりと疲れることが多いから)ぼくとしては画期的なことである。まあ、曽根展は教え子の遠藤水城も関わっているのでちょっと義理を立てたこともある。

 結論から言えば、森美術館の小谷展がこの三つの中では圧勝であるという印象を受けた。これは作家論とは別に、展覧会の作り方に関わっている。小谷展は、あの息苦しいタワーの中にある巨大刑務所のような森美術館の展示空間にとてもよく似合っていた。と言うよりも、ここにあまり近づきたくないのでよく分からないが、森美術館はまさしく小谷元彦という作家のためにあったのではないかと思われるほどにしっくりしていた。とにかく、作品の点数とバラエティが豊富だ。この40歳手前の作家がきわめて多作であるせいもあるが、サイズ的にもまるでおあつらえ向きのようにうまく収まる作品も多く、天井から吊るしている作品についてもうまく配置できている。何よりも、六本木ヒルズの人工的でスノッブで空疎な空間にとてもよくマッチしているのだ。だから、「圧勝」であるということと、ぼくが「好き」であるかどうかということとは全く別の問題であり、結論から言うとほとんど引っ掛かりがない展覧会だったと言ってもいい。きっとすぐに忘れてしまうだろう。

 それに比べて、横浜美術館の高嶺展、オペラシティの曽根展は場所を全く生かしていない。高嶺展も美術館の空間に比して作品数が少なく中途半端な印象を受けたが、曽根展に至ってはスカスカである。なぜ、あのギャラリー空間にこんな中身の展覧会を企画したのかすらよく分からない。ミュンスターでの誕生日のビデオをなぜあんな巨大に壁に映さなくてはならないのか、さっぱり分からない。結果としてはジャングルの書割だけが印象に残る展覧会だった。あれはもっと小さな場所でやるべきだ。高嶺展にしても、暗い部屋でのインスタレーション作品やヴィデオ作品、写真とテキストによるドキュメントなどいくつか力の入った作品はあるものの、配置や並べ方が単調で工夫が足りない。古毛布や刺繍を額縁に入れて解説をつける作品も数が中途半端に多いし、扇風機で巨大な布を揺らす作品もあの場所でやる意味がよく分からない。そう言えば、メディア芸術祭を含めて展示に音響を入れるのが最近の流行りで、一種の演劇性というかこけ脅しの盛り上げ方をしているのはいずれの展覧会でも共通していた。これは作家というよりも企画者に問題があるように思われる。もちろん、その前提として、やたら高い天井をもつ巨大な展示室を並べただけのような美術館建築にも問題があるのだが、それにしても作家の個性と正面から対峙すべきキュレーターの存在や展覧会づくりの作法がほとんど感じられないことの方が気になる。その点でもミクロなものと巨大なもの、ミニマルな展示と過剰な展示を使い分けて変化を生み出している森美術館がもっとも優れている。

 作家に関して言えば、それぞれ全く異なるタイプの人達なので一概に比較することはできない。曽根裕に関してははっきり言えばぼくにはよく分からない。ジャングルの書割の中に、白大理石の彫刻が並べられている。別室にクリスタルの小さな彫刻作品がめちゃくちゃな数のスポットライトに照らされてきらきら輝いている。2つのヴィデオ作品が巨大な部屋の壁の両面に並べられて上映されている。それだけでおしまい。彫刻作品は白大理石を彫っているのだが、マンハッタンの3D模型、観覧車、丸みと刺が沢山掘られた雪の決勝のような抽象体と、何がしたいのか一見したところではよく分からない。おそらくは、人生の経験における一瞬を固定するという作業をヴィデオのような瞬間的に固定されるメディアを用いた作品と、大理石彫刻のように気が遠くなるほど長時間かけて固定していく作品を、空間を埋めるチープではあるが巨大な書割の中に配置することによって、「美術作品」を作ることと展示することと見せることとの間の不確さのようなものを、極私的なプライベートな映像を意味ありげに巨大な壁に投影することによって見せようとしているようにも思えるが、あまり成功しているとは思えない。そもそも、そんなことを言ったところで何の意味もない。素材と長い時間向き合い、不可視のものを紡ぎ出していくモダニストの作法とは大きく異なるように思えたが、だからと言って私的なものを社会的なものにつなげていこうという強靭な意識も見られない。どちらかと言えば、社会的な眼差しはほとんど持っていない人のように思われる。世界中を漂流しながら、その時々の記憶を時間をかけて外部化していくという営みそのものを見せようとしているようにも見える。その点で「美術」という文脈に違和を持っていて、その違和感そのものが美術家としての存在理由となるというような逆説的な生き方を選びとっているようにも思われるが、そのことの意味がぼくにはよく分からない。今度遠藤に会ったら聞いてみたい。

 それに比べると高嶺という人は、プライベートな経験を社会的なテーマへと接合しようとしている。それは「性」であったり、「美術」であったり、「アメリカ」や「パレスチナ」であったり、「在日」や「国家」であったりする。だが、彼にあってそれらはあくまでもプライベートな領域を通してしか見えてこないもののようだ。巨大なクレイアニメーションと実写を合わせた「God Bless America」や自分の結婚式と「国家」問題を絡めた「ベイビー・インサドン」。何だか、プライベートな領域にソシアルでパブリックな領域が侵入してくることの居心地の悪さのようなものを彼は作り出している。だが、逆に言えばそうした感覚は、誰しもが(とまでは言わないが、少なくともぼくを含めたかなり多くの人々が)既に感じている世界の居心地の悪さのようなもので、「あー、その感じわかるなー」とは思うが殊更何か新しい経験をもたらしてくれるものとまでは言えない。吉岡洋の「新共通感覚論」という短いテクストを、暗い部屋の中で部分的に見せたり隠したりする「ビッグ・ブロウ・ジョブ」は、自分の感じているものは他人には伝えられないし誰にも共有できないのではないかという不安を、おそらくは巨大な脳に模した部屋の中のニューロンネットワークが点滅する形で観客に何とか「共有」させようとしているが、おそらくは「暗くてよく見えない」ので誰にも共有はできないということを示している作品だろう。高嶺はいろいろ考えようとする、だがあいまいなままでよく分からないし、それを誰かと共有することはできないという微細な皮膚感覚のようなものを外部化しようとする美術家であるように思われる。おそらく彼にとって思想や言葉はあまりにも乱雑に思えるのではないかという気がするが、それでもそれを形にするためには吉岡のテクストのような言葉や思想を必要としているように思える。ただ、そのためかどうかは分からないが、あまりに繊細すぎて、限界を突破していく爆発的なパワーは持ってはいないような気もする。むしろ、すっきりと言葉を捨ててしまうというのも一つのあり方なのではないだろうか? ぼくがどうしても共感できず彼らと別れてしまった「S/N」時代のDUMBTYPEと、一番初期のIAMASという身近ではあるが遠い気もしている場所から育ってきた作家なので、これからも注目していきたい。

 小谷という人は、木彫やFRPによる造形の超絶技巧を持ったフィギュア作家のように思われた。「幽体」という難しい言葉は、英訳を見れば単なる「ファントム」にすぎず、その意味では「幻影の知覚」という平凡な概念にすぎない。入り口横にすぐに目に入る手のひらが血まみれな少女のポートレートは「幻影肢」という意味の「Phantom Limb」というオシャレな英語で表記されている。映像と立体による膨大な数の作品が、きわめて職人的な手際で造形化されており、小さなものから巨大なものまで展示されているが、それはゾンビだったり、解剖模型だったり、アダムス・ファミリーの少女だったり、太古の生物の化石であったりと、おそらくは幼年期に出会った既知の「異形」のイメージにすぎない。ちょうど、クローネンバーグの映画を実体化させたような感じであるし、綺麗なCM映像から取り出されて3D化されたものようにも見える。それは確かに3D映画のようで、モノとしての実体もなければ、創り上げられたプロセスもよくわからない3D-CGのようなものなのだ。確かに生産量も凄いし、ラカン的な「寸断された身体」イメージに対する偏執も凄いとは思うのだが、全体的にオタク的にチープで表層的なイメージを増殖させていくので、どうしても軽薄に見えてしまう。もちろん小谷には社会的な問題意識や政治的な関心は全く見受けられない。東京芸大で職業的な訓練を受けたオタク系クリエーターというような感じしかしない。それは村上隆のような先行世代と比べてみれば、より豊かで、より技巧的で、より身体的で、より親密で、しかしそれと同時により「ひきこもり」的な、まるで歌舞伎の女形のような神経質な繊細さに満ちていることが分かる。スーパーフラットでスーパーエフェメラルな時代を生きてきた人なのだろう。

 そう言えば、彦坂尚嘉氏はご自身のblogでは小谷を、「《想像界》の眼で《1流》《象徴界》の眼で《8流》《現実界》の眼で《超1流》」という評価をしており、「人格的には《現実界》と《想像界》の人」で「芸術ではなくただの気晴らし」と切り捨てている。流体としての欲動が何かに衝突し破裂する脳内感覚にしか関心がない作家だと言うのである。この評価はとても面白いのだが(それにしても8流って!)、さらに彦坂氏は筆を進めて、この「芸術ではない〈面白アート〉の系譜として、飴屋法水、合田佐和子、そしてその元凶としての唐十郎を上げている。圧倒的な廃墟的イメージと異形なもの、そして医学的に寸断された身体を問題にする飴屋さんと、レディメイドのポップなイメージを再生産しつづける合田さんに関してはいくらか分からないではないが、唐さんは全く違うと思う。だって、デリダの『尖筆のエクリチュール』を読んで名作『ビニールの城』を書いてしまうような人だもの。だが、まあこれを見ると彦坂さんが少なくとも一時期状況劇場に夢中になったことは分かるのでよしとしよう。

 ちなみに彦坂氏の現代アートの「格付け」はコンセプチュアリスト頑固じいさんの小言としてはとても面白いのだが、しかしチャートを作り、分類するだけでは仕方ないと思う。こういう振る舞いはまさしく「美術」の領域のインサイダーにとって(のみ)意味があるわけだし、結局は「芸術ではないもの」が「芸術」の王国の中にどんどん流入しているのが現実だもの。ただ、概念的にはあまり正確ではないが、直感的にはかなりわかりやすい彼によるラカンの三項図式分類法を使えば、確かに《想像界》の人ばかりが増えているような気はする(《現実界》に関しては、そんなことに意識的な人がいると言うのはかなり怪しいとは思うが)。それは仕方ないのかもしれない。だって《象徴界》がダメなのは言葉の定義上も明らかだし、何でも定量化・構造化できる形でしか示されないサイバネティックな世界の中にぼくたちが生きているからである。でも、リオタールの言う「Discours/Figure」の両極を往還する仕組みを作るのがちゃんとした文化なのではないかと思うし、身体感覚や直感的なものだけで生きるのなら動物と変わらないし、思想にしてもアートにしてもその辺りのことをきちんと考えようとしない人は《超1流》であろうが、《8流》であろうが、どちらにしても現状維持にとどまるしかないのではないかと思う。

2011/02/05 : 10:58 午後 文化・芸術 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.01.09

2011年になった

気がつけば11月からエントリーを更新していない。

年末から北仲スクールのイベント続きで結構バタバタと忙しくしていた。唐ゼミの土岐泰章と水野香苗の結婚式もあって、乾杯のスピーチをさせられた。学生の結婚式には基本的には行かないことにしているので、結婚式自体ももう20数年出ていなかったけどちょっと新鮮だった。12月は北仲スクールや唐組の忘年会もあり、バタバタしているうちに27日で仕事納め。その後、ずっと正月休みでのんびりすることができた。この空白の間にいろいろ考える。ポジティブなこととネガティブなことの両方で、精神的にはとても不安定になるのが年末・年始のこの時期だ。とにかく自分にできることとできないことの区別はだいぶ分かってきているので、できることを全力でやりたい。これ以上積み残してはならないと改めて思った。そういう意味で寝正月ではあるが結構つらい時期でもある。

その間に、大阪の昔の南海球場の跡地に作られたショッピング・センターの中にあるイタリアン・レストランで、帝塚山学院大学91年度卒業の室井ゼミのメンバーが集まるミニ同窓会に呼ばれた。90年代には何度か同窓会もあったけど、皆、家庭や子育てで忙しく、もう10年以上会っていない人もいてなつかしかった。また近いうちに大同窓会をやると言ってくれているのがうれしい。

帝塚山学院も女子大から共学校になって久しい。昔の同僚の三浦信一郎さんが今年で定年だという案内をもらったが、もうこれであの頃の同僚がほとんどいなくなる(学長の酒井信雄さんは一緒に翻訳をやったこともあるし、別な学科の人は何人か残ってはいるけど)。20年近く経っているのだから仕方ないけど。それにしてもあの頃は楽しかった。この大学にはぼくが辞めた後にも、松岡正剛さん、椿昇さんが籍をおいたりして、何かしら宿縁のようなものを感じる。

12月は京都精華大学の京都国際マンガミュージアムが企画した「マンガ・ミーツ・ルーブル展」があった。ある程度は予想していたものの、荒木飛呂彦氏の原画を見にくるファンたちの熱気に圧倒された。一日に600人近く来る日もあり、春にやった「椿昇」展と比較すると少し複雑な気持ちになる。書籍や関連グッズも高価なものから飛ぶように売れ、なるほど通産省がクール・ジャパン室を作るのもあながち分からなくもない。年末に発表された予算案でも大学教育関連や文化庁関連はそれほど減らされていないのもそのあたりが関係しているのかもしれない。

だが、それにしても、何かと言うと「日本を建てなおさなくてはならない」とか「経済をどうするか」というようなことばかりが声高に語られる風景はあまり愉快ではない。ひところホリエモンや村上ファンドがバッシングされて以来、「格差社会論」に代表される政治システム批判が続いていたのにまたしても新自由主義よりの経済活性化ばかりが唱えられる。要するにこの国は数年間しか続かなかった「バブル」の夢をいつまでも忘れられないらしい。それに代わる指針を誰も作れないのだ。グローバル・スーパーマーケットの中での競争に勝ち残れなければすべてがおしまいだと思っている。そんなことはないし、それでも食い詰めたら海外に飛び出せばいいだけのことだ。

考えて見れば、90年代には都市再開発や公共インフラ工事などの公共事業を誰も止めようとしなかった。大阪南港に代表される誰の目にも失敗することの明らかな馬鹿げた再開発事業は「貸し倒れ」に苦しむ銀行や金融資本が、絶対につぶれないし、借金を未来に繰延べできる自治体や行政体にたかって、役に立たないことが分かりきっている公共事業にお金をつぎ込んでいた時代だった。今になって赤字国債を問題にしたり、財源確保が声高に語られるが、90年代には誰一人それを問題にしなかったのである。今頃何を言っているのかと思わざるをえないが、小泉内閣が進めてきた「規制緩和」や「小さな政府」政策はこの借金繰延べを前提にしたものである以上、最初からこうなることは明らかだったはずだ。「郵政民営化」選挙に大挙して熱狂した国民が判断力を失っていたとしか言いようがない。したがって、はっきりしていることは新自由主義経済学や市場原理主義は歴史的に見て完全に間違っていたということであり、異常に膨れ上がった格差を是正しなくてはならないはずなのだが、政府も政府が政策を委託しているアメリカ帰りの経済学者たちにはそのことが分からない。アメリカでの民主党惨敗を引き起こした「ティーパーティ」も、日本でやたら民主党をこき下ろしているメディアもそのことに加担しており、要するに日本をアメリカのような5%の金持ちが90%の資産を占有するような社会の方にもう一度方向を逆転させようとしているのである。要するに「ヒルズ族」をもてはやしていた時代に逆昇りするだけのことだ。だから、絶望的なのは政府でも政党でもなく、例のハーバード大学のサンデル教授をもてはやすような、前提を共有されている固定した問題設定の中での「より正しい選択」を選んでいくような経済学者たちであり、政策担当者たちなのである。フロイトやニーチェやマルクスを除外した哲学史なんて何の価値もないし、マルクス主義と新自由主義の両方が間違っていたのは、人間が合理的な行動をする動物ではないという至極単純な真理なのだが、テクノクラートたちはすべての人間が自分たちのように合理的に、規範に従って行動すると思いこんでいる。しかし、まあそんなに悲観することはない。GDPがたとえ1/10になったところだって、人間は十分楽しく生きていけるのだ。むしろ、長く生きたおかげで色々な状況を体験できてラッキーだという気がする。当分、この国の状況は改善しないし、歴史的にみたら結局はどの時代だって最悪な時代なのだから気にすることはないのだ。

クシュシュトフ・ヴォディチコとはメールのやりとりを続けている。とにかく日程を先に確定しないと行けないので、横浜トリエンナーレの開幕前後にその調整をしているところだ。彼は最近ハーバード大学のデザイン・マガジンにパリの凱旋門を「戦争の廃棄のための世界協会」にするというプロジェクトを発表している。 日本での国際会議はこのテキストと、彼が2009年に公刊した『逃れの街--9.11メモリアル』をもとにして行われる予定だ。

北仲スクールは文科省による助成期間の最終年度を迎える。とにかく、自分にできることを全力で実現していく一年にしていきたいものだ。

2011/01/09 : 11:08 午後 日記・コラム・つぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.11.19

事業仕分けと文部科学大臣記者会見

こういう生々しいことをここに書くのは少し憚られるが、11月18日の事業仕分け第三弾における大学関連予算の再仕分と、それを受けて行われた高木文部科学大臣の記者会見を見て、すっかり頭が痛くなってしまった。

ぼくが代表になって進めている馬車道にある「北仲スクール」事業は、まさしく今回「廃止」と仕分けられた「大学教育のための戦略的大学連携支援プログラム」という「競争的資金」で運営されている。3年間、年1億円ずつで合計3億円の事業予算が組まれるはずだったのが、実際は自民党政権時代に削られて一年目は8600万円、二年目の今年は民主党の仕分けを受けて自主的に減らされて約7000万円。そして、来年はもし行政刷新会議の言うとおりになると事業打ち切りになるかもしれない。この予算は、平成20年度と21年度の二年間だけつけられ、今年度は新規募集を停止していたが、来年からは「地域・社会の求める人材を養成する大学等連携事業(大学教育充実のための戦略的大学連携 支援プログラム」という新しい名前(刷新会議が言うところの「看板の掛け替え」)で復活する予定だった。それも仕分けで「継続分も早期に廃止」と決め付けられたのである。言うまでもなくそれは北仲スクールの個別の評価ではない。何十もある競争的資金をいくつかのサンプルだけの事例をもとに廃止と決め付けられたのである。しかも、そのための議論はこの枠に関しては約10分間くらいしか行っていない。ぼくたちがやっている事業が彼らの言うような税金の無駄遣いや研究機材を買う口実になっているのかどうかは、このサイトでの北仲スクールの事業紹介を見てほしい。全くそのような批判には当たらないことはすぐわかることだ。

いずれにしても7000万円でも十分に大きな金額である。もちろん3割も減らされてしまって、ぼくたちはいまとても困窮している。七大学に分配して事業をやってもらうだけではなく、我々の場合には横浜の都心部にサテライトスクールを設けて運営するのだから、家賃も事務所費も、そして人件費も必要である。人件費は3年間しか身分保証がないので低い給料の臨時雇用の形でしか雇えない。いま、大学や役所ではこういう「非正規雇用」の人たちがどんどん増えている。それは、国立大学の独立法人化や予算縮減でどんどん経営が苦しくなっているからだ。もし、事業廃止となればこれらのスクールのための機材や設備も全く無駄となるし、安い給料で働いているスタッフたちも路頭に迷うことになる。そんなことがあんな形ばかりの「仕分け」で決められていいのか? しかも、彼らの評価コメントを見ると彼らは大学の現場が置かれている状況のことを何一つ分かっていないことがすぐに見て取れる。

2004年の国立大学の独立法人化によって国立大学を取り巻く状況は大きく変わった。規制がゆるやかになってフレキシブルになった部分も多少はあるが、何よりも国からの運営交付金が毎年5%ずつ、ある年には10%もカットされるようになって大学の資金繰りはとても難しくなっていった。非常勤講師枠もどんどん減らされ思うようにカリキュラムが組めなくなり、常勤教員は自己評価や成果報告などの雑用に追われて研究に当てることができる時間もどんどん奪われていった。それは、自民党政権の政策で、大学にどんどん競争をさせ、国からのお金を減らす代わりに企業などからの外部資金や、科学研究費やCOE、GPに代表されるいわゆる「競争的資金」を獲得することによって、いい計画を立てた努力を怠らない大学にだけ資金を分配するという仕組みと一体の政策だったのである。

そのため、科学研究費には全員応募しないと研究費を減額するなど、とにかく外部資金を獲得できない教員や大学はダメなのだという締め付けが生まれた。実際には科研費などは学会政治によって恣意的に決められる部分も多いのに、とにかく科研費をたくさん持ってくる大学や人が偉いという競争をあおる政策が大学に押し付けられたのだ。こういう競争原理を大学に持ち込む政策は多くの弊害をもたらした。新自由主義的な市場原理を大学教育の現場にもたらしたことによる大学の荒廃は著しい。このことをぼくたちは日本記号学会の出版物『溶解する大学』で取り上げたことがある。

今回の「仕分け」をしている人たちもまた、このような市場原理や効率を大学に押し付けたいという点では、独法化を推し進めた人たちと同じタイプの人々だ。やたら、成果の具体的なデータとか数字とかを求めてくるところも自民党の教育政策担当者と全く同じタイプの人達である。慶応義塾大学経済学部の土居丈朗という民間仕分人のコメントを聞いていると、あまりにひどくて頭が痛くなってきてしまった。大学カリキュラムの標準化が必要などというコメントを平気でする人である。学習指導要領や検定教科書を大学にまで持ち込みたいのだろうか? まだ若くぼくたちが茨木市に住んでいたころには茨木高校の高校生だったらしいが、こんな人を教育政策の論議にまで踏み込ませるのでは国の将来は本当に危ないと思う。狭い専門領域しか知らない教養のない人物だ。

彼らの「仕分け」の論理には根本的な事実認識が抜け落ちている。

「金のバラマキ」、「研究機材を購入する口実にされている」、「かならずしも成果を上げているとは言えない」という指摘はその通りである。なぜなら、元々競争的資金とは、餌をぶら下げて競争をさせるためのツールなのだから、「頑張ればおいしい思いができる」ような釣りエサにほかならないからだ。いまさらそんなこと言ってどうする? としか思えない。

枝野氏を含め、仕分け担当者に徹底的に欠けているのは「これらの事業は大学の通常業務なのだから運営交付金で行うべきだ」という発言から見て取れるように、競争的資金と大学運営交付金の大幅減額とがセットになっているという認識である。これらの大学教育支援をもし切るのなら、それは同時に運営交付金の予算を増額するということと一緒でなくてはとうてい釣り合わない。彼らの評価コメントを見れば彼らが完全に国立大学の状況に無知であることは一目瞭然である。

だが、本格的に頭が痛くなったのは、本日行われた高木文部科学大臣の記者会見での談話である。何と、この人もそのことが全く分かっていない。
私たちが組んだ予算は本当に必要なのだから、これからは政治判断の領域に入り、何としてでも我々の予算をそのまま成立させる、としか言っていない。

つまりは誰もが問題の本質を理解していないまま、予算の廃止と存続、効率化とかの空虚な論争が行われているだけなのである。それならば、問題は独立法人化以降の大学政策にあるのだから、そこのところから見直していかなくてはならないはずだ。だが、誰も民主党政権が5年も持つとは思っていないから、目先の国費の削減ばかりが優先される。大学は「天下りの温床」でもなければ、「無駄な箱モノ」でもない。それぞれの事業には具体的な人間と学生たちが関わっており、みんなかどうかは知らないが、少なくともぼくたちは必死で頑張っているのだ。もし、それが大学の通常業務内でやるべきだと言うのなら、運営交付金を大幅に増やしなさい。そうでなければ話が全く通らないではないか。

ぼくは、自民党がやっても民主党がやっても何も変わらないと最初から思っていた。だが、長期政権には長期の見通しが立てられるというアドバンテージがあったのだ。民主党がやるべきだったのは、独立法人化の見直しと、大学への市場原理の導入が間違っていたという根本的な見直しだったはずだ。ところが、結局は彼らがやっていることも新自由主義的な市場万能主義を教育現場に持ち込もうとすることだったわけだ。しかも長期的展望もなしに。

多分見通しとしては、ぼくたちの事業は継続できるようになるだろう。どれだけ予算がカットされるかは分からない。だが、少なくともぼくは金のために北仲スクールをやっているのではない。金が出ないなら出ないで、それなりの方法でやりたいことをやっていくだけのことだ。何でも予算や金額だけで人々や組織をコントロールできると考える人たちとは違う生き方をしたい。政治や経済だけで世の中を動かせると考えるのはあまりにも傲慢である。ただ、せめて人々のやる気を削ぎ、ますますこの国の未来を閉ざしていくような政治を続けるのはやめてほしい。必要なことは市場原理主義的な政治家、経済学者、経営コンサルタントらを各省庁から一掃することだ。別に慶應を目の敵にするわけではないが、竹中平蔵のような完全に失敗した新自由主義者をいまでもコメンテータにしているマスコミや、民営化や「小さな政府」が望ましいと考えて、こんなひどい格差社会を生み出した人たちには早く退場して欲しいものである。単純に迷惑だ。

2010/11/19 : 09:21 午後 大学 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2010.11.17

一年が経過した

去年の今日、大里俊晴君が51歳で息を引き取ってから一年。
あの日も今日のように寒い日々だった。お通夜の日も冷たい雨。葬式になってようやく晴れた。
今日も大学で昼から5つも会議続き。一番最後の講座会議で、講座メンバーと大里君の話を少しした。

96年の大学設置審議会で、今の教育人間科学部の改組が認められてからもう14年。マルチメディア文化課程の一期生が入ってきてから12年目。
唐さん、大里君、木下長宏さん、許光俊君らを迎えてマルチがスタートした。それから何人かが定年や転任で去っていき、新しいメンバーが何人か加わった。
大里君はその最初から関わり、終わる一年前に去っていったことになる。そして、彼の思い出と共に、ぼくたちもマルチメディア文化課程から少しずつ離れていく。
講座も再編成され、この講座会議も来年になると違う会議になる。実質的にこの形を作っただけに、いろいろと感慨深い。

ぼくたちは来年からは所属を学部ではなく、都市イノベーション研究院という新しい大学院へと移し、それとともに学部の学科構成も大きく変わる。
マルチメディア文化課程の理系教員は全員新しくできる「理工学部」に移り、人文系の教員は、国際共生社会課程と合体した「人間文化課程」の担当になる。
大学のサイト「www.ynu.ac.jp」を見ればその概要が発表されている。

今日の三つ目の会議がその新しい「人間文化課程」の設置準備会議だった。新しい講座メンバーと新しい学生を迎える準備を始めている。それがどんなものになっていくのか、誰にも分からない。そのワクワクする感じと、マルチメディア文化課程が消えていくことへの寂しさとが重なってずっしりと心に沈殿している。

23日には、午前中にその人間文化課程、午後に大学院・都市イノベーション学府のオープンキャンパスが開かれる。
それがどんなものになるのかを受験生たちに説明しなくてはならないが、実はぼくたちの方がまだよくイメージを固めきっていない。こんな状態で新しいことを始めなくてはならない。
明日また事業仕分けにかけられる北仲スクールの未来も気になる。この先どんな航海が待っているのだろうか?

とは言え、こういう綱渡りをしているような感じは嫌いではない。期待と不安が交互に押し寄せるようなこの不安定な感覚だけが、人を未知の領域に押し出してくれるからだ。
というわけで、あれからもう一年。年月が進む速度だけは、確かに年々加速してきている。

唐ゼミ☆の「下谷万年町物語」も無事に終了。また、いろいろ新しいことが始まる。

2010/11/17 : 11:36 午後 日記・コラム・つぶやき | | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.09.20

Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(3)

どうして、こういうことをやりたいのかというと、いまやマーケットやそれを利用しようとする行政や企業の論理に埋没してしまっているように見える文化商品としての「アート」、あるいは引き籠ってまるでインティメットな巣穴のような「私の空間」を作ろうとしかしない気弱で優しげな「アート」とは違ったものをどこかに見出していきたいと思うからだ。この二人は、現実から逃げようとはせず、誰にも頼らず、自分自身の想像力と思想だけを武器に「現代」と対峙している。これは、ただ単に政治的な姿勢を保持しているとか、反体制的であるとかいうこととは全く別なことではないかと思う。そして、それは芸術的アヴァンギャルドの最良の部分を「ラジカルな想像力」として引き継いでいくことではないのだろうか?

もはや、アーティストとは「モノを作る」人々のことではない。むしろ自律的で完結した「作品=モノ」を作る人々からはもっとも遠いところに行こうとしている人こそが、ぼくたちが守らなくてはならないアーティストであり、アートの可能性なのだ。そこではぼくたちの意識や文明の諸制度の虚構を暴き、新しい世界の見え方を提案する活動性が開かれている。

いや、けっして確信をもってそう言えるわけではない。むろん、もはや西欧近代が生み出した文化制度としての「アート」の可能性はほぼ汲み尽くされていると言えなくもない。もはやとっくの昔にアートは死んだのであり、いま残っているのはアートのゾンビにすぎないのかもしれない。だが、そのことは哲学や思想についても全く同じことなのだ。人文的思考がこの2-30年間、いったい何をしてきたと言えるのだろうか? リオタールが「知のステイタスの変容」を指摘して以来、「現代思想」はマイノリティの人権を訴え、マジョリティを糾弾する政治的な武器であるか、そうでなければ脆弱で刹那的なオタク・カルチャーを擁護するソフィスティケートされたツールとしてしか生き残れなくなってきている。思想や哲学の言葉もまたハイデガーの言う道具的連関の中に飲み込まれてしまっているのだ。もはや、思想やアートを保持してきた「近代」という足場が崩れてしまった以上、その「外」へと踏み出すためには、ひとりひとりが空中に自分だけの足場や階段を組み上げていくしかないのではないだろうか?

ぼくが関わっている北仲スクールでは「アートとコミュニティ」、「アートと都市」、さらには「クリエイティヴ・シティ」というような問題圏の中で活動している。美術マーケットや業界の中で仕事を続けている「売れっ子」の人たちや、逆に自分と周辺だけに閉ざされた社会の中で「モノ」を作っているだけの人たちと比べれば、社会や都市の中に飛び出し、コミュニティと積極的に関わろうとしている人たちもまた何かを求めているのかもしれない。だが、壊れかけているコミュニティや衰退した都市や地域をアートの力で再活性化させようというような問題設定には、アート自身がとっくの昔に壊れてしまっているという真摯な自己認識が徹底的に欠落している。社会の論理からは異質なものとしてのアーティストが社会の中に暴力的に介入し、コミュニティの存立そのものの虚構性を暴くのではなく、逆に地域おこしや街作りに生ぬるい形で奉仕しようとしている。あるいは、貸し画廊を借りる手間が省けて自分の作品を展示することができるというような相互依存から、何か新しいものが生まれてくるとはとても思えない。〇〇芸術祭や〇〇トリエンナーレの乱立は一時的なもので、すぐに衰退していくことだろう。なぜなら「アート」という一般名詞は何も内実をもってはおらず、重要なのはいつも少数の特権的なアーティストの生き方だからだ。アートと観光産業の結託は、ヨーロッパの美術館を見れば当たり前のことではあるのだが、だからと言ってそれが地域経済の永続的な活性化に直接結びつくとは思えない。アートとコミュニティという問題設定の中で一生懸命に活動している人達を支援していくこととは別に、そうした活動に未来が存在しえないということも冷徹に見通していかなくてはならない。そのためにはそこにはないもの、そこからは生まれてはこないものを守り、育てていくという全く別の活動性が必要になってくるのではないかと思っている。

はっきりしているのは、このような問題圏で活動している人たちとは全く違って、ぼくたちはアートそのもの、そして哲学や思想そのものの成立可能性、存続可能性について考えていきたいということだ。そして、それはぼく自身にとってもひと事ではない切実な問題なのである。ヴォディチコは、アーティストと哲学者・社会学者・心理学者等々との連携がどうしても必要だと言っている。そして、いまぼくたちはヘレニズム期に活動した犬儒派の哲学者(アレクサンダー大王と論争をして勝利したディオゲネスのような)のような生き方を学ばなくてはならないと、彼は言う。ディオゲネスとは大樽を住処とし、犬のような生活とをしていたいわば「ポリスカー」に乗ったホームレスのような存在である。もちろん、実際にそうなることが問題なのではなく、そうした視点を持ち続けることが何よりも重要だということなのだろう。

横浜トリエンナーレ2011は、横浜美術館とBankArt-NYKを拠点とする「世界の現代美術の集約的な紹介」と、黄金町や街中を舞台とするコミュニティアートのパート、単発的なイベントなどによって構成されるはずである。そして、それは単純に集客数だけで成功か、失敗かが判定される。その中でぼくたちは何か別のことを仕掛けていきたいと考えている。いくつかの計画があるが、その一つが、まだ単なる計画にすぎないが、ヴォディチコ(もし可能ならアイ・ウェイウェイも)を中心とした企画だ。そして、この計画に関しては、北仲スクールの後期ワークショップ「展覧会を作る」で、参加者とともに練りあげていきたいと考えているので、我こそと思う人は是非手伝ってほしいと思っている。

2010/09/20 : 12:00 午後 文化・芸術 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(2)

東京駅の丸の内北口で会うことにした。ちょっと早めに行ってみると、工事中であの丸い天蓋が完全に隠れている。これはわからないかなと思っていると、通路の人ごみの中で小柄で髪の毛をちょん髷のように結わえている独特の彼の後ろ姿を見つけた。よく見つかったなと言われたが、確かに偶然の神様がずっとついてきているような気がする。

タクシーで九段下に向かうと、「どこかに公衆電話はないか?」と言う。妻と連絡をしたいと言うのだが、いまどき公衆電話はなかなか見つからない。携帯電話を出すとブラックベリ端末だったので、それでかかるのではないかと海外通話の仕方を教えると掛かったようで、車の中でポーランド語で通話をしていた。奥さんもアーティストで、中世の宗教画のようなペインティングをしているらしい。見せてくれた絵葉書にはガスマスクをつけている聖母マリアが描かれていた。「誰か彼女を日本に呼んでくれないかな」と言う。どうやら日本でのお土産を頼まれたようだ。

靖国神社の参道は花見客で溢れかえっていた。大村益次郎の銅像の前には仮設ステージが設けられ、若者たちがよさこいソーランのようなダンスをしていた。それを見て、「あの若者たちは無意識ではあるが、あの銅像の前で歴史的に正しい行為をしている」というようなことをヴォディチコは言う。確かに彼らは大村益次郎が誰かは知らなくても、桜の季節にその前で踊りを奉納しているのかもしれない。人ごみに溢れた参道を歩きながらあまりの活気にふたりともちょっと圧倒されていた。

拝殿の中の本殿に入りたいと言うので、御籤を売っていた巫女に話しかけると、明らかに大学生のバイトとしか思われない若い女の子は、「こちらは宗教施設でして、観光施設ではありません。内宮には祈祷などをされる方にしかご案内しておりません」というようなことを言う。「それでは祈祷料はどれくらいですか?」と尋ねると「あくまでもお志しですので決まっておりませんが、大体平均7万円くらいです」と言うので、ヴォディチコと顔を見合わせて諦めた。実際はここには神様はいない。約二百五十万人の「国のために戦死した」人々の名前が記されたノートブックが祭神なのである。ここは神社でありながら神社庁に属さない軍直轄の施設であり(だから戦後、靖国神社法案が何度も提出されたのだ)、A級戦犯はもとより軍属の朝鮮人もキリスト教徒も幕末の志士も、とにかくこのノートブックにいわば勝手に名前が記された人々が祀られている奇妙な宗教施設なのだ。単なる宗教法人なのに、戦前の大日本帝国時代の形態を受け継いでいる。併設されている遊就館という博物館には明治維新以来の資料や、人間魚雷「回天」などの兵器、「真珠湾はアメリカの謀略だった」などという映画を上映するホールなどがある。それらを見ながら、「この兵器を提供したのはアメリカだよね。だって、こんなに完全な姿の戦闘機や魚雷とか提供できるのは米軍しかないじゃないか」というようなことを言う。確かに、戦後靖国神社の存続を決めたのはアメリカに違いない。国粋主義的な施設の曖昧な形での存続は、日本の戦後史においてきわめて重要な役割を確かに果たしてきた。

二人とも無言になり、少し休んだあとで新宿に移動した。普段はどうか知らないが、桜の季節の靖国神社は慰霊の場所というには余りにも喧騒に満ちた場所だった。奥さんへの土産を買うため伊勢丹1Fのデザイン宝石ショップでデザインリングを買いたいと言うので結構時間をかけて物色したあと、もう3:00をすぎていたがお腹が減ったというので、となりの別館にあるタイ料理屋へ連れていった。目玉焼きの乗ったガバオを食べてこれまで食べたタイ料理の中で一番おいしいと喜んでいた。そのあと、六本木アートナイトへ。「椿昇を知っているか?」と聞くと「椿は大好きだ」と言うので連れていった。

六本木ヒルズのテレ朝側のステージでテンパッている椿に引き合わせたが、この時のことはあまり書きたくない。その二週間前に浜川崎の体育館で素晴らしい展覧会をいっしょにやった椿だが、ここではコマーシャリズムにすっかり押しつぶされていた。アートの力は完全に商業主義の中に埋没してしまっていた。新幹線で京都に帰るが、行き方がよく分からないというヴォディチコを八重洲口まで送って、ハグをして別れたあと、もう一度六本木に戻ったが、頭の中はヴォディチコのことでいっぱいだった。

彼はこの時に、『逃れの町』と『ゲスト』という最近出た二冊の本と、広島賞を獲った時のカタログ、そして自分で作ったDVDをくれた。広島のカタログはカバーが破れていて貴重なものだった。そして、このDVDと本を読みながら、彼をどうやってもう一度日本に呼べばいいのだろうかとずっと考えていた。

『逃れの町』はとても難しいテキストだった。ユダヤ系の家系であるヴォディチコが旧約聖書やカバラやレヴィナスなどのテキストを引用しつつ、ニューヨークを逃れの町にしなくてはならないと主張し、ニューヨーク湾の真ん中に戦争慰霊施設を建造するというような提案だった。巻末にはCGでドームのような建物が掲載されている。その感想を送ると、彼からは「このあいだ京都で話した、パリの凱旋門のプロジェクトをいまやっている。テキストを送るが、画像などもできたらすぐにお前に送る」という返事がきた。

いま、ぼくたちがメールのやり取りをしているのは、来年の横浜トリエンナーレ2011横浜トリエンナーレに合わせて、ヴォディチコと何かやれないだろうかということだ。このことについて、北京でアイ・ウェイウェイに話を持ちかけたら、スケジュール次第ではあるが、関心はあるので連絡を取り合おうというメールがきた。何が起こるのかはわからないが、これが実現できたらすごいことになる。とりあえず考えているのは国際シンポジウムであるが、加須屋明子からどうせなら展覧会もやりませんかという提案があり、それに関しても準備を始めている。(続く)

2010/09/20 : 10:58 午前 文化・芸術 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(1)

暑い夏の間、いろいろなことをしながら、来年のことについて考えていた。
その間、ようやく横浜トリエンナーレ2011の記者発表が行われた。北仲スクールは、都市デザイン系の人たちが黄金町と密接に関わっているし、トリエンナーレと無縁であるわけにはいかない。だが、ぼく自身がいったいどういう形で関わればいいのかとなるとそう簡単に決められない。

しかも10年目である。2001年に開催された第一回からも、そしてあの「9.11」事件からも。

「ゼロ年代」は、少なくともぼくにとって、この二つの出来事を清算することでしか終りにすることはできないという思いがある。去年の「開港150周年」イベントで、バッタは8年ぶりに横浜に戻ったし、またこの春の椿昇展でだいぶ自分の中では清算された感があったのだが、後者に関してはそうは言えない。

考えて見れば、2001年に第一回のトリエンナーレに参加したのもいろいろな偶然の出会いからだった。四人のディレクターの中で、建畠晢さんとは一番古く、もう30年来のつきあいである。もはや時効だと思うから書いてしまうが、実は横浜国大のマルチメディア文化課程を作るときにも、実現はできなかったのだが、彼を呼ぼうとしたこともあった。だからと言って仲がいいというわけではなく、何となくお互いに喧嘩腰で張り合っているようなところがあるつきあいだ。それは、建畠さんがバブル期の現代アートの中心人物となってしまったことに対して、彼自身が一種の後ろめたさと割り切れなさのようなものを持っていて、ぼくが何を言ってもそのことに対する批判のように受け止められていたからだと思う。

だから、声をかけてくれたのは建畠さんではなく、京近美の河本信治さんだった。そして、その河本さんのやった椿昇の展覧会「Gold/White/Black」を今年の春浜川崎の体育館でやった時に、成田空港へ行く途中に駆けつけてきた森美術館館長の南條史生さんもまたこの時のトリエンナーレ・ディレクターのひとりで、この人もアートバブルの火付け役のような人でありながら、「バッタ」を評価してくれ、その後もいろいろ応援してくれた。そして、その南條さんのかつての右腕であり、バッタを購入してくれた水戸芸術館の学芸主任だった逢坂恵理子さんが現在の横浜美術館の館長であり、また次回の横浜トリエンナーレ2011のディレクターでもある。まあ、いろいろな意味で因果は巡るものなのである。そう言えば、北仲スクールがやる公開講座のゲストとして建畠さんを10月11日に呼ぶことになった。いまやっている「あいちトリエンナーレ」ディレクターとしてだが、実際に会って話すのは随分久しぶりになる。

そんなことを考えている中、椿展のお礼にと日帰りで行った京近美の展覧会「マイフェイバリット」展(平成22年3月24日(水)~5月5日(水・祝))のオープニング・パーティ(23日)で10年ぶりに出会ったのが、ポーランド人アーティスト、クシュシュトフ・ヴォディチコだった。ヴォディチコは、80年代の冷戦時代に広場にある記念碑や建物に映像を投影する「パブリック・プロジェクション」の作家として知られ、母国を飛び出しカナダやアメリカに移住してからは、移民やホームレスなど社会からはじき出された人々を扱う作家として知られていたが、日本では河本さんが紹介した「ポリスカー」や、広島の原爆ドームでのプロジェクションなどで有名になった。アメリカでは長くMITに務め、今年の夏にはハーバード大に招かれて新しい学科主任を務めている。彼は第一回トリエンナーレにも招待されていて、河本さんが担当した赤レンガ会場のブースで展示をしていたが、それはメキシコのティファナで撮られたビデオ映像を流すだけの作品で、本人は二回準備のために来日したことはしたが、会期中には一度も姿を現さなかった。その時に、野毛にあるブリーズベイ・ホテルのバーで一緒に酒を飲みながら彼と話をしたことがある。

京近美のパーティで、ヴォディチコは着物姿の女性や女子大生に囲まれて記念撮影の中心だった。その隙を見て彼に話しかけた。「9年前、あなたと横浜で話をした。バッタの構想を話したら、あなたは愉快そうに笑って、『深夜映画で巨大なバッタの群がシカゴを襲う映画を見たことがある』と教えてくれた。その映画を探してみたらそれは、"The Beginning of the End"というタイトルだった。そして、バッタは大変な冒険だった。バッタが風で壊れて落ちた日に、家に帰ったら貿易センタービルが崩れるライブ映像を見た。"The Beginning of the End"というタイトルが頭の中で何回も点滅していた。そして、いったいアートに何ができるんだろうというようなことを考えた」というような話をした。ヴォディチコは疲れているような、怒っているような複雑な表情をしてぼくの話を聞いていた。その顔を見て、これ以上邪魔しちゃいけないのかなと思って、ぼくは退いた。再び沢山の女性たちが彼を取り囲み、彼の小柄な姿は人ごみの中に隠れていった。

ところが、ヴォディチコはしばらくして自分からぼくのところに近づいてきて、「お前は今日時間があるか?」と聞いてきたのだ。「いや、今日の新幹線で横浜に帰る」と言うと、「私は夜ホテルで人と会う約束があるが、それまで時間はあるか?」と聞いてきたので「大丈夫」と答えて、美術館の近くの喫茶店まで雨の中を歩いたのである。一緒にいたのは、北仲スタッフだった児玉智美と、ポーランド美術の専門家で京都市立芸大准教授の加須屋明子の二人だった。岡崎の喫茶店で彼は、日本に来てたまっていた不満のようなものを一気にまくしたてた。

昨日、ぼくは講演会で話をしたのに、パーティで誰もそのことに触れてくれない。去年やはり日本に呼ばれてやった「アーティスト・サミット」でも、ぼくは重要な提案をしたのに全然議論をしてくれない。だが、去年ぼくは『逃れの町』という「9.11」をテーマにした本を出版しているんだ。そこでは哲学者や社会学者や心理学者がぼくの提案した「戦争記念碑」のプロジェクトについてコメントをしてくれている。ぼくは、ブッシュ政権が終わって、これから本当に人類がこの血塗られた戦争と暴力の歴史について本当にきちんと議論すべきではないかと思っている。ぼくは3つの国籍のバスポートを持っている。戦争と暴力の歴史の中でぼくは生きてきたし、そのことに対してぼくたちは正面から向き合うべきではないかと思っている。ぼくがいまやっているのは、パリの凱旋門を人類全体の戦争記念碑にしようというプロジェクトなんだ。凱旋門をそれをくるむ大きな建築物の中に入れて、そこにさまざま国際機関が集まって、どうやったらこの血塗られた歴史を終わりにできるかということを議論する。このぼくの提案に関してフランス人は何人か興味を持ってくれたが、日本では誰も意見を言わないんだ。お前、どう思う? 

日本でもこういうことができないだろうか? たとえば靖国神社はどうだ?

こんな話をまくしたてた。「靖国?、それは絶対に無理だ」というようなことを言うと、「なぜだ? どこが違う。凱旋門だってナショナリストや右翼の象徴だし、困難は同じだ」、「お前が、ムキになって否定することで、靖国がとてもいい提案だということを確信した」。「しかし、あなたは本当にそれで人類の血塗られた歴史が終わると思うのか? ぼくはそれが人類の本性なのだから乗り越えることは無理だと思う」。「いや、そんなことはない。人類がこれほどまでに暴力的になったのは国家の誕生以降だからせいぜい数千年前のことだ。それ以前は我々はもっと平和に生きてきた」。「そうかな。クロマニヨン人の時代から、人は大量殺戮を繰り返してきたのではないか?」。「いや、そんなことはない」。というような議論をした。

横浜に帰ってから、話ができて楽しかった、というメールを出した。するとすぐに返事が戻ってきて、「ぼくは28日の朝の便で帰る。金曜までは予定があるが、土曜日なら日帰りで東京に行くことができる。お前の都合はどうだ? 一緒に靖国に行かないか?」と言うので、ちょっと予定はあったがキャンセルできそうだったので、「大丈夫だ」と返信した。

そして、3月27日の土曜日、ヴォディチコは新幹線に乗って東京にやってきた。それは快晴で桜が満開になっている日。そして偶然にも100万人近くの人が集まり、椿昇がメインとなっている「六本木アートナイト」が開催された日だった。(続く)

2010/09/20 : 10:57 午前 文化・芸術 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.08.17

北京の7日間(その2)

中国の大学の例にもれず、北京大学もまた巨大な大学だ。すべての教員・学生はこの中に住んでおり大学内には店もホテルも沢山ある。その広大なキャンパスの至る所に何百枚もの「国際美学会」のフラッグが風にはためいている。確かにこれはひとつの政治的イベントのようだ。

メイン会場の「百年記念ホール」はコンサート等にも使われている2000人規模の巨大会場で、そこでオープニングのセッションが開かれていた。会場で東京大学の小田部胤久夫妻らと顔を合わせる。外に出ると実践女子大学の椎原さんとも会う。学食でランチ。あまりおいしいとは言えない。レジュメ集やプログラムが余りに膨大で重いので、地下鉄を試すのを兼ねてホテルまで一度帰る。ちょうどSUICAのようなカードがあってとても便利だし、なにせ市内一律料金は2元(約26円)だ。ただ、安いだけあってあまり便利とは言えない。会場からは2度乗り換えなくてはならないが、階段の昇り降りも多く、1時間近くかかってしまった。すぐに今度は別な経路で北京大学に戻り、この日はオープニングということで、学内で一番豪華なホテルでのレセプションに参加した。どうやら日本からは数十人が来ているらしい。欧米人の参加者も多い。この機会に中国に来てみたいとみんな思っているようだ。中国人のほかに韓国人、インド人、シンガポールからの参加者も沢山いるらしい。吉岡洋と合流し、彼の泊まる学生街付近で買い物をして白酒を飲み、タクシーで帰る。

二日目の10日には午前中から昼過ぎまで観光。ホテルから王府井、路地を通りぬけ故宮の横から天安門へ。さらに新しくテーマパークのように整備されている前門地区まで歩いた。湿度が高く、ものすごく暑い。天安門には以前も来たが、今回は観光シーズンのためか中国人観光客で溢れかえっている。確かに、中国人は旅行をするようになったようだ。人ごみで疲れる。大気汚染もかなりのもので、喉がいがらっぽくなってくる。前門から地下鉄に乗って北京大学へ。午後のセッションに少しだけ顔を出して、吉岡洋と王府井まで地下鉄で。京大の院生でパリ第八大学に留学中の大久保美紀と合流。去年のア・コルーニャの学会以来だ。観光客用のちょっと高い四川飯店で食事。あまり辛くはないが繊細な味付けでおいしかった。その後、NOVOTELのラウンジでカクテルを飲み就寝。

11日は会場で吉岡と合流し、昼食を食べに彼の泊まっている学生街に行く。いくつかの店を回りながら、何となくオシャレなヌーベル四川料理風の「辣香美味」という店に決める。ここは素材を選んで鍋の中で辛いソースと混ぜあわせたものを食べるのだが、とても美味しい。ウェイトレスたちの愛想もよく満足。そこから会場へ。2:00から二組にわかれて故宮と頤和園への遠足。僕たちは昔故宮は見ているので、頤和園へ。西太后の別荘だがきわめて広大な施設ではあるが、高低差もありなかなか変化に富んだ庭園で楽しめた。そのまま内部にある宮廷料理を食べる。白酒を飲んで帰る。

12日は午前に佐々木健一さんが組んだパネル「美学の哲学的役割?」に出演した吉岡の発表。とても面白く聴衆の反応もとてもいい。ただ、ほかのパネリストたちがあまりに面白くない。途中さぼって外に出ると小河原あや姉妹と遭遇。また、関西学院大学の加藤哲弘たちとも遭遇。8人くらいで昨日と同じ辣香料理。汗を沢山かく。午後は自分たちの発表だが、嫌な予感がした通り、聴衆の集まりがよくない。しかも司会をしたブラジル人のおばさんが頭が悪く、早々と発表時間にされてしまい、みんなが部屋に到着したころに終わらなくてはならないという、これまでに二番目くらいに不幸な研究発表になった。そのあと大久保や小河原たちの研究発表にも顔を出したが、前会長の娘が発表する分科会に入れられた小河原が一番幸せな研究発表になったと思う。この日はどうしても王府井で北京ダックを食べたいという加藤哲弘の仕切りで14人くらいの大所帯で王府井へ。日本よりは全然安いが、それでも全部で2400元というこの国にしては物凄い贅沢な夕食だった。始めたのが8時くらいなのでこの日はこれで終わり。何人かは翌日に日本に帰った。

13日は朝から近くのチベット寺院雍和宮へ。その後、北京大学近くの「北京の秋葉原」中関村へ。確かにものすごく賑わっていて両手いっぱいに買い物をしている人たちが歩いていた。ただ、ビル内は市場のように小さな店が林立していて客引きがとてもうるさいので早々に退出。学食でまずいご飯を食べていると近寄ってきたのが、2001年の幕張大会で会ったスウェーデン人のMIchael Ranta。彼はバッタをすごく気に入ってくれてスウェーデンの新聞に掲載してくれたのだが、ぼくが余りにその頃忙しく返事もしていなかったために申し訳ないことをした人だ。彼はLUND大学に移ったというので、記号学会絡みでもまた会うことがあるかもしれない。昼過ぎから最後のセッションに出ている京都芸大の加須屋明子、椎原伸維らのセッションに参加。その後、総会にも参加するが、意味のない政治的デモンストレーションにうんざり。初日と同じホテルで食事だが、パーティ形式ではないのでばらける。頤和園で知り合った韓国の李花大学のイギリス人と韓国人のカップルとバーで談笑。タクシーでホテルに帰る。そして、翌14日、6:30にチェックアウトし、日本へ帰る。

中国、特に北京にはしばらく行きたくない。別に中国人が嫌いなのではない。とにかく、いまここで目の当たりにしている中国人たちとほ本音で付き合うことが難しすぎるのだ。彼らが囲まれている環境は、ただ単に政治状況的なことからでも、因習的な習慣からだけでもないが、とにかく中国の特殊な条件に縛られすぎている。ある意味では中国はいつまでたっても「中華」なのかもしれない。そして、本当にぼくたちが彼らよりも自由であるのか、民主的であるのかも判然としない。とにかく、世界は「悠久」の中で「変わらずに」存在している。中国はこうしていつまでも「謎」として目の前に立ちふさがる。

まだまだ書ききれないのだが長くなってしまったので二つに分けて書いてみた。
さて、また日本でのいろいろな戦いが始まる。

2010/08/17 : 01:07 午前 旅行・地域 | | コメント (0) | トラックバック (0)

北京の7日間(その1)

8日から14日までは、北京大学で開催されている第18回国際美学会。3年ぶりに開催されている国際学会だが、2回行っていないし、最後は2001年の日本で開かれた幕張大会で、ちょうどバッタと格闘していた時期なのでほとんど顔を出していない。実際には98年のスロベニア大会以来ずっとご無沙汰していることになる。だから、知り合いもほとんど居ないしアウェイの気分で参加した。次の2013年はクラコフだし、ちょっと行きたいかな。

そもそも中国に行くこと自体が16年ぶりである。何となく気持ちの中で中国を避けている部分があった。

92年の10月、東アジア記号学会設立のためということで、湖北省武漢市にある湖北大学で開催された第一回の東アジア記号学会に参加した。日本からは当時記号学会の会長だった坂本百大さん、藤本隆志さん、川田順造さんをはじめ8名が参加した。吉岡洋とぼくはまだ30台半ばで「若手」であり、ぼくはこれが人生初めての「国際学会」だった。北京では中国科学院の人たちの出迎えがあり、天壇公園や万里の長城、故宮、北京ダックのご馳走、友誼商店や王府井の観光などをして、飛行機で飛んだ先の武漢は、タラップを降りると、鉄道の駅のような小さな空港。埃だらけで、タクシーなど一台もおらず、ワゴン車とトラックしか広場に停まっていないような田舎。凸凹だらけの道をワゴン車に揺られながら、湖北大学の「招待所」に連れていかれた。この時の印象は強烈だった。遠足で全員で赤壁などに旅行したが他に、ポーランドからペルチ、フランスからデルダール夫妻と当時の国際記号学会の会長、副会長も招待されていたが、外国人が参加する学会自体が珍しいらしく、この地方のテレビ局がわざわざ取材に来ていた。

この時の中国体験は大きなショックだった。学会というものが、単なる政治的な権力誇示の道具であるということをまざまざと思い知らされた。いろいろ書き出すときりがないが、とにかく中国には驚いてしまった。単に前近代的と言うのとは違う。何かものすごくあからさまな支配と抑圧が至る所に噴き出していた。ほとんど別な太陽系の惑星を訪れた気分で世界がこれほどまでの異質性に満ちていることに唖然とするばかりだった。その後、94年まで毎年中国を訪れ、いくつかの町にも旅行したが、驚くべきスピードで進行する経済発展や、インフラの整備を目の当たりにはするものの、この国の政治体制と、おそらくはもっと昔から綿々と営まれてきた中国の封建的なシステムに関しては全く変わらないし、これからも変わることはないだろうと思われた。

というわけで、16年ぶりに訪れた北京も、道路や地下鉄、林立する高層ビルとはかかわりなく、全く以前と同じ印象を受けた。北京大学で開かれた学会も、これまた前と同じような政治ショーの印象。短期間の滞在だと疲ればかりが残る。この冷たい、理不尽な校則だらけの高校のような町では、なかなか本当の人の心の中にまで踏み込んでいくことはできない。1000人以上参加した巨大学会だが、その半数以上を占める中国人参加者たちとの交流はほとんどできなかった。もちろんひとりひとりの中国人の優秀さや素晴らしさは確信している。だけども、彼らと本当に交流することなどはできないのだ。彼らの発言や行動は最初から巨大な枠の中で押えつけられており、その本音を引き出すことはとても難しい。

泊まったのは王府井と東単の真ん中辺りの胡洞にあるちょっと薄汚れたビジネスホテルのようなところ。古い北京がそのまま残っているような(ということは取り残された)地区だ。北京大学近辺に泊まるのが嫌だったからだが、やはり、遠すぎた。地下鉄でも1時間、タクシーを使っても40-50分近くかかる。タクシーに乗っても、この巨大な町のすみずみまでを知る運転手はほとんどいないのか、必ずと言っていいほど迷った。また、場所がよく分からないからと乗車拒否する車も多かった。

着いた翌日、アイ・ウェイウェイのアトリエに行くことになっていたのだが、798芸術区よりちょっと南にある草場路に1時間半遅れでたどり着いた。王府井で2台のタクシーにその辺はわからないと乗車拒否されたあげくに、3台目は雲助タクシーで、走りだした途端メーターを入れずに「500でどうだ?」と言い始める。ふざけるなと怒ったが、約束の時間に完全に遅れそうなので「300で」と手を打った。普通の料金の4-5倍高いがまあ仕方ない。ところが、このタクシー、全く場所がわからずぐるぐると回るだけ。携帯で道案内してもらっても、それでもわからず大幅に遅れてしまった。

まるでビバリー・ヒルズの邸宅のような広大なアトリエは二棟あり、その広い中庭に十人くらいのスタッフに囲まれて、アイ・ウェイウェイは打ち合わせをしていた。顔色はすこぶる悪く、こちらが笑顔で手を振っても表情は変わらない。金髪の秘書のような女の子に、これは誰だと聞いてようやくわかったようで力なく笑った。あと5分待ってくれと言われて、スタッフの間に座らせられる。どうやら9月のスケジュールについて打合せしているようだった。そこに、欧米人の男性と中国人の女性が訪問してきた。彼らをちょっとここで待たせるようにと指示すると、左側の台所のついた建物の中に招き入れてくれてようやく会談。その間にも、また別のグループがアトリエに入ってくる。まるで日本に来日するハリウッドスターのように分刻みで訪問客がくるようだ。話している時に携帯に着信があり、また話が中断する。

お茶をスタッフに頼みながら、「大丈夫だ。お前のことは覚えている。光州で会って、二回食事をした。そしてお前は面白い発表をした」。しかし、笑顔はない。「日本はどうだ?」と聞くので「どうしようもない。あなたが去年展覧会をした六本木なんて最悪だ。日本人は伝統も心も失ってしまった」というようなことを言うと「俺もそう思った。お前が全く違うことはよくわかる。」と答える。「どうせ、日本には行かなくちゃならないから、お前が何かやるのなら出てみたい。ただスケジュールが自分では分からないので、スタッフとメールで確認を取ってくれ」というような話。戻ってくるからちょっとその辺を見て待っていてくれ、とまた来客の接待。しばらく見学していたが、次の客の相手になったので、もう帰ると伝えると、「妻のアトリエも近くだから見ていってくれ」と握手。「体に気をつけてください」というと、ニヤリと笑って「みんな、ぼくにそう言う」と言った。彼の置かれている状況について、ある程度の想像はできるものの、本当のところは分からない。だが、とてつもないプレッシャーと戦っていることだけは確かだ。

しばらく、中国人の男の子に案内されて付近を回ったが、草場国際芸術村はあまりに広々としていて全部を見るのは諦めた。そこからタクシーを捕まえて、今度は無事に北京大学に到着。途中で彼の設計した巨大なオリンピック・ドーム「鳥の巣」が見えた。ここはチープでキッチュな未来都市だ。

2010/08/17 : 01:06 午前 旅行・地域 | | コメント (0) | トラックバック (0)