« あれこれ | トップページ | 文章はやっぱり面白い »

2005.01.22

大学について、再び

 宗教学者の川瀬君のトラックバックから、以前記号学会にもゲストに来てもらった内田樹さんのブログへと飛んでいくことができた。あの頃の内田さんは武道の話など伝統回帰志向だったのだけれど、このところは現代思想のガイドブックみたいなものを出していますね。やっぱり身体性よりも知識や教養だと考えるようになったのだろうか? 
 首都大学東京や横浜市立大学などの公立大学の「効率」大学化は、確かに大学と言う文化の終末を予告しているようだ。ただ、これは石原とか橋爪とかいう個人を攻撃してみたところで始まらない。そういう個人の暴走を世論や政策がサポートしているような状況があるからこそ、ちょっと落ち着いて考えてみれば「とんでもない不条理」としか言いようがない大学の「リストラ」がいとも簡単に実現されてしまうのだ。坂口安吾は政治に革命などはなく、改良しかないのだと書いたが、その一方では「堕落論」で堕ちて堕ちて堕ちまくった底から必死にまた這い上がってくるしかないとも書いた。ぼくは21世紀に入ってからの地球はシステム的思考が個人の批判能力をブルドーザーのように根こそぎになぎ倒す文化の退廃期に入ったと思っているので、とことんすべてが駄目になり尽くすまで駄目になっていくしかないと思っている。それこそ津波の中でどうやってサバイバルしていくかという覚悟をするしかない。そういう時代もあると思ってとりあえずは雌伏するしかあるまい。それに夏目漱石の「坊ちゃん」の時代から学校や大学の組織の中では変な人たちが利権をめぐってうごめいていたのだから、とりわけこれで学校や大学が以前より悪くなったということにはなるまい。ただ、昔は学生たちはそんなことはちっとも気にせずに暴れたり遊んだりすることができたのだが、一番恐るべきことはそうした制度やシステムの抑圧が個人の中に内面化されてしまい、自らが自らを去勢してしまうような自己規律化がすべてを埋め尽くしてしまうことである。首都大学東京に着任しないで辞めていく人たちは本当に立派なのだろうか? 問題はすべての大学が私立大学も含めて首都大学東京や横浜市立大学と全く変わらないものに「内側から」なっていくことなのではないか? それにしても、ちょっと制度が変わっただけで時流に便乗して権力欲をむき出しにする人たちにも困ったもものだ。急に管理職権限とか業務命令とかを散らつかせるようになる。まあ、いずれにしても問題は、どんなことになっても、自分と自分の周りだけは押しつぶされないようにパワフルで面白い空間にしていくことだ。そして、それが本当にできなくなった時には辞めればいい。大学がさまざまな人々が集まり、出会いと別れが繰り返されるテンポラルな場所である限り、まだ絶望するのには早すぎると思っている。
 石原のメッセージでひとつだけ引っかかったのが、楽天やライブドアの社長の話を聞ける方が世の中のことを知らない大学教員の退屈な話を聞くよりもずっと役に立つというようなくだりである。あんな頭が悪い奴らよりも下だと言われる身にもなってほしい。まあ、いまや20万人もいると言われる大学教員のほとんどは確かにあいつらよりも下なのかもしれないし、知識よりも金を持っていることが尊敬される時代なのだから仕方ないのかもしれないが、それにしても少なくとも石原は自分だけはあいつらや大学教員よりも偉いと思っているのだろうな。
 マイクロソフトとNTTグループを筆頭としてITビジネス、あるいはその中でも「コンテンツ・ビジネス」がこれからの世界で重要だと言われるが、とんでもない話である。だいたい情報技術とか「内容/中身」とか言えばいいものを、ITとかコンテンツとかいうマジカルワードを使って意味ありげなポーズを取っている連中はことごとく犯罪者、もしくは詐欺師の類いだと思った方がいい。あの人たちがやっていることはけっして「まっとうな商売」ではないのだ。東大や一橋の教授たちがほとんどインサイダー的な振る舞いで株で何千万も稼いでいるのも同じ。「合法」だからと言って道義的に正しいことであるとは限らない。「時流に便乗して金儲けに奔走する奴らは卑しい」という真っ当な常識が失われていき「ITベンチャー」とか「ITビジネス」とかいうマジカルワードに振り回されているだけではないか。時々TVに嬉々として登場するこれらの「成功者」たちの顔の卑しさを見ていると憂鬱になる。労働量と利益のバランスが、情報テクノロジーによって根本的に崩れて来ているのである。自動車の生産量を増やすことと、ソフトウェアのCDを増産したり、ダウンロード用のサーバーを増強することとでは根本的に違うのだ。
 そもそもレコードやCDの価格と比較して「着メロサービス」や音楽配信サービスが一曲100円だから安いということにはならない。WindowsのCDを量産することと、自動車や飛行機を量産することとは比較できない。いまや携帯の待ち受けキャラや着メロなどのコンテンツ・ビジネスが年間一千億円を超えたというが、そもそも8000万台を超えた携帯市場でたとえば百円ずつお金を徴収するという商売のやり方はこれまでのモノの経済と比較できない。はっきり言って彼らは「不当に」儲けすぎているだけの話である。もっと不当に儲けているのは言うまでもなく彼らにライセンスを与えている携帯キャリアであるのは言うまでもなく、docomoなどは無駄に全国各地にタワービルをおったてている。こうして不当に集められた巨額の金が金融市場に投資され、富の不均衡を拡大させている。
 コンテンツ・ビジネスというのは、たとえば日本では1979年にフリーになっているはずのディズニー・キャラクターのライセンスを独占していつまでも大もうけをするというような話である。アメリカの著作権法の改定だけで、他の国を黙らしてきた。その影響でヨーロッパやオーストラリアの著作権法も保護期間の延長をさせられており、日本でも今年70年に延長される見通しである(そして、たとえそうだとしてもミッキーマウスの日本での著作権はとっくに切れていることを忘れてはならない)。これで、たとえば東宝は「ゴジラ」の使用料でまだ稼いでいくことができるし、黒沢や小津の映画のDVD化権で儲けることができるというわけだ。全く何も生み出していないし、全く何の新しい情報の創出もそこには存在しない。こんなものが富を生み出すという事自体が恥ずべきことだという自覚がないのだ。まあ、ようやくここ数年「法律学者」L.レッシグなどが「コモンズ」というようなことを言い出して、過度な著作権保護が文化を破壊するということに気づく人が増えてきたし、フリーウェア運動の重要性にも関心が集まってきているが、根本的に「コンテンツ・ビジネス」なるものが卑しいのだというくらいまで意識を高めなくてはならない。ソドムとゴモラではないけれど、このままでは日本列島「総・ナニワ金融道」みたいになってしまって、未来はなくなっていくだろう。

« あれこれ | トップページ | 文章はやっぱり面白い »

「Non Section」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/16230/2661692

この記事へのトラックバック一覧です: 大学について、再び:

» 大学のあり方について。 [独逸からの手紙]
言いたいこと: 1. 「首都大学東京」は失敗。 2. シニアに大学を開放しよう。 ○ 「首都大学東京」って。何度聞いても酷いネーミングだな。 石原都知事の「大... [続きを読む]

« あれこれ | トップページ | 文章はやっぱり面白い »

最近のトラックバック

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31