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2005年2月

2005.02.27

唐ゼミのこと(2)−八秒台劇場

 中野はその後寄りつかなかった。ぼくと顔を合わせても目を反らすだけで、陰険な態度を取り続けた。椎野は学科の忘年会でカラオケを一緒にしたりしたが、何しろ家が遠く(埼玉県深谷市)新幹線通学をしていたので、余り大学で顔を見ることはなかった。2000年の春に、中野は三日月座の新入生歓迎公演の演出をした。唐十郎も稽古を覗きに行って、「中野はぼくより厳しいよ。怒鳴りまくっていたよ」と面白がっていた。中野はこれで「まず、三日月座を乗っ取る……」という野望を半ば達成したと思っていたらしいが、余りに厳しかったので嫌われたのか、次回公演の演出からサークルメンバーの投票ではじかれてしまうという挫折を味わう。
 他方、椎野はいつのまにか三日月座に入っていて、同級生の禿恵(とく・めぐみ=余りに名前の字面が印象的すぎて、すぐに名前を覚えてしまった)と仲が良かった。
 三日月座は、鴻上尚史とかつかこうへいなどの作品をコピーしたり、メンバーの自作戯曲を上演したりすサークルだが、昔から根性がない劇団で、たいてい毎年一人二人はいるぼくのゼミ生の劇団員に「公演を見に行ってやろうか?」とこちらから持ちかけても、「いえいえ、とんでもないです。先生に見てもらえる程のことはやっていませんから、どうぞ来ないでください」と言われることが多かった。年に二回ほど、イントレとトラックシートでテントを立てるのだが、そういうスタッフワークには一生懸命になっても、表現の質にあまりこだわっているように思われなかった。中野は自分が外されたのが悔しかったのか「あいつらはただの男女交際サークルみたいなもので、根性ないですよ」と悪態をついていた。たまたま、横浜駅からバスの中で一緒になった椎野に「中野がそう言っているよ」と伝えると、椎野がムキになって「別にそれでいいじゃないですか。私たちはプロじゃないし、学生が楽しんでいるだけなんですから。別に演劇を続けたいわけじゃないですし、サークルは楽しければいいんです」と言い返してきたりしたこともあった。
 ところが、その年にマルチの一期生のOという男が、それまでに無かったことをしたのである。「パジャマパーティ」という自作劇を野外で夜の8:00にやりますので、先生方全員来てください、自信がありますと言う。学内に白黒コピーの扇情的なチラシがいっぱい張られた。女だけの秘密のパーティをやるというのである。キャストは椎野、禿、そしてやはり今唐ゼミに残っている古川望だった。一方その頃、唐は一期生のゼミを始めていて、集まった7,8人程の学生たちと何をやるかということに頭を悩ませていた。集まったのはごく普通の学生たちだったために、唐との会話が成立たず、特に唐に「君はいい目をしているから、必ず戯曲が書ける。ぼくの小説を一幕にして、二幕を君が書いてゼミ公演をしよう」と言われた学生はプレッシャーの余り逃亡してしまった。結局、唐は自分でその戯曲を書き上げてしまって、それは劇団唐組の秋公演久々の新作「鯨リチャード」になった。
 「パジャマパーティ」はいくら若者が書いたものだとは言え、実に下品でどうしようもない代物だった。とりわけ台詞がひどかった。他の先生たちはむっとしても何も言わないが、ぼくは我慢ができないで全員呼びつけて怒りをぶつけた。Oは完全に怖がって逃げ回っていた。最初のマルチの学生だし、ちょっとは期待していただけに悔しかったのだ。椎野と禿も研究室に呼びつけた。じっと聞いていた椎野は拳を握りしめ、涙を流して悔しがって、「私は今まで演劇なんてどうでもいいと思っていましたが、演劇続けます。室井さんのことを見返すまで絶対やめませんから」と宣言した。椎野はそれから、 「さいたま芸術劇場」の竹内銃一郎さんのワークショップに入ったり、禿は踊りを習い始めたりした。そうして、三日月座を失意のうちに脱退した中野と一緒に飛び出した石井永二、椎野と禿の四人が合流して作ったのが、「八秒台劇場」だった。
 彼らはまだ二年生だったのでゼミには入れない。そこで、「カール・ルイスでも百メートルを九秒台では走れるが、まだ人間で八秒台で走った者はいない。だから人間の限界を超えるという意味です」と自分たちの劇団名を説明する中野に、唐はまじめな顔をして即座に「でも、チーターは五、六秒で走れるよね」と言ったので、中野やそばで聞いていたぼくは唖然とした。そうか、唐さんは最初から人間だけのことを考えたりしないのだとよく分かった。八秒台劇場は、イヨネスコの「先生」と、三島由紀夫の「近代能楽集」を上演した後、唐ゼミに合流した。と言うよりも次の年から中野が演出を始めたから、唐ゼミになったのだ。
 中野はまだ高校演劇部的な近代劇のパラダイムに縛られていて、唐十郎の演劇の理解者という程でもなかったと思う。この頃、マルチの学生はぼくの挑発もあって唐組や新宿梁山泊の公演をよく見に行っていた。中には「秘密の花園」や「愛の乞食」などの傑作もあったのだが、「筋や作者のメッセージが分からないものはよくない」という既成概念に邪魔されてそれをそのまま受け入れることは難しかったのだ。「論理に訴えてくるものよりも、生理にじかに訴えかけてくるものの方がずっと凄い」という真理に気づくには、実際に唐の言葉を声に出し、身体を動かしてみるという経験が必要だったのかもしれない。
 この頃、一番印象に残っているのは、木曜以外は大学に来ない唐さんから鍵を借りて、唐研究室を稽古場にしていた中野たちが夜中に暗幕を焦がしてしまった時のことだ。大学に行くと中野が青い顔をして、「唐さんに報告したんですけど、もの凄く怒っています」と言ってきた。唐はぼくに迷惑がかかると思って、もう二度と中野たちに使わせないと言っている。「暗幕は弁償して、今だと余りに怒っていますから、冷静になる来週始めにでも唐さんに謝りに行こうと思うんですけど」という中野に、「なかなか難しいかもしれないけれど、どうせ謝るなら早い方がいい。今日中に謝りにいけば、たとえ留守でもその気持ちだけは伝えることができる」というようなことを言うと、中野の反応は信じられないほど早かった。
 その日のうちに、当日バイトなどで居なかった劇団員全員を電話で招集して、高円寺に集合し、唐さんに「今から謝りに行きたいので、家の場所を教えてください」と電話をしたのだ。驚いた唐さんが、ぼくが行くよと言って高円寺北口に自転車で駆けつけてみると、中野たちが一列に並んで深々と頭を下げて謝ってきたので、唐さんはびっくりしてしまってすぐに許してくれたのである。「まるでヤクザみたいで怖かったよ」とは、唐さんの後日の述懐である。高円寺のホームから報告の電話をしてきた中野の声は少し震えていた。数々の唐十郎伝説を読んでいた中野は「唐さんがもし包丁をもっていたらどうしよう」などと真面目に考えていたらしい。それほどまでに強い恐怖を感じていたのに、全員に緊急召集をかけてすぐに謝りに行った直裁な行動力と勇気に感心した。ここに中野の優れた才能があるのかもしれない。また、自分が火を出した現場にいたわけでもないのに、予定をキャンセルして短時間で全員が集まった椎野たちも凄いと思った。彼らを本気で支援しようと思ったのはそんな事件があってからのことである。

唐ゼミのこと(1)

 唐ゼミが出発した。昨夜トラックに荷積みをして、今日の早朝から鈍行列車組とトラック組に分かれて唐十郎フェスティバルが開催されている大阪の近畿大学に旅立った。今日は唐十郎も駆けつけているはずだ。今回、ぼくは大学の内部のことがあって4日がどうしても都合がつかず、近畿大学には5日と6日しか行けない。初日が見られないのは唐ゼミを始めてから初めてのことなので気になって仕方ない。しかも直前になって二人の劇団員が怪我をしてしまったり、この寒波の中でのテント公演をしなくてはならなかったりといろいろ心配なことがある。
 まあ、しかし心配してもしょうがないし、それに力をつけてきた彼らはもうどんな困難があっても乗り越えられると思うので、ちょうどいい機会だから彼らが留守の間に唐ゼミのことをまとめて書いてみたいと思う。
 唐十郎を呼んだのが97年の10月。派手な「初講義」で迎え入れた次の年の4月にマルチメディア文化課程の一期生が入学した。唐さんは大学になかなか馴染めなかった。というよりも大学という組織には最後まで馴染めなかったと言っていい。大人数の教養教育科目では、野次馬のような600人以上の学生を前に苦戦していた。ぼくも空き時間にして、入り口の前に立って授業の補助をしたが、唐さんの疲労感が見ていてもよく分かった。無理に唐さんを呼んだのは失敗だったのではないかという不安が高まり、唐さんに「もう十分ですから、やめたかったらいつやめてもらっても大丈夫です」と伝えたのもその頃だった。唐研究室は、普通の研究室よりも少し大きいスペースを確保して、ぼくが掃除したりデスクを入れたりして整えた。唐さんが靴を脱いで坐れる方が落ち着くというので部屋の半分には赤い絨毯を敷き詰めた。
 中野敦之はマルチの二期生として99年に入学してきた。名古屋の私立高校演劇部に居た中野は唐十郎を目指してやってきた最初の学生だった。その頃は蜷川幸雄を尊敬していて、朝倉摂の舞台装置の本で目にした「下谷万年町物語」の写真に目を奪われていた位しか、唐に関する知識はなかった。四月に、唐さんの研究室の前で唐さんに会うために立っていた中野に声をかけた。中野を唐さんに引き合わせたが、その時に中野はぼくに反感をもったらしい。何でこの人を通さなければいけないんだと思ったらしく、中野は直接その頃公演をしている唐組のテントに顔を出し、勝手にテント立ての手伝いをしたり、唐組の劇団員と話をしたりして、内部に入り込んでいた。唐組の内輪の宴会にも招かれていて、すました顔でぼくを無視している彼に少し腹が立って、大久保鷹さんが酔っぱらって中野の首を絞めている時にも助けてやらなかった。その頃の中野は学内の演劇サークル「三日月座」にも所属していて、「まずは、三日月座を乗っ取って、次には唐組を乗っ取ります」と、若い野望に燃えて自信たっぷりな傲岸不遜な若者だった。
 一方、椎野裕美子も同じ年に入学した学生だった。椎野は一年浪人していて、大学に入って学生生活を楽しもうとしていたのか、積極的に学科のイベントに参加したり、沢山の友達を作ったり、ぼくのオフィスアワーによく顔を出したりしていて、社交的で明るいけれども、少し軽薄な感じもする女子学生だった(今の椎野とは全く違う印象だった)。クラブに顔を出したり、友達とスノーボードに行ったりする普通の学生だったが、頭がよく妙に大人に話を合わせるのがうまかったので、ぼくは気に入っていた。夏休みに朝日新聞で受験生向けの企画をするから学生を紹介してくれと言われた時に椎野を推薦して記事になったりしたこともある。

2005.02.22

ホリエモン騒動

 日テレの「今日の出来事」にライブドアの堀江社長が出ていて、アナウンサーと経済評論家の質問にいきりまくって答えている。週末から、メディアと政財界一斉砲火を受けて、この32歳の若者はやや苛ついているらしく、「そんなことは答えられません」とか「そんな意味の無い質問をするなら帰りますよ」と吠えている。
 確かに堀江の言う通りで、この企画を考えたテレビ局側の想像力の薄っぺらさが透けて見えるような実に下らない企画だ。彼が怒りだすのも無理はない。と言うよりも、寄ってたかってこの異質な余所者を追放しようというような、偏狭な身内びいきしか感じられない。きっと、この暴力的なまでの堀江叩きは、彼が敗北を認めるまで続けられるだろう。スケープゴートの典型的な事例だ。だが、もし本当に彼がビル・ゲイツのような強い意志があれば、それをはねのけることができるかもしれない。
 まあ、どちらにしてもつまらない話ではある。800億円という途方もない金額がそこに介在しているわけだが、それがゲームのようにしか語られていないし、また実際にゲームのように運用されているのが、今の市場経済の現実なのである。その金額が、たとえば発展途上国にとって持っている重さと比べて、ここで語られている物語は余りにも浮ついていて軽い。こんな世界経済を作り上げてしまった文明の方が異常なのだ。
 「公共性」を盾に、既得権益にあぐらをかいている既成メディアに対して、金の力に物を言わせて乗っ取りをかけている「インターネットの成功者」という物語の裏では、実はマスメディアが新しいコミュニケーション・メディアの台頭に過剰に怯えているだけなのだ。どっちが悪者かと言えば、それは既得権益にあぐらをかいているテレビ局や新聞社の方なのである。
 そう。放送サービスは結局は通信サービスに負けるだろう。それは確実なことだ。だがそれは、おそらく堀江のライブドアのような産業社会モデルに便乗した「インターネット・ビジネス」などではない。彼の言う、インターネットと既成メディアの融合がより「ユーザー・フレンドリーな」マスメディアを作り上げるだろうというような構想は何ら新鮮なものではなく、放送業界が通信業界の台頭に怯えながらも自力で模索しているし、中途半端にはいずれ実現されるであろう古くさい構想にすぎない。逆に言えば、堀江自身がマスメディアの優位性をまだ信じているからこそ(そして、マスプロダクション=産業社会とマネーゲームがすべてを貪欲に食い尽くすポスト資本主義社会の原理を信じているからこそ)、そのようなマスメディアとインターネットの「融合」というような主張にしかならないのだ。
但し、グローバリゼーションの趨勢を見ると、堀江側が短期的には勝利するであろうことも簡単に予測できる。それに抵抗する旧勢力側が声高に主張する概念が「メディアの公共性」だったことに小さな衝撃を受けた。もし、これが完全に「リーマン証券」のような外資系企業だったらどうなのだろうか。たとえばAOL−タイムズ−ワーナーのような会社だったらどうだったろう。その時には民族主義が飛び出して来るのだろうか。いずれにしても、こいつらは両方とも滅びればいい。両方とも己の存在を賭けた思想が全く欠落している。
 一緒に研究会をしている東大の船曳建夫さんによると、堀江は駒場のサーバーを創設した学生で、今でも時々サーバーの具合が悪いと気軽に直しに来てくれる気さくな男であるという。きっと、そうなのだろう。そして、そういう普通の気のいい男が、こうして突然怪物になれるところが、グローバルな市場経済の不気味なところである。一体誰が、そして何が怪物なのかを考えなくてはならない。今の下らない堀江叩きの裏にある見えない構造について考えて行かなくてはならないだろう。

2005.02.20

岡本喜八の死去

 岡本喜八監督が死んだ。「日本の一番長い日」「肉弾」などの戦争映画が忘れがたい。前者における天本英世、後者における寺田農と大谷直子の演技も記憶に残っている。そういえば「ああ爆弾」の伊藤雄之助の怪演と「あほだら経ミュージカル」の変な味わいもあったし、唐さんも出演していた「ジャズ大名」も岡本喜八作品だった。初期の「独立愚連隊」シリーズの中にこの作家の原点があったと思う。癖のある役者を輝かせるのがうまかった監督だったと思う。
 遺作となった「助太刀屋助六」は登場人物たちの年齢が高すぎてちょっと不自然だったが(鈴木京香が十代の生娘役なんだもの)、まぎれもなく岡本喜八のスタイルであり、その意味では準備中だったと言う山田風太郎原作の「幻燈辻馬車」も見てみたかった。それにしても、この「助太刀屋助六」も旅先の京都新京極の映画館で観たのだが、観客が2,3人の年寄りだけで寂しかったなあ。

 その他、身の周りではいろいろなことが起こっているが、いずれもちょっとそのまま書くことができないことが多い。そのうちに報告できるようになるだろう。

 近畿大学での「唐十郎フェスティバル」が近づいてきた。5、6日にはぼくも駆けつける予定。5日は南河内万歳一座の内藤裕敬と唐ゼミ中野の対談、6日は新宿梁山泊座長の金守珍さん、そして唐十郎がトークで参加することになっている。唐ゼミの演目は「少女都市からの呼び声」だが、80年代から状況劇場、唐組、新宿梁山泊と引き継がれてきたこの名作を唐ゼミが二年ぶりに再演する。主人公の雪子も、初演から田中容子、藤原京、金久美子、石井ひとみ、近藤結宥花に続き、唐ゼミの椎野裕美子で6代目。演出もキャストもだいぶ変わったようだし、現在観ることのできる決定版としてお勧めできると思う。東京から駆けつけるだけの価値があると確信しているので、迷っている方は是非どうぞ。何しろもう当分観ることはできないだろうから。

2005.02.13

日記(!)

 10日、編集工学研究所社長の渋谷恭子さんと六本木ヒルズで昼食。ニュースリリースも出ているが、編集工学研究所はIMPRESSの子会社になった。と言っても経営権はそのままに資本投入されて自由に活動を続けられるようになったのだ。最近は、松岡さんの胃ガン切除手術や編集工学研究所の経営不振で暗いことが多かったが、これで一息つけることになったというわけで、とてもうれしい話である。今後も彼女たちにできる範囲で協力していきたい。同じ日、映像作家の寺嶋真理と夕食。それはとても楽しかったのだが、その前にオリバー・ストーンの「アレキサンダー」を渋谷で見て、これがうんざりするような駄作。200億円投じた大作であるというのが空しい。壮大な事業を成し遂げた天才を、単なる神経症患者に引き下げてしまうような卑小さが許しがたい。
 12日は、横浜馬車道のBankart NYKで、記号論叢書セミオトポス「ケータイの記号論」(仮題)の編集会議。今回から水島久光さんに参加してもらうことになり、楽しい本が作れそう。久しぶりにケータイ展チームも顔を合わせて四方山話にふける。
 最近RSSリーダーを使うようになってblogが面白くなってきた。ぼくが使っているNiftyのCocologは色々な制限があって使いにくいところもあるのだが、MovableTypeベースのblogサービスには、SNSのようなコミュニティ・サービスをも包含しうるような可能性があると思う。レポートを採点中に韓国からの留学生からCyworldの情報を得た。韓国ではこのサービスが爆発的にヒットしているらしい。SNSとアヴァターとblogを組み合わせたようなサービスだが、こういうニーズは世界中にあるのだと思う。日本でもこれと同じような試みが沢山なされてきたのだが、成功しているものは少ない。
 ケータイ展チームからMIXIの話を聞く。彼らによると匿名性が強くコミュニティの暖かさがないInternetの世界の中に「パソコン通信」のような顔見知りの密接なコミュニティを作ろうというのがSNSだとのこと。Livedoorの800億円を投じてのニッポン放送株取得など、全く理念のないマネーゲームみたいな話をよそにblogやSNSが広がっていって「内側から」インターネットが変わっていけばいいと思わずにいられない。

2005.02.10

映画「ガラスの使徒」試写会

 唐十郎がシナリオを書き、金守珍が監督、原作本を出しているアートンの郭充良が制作の映画「ガラスの使徒」が完成し、9日、大崎のIMAGICAで完成披露試写会が行われた。主要スタッフはもちろんのこと唐組、梁山泊、唐ゼミ総出動、エキストラにも見慣れた人たちの顔が沢山出ているという、広域・唐十郎ファミリー手作りの映画。ファミリーと言えば美仁音、佐助という唐さんの子供たちも重要な役で出演している。主役に新人の佐藤めぐみと唐組の稲荷卓央、唐十郎、六平直政、山田純大、余貴美子といった実力派を配し、短いシーンではあるが中島みゆき、大久保鷹、原田芳雄、石橋連司、佐野史郎らが顔を出して彩りを添える。
 立ち上がりから見ているだけに、どんな映画が完成したのか気になるところだが、唐十郎の世界を体現した濃厚で硬質な作品に仕上がっていた。画面のトーンが統一されていて美しく、音響もとてもいい。それ自体が映画に出てくる手作りのレンズのような作品である。1時間50分に仕上げたためにエンディングが少し寂しい(あと10分ほど欲しい)し、切り詰めたためにシーンに無駄が無さ過ぎる(役者の演技空間に肉迫していくスタイルは「夜を賭けて」から変わっていないが、水平に広がるショットがもっと欲しい)。基本的にはガラスのレンズの光に取り憑かれた者たちと、社会の経済に取り憑かれた者たちの対立を描いているが、登場人物たちの手のひらに穴があく(聖痕)のイメージや、ダム湖に沈んだ小学校の教室でヒロインがオルガンを弾くとその音が泡となって湖の表面にまるでレンズのように次々に浮かび上がってくるといった繰り出される美しいイメージの重層的な集積が、画面に得体の知れないパワーを与えていた。役者たちは皆とてもいい。
 終わった後、地下のラウンジでパーティ。スタッフや主要キャストが次々にスピーチをしていく。唐さんも機嫌が良く喜んでいた(写真はスピーチする佐藤めぐみさん。唐さんの隣は堀切直人氏)。
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garasu2
 プロデューサーの郭さんは日本中を飛び回って上映館を探しているが、この映画の場合にはむしろ大手の配給網ではなく、ひとつひとつの映画館や特設会場などでの手作りの上映会の方が向いているのではないかと話していた。上映権を持つ映画館にお知り合いの居る方、上映会を催してみたい方は是非ご連絡下さい。
 金さんをはじめ、アートンの村松明彦さん、秋元けい子さん、堀さやかさんらの製作の現場で頑張ってきた人たちのここまで漕ぎ着けられてほっとしたような表情が印象的だった。100人規模の人間の力の結集である映画が作り出されるまでは本当に大変なことがあるのだ。
 久しぶりに大久保鷹さんと顔を合わせる。最近すっかりインターネットづいている大久保さんはこのblogもよく見ていると言う。足立正生さんが撮る新しい映画製作に関わっているらしいが、3月10-15日に新宿で公演をするパレスチナのアルカサバ・シアターに期待を寄せていて、美術を担当した椿昇に是非紹介してほしいと言っていた。
 そして、幸せな雰囲気に包まれた打ち上げはそのまま二次会へ。
 この間、サッカーの北朝鮮x日本戦があったが、ここが世界の中心だというような人たちにとっては意識の外だったようだ。個人的には是非北朝鮮に勝ってほしかったので残念だけど、ホームの平壌があるのでそこに期待したい。

2005.02.08

吉岡健二郎先生が逝去された。

 死亡記事が出たのは7日で、亡くなられたのが2日だったのだがご親族だけの密葬だったらしい。京都大学の岩城見一さんからメールでの知らせが届いた。死因が解離性動脈瘤破裂ということだから突然死だったのだろう。昨年の10月の学会の時にも元気そうだったから。
 この人が誰かと言えば、京都大学でのぼくの先生である。3年生で専門を選ぶ時に、哲学科美学美術史学研究室というのを選んだのだが、全く雰囲気になじめなかった。上の学年や下の学年は何人か覚えているが、同級生で誰が居たのかもよく覚えていない。大学生時代のぼくは大学にはほとんど顔を出すことがなかったし、単位とかカリキュラムのこともよく知らなかった。漠然と仏文に進むものだと思っていたのだが、二年生の終わりに第一外国語だったフランス語の初級の単位をほとんど取れていなかったことと、今「版画芸術」の編集長をしている一年上の先輩が美学に入ったからというかなりいい加減な理由だけでこの研究室に入った。京大の近くの「吉岡書店」という古本屋で、吉岡さんの前の主任教授だった井島勉先生の「美学入門」を買って、それを大急ぎで読んで研究室に入れてもらったのだ。そのおかげで随分不幸な20代になってしまったが、それでも現在の自分は確かにその延長線上に生きている。「パッチギ」じゃないけれど、絶望して、泥酔してよく京都のいろいろな場所を歩き回った。鴨川の水の中を歩いて渡ったこともあるし、荒神橋の欄干をこのまま下に落ちてしまってもいいと思いながら綱渡りのように渡ったこともある。一生懸命やっているのに自分を全否定されるというのはつらいことだ。
 もう一つの理由は、それまで小説家か映画監督になりたいとしか思っていなかった自分の生き方に行き詰まってしまっていたこともある。理論や論理の力によって、自分が囚われてきた「文化の病気」のようなもの(多分、現代だったらきっと単なる<鬱>病に分類されてしまう)に抵抗できないだろうかと思うようになっていたからだ。その頃ぼくは毎晩仏典やヘーゲルやバタイユを読んでいた。美学での卒業論文はブランショで、その卒論を吉岡さんは皮肉まじりに「これは学問ではなくて、ブンガクだよね」と評した。
 吉岡さんは多分今の僕よりも若く、同志社から移って来てまだ数年だった。飲み会での口癖は「京大の学生は、同志社と比べて陰険だ」というもので、多分そのままの実感だったのだろう。講義のスタイルは19世紀のドイツの大学のもので、講義ノートを読み上げて、それを学生に書き写させる形式だった。中身は基本的には19世紀から20世紀にかけてのドイツ美学を中心に「芸術における崇高なるもの」というようなテーマを毎年掲げていく方式。ヘーゲルなどがやった講義形式だ。京都学派的に、ジャーナリズムや現代思想などを徹底的に馬鹿にしていて、真理に仕える「学問の徒」を気取っていた。正直言ってぼくはこの人のスタイルになじめなかった。尊敬もしていなかった。だから、美学研究室に入ったこともおそらく間違いだったのだし、そのまま大学院まで進んだことも間違いだったのだ。それでもその「間違い」の上にぼくの人生は作り上げられている。
 亡くなった人を悪く言うのははばかられるが、それでも僕はこの人に随分理不尽にいじめられたと言っていいと思う。今なら「アカハラ」と呼ばれるだろうが、だからと言ってそのことを恨んでは居ない。人と人とが出会うということはそういうことなのだと思う。この人がウィーンに一年間在外研究で留守をしていた時に、代わりをしていた新田博衛先生に大学院に入れてもらったこともあり、酔うといつも「君なんか入れた覚えはない」と絡まれたし、ぼくが発表したり、考えたりしていることを何度も全否定された。挙げ句には、「君は美学には向いていないから、美術館だったら就職を紹介してあげるから行かないか」と言われたりして、博士課程の頃からぼくはこの人に会うのが嫌で、京大文学部には近づきたくなかったし、半径50m以内に近づくと頭痛がするくらいに嫌だった。そうやってこの人にいじめ抜かれたことが、その後のぼくの人生を決定づけたと言えなくもない。
 それでも、そうやって大学院を出てから随分長い時間が経って、広島での美学会全国大会でぼくが評判が良かった発表をした時の懇親会の時に、うれしそうに近寄ってきて「君みたいな人がぼくの研究室に居てくれて本当に良かった」と笑顔を浮かべて手を差し伸べてくれた。だけど、そのとき僕は手を握ることはできなかった。余りにも度量が狭いような気がして後から少し落ち込んだが、それでもこの人にいじめ抜かれたことがその後の僕の生き方を決定したことを考えるとやはりすべてを許して手を握ることは出来なかった。京大を辞めてからのこの人は、めちゃくちゃマイナーな世界ではあるが関西の美学系の人事に積極的に政治的に権力を発揮し、静岡県立美術館長のまま亡くなっていった。ぼくのところには翻訳などの出版物をいつも届けてくれていた。君はぼくの門下なのだと言いたかったのだろうか。
 自分が先生をやってるので、吉岡さんのことをいつも考える。もちろん、反面教師として自分が学生のことを全否定するような頑迷な教師になってはいけないということもあるのだが、だが逆に言えば全く学生のことを理解してくれない頑迷な壁である教師の在り方もあるのではないかというようなことである。ぼくは自分の先生がことごとく嫌いだった。先生に自分を認めてもらって伸ばしてもらったという記憶が無い。先生はいつも敵だった。だけど、吉岡さんほど僕自身のことを全く認めてくれなかった先生には出会ったことがない。そんな人が死んだ。
 あの頃は美学の演習に顔を出すのが苦痛だった。だけど、今から考えるとそこで今でもつきあっているかけがえのない友人たちと出会えた。さまざまな苦しい経験を歯を食いしばって耐え抜いていくことができたのも、この人との出会いがあったからと言っていい。
 78歳で亡くなったこの人の死に唐突に直面して、せめて今宵はこの人との思い出と共に夜を過ごしたいと思う。

2005.02.04

久々の京都と、井筒和幸監督「パッチギ」

 宝くじの文化助成をやっている「地域創造」が主催する研修会で、京都アートセンターへ。日本海側大積雪の後だったので関ヶ原から米原までは吹雪いていた。京都も前の日に雪が降ったらしい。
 全国各地の美術館や文化振興財団の美術系の人たち20人ほどを前に話をする。もちろんアートマネージメントなどという話ではなくて、美術館も国立大学ももうとっくに存在根拠を失っているのだから、いかに人の力を引き出して「廃物利用」をするかを考えるしかないというような話。終わった後いろいろな反響を聞いて楽しかった。二三日前に豊田のシンポジウムで椿昇の話を聞いた人も沢山居た。
 夜には、「最終講義」にもわざわざ駆けつけてくれた京都精華大学の島本浣さんと再会、記号学会の時に知り合った中谷さん、西坂さん、その一年前の講演会の時に強い印象をもったアーティストの上瀬奈緒子さんと、ぼくが好きな三人の女性をみんな集めてくれて、楽しく、そして時に口角泡を飛ばす激論を戦わせながら、百万遍で深夜まで過ごした。
 三条河原町のホテルに泊まり、帰りの新幹線に乗るまでの時間つぶしと思って新京極で映画「パッチギ」の10時からの回を観る。これが予想を遥かに超えて素晴らしかった。「ガキ帝国」や「岸和田少年愚連隊」でもそうだけど、シーンのつなぎが少し早すぎるのと印象的なショットを余りにも短く切ってしまうのが相変わらず気になるが、「娯楽性」を追求するタイプの監督だからそれはまあ仕方ないかもしれない。那須博之の「ビーバップ・ハイスクール」(1985)以来久々に楽しめた高校物であり、1968年の京都という個人史的にも重要な時代を描いた60年代物であり、何よりも「在日」に正面から向き合ってた真っ当な青春映画である。
何よりも若い役者たちが素晴らしい。19歳の沢尻エリカ(ちょっとこの芸名はどうなの?とは思うけど)、ガンジャ役の真木よう子、桃子役の柳原京子、高岡蒼佑とその仲間たち、空手部や愚連隊の連中、みんなパワーに満ちていて魅力的だ。ほとんど初めて見る役者たちだが引き込まれた。脇で出てくる、オダギリ・ジョー、光石研、大友康平、笹野高志もみんないい。これはこないだの「血と骨」なんかよりも数倍いい。
 それとオールロケーションで撮られた京都がいい。背景に新しくなった京都駅が映ってしまたり、京大の新しい建物が入ってしまうのが少し興ざめだが、40年近く前と全く変わっていない場所も多いので、宝ケ池、銀閣寺、賀茂大橋、祇園、京大西部講堂、新京極辺りの風景が楽しめた。まだ市電が走っていた頃なのだが、現代の京都をそのまま(看板などを少し付け加えただけで)使っていて六十年代の雰囲気をうまく醸し出している。現代の京都を扱った映画には鴨川が必ず出てくるし、たとえば大森一樹の「ヒポクラテスたち」でもそうだったが、この映画ではテーマ曲の「イムジン川」に重ねられて、北と南、朝鮮部落と日本人などを隔てる川として描かれている。主人公がとても鴨川とは思えないほど増水している川を渡ってヒロインのところに近づいていったり(通常鴨川はとても浅いので、よく酔っぱらった大学生が鴨川渡りをする。ぼくも一度やったことがある)、橋の欄干にギターをぶつけて壊したりするシーンがとても良かった。京都の町が重要な要素となっている都市の映画であることも確かである。この映画のロケ地をめぐっていくのも楽しいかもしれない。当然、昔の朝鮮人部落もその中に含めなくてはならないだろう。
 あの時代を知る者にとって、細部の描写もとても楽しい。冒頭の実在した失神バンド「オックス」が歌う「ダンシング・セヴンティーン」と「スワンの涙」、光石研演じる「毛沢東語録」を手に生徒に熱く語り、ロシア人ストリッパーと「革命的連帯」をしてしまう高校教師。ラジオ局KBS京都で上司を殴って放送を続ける大友康平、寺の息子主人公康介の母親余貴美子のいかにも京都人風の陰険な在日差別、祇園のキャバレー、みんなともリアルだ。こういう映画は締め方が肝腎。クライマックスがラジオ局での「イムジン川」で、外に自転車で駆けつけたキョンジャが待つラストは悪くないが、もう少しつないでほしかった。その後の二人のデートは蛇足だったのでは。それでもエンドロールの「あの素晴らしい愛をもう一度」で持ち直してはいたけれど。いずれにしても、これは井筒和幸の会心作と言うべきである。「夜を賭けて」や「血と骨」といい「在日」を扱った映画が作られるのは、そこにぼくたちが失った「日本人」の姿を見いだすことができる鏡になっているからかもしれない。ソウルの東大門市場を訪ねた時に、市場をそのまままるごと巨大なビル群に詰め込んでしまったような都市形成と、そこに集まる人々の猥雑なエネルギーに驚いたが、六本木ヒルズとかお台場やみなとみらいみたいな空疎な都市環境を作ってきた日本はきっと韓国に負けるなと思ったことを思い出した。

2005.02.02

唐十郎最終講義イベント終了(溜息……)

 1月29日は唐さんの「最終講義」イベント。唐さんと深い付き合いの方々、唐ゼミのファンの方々、ぼくの関係者、マスコミ各社、学生・教職員、卒業生たちと500人近くの人が押し掛けて来てくれた。その様子は朝日、毎日、読売、神奈川新聞やスポーツ新聞各社が日曜に記事にしてくれている。とりわけ、朝日新聞の記事は全国版社会面トップで多くの人の目に触れたことだろう。日頃、犯罪や事件など暗い記事の並ぶ紙面の真ん中に「赤い木馬」が写っているという選択は悪くない。また、NHKでは総合テレビ土曜日10:05-10:45の「土曜インタヴュー2005ニッポン」で放送予定(2/26予定だが週がずれこむこともある)。唐さんの新刊も今週発売されたし、今週号の「ヨミウリ・ウィークリー」の「家族の肖像」にも唐さんが出ているし、何だかメディアが唐さんづくめになりました。Googleで「唐十郎最終講義」と入れると沢山の日記やblogもひっかかってきます。
 初講義の「黒板破り」の強烈なインパクトにはなかなか勝てないですけれども、あの時は単発だったのに対して、今回は7年半の時間の厚みを感じさせる重層的な、積み上げられたイベントになったのではないかと思っています。とりわけ、唐ゼミの八本連続上演は、何度も何度も台本を練り直し、徹底的な稽古を積み重ねてきました。早変わりや装置の入れ替え、映像などありえないほど複雑な構成でしたがほとんどノーミスで成功させることができました。二日がかりの仕込みや、イントレやレールの運び込み、唐組山中湖乞食城から運んで来た名作「二都物語」の赤い木馬、天井に吊られた初代紅テントのボロ布など、細部までいろいろなものが組み込まれています。みんな学期末で忙しいのに何日も徹夜で頑張ってくれた。もっとも公演とはちがって、こんなイベントは一生に一度しかないですからね。二度と同じような機会はないでしょう。一度限りのことだから手を抜くわけにはいかないとみんな分かっていました。
 前日のリハーサルでは涙が溢れ出して止まらなくなってしまって大変だったのですが、当日はあがってしまったものの何とか大丈夫でした。それでも、カーテンコールで中野がぼくの名前を呼んでくれたり、唐さんが赤い目に涙を浮かべて歌ってくれた「時はゆくゆく」の歌詞の中にぼくの名前を入れてくれたりした時には思わず涙ぐんでしまいました。後からビデオを見ると椎野も涙ぐんでいた(彼女は滅多に泣くことはないので、これにもこみあげてしまいました)。
 終わった後の関係者の飲み会も賑やかな中に皆さんがここで積み重ねられた時間を感じてくださっていたようで穏やかでしみじみとした会でした。来ていただいた毎日新聞の高橋豊さんが書いてくれた記事には、そのようなニュアンスがよく出ていてありがたかったです。

 唐ゼミに関して言えば、「話の特集2005」に松井美智子さんが熱のこもった記事を書いてくれている。公演写真も掲載されています。それから、最終講義の時にはまだ発表できなかったし、これからどういう風に動いていくかは解らないが、新国立劇場の今シーズンの演劇ラインアップにこのような発表が掲載されました。唐ゼミの今後を心配してくれる人も多いが、とりあえず秋までは彼らは一緒に歩んでいきます。その前に3月の初めには近大での「唐十郎フェスティバル」も控えているので、彼らには後ろを振り返っている余裕はないでしょう。

 とは言えこれが一つの大きな区切りであったことは確かです。唐さんを大学に誘うために今から9年前、高円寺北口の喫茶店で初めて唐さんと話した時のことや、その後花園神社で「模造石榴」を見に行った時のことを昨日のことのように思い出します。「室井さんも寂しいでしょう?」とか、「もう次に何もやりたくないでしょう?」とか何人もの人に言われたが、いやいやそんなことはありません。唐さんとの付き合いもこれからだし、唐ゼミの連中もたとえばらばらになってもみんな戦うことをやめないでしょうし、演劇関係ばかりではなく、ぼく自身もまだまだこれから前のめりになっていろいろなことに挑戦していきたいと思います。
 「最終講義」が終わってから二日連続でお世話になっている人たちのやっている公演に足を運び、 昨日は唐さんのところで内輪の打ち上げでした。今日は朝から入試監督や会議、明日明後日は京都で研修会の講師と、ずっとばたばたしていてここに書き込むのが遅れました。当日来ていただいた方に改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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