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2004年12月

2004.12.31

年末年始のライフスタイル

 年末になり正月を迎えるこの時期。この数年別に何も特別なことをするわけではないし、旅行にも行かない。義理絡みの原稿が2,3本たいがいこの時期にずれ込むので基本的にはパソコンを前にして余りやる気の出ない原稿をずるずる進めたり、めったに行かないレンタルビデオ屋に行って映画館で観られなかった映画を散漫に観散らかしたりして過ごす。映画の方はあまり収穫はない。「レジェンド・オブ・メキシコ」も「座頭市」も「ビッグ・フィッシュ」も「ロード・オブ・ザ・リング−−王の帰還」も思った通りのそれなりの出来で基本的にどうも退屈だ。でも、やっぱり世の中にそんなにたいしたものが無かったと思ってほっとしてみたりする。結局オタクばっかりじゃないか。
 それでも年末になると、その年に関わった色んな人たちからメールが来るし、正月に年賀状をもらうのも新鮮だ。ちょっといつもとは別の「おまけの日々」という感じがして、同じ一週間でもぽっかりと風穴が空いたような感じでいつもの一週間と違う。こうしてまた一年過ぎていく。

2004.12.20

唐ゼミ最終公演

 12月18日は新しく出来た唐組アトリエ開きのパーティと、唐ゼミ「黒いチューリップ」東京東中野満天星における最終公演の初日。一時間ほどハーティの席で慌ただしく西堂行人さんやアートンの郭さん、梁山泊の金さん、画家の宇野マサシさんたちと談笑した後、タクシーで満天星に向かう。唐組の新アトリエは自宅の向いの土地に立てられた三階建ての建物で、狭い土地を有効に使っていてなかなか素敵な城だ。唐ゼミの公演はとりあえずはこれで最後になる。1月29日(木)の午後3:00-5:00に大学で唐さんの「最終講義」イベントを予定していて、そこで唐ゼミのパフォーマンスをやるのと、3月4-6日に近畿大学で開かれる「唐十郎フェスティヴァル」に「少女都市からの呼び声」で参加することが決まっているが、本公演はこれで最後。
 伝説の初代紅テントで公演を始め、金沢や大阪に遠征し、青テントで学外に飛び出し、最後にいろいろお世話になってきた新宿梁山泊のアトリエで公演できるのですから、とても恵まれた活動だったと言えるだろう。来年の中頃以降からは新しい名前で新しい形態の集団として再出発することになる。
一日目は、演劇評論家の田之倉稔さんが初めて来てくれて激賞してくれたし、最終日は唐組、新宿梁山泊のメンバーをはじめ、堀切直人、栗山民也、西嶋憲生さんら数多くの人に来てもらえて盛り上がる。予約で一杯で当日券をお断りする事態になったが、それでも120人の観客で身動きできないほどの盛況となった。窮屈な思いをさせてしまって申し訳ないです。それにしても、会場が限界を超えたため当日券札止めにしているのに、予約もしないで突然来て授業で必要だからと入り口でごねていた何人かの横国の一般学生の身勝手な非常識さには驚いた。こういうのは学校というよりも親の教育が悪いね。
 というわけで、今年の唐関連の公演はこれですべて終了。来年はどんな出来事が起こることやら、不安でもあり楽しみでもある。
 そういえば、すっかり忘れていたがバス・プロジェクトのその後として今後毎年10台ずつ「はまりんバス」が増えていくことが決まったらしい。僕の家の近くの新横浜=鶴見管内では12台もの「はまりんバス」が走行することになる。みなとみらい地区を走る「巨大バッタバス」は一台きりだから、かなりレアですけれどね。

2004.12.15

横浜トリエンナーレ2005迷走。

 なぜかトリエンナーレ(3年に一度)なのに、4年目の来年に開催が予告されていた横浜トリエンナーレ2005が危機にみまわれている。ディレクターの磯崎新氏が主宰者側と対立してついに辞任してしまったからだ。それも12月4日開かれた多摩美の建畠ゼミが企画した「国際展」に関するシンポジウムで突然明らかにされ、その一週間後には辞任が表明されたのだから急展開だと言えるだろう。情報はhttp://hamatori.exblog.jp/などで見ることができる。
磯崎氏に対する批判も分かるが、場所探しで勝手に一年延期しておき、7月になってようやくディレクターを指名する行政側の身勝手さの方が問題だし、ここにきてから年内に別のディレクターを捜して予定通り開催すると言っているのもちょっと何だかなあと思う。そもそも場所探しをする段階からディレクターと一緒にやるのが当たり前なのに、なめてるよなあとしか言いようがない。横浜芸術文化都市構想にしても、横浜美術館やBankartの運営にしても、役人や役所絡みの人たちばっかり集めて、結局は文化好きの役人の遊びになってしまっている。
 そうこうしているうちに既に川俣正氏が後任に決まったようだ。何だこの迅速さは。川俣がやるのなら、ディレクターなんてさせないで川俣一人に全部資金を導入して新山下埠頭全体を材木で覆い尽くしてしまえばいいのに。こちらも役所との衝突ですぐにうまく行かなくなりそうな気がするけど、まあ川俣さんは基本的には糞まじめな人だから板挟みになって苦しむことだろうなあ。(一部の)市民ボランティアや役人のはしゃぎ過ぎが一番良くない。前回はストッパーになっていた横浜市が、今回はどういうわけかやる気が空回りして暴走している。
 前回、どうせ誰がやったってうまく行きっこないんだから貧乏くじ引いたようなものだと言っていた建畠さんは、今回は高みの見物を決め込んでいるようで、意外とさばさばしていた。
 12月11日は、中野の光座に大久保鷹さんを見に行く。たまたま会った梁山泊の秋元さんと三人で終電まで飲み会。12月13日は所沢にある日大芸術学部の特別講義。一日限りの講義であったが、学生たちの反応も良く楽しかった。目が輝いている様子を見ながら話すのは楽しい。呼んでいただいた大窪教授はじめスタッフの皆さんにも本当にお世話になりました。大窪教授に誘われてちょっとだけ高田馬場で乾杯につきあう。
 12月14日は、週に一回非常勤に行っている多摩美術大学の年内最終授業で忘年会。20人前後集まってわいわいと騒ぐ。だんだんと普通の学生化が進んでいるような気がして少し気になるが、それでも一人一人と話しているとみんなキラキラしたものを持っているので話していて楽しい。家庭の問題や将来の不安や身の回りの人間関係などの壁の中でいろいろな悩みを抱えているのは、いつの世もこの年代に共通している特徴であるが、いつの日かそこから抜け出して輝いている姿を見たいと思う。そう言えば、今年卒業する四年生の円山さん、森さんから町田の古着屋で買ってきたという真っ赤な「おしゃれジャージ」をもらった。ぼくが「ジャージは着たことがないし、あんなものは一生着たいと思わない」と言ったら、「先生、それは認識が甘いです。今はジャージはおしゃれ着なんです」という会話があって、プレゼントしてもらったのだ。宴会のネタで着てみたが、やっぱり高校の体育教師にしか見えない。ふてくされて他の学生に着せたりしていたら忘れてきてしまった。多分、もう着ないとは思うが、もらったものなので、1月にもう一度多摩美に行くからその時に返してください>持っている奴。

2004.12.10

老成しない

 喪中挨拶のハガキがそろそろ手元に届き始めている。その中に数年前の学生から、いつもこのblogを見ていますが、先生は老成しませんねえと書き込まれたものが届いた。老成しないというのは褒めてもらっているのだろうか、いつまでもジタバタしていると呆れられているのだろうか。
 漢文の授業で習ったように、孔子は四十歳を「不惑」と呼んでいて、昔はそれなりに説得力があったらしい。「人生五十年」と言われた時代には四十代はもう隠居の年代だったのだ。もう少しするとぼくも五十歳になってしまう。周りに「大人げない」大人が多いせいか、七十になってもあまり変わらないような気がする。最近のニュースで18歳の高校生につきまとっていた70歳のストーカーの話があったが、その方がぼくにとってはずっとリアルだ。その一方で五十歳を超すとそれまで見えなかったものが見えてくるようになるとか、五十歳にならないうちは人は「人間」ではないとか言うようなことを言われてきたので、本当にそうならちょっと楽しみなような気がする(ただ、ぼくにそう言って自慢していた人はぼくが会った人の中でも最も子供じみた人の一人だったのだけれど)。でも、そういうことで言うならば30歳になった時が一番ショックだったかな。哲学者の中村雄二郎さんはここ数年体調を害されているらしいが、70過ぎまでとても元気で、60歳になった時に初めてそろそろ「老い」について考えなくてはならないと気がついたと言っている。
 年齢による老化は誰にでもやってくる。若く見えるとか、余り体力の衰えを感じないとかいうこととは別に、体の変化を見ていれば老化を意識しないわけにはいかない。髪の毛は染めているが相当白くなってきているだろうし、髪以外の体毛にも白髪化は押し寄せてきている。老眼はもうだいぶ前からだし、肌にも張りがなくなってきているし、体のパーツが少しずつきしんできているような気もしなくはない。それは死の意識がだんだんと強まってくることなのだろうが、二十代の頃に随分死と近づいていたことがあるためか、ぼくには死の恐怖それ自体は余りない。これまでに何度か死んでいても全くおかしくなかったような気もするし、死なないで切り抜けていくことに対してそれほど執着はない。どうせならいい死に方をしたいと思うが、死ぬこと自体を怖いとは余り思っていない。……というわけで、いつまでもじたばたとしている。きっと寝たきりになってもじたばたしていることだろう。
 古い友人の吉岡洋は、忙しいさなかにオンラインエッセーを時々発表してるが、最近の「いまさら、大学とは何か?その2」と「それ自体重要でない何か」は面白かった。とりわけ、今の時期はシラバスの取りまとめとか、授業評価アンケートの時期なので前者は身につまされる。全く嫌になってしまうのは、そういうことを命令している立場にいる責任者までが、こんなことをやっている日本の大学はもう末期症状なんだろうねと口にしてしまうような状況だ(これは、昨日建物の外の喫煙コーナーで担当の副学長自身の口から出た言葉である)。批判されるべき相手がこれでは誰が敵なのかさっぱり分からない。真綿で締め付けられるようにして窒息させられようとしている。まあ、そう簡単に窒息はさせられないけどね。……というわけで、いつまでもじたばたしている。

2004.12.08

マルチ忘年会、ISPA、「風又」千秋楽ほか

 12月2日は恒例のマルチメディア文化課程忘年会。98年に一期生が入学してからずっと続いている。もう学部改組後7年半を過ぎ、スタッフも学生も今更学科に対する特別な思いは薄らいできているものの、それでも毎年100人近くが集まるこの会を迎えると少し感傷的になってしまう。昨年は佐藤東洋麿さん。今年は木下長宏さん、唐さん、梅崎さんとこの課程ができてからずっと支えてもらってきた人たちが相次いで辞めてしまうということになり寂しい限りだ。木下さんのスピーチで、思いがけずもっと後になって聞くことになるだろうと思っていた別れの言葉を耳にして、またしても泣いてしまった。ぼくがよく泣くというのが伝説になっているが、実際にはそんなにしょっちゅう泣いているわけではない。で、結局は終わった後もまた521で飲み会。去年も今年も学生と話すというよりも教員同士で論争になってしまっているが、それでも同じ場所に学生たちが居て、こうして同じ時を共有しているということが楽しい。これまでに何度こんなことがあっただろうか? 大学の教員をやっていて嫌なことも沢山あるが、こういう具合に沢山の人たちと同じ場所と時間を共有することはとても楽しい。
 4日は東京芸大で開かれているISPA(国際版画シンポジウム)へ。大学版画学会が開いているこの会議に関してはもう一年以上も前から、京都市立芸大の木村秀樹さんらから熱心なお誘いを受けていた。昔「版画芸術」という雑誌で「Printing the World」という連載をしていて、連載中はほとんど反応がなく寂しい思いをしたのが、終了後に面識のなかった沢山の人たちから「面白かった」という感想を頂いている。木村さんもその一人で、版画業界に全く詳しくないぼくに会議全体の「基調講演」を依頼してくれた。聴衆は150-200人くらいで外国人も多い。立派なプログラム+図録にも日英二か国語で掲載されているこの原稿は結構しっかり書いたので、近いうちにホームページ上にでも発表したいと思っているが、終わった後も何人かから話しかけられたのでまあ満足。全体的に版画業界の集まりなので、グローバル・スーパーマーケット化している世界の文化状況を批判したこの講演には、耳が痛い人も多かったかもしれない。しかし、こうやって「版画の未来」に関するシンポジウムが開かれている東京芸大や「東京都美術館」や「西洋美術館」に群がる「美術好き」の人たちと、上野公園に林立するホームレスの人たちのブルーシートのテント群の対照は衝撃的だ。隣接していながら、そのどちらもがお互いを「見えないもの」として無視し合っている。そのどちらもが、相手のリアリティを否定している。アートがすべきことはこの二つを結びつけることでなくてはならないのに、スーパーの商品棚の取り合いのようなことをしていたってしかたあるまいというような話をした。

 終わってから新宿梁山泊の「唐版・風の又三郎2004」の千秋楽。途中から降り始めた雨が激しくなって深夜には暴風雨になった。いろいろあったがこの集団は最後までよく駆け抜けたと思う。関係者の頑張りには心から敬意を表するが、やっぱり終わってみて言えることは、作品の出来から見れば昨年版の素晴らしさには及ばなかったということ。なぜそうなのかということについては、いろいろな角度から考えてみる必要がある。確かに「分かりやすくなった」「すてきだった」という観客も多いのだが、昨年のぎりぎりまでたわめられた何かが反発して爆発的な生命力が噴出するような舞台と比較すると、何か一番肝心なものがすっぽり欠落していたような気がしてならない。結局、芝居は戯曲と演出家と役者・スタッフのアンサンブルなのだから、そのどれかが欠けていたり、不十分だったりすると全体としてうまく燃焼できないということなのかと思う。個々の人たちが個別に頑張っていても不十分なのだ。18世紀には簡略版や短縮版で上演されていたシェークスピアが19世紀になって完全版が上演されるようになってから復活したというような話も思い出した。戯曲の改変はやはり良くない。会場で販売していたカズモから発売されている1982年の本多劇場こけら落とし公演のビデオ「秘密の花園」を見る(何度かNHK-BSで放送されたもので、97年に放送されたものを観ている)。20年以上前の舞台中継でもその凄さは充分伝わってくる。この時の緑魔子と柄本明、清水紘治はやはり素晴らしい。
打ち上げの宴会では金さんに振られて2001年に唐さん、金さんと三人でニューヨーク公演の場所を求めて吹雪のイーストリバーを歩いた話をさせられた。終電がなくなってから、金さんと二人で唐さんを見送り、最後まで残っていた友人たちと軽く飲んでタクシーで帰宅した。疲れたので日曜はごろごろして休養。

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