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2005.02.27

唐ゼミのこと(2)−八秒台劇場

 中野はその後寄りつかなかった。ぼくと顔を合わせても目を反らすだけで、陰険な態度を取り続けた。椎野は学科の忘年会でカラオケを一緒にしたりしたが、何しろ家が遠く(埼玉県深谷市)新幹線通学をしていたので、余り大学で顔を見ることはなかった。2000年の春に、中野は三日月座の新入生歓迎公演の演出をした。唐十郎も稽古を覗きに行って、「中野はぼくより厳しいよ。怒鳴りまくっていたよ」と面白がっていた。中野はこれで「まず、三日月座を乗っ取る……」という野望を半ば達成したと思っていたらしいが、余りに厳しかったので嫌われたのか、次回公演の演出からサークルメンバーの投票ではじかれてしまうという挫折を味わう。
 他方、椎野はいつのまにか三日月座に入っていて、同級生の禿恵(とく・めぐみ=余りに名前の字面が印象的すぎて、すぐに名前を覚えてしまった)と仲が良かった。
 三日月座は、鴻上尚史とかつかこうへいなどの作品をコピーしたり、メンバーの自作戯曲を上演したりすサークルだが、昔から根性がない劇団で、たいてい毎年一人二人はいるぼくのゼミ生の劇団員に「公演を見に行ってやろうか?」とこちらから持ちかけても、「いえいえ、とんでもないです。先生に見てもらえる程のことはやっていませんから、どうぞ来ないでください」と言われることが多かった。年に二回ほど、イントレとトラックシートでテントを立てるのだが、そういうスタッフワークには一生懸命になっても、表現の質にあまりこだわっているように思われなかった。中野は自分が外されたのが悔しかったのか「あいつらはただの男女交際サークルみたいなもので、根性ないですよ」と悪態をついていた。たまたま、横浜駅からバスの中で一緒になった椎野に「中野がそう言っているよ」と伝えると、椎野がムキになって「別にそれでいいじゃないですか。私たちはプロじゃないし、学生が楽しんでいるだけなんですから。別に演劇を続けたいわけじゃないですし、サークルは楽しければいいんです」と言い返してきたりしたこともあった。
 ところが、その年にマルチの一期生のOという男が、それまでに無かったことをしたのである。「パジャマパーティ」という自作劇を野外で夜の8:00にやりますので、先生方全員来てください、自信がありますと言う。学内に白黒コピーの扇情的なチラシがいっぱい張られた。女だけの秘密のパーティをやるというのである。キャストは椎野、禿、そしてやはり今唐ゼミに残っている古川望だった。一方その頃、唐は一期生のゼミを始めていて、集まった7,8人程の学生たちと何をやるかということに頭を悩ませていた。集まったのはごく普通の学生たちだったために、唐との会話が成立たず、特に唐に「君はいい目をしているから、必ず戯曲が書ける。ぼくの小説を一幕にして、二幕を君が書いてゼミ公演をしよう」と言われた学生はプレッシャーの余り逃亡してしまった。結局、唐は自分でその戯曲を書き上げてしまって、それは劇団唐組の秋公演久々の新作「鯨リチャード」になった。
 「パジャマパーティ」はいくら若者が書いたものだとは言え、実に下品でどうしようもない代物だった。とりわけ台詞がひどかった。他の先生たちはむっとしても何も言わないが、ぼくは我慢ができないで全員呼びつけて怒りをぶつけた。Oは完全に怖がって逃げ回っていた。最初のマルチの学生だし、ちょっとは期待していただけに悔しかったのだ。椎野と禿も研究室に呼びつけた。じっと聞いていた椎野は拳を握りしめ、涙を流して悔しがって、「私は今まで演劇なんてどうでもいいと思っていましたが、演劇続けます。室井さんのことを見返すまで絶対やめませんから」と宣言した。椎野はそれから、 「さいたま芸術劇場」の竹内銃一郎さんのワークショップに入ったり、禿は踊りを習い始めたりした。そうして、三日月座を失意のうちに脱退した中野と一緒に飛び出した石井永二、椎野と禿の四人が合流して作ったのが、「八秒台劇場」だった。
 彼らはまだ二年生だったのでゼミには入れない。そこで、「カール・ルイスでも百メートルを九秒台では走れるが、まだ人間で八秒台で走った者はいない。だから人間の限界を超えるという意味です」と自分たちの劇団名を説明する中野に、唐はまじめな顔をして即座に「でも、チーターは五、六秒で走れるよね」と言ったので、中野やそばで聞いていたぼくは唖然とした。そうか、唐さんは最初から人間だけのことを考えたりしないのだとよく分かった。八秒台劇場は、イヨネスコの「先生」と、三島由紀夫の「近代能楽集」を上演した後、唐ゼミに合流した。と言うよりも次の年から中野が演出を始めたから、唐ゼミになったのだ。
 中野はまだ高校演劇部的な近代劇のパラダイムに縛られていて、唐十郎の演劇の理解者という程でもなかったと思う。この頃、マルチの学生はぼくの挑発もあって唐組や新宿梁山泊の公演をよく見に行っていた。中には「秘密の花園」や「愛の乞食」などの傑作もあったのだが、「筋や作者のメッセージが分からないものはよくない」という既成概念に邪魔されてそれをそのまま受け入れることは難しかったのだ。「論理に訴えてくるものよりも、生理にじかに訴えかけてくるものの方がずっと凄い」という真理に気づくには、実際に唐の言葉を声に出し、身体を動かしてみるという経験が必要だったのかもしれない。
 この頃、一番印象に残っているのは、木曜以外は大学に来ない唐さんから鍵を借りて、唐研究室を稽古場にしていた中野たちが夜中に暗幕を焦がしてしまった時のことだ。大学に行くと中野が青い顔をして、「唐さんに報告したんですけど、もの凄く怒っています」と言ってきた。唐はぼくに迷惑がかかると思って、もう二度と中野たちに使わせないと言っている。「暗幕は弁償して、今だと余りに怒っていますから、冷静になる来週始めにでも唐さんに謝りに行こうと思うんですけど」という中野に、「なかなか難しいかもしれないけれど、どうせ謝るなら早い方がいい。今日中に謝りにいけば、たとえ留守でもその気持ちだけは伝えることができる」というようなことを言うと、中野の反応は信じられないほど早かった。
 その日のうちに、当日バイトなどで居なかった劇団員全員を電話で招集して、高円寺に集合し、唐さんに「今から謝りに行きたいので、家の場所を教えてください」と電話をしたのだ。驚いた唐さんが、ぼくが行くよと言って高円寺北口に自転車で駆けつけてみると、中野たちが一列に並んで深々と頭を下げて謝ってきたので、唐さんはびっくりしてしまってすぐに許してくれたのである。「まるでヤクザみたいで怖かったよ」とは、唐さんの後日の述懐である。高円寺のホームから報告の電話をしてきた中野の声は少し震えていた。数々の唐十郎伝説を読んでいた中野は「唐さんがもし包丁をもっていたらどうしよう」などと真面目に考えていたらしい。それほどまでに強い恐怖を感じていたのに、全員に緊急召集をかけてすぐに謝りに行った直裁な行動力と勇気に感心した。ここに中野の優れた才能があるのかもしれない。また、自分が火を出した現場にいたわけでもないのに、予定をキャンセルして短時間で全員が集まった椎野たちも凄いと思った。彼らを本気で支援しようと思ったのはそんな事件があってからのことである。

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