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2005.02.08

吉岡健二郎先生が逝去された。

 死亡記事が出たのは7日で、亡くなられたのが2日だったのだがご親族だけの密葬だったらしい。京都大学の岩城見一さんからメールでの知らせが届いた。死因が解離性動脈瘤破裂ということだから突然死だったのだろう。昨年の10月の学会の時にも元気そうだったから。
 この人が誰かと言えば、京都大学でのぼくの先生である。3年生で専門を選ぶ時に、哲学科美学美術史学研究室というのを選んだのだが、全く雰囲気になじめなかった。上の学年や下の学年は何人か覚えているが、同級生で誰が居たのかもよく覚えていない。大学生時代のぼくは大学にはほとんど顔を出すことがなかったし、単位とかカリキュラムのこともよく知らなかった。漠然と仏文に進むものだと思っていたのだが、二年生の終わりに第一外国語だったフランス語の初級の単位をほとんど取れていなかったことと、今「版画芸術」の編集長をしている一年上の先輩が美学に入ったからというかなりいい加減な理由だけでこの研究室に入った。京大の近くの「吉岡書店」という古本屋で、吉岡さんの前の主任教授だった井島勉先生の「美学入門」を買って、それを大急ぎで読んで研究室に入れてもらったのだ。そのおかげで随分不幸な20代になってしまったが、それでも現在の自分は確かにその延長線上に生きている。「パッチギ」じゃないけれど、絶望して、泥酔してよく京都のいろいろな場所を歩き回った。鴨川の水の中を歩いて渡ったこともあるし、荒神橋の欄干をこのまま下に落ちてしまってもいいと思いながら綱渡りのように渡ったこともある。一生懸命やっているのに自分を全否定されるというのはつらいことだ。
 もう一つの理由は、それまで小説家か映画監督になりたいとしか思っていなかった自分の生き方に行き詰まってしまっていたこともある。理論や論理の力によって、自分が囚われてきた「文化の病気」のようなもの(多分、現代だったらきっと単なる<鬱>病に分類されてしまう)に抵抗できないだろうかと思うようになっていたからだ。その頃ぼくは毎晩仏典やヘーゲルやバタイユを読んでいた。美学での卒業論文はブランショで、その卒論を吉岡さんは皮肉まじりに「これは学問ではなくて、ブンガクだよね」と評した。
 吉岡さんは多分今の僕よりも若く、同志社から移って来てまだ数年だった。飲み会での口癖は「京大の学生は、同志社と比べて陰険だ」というもので、多分そのままの実感だったのだろう。講義のスタイルは19世紀のドイツの大学のもので、講義ノートを読み上げて、それを学生に書き写させる形式だった。中身は基本的には19世紀から20世紀にかけてのドイツ美学を中心に「芸術における崇高なるもの」というようなテーマを毎年掲げていく方式。ヘーゲルなどがやった講義形式だ。京都学派的に、ジャーナリズムや現代思想などを徹底的に馬鹿にしていて、真理に仕える「学問の徒」を気取っていた。正直言ってぼくはこの人のスタイルになじめなかった。尊敬もしていなかった。だから、美学研究室に入ったこともおそらく間違いだったのだし、そのまま大学院まで進んだことも間違いだったのだ。それでもその「間違い」の上にぼくの人生は作り上げられている。
 亡くなった人を悪く言うのははばかられるが、それでも僕はこの人に随分理不尽にいじめられたと言っていいと思う。今なら「アカハラ」と呼ばれるだろうが、だからと言ってそのことを恨んでは居ない。人と人とが出会うということはそういうことなのだと思う。この人がウィーンに一年間在外研究で留守をしていた時に、代わりをしていた新田博衛先生に大学院に入れてもらったこともあり、酔うといつも「君なんか入れた覚えはない」と絡まれたし、ぼくが発表したり、考えたりしていることを何度も全否定された。挙げ句には、「君は美学には向いていないから、美術館だったら就職を紹介してあげるから行かないか」と言われたりして、博士課程の頃からぼくはこの人に会うのが嫌で、京大文学部には近づきたくなかったし、半径50m以内に近づくと頭痛がするくらいに嫌だった。そうやってこの人にいじめ抜かれたことが、その後のぼくの人生を決定づけたと言えなくもない。
 それでも、そうやって大学院を出てから随分長い時間が経って、広島での美学会全国大会でぼくが評判が良かった発表をした時の懇親会の時に、うれしそうに近寄ってきて「君みたいな人がぼくの研究室に居てくれて本当に良かった」と笑顔を浮かべて手を差し伸べてくれた。だけど、そのとき僕は手を握ることはできなかった。余りにも度量が狭いような気がして後から少し落ち込んだが、それでもこの人にいじめ抜かれたことがその後の僕の生き方を決定したことを考えるとやはりすべてを許して手を握ることは出来なかった。京大を辞めてからのこの人は、めちゃくちゃマイナーな世界ではあるが関西の美学系の人事に積極的に政治的に権力を発揮し、静岡県立美術館長のまま亡くなっていった。ぼくのところには翻訳などの出版物をいつも届けてくれていた。君はぼくの門下なのだと言いたかったのだろうか。
 自分が先生をやってるので、吉岡さんのことをいつも考える。もちろん、反面教師として自分が学生のことを全否定するような頑迷な教師になってはいけないということもあるのだが、だが逆に言えば全く学生のことを理解してくれない頑迷な壁である教師の在り方もあるのではないかというようなことである。ぼくは自分の先生がことごとく嫌いだった。先生に自分を認めてもらって伸ばしてもらったという記憶が無い。先生はいつも敵だった。だけど、吉岡さんほど僕自身のことを全く認めてくれなかった先生には出会ったことがない。そんな人が死んだ。
 あの頃は美学の演習に顔を出すのが苦痛だった。だけど、今から考えるとそこで今でもつきあっているかけがえのない友人たちと出会えた。さまざまな苦しい経験を歯を食いしばって耐え抜いていくことができたのも、この人との出会いがあったからと言っていい。
 78歳で亡くなったこの人の死に唐突に直面して、せめて今宵はこの人との思い出と共に夜を過ごしたいと思う。

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