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2004年7月

2004.07.26

熱月

 唐ゼミ横浜沢渡中央公園でのまさしく「熱月公演」が17,18で終了。猛暑だった。短かったがいろいろなものを残した公演だったと思う。椿昇をはじめいろいろな人が来てくれたし、メンバーも見違えるようにぐっと力強くなった。一番暑かった20日にはアートンの郭充良さん和久井さんとバッタ本の初打ち合わせ+飲み会。道玄坂のアートンも見学させてもらった。きっかけを作ってもらった堀さやかさんにも事務所で会ったがソウルで交通事故にあったということで少し痛々しかった。今後もおつきあいを続けたい人たちだ。23日には大久保鷹さんと彼が出演している小栗康平の映画「埋もれ木」や金さんの映画「ガラスの使徒」の話を聞きながら新宿で飲む。
 7月24日には原宿のクエスト・ホールで松岡正剛さんの「千夜千冊達成記念パーティ」に出かけた。「パーティ」と銘打っているが500人以上が集まるトークイベントで、しかも一部二部に分けて6時間半にもわたる長丁場だった。「千夜千冊」は松岡さんが4年半前から「ISIS・編集の国」(www.isis.ne.jp)で始めた企画で、一冊の本をめぐる書評・もしくはエッセイを千冊分続ける。毎晩ではないが、ほぼそれに匹敵する頻度で、しかも時には一万字から二万字にも及ぶ分量の文章を書いていくという、まるで千日回峰のような途方もない企てである。それが本当に千冊に達してしまったというお祝いなわけで、坂田明や田中泯のパフォーマンスあり、高山宏や内田繁とのトークありと盛り沢山で、司会のいとうせいこう氏がそれらをさばいていく。ほかにも多くの人が来ていたのだが余りの人数の多さにほとんど言葉を交わす機会なし。二次会のお誘いも受けたがこちらも大勢来るようなので撤退した。だいたいいくら何でも長過ぎる。
 松岡さんの「千夜千冊」達成はほんとに凄いと思う。全部ではないが、流石に松岡正剛と思わせる切れ味の鋭いエッセーも多い。だが、ISISの現状や編集工学研究所の現状を思うと複雑な気持ちになる。あの頃ぼくは毎週何日も編集工学研究所に無償で通って「編集の国」(現ISIS)の構想に関してアイディアを出してきた。そのことごとくが現在編集工学研究所で現場を仕切っている何人かによって否定され、ぼくの反対するコンテンツやデザインが導入された。そして、ぼくの予想した通りそれらはことごとく失敗した。はっきり言って、ぼくは今でもあの頃ぼくが提案していたものの方がずっと上だったと思っている。その点でぼくの時代認識に狂いはないという自負がある。なのに義理と人情に負けて、それと体質的にネットが苦手な松岡さんが千日回峰というよりもお百度参りのようにして、部下たちの成功を願って始めたもっともアナログな「千夜千冊」だけが生き残っているというのが現実ではないか。それなのに、何の反省もなくそこで紹介されるのは中途半端な本棚や、「図書街」というどうでもいいコンセプトのプロジェクト、ネット上の知のエンジンを目指していたはずの「千夜千冊」を全八巻の馬鹿みたいに重そうな書籍にするというあきれ果てた企て(資生堂名誉会長になった福原義春さんの企てだという。もう少し頭のいい人だと思っていたのにとにかくもうあきれ果てた)。「編集学校」という「松岡さんファンクラブ」のどうでもいい人たち。もっと面白い人たちがたくさんお祝いにかけつけているというのに、主に金子郁容さん仕切るこのあたりのコーナーのつまならさにはうんざりした。
 断っておくが、ぼくは松岡さんを相当尊敬している。また編集工学研究所の渋谷恭子さんとも友達だと思っているし、彼女が困った時にはどんなことをしても助けてあげたいと思っている。ただ、いま松岡さんの周りにいる人たちには全く感心しないのだ。金子さんがやっていることも到底正しいとは思えない。志は理解できても組織の作り方が間違っているとしか思えない。高山さんとも話したが、松岡さんはがらくたと宝石を一緒に集めるようなところがある。いまの松岡さんのまわりにはがらくたが多すぎるのではないだろうか。宝石が沢山集まってきているのに、どうして最終的にはつまらないイベントになってしまうのだろうか。なんだか悲しくなってしまう。
 松岡さんは自分でも言っているように「編集者」である。スーパーエディターと言っていい。何かを作る人ではない、何かを結びつける人なのだ。それが松岡さんの創造性である。彼の特技は人のいいところを見いだし、そこに意想外のつながりを発見し結びつけていくところだ。この才能だけは本当に前代未聞のものと言っていい。それを彼は「編集工学」という「方法」にまとめあげた。だが、それはぼくの見るところけっして「方法」ではない。むしろ松岡正剛という人間がもっている生来の才能に負うものが多い。編集学校などというのは全く無駄な企てなのだ。無駄ならば無駄でいい。なんか意味がありげな顔をして出てくるのが嫌だ。誰も家元のようにはなれっこない。松岡さんがいうように大事なのは「OS」である。日本文化は沢山のOSを生み出してきた。だが、OSがOSなのはその上で走るアプリケーションが沢山生まれ、そのアプリケーションを使うことで無数の創造性が生まれてくるからにほかならない。そしてそういう意味では松岡正剛という人間がOSになることはできても、「編集工学」という「方法」がOSとなることはけっしてないのだ。言い換えるならば「編集工学」は一代限りであっても、松岡正剛という人間だけはずっと続くOSとなりうるということである。その辺りのことが「編集学校」の人たちには全く分かっていない。要するにファンクラブが肥大しているだけなのだ。編集はまず第一に「批判力」でなくてはならないはずである。松岡さんの言葉の魔術にたぶらかされているだけの人たちが何かを生み出せるはずもない。そして本当に創造的なのは自分で新しいOSを生み出そうとする試みだけだからである。
 こんなことを書いてしまうのは悲しい。だが、ぼくがずっと違和感をもってきているのはそういうことなのだ。松岡さんの周りはいつも輝いていてほしい。なのにこのところの彼の周りに集まっている人たちは余りに駄目すぎる。ここにこんなことを書いていることは彼には知られたくない。だけど彼の周りにいる心ある人たちには読んでほしい。いろいろアンビヴァレントな思いが渦巻く。松岡さんと久しぶりにじっくりと腰を据えて話をしてみたい...そんなことを思った。

2004.07.17

リヨンの国際記号学会

 5日にパリ入り。パリも91年に前任校帝塚山学院大学のツアーで来て以来だからもう13年ぶりだ。だけども19歳のときに初めて訪れて以来5回滞在している町なのでいろいろなつかしい場所も多い。戻ってきたという気分だ。東のペールラシェーズ墓地近くに宿をとり、バスチーユ、マレー、カルチエ・ラタン、レ・アールなどの場所を歩く。ペール・ラシェーズではオスカー・ワイルドの墓参りもした。
 6日にTGVでリヨンへ。人口40万人強の小さな町だが、落ち着いた風情がある。宿を取ったペラーシュ駅付近は新開発中の地域で工事中の場所が多い。国際記号学会の会場はトラムで30分ほどの郊外にあるリヨン第二大学リュミエール校。99年のドレスデン会議以来五年ぶりに会う人々。前回は山口昌男さんが一緒でいろんな人に紹介してもらえたが、今回は山口さんも不参加だし、前回一緒にランチを共にしたトマス・シビオクさん、トマス・ウィーナーさん、12年前に中国で一緒だったデルダールさんも亡くなっており、やはり五年間の年月を感じさせられる。日本からの参加も初日は僕一人。次の日から吉岡洋も合流し、その後で塚本さん門内さんが入ってきたがそれでもたったの四人。十年間つとめたローランド・ポズナー、ジェフ・ベルナードらの旧執行部はこれで任期切れ。新会長にはフィンランドのエーロ・タラスティ、「セミオティカ」編集長にはトロントのマルセル・ダネージらが選ばれたが、こちらもいろいろ政治的な思惑が錯綜して複雑だ。数千人が参加する巨大学会である上に、英語のほかフランス語、スペイン語が乱れ飛ぶので、求心力が足りず、どうしてもロビーでの外交が中心となる。プリナリーや総会ですらあまり人が集まらず、同時に20近くの数の分科会が開かれているので、全員が集まるのはランチタイムくらいしかない。そうした中で、ポズナーやベルナードたち旧執行部、生命記号論グループ、新執行部、韓国や中国のグループ、分科会で知り合ったさまざまな国のメンバーたちと交流を進める。大きな収穫としては韓国の記号学会メンバーや中国のリ・ヨウチェンさんと知り合えたこと。カナダのポール・ブーイサックさんは元気で、話ができてうれしかった。前よりも若返っている。そう言ったら「それはヒゲを黒く染めているからだよ」とニヤニヤしていた。(写真右がブーイサックさん。左はエストニアのタルトゥ学派の後継者で生命記号論グループのカレヴィ・カル)。Bouissac.jpg
 6日間の学会でいろいろな人と話ができたので、まあ良しとしよう。次回はヘルシンキで3,4年後に、5年後はスペインで開かれる予定。そのころはどうなってることだろうか。
 その間、唐ゼミ「盲導犬」は東大公演で快進撃中。今日、明日といよいよ横浜で千秋楽を迎える。どんなお客さんが来てくれるのか楽しみだ。

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