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2005年3月

2005.03.29

下町の夫婦展

 そのまま、26日の夕方は両国の江戸東京博物館で開かれている「下町の夫婦展」。宇野マサシさんと小畑延子さんの展覧会なのだが、トークイベントで唐さん、原田芳雄さんがゲストで林海象監督が司会というので見に行く。宇野さんとは唐さんのところで知り合った。立ち見が出る程の盛況で唐組から藤井由紀さんを始め関係者が押し掛ける。みんな酒飲みなので酒を飲みながらということになって、途中からは唐さんが完全に出来上がってしまって暴走。話は相当面白かった。終わった後「二次会に行こう」と誘われたが(じゃ、あれは一次会だったのか?)、関係者が多いので遠慮して、見に来ていた唐ゼミの中野、椎野、禿とちゃんこ屋で食事をして帰る。
 今日は大学で、唐さんの大学体験を本にしたいという岩波の編集者・樋口さんと打ち合わせ。

2005.03.28

美学会でしゃべる

 25日は東京大学本郷で美学会東部会で話をする。なぜか今期から美学会の委員(理事)に選ばれてしまったので、委員会から顔を出す。法文二号館の美学芸術学研究室に足を踏み入れるのは、おそらく25,6年ぶりだ。まだ尼ケ崎涁さんが助手の頃で、今道友信先生が居た頃だ。東部会というのに顔を出すのは全部で四回目くらい。そのうちの二回はいずれも依頼を受けて自分が話をするために出た時だ。それでも、色んな人が聞きに来てくれるので楽しい。いつもの例会よりは随分賑やかになって盛り上がったと言われるとそれなりにうれしい。話は研究発表というよりも私小説みたいなもので、自分と美学の関わり、現在の文化状況における芸術や理論の役割などについて話す。事前に流したレジュメは以下のようなものだ。実際には一時間近くいろいろなトピックに触れたし、かなり面白かったの思うんですがね。学会の「美学」に掲載したいという話はなかったですね。もうしばらく待って何もなければウェブの方に転載します。
 終わった後、川野洋さん、尼ケ崎涁さんらと立ち話。東大の西村清和さん、成城大学の津上英輔さんたちと遅くまで飲む。泡盛が効いて翌日は二日酔い。

「美学」の喪失−−<芸術>の死後どこに行くのか?[要旨]

 私が学生の頃、美学は既に魅力に乏しい時代遅れの分野だと言われていた。本来生き生きとした活動性であるはずの「芸術」を死んだ標本にして、暗くてカビ臭い研究室の中に持ち込み、難しい顔で解剖をしているのが美学者だと考えられていたのである。「芸術」が文化の前衛として時代の最先端を歩んでいるのに対して、「美学」は暗い場所に引きこもり、世の中の動きとかけ離れた無意味で衒学的な議論にふけるだけの退屈な学問だと考えられていた。
 そんな中で私が美学を選択したのは、自分が西欧近代の生み出した近代文学や近代芸術の「磁場」のようなものに強く囚われているという自覚があったからである。それを相対化し、自分がその中に生まれてきた文化や文明、そして「芸術」という<物語>がどのような言説構成から作り出されているかを意識化するためには、「美学」、もしくは「美学的」言説は必ずしも全く役立たずではないと思っていた。ただ、それと同時に、「美学」自体が近代的な世界観の磁場に囚われたきわめて歪められた言説装置であるという意識も強くあったために、その内側に完全に入り込み、そのボキャブラリや問題設定を盲目的に受け入れることからも注意深く距離を取ろうとしてきた。
 それから何十年かが経過して、いつしか「芸術」は死んでいた。そして、私が美学を選んだ時にこだわっていた問題設定そのものも根幹から溶解してしまった。
 正確には、ヨーロッパの近代文明が生み出したきわめて特殊でローカルな文化装置としての「芸術」や「文学」の社会構造におけるステイタスが根本的に変質したのだ。進歩主義的な歴史観やモダニズムや前衛の神話が崩壊し、芸術は「文化商品」となり、グローバル・スーパーマーケットとしての世界の中で流通する「コンテンツ」となっていった。いまやこの「芸術らしきもの」について語るということは、自らもまた地球規模の「マーケッティング」の流れの中に身を投ずるということにほかならない。「芸術らしきもの」の美的価値や美的機能は、それがスーパーマーケットの中でどれだけの売り場面積を獲得できるかという問題に吸収されてしまうのである。そして、それは美学ばかりではなく、あらゆる知識人の言説や諸科学の言説にも等しく降りかかってきている過酷な運命である。
 もちろん、美学は狭い意味での「芸術学」や「芸術理論」であるばかりではなく、「感性の学」というより広い問題設定の中で生まれてきたと言い張ることもできる。そこから、「芸術」と心中することを避けて、ポップカルチャー、スポーツ、ファッション、デザイン、都市、ライフスタイルなどに関心領域を拡張してみせたり、あるいは「感性的なるもの」を、たとえば生物学的、人類学的なフィールドの中に組み込んでいったりすることによって、「美学」の延命をはかるというような議論も出てきている。だが、近代美学が近代芸術といわば深い共犯関係にあったということは否定しようがない事実ではないだろうか。芸術、または西欧近代芸術とその後継者たちとどのようにケリをつけるかという問題は、単にその関心領域を別の場所に移すことによって解決できることではない。そうではなく美学的言説それ自体の存在要件そのものと関わっているのである。
 美学が芸術と共に心中するのか、それとすっぱりと手を切るのか、あるいは無謀にもそれを立て直そうと企てるのか、あるいはそんなことなど全く無かったかのようにして、素知らぬ顔で芸術についてのおしゃべりを続けていき、スーパーの食品売り場の商品に精通するようにしてデータベースを整備し、文化のマーケッティングに参加していくのか。美学に関わっている限り、もはやこのような困難な−−しかし、それと同時にちょっと滑稽でもある−−選択を避けて通るわけにはいかない。
 この発表では、このような状況が生まれてきた経緯を個人的な経験と絡めながら、グローバル・スーパー?マーケットの時代における文化状況について批判的な展望を行っていきたい。

2005.03.24

唐研での「送る会」

 23日は学部主催の「退職教員を送る会」が、みなとみらいのインターコンチネンタル・ホテルで開かれた。唐さんが律儀に出席してくれた。送る言葉を述べる。
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 2時間程度の会が終わると、椎野と中野がホテルまで車で迎えに来てくれて、大学へ。唐研究室での唐ゼミ主催の送別会が始まる。唐さんも、この思い出の場所で飲みたかったと喜んでくれた。雨が強くなっていたが夜半には上がった。三時間程いろいろな話をしてもらった。「鉛の兵隊」の稽古が佳境なので、用心して余り酒量を上げずにほろ酔いで帰って行った。
 12:00前頃に唐さんをタクシーに乗せて全員で見送り、研究室に戻ると椎野が突然電気を消した。24日がぼくの誕生日だったので、サプライズでぼくの誕生日もやってくれたのだ。すっかり忘れていた。25日も26日も飲み会の予定なので、24は面倒くさいからいいよと言っていたのだが、準備をしていてくれたらしい。ケーキとプレゼントをもらってとても嬉しかったが、ケーキには「五本」のローソクが立っていて、複雑な思いだ。この細いローソク一本が十年分かよと思うと、あーあと思う。というわけで50歳になってしまいました。cake


 明日は卒業式で、明後日は東大本郷の美学会で話をすることになっていますが、生まれてから半世紀記念ということで面白い話を用意していますので、関係者は是非聞きに来て下さい。

2005.03.23

徒然

 kinoshita一週間空いてしまった。学生たちに「週に二回blogを書け」と言っているので格好がつかない。
 16日の水曜日には、同じ講座の木下長宏さん、梅崎英城さんの「最終講義代わりのお別れパーティ」。日本で一番古いホテル「ホテル・ニューグランド」の旧館の海沿いのホールで開かれた。木下さん、梅崎さんの卒業生や学生たちが集まり、しみじみとしたいい会だった。二次会は中華街。こちらにも20人ほど集まった。その時にもしゃべったのだが、木下さんはぼくが25歳くらいで博士課程在学中に出会って、最初に非常勤講師にぼくを呼んでくれた人だ。長い付き合いになるが、ぼくがいまの講座に木下さんに来てくれないかと言った時に、まったく躊躇せずに「室井君が面白いというのなら、面白そうだから行くよ」と即座に承諾してくれたのが忘れられない。ずっと京都に住んでいたのに、その一言で動く行動力と潔さにはいつも感動する。退職後もこっちに留まり、私塾というか、研究会を続けて行きたいと言っている。頑張ってほしいと思う。その木下さんの新刊、「岡倉天心」が出た。処女作が紀伊国屋新書の岡倉天心についての本だから、これでまたスタートラインに戻ったという心意気なのだろう。
 その後は、唐ゼミの運営会議とか、唐さんのアトリエで、この四月から大学に教えに来てもらう三枝健起さん(NHKの名物ドラマ・ディレクターで、作曲家の三枝成彰さんの弟。宮沢りえを女優に育てた人)を交えて、飲み会をしたりしていた。唐さんの不在を埋める「舞台芸術論」の非常勤講師に来てもらうが、本格的なドラマ作りをやってもらおうと思っている。
 あとは、ひたすら引き蘢って、26日に頼まれている美学会・東部会のための講演(研究発表?)の原稿を書いていた。東大・本郷の法文1号館で、多分三時頃からやることになっている。結構面白く書けたが、果たして通じるか? 挑戦するような不安とワクワク感が入り交じっている。
 23日は学部の送別パーティと、唐さんを迎えての唐ゼミ主催の二次会。25日が卒業式。26日が東大・美学会と飲み会が続き、それでようやく一息つけるが、そうなるともう新学期だ。

2005.03.15

ぼくはタバコをやめません

 たまたま髪をカットしに行った美容院で手渡された雑誌「ブルータス」3/15号「COFFEE AND CIGARETTES」で、養老孟司さんがタバコについて答えたインタヴューを読んで面白かった。
 養老さんは、「嫌煙運動」が、ベトナム戦争の時の「枯れ葉剤」に対する環境保護団体の批判を防ぐためにニクソン大統領が意図的に「反捕鯨運動」を盛り上げさせたのと同じような巨大な政治的陰謀だと考えているらしい。「タバコの害」について、誰が責任を取るのかが全く明確にされておらず、全く論理的に検証されない形で、単に「悪いものは排除しろ」という単純でヒステリックな「正義」だけが声高に語られる状況を嘆いている。
 タバコの害に関する疫学的データのほとんどが全く不確かであることにも触れている。
 国立ガン研究センターの「タバコは肺がんの原因になる」というデータが全くいい加減であることが分かってから、急に気管支や心臓にも悪いとか、COPDの原因になるとか、矛先が変わっているが、実はCOPDとタバコの関連性も全く定かではないのだ。タバコの害に関する疫学的データについては、ぼくも以前調べたことがあるが、ほとんどが全く論理的に納得できるものではないものだった。含有物を抽出して濃縮したものを毎日マウスに注射したり(注射のストレスだけでガンになるかもしれない)、副流煙を希釈させずにラットやウサギに吸わせて血流の流れが止まるを見せたり(空気中に希釈させろと言いたい)、人為的に作り上げた偽物の真っ黒な肺の写真を出したり(生体ではヤニやタールは末端にだけ付着し、肺全体が黒くなることはありえない)、対抗するような調査結果や実験データを故意に隠蔽したり(たとえば最近カリフォルニア大学が一人だけがスモーカーの夫婦数千組を調査して、副流煙の影響はほとんどないと結論したデータなど)、それらがタバコ会社から資金提供を受けているから非科学的だと一方的に非難したり、愛煙家の言うことは「中毒者の戯言」だから聞く耳をもたなくてもいいだとか、ほとんどむちゃくちゃだ。疫学者たちは「発ガン物質」を発見すれば利益につながる。日本医師会も禁煙治療で儲けることができるので、それを宣伝する。もうみんな忘れてしまっているが、SARSが発生した時に原因を特定できない疫学者たちの無根拠な「命令」によって、どれほどの旅行業者が倒産したり、指定地域の人々が差別されたり、数多くの人たちの運命をめちゃくちゃにしたことか。一体、そのことの責任は誰が取ったのだろう? また電磁波を怖がる「白装束集団」が別に何も悪いことをしていないのに、どこに移動しても追い払われたことも思い浮かぶ。 こうしたことが「医学」とか「科学」とか言う名前の下で為されているのは、かつての魔女狩りとなんら変わるものではない。人々のそうしたスケープゴートを求める心理に便乗してメディアもまたそれをあおる。
 単なる科学的「仮説」にすぎないものをあたかも科学的に「証明されている」として、それを政策や法律を通して押し付けるファシズムによって、地球温暖化はCO2排出量のコントロールよって阻止できるという不確かな「科学的仮説」から京都議決書が採択され、社会に大きな影響を与えていることが「おかしい」と、『バカの壁』ではっきりと述べられているが、きっとタバコに関しても同じことを言えば嫌煙家の読者の反感を買うという編集者の判断で削除されてしまっていたのだろう。論理的にはどちらも全く同じことである。脳死法案もそうだし、名前を口にするだけでも恥ずかしい「健康増進法」もそうだし(こうした法制化と嫌煙運動のルーツは両方ともナチスドイツにあり、それがユダヤ人虐殺につながったということも、養老さんは指摘している)。
 もう一つは、同じ号で内田樹さんも書いているように、タバコは生活と結びついた「文化」だと言うことだ。文化は要素に分割することはできず、さまざまなネットワークによって他の要素と密接に結びついている。その中の一つだけ、たとえばタバコだけ排除するということをすれば文化のバランスが崩れる。それは文化のリンケージを破壊してしまう。作物を荒らす「害獣」を排除すれば生態系全体が大きく歪むということと同じなのである。タバコは身体に悪いだろう。だが、言われているほどは悪くない。あるいは、たとえば酒や他の食物と比べてもそれほどまでに卓越して「悪い」ということは、全く「科学的に証明」などされてはいない。そもそも「悪い」ものを追放せよというような考え方が貧しいのだ。「私たちの街には暴力団はいらない」という標語が掲げられている道を毎日通るが、それでは「暴力団」はどこに行けばいいのだろうか。目に見えないところにいるのなら安心できるのだろうか。こうして、ぼくたちの生活からはさまざまなものが失われた。焚き火や畳の部屋や縁側やゲタや着物が……。それら、それ自体としては重要ではないものが失われた結果、どれほどまでにぼくたちが大切なものまで失ってしまったことだろうか。
 有用なものだけがあればよく、不要なものや「悪」はすべて排除すべきだというような思考は本質的に貧しい。吉岡洋は、「それ自体は重要ではない何か」で、「それ自体は重要でない何か——それは「重要」で「有意義」なものばかりで埋め尽くされている世界の隙間、裂け目のようなものだ。だが、生の秘密とは、本当はそうした裂け目をとおしてしかかいま見ることができないのである」と書いている。
 タバコそれ自体は個人の嗜好品だ。それ以上でもそれ以下でもなく、それについて声高に語るほどのことはない。だが、それを声高に語ることが「正しい」と主張し、自分が「正しいことを言っている」と固執する人々は、自分たちが「正しくない」ものをすべて抹殺しようとしていることを自覚していない。おそらくタバコの煙は「目に見える」ために、攻撃目標になりやすいのである。「身体にいい」ことに偏執狂的に固執している人たちは、養老さんが言うように「生きていること自体とても身体に悪い」という生き物としての真理を忘れている。
 ロサンゼルスに行った時に、むしろ日本よりもずっと喫煙に寛容で、ストレスを感じないことに驚いた。ニューヨークでもタバコを吸う人たちは沢山いる。アングロ=サクソンのピューリタニズムから始まったこの嫌煙運動という「正義」が、なぜか日本で世界一過激で暴力的なものになってしまっていることに改めて驚いた。丸の内のオフィス街に行くと、立派な背広を着た紳士たちがビルのひさしの下の生け垣の中でこそこそタバコを吸っている(歩道だと条例違反になるため)。屋外で自由にタバコを吸えない国なんて、戒厳令を敷いてでもいないかぎり世界中で日本しかない。
 そう言えば、半年くらい前に学生と「ぷらっとこだま」に乗って関西に行った時のこと。禁煙車になってしまったので、駅で通過待ちの時間を利用して米原のプラットホームで一服していたところ、電車を降りて通りすがりの若い女性に「ホームは禁煙ですよ。ルールを守ってください。分からないんですか?」と突然強く言われた。乗降客はほとんどいないし、しかもそこから三メートル先が喫煙コーナーになっていてそこに向かってる途中だっのだ。あっけに取られていたが、後から何も言い返せなかった自分に猛然と腹が立った。喫煙者が「禁煙」の張り紙の前でタバコを吸いたくなる気持ちになるのはこういう時である。大雨が降っていて、周囲に誰もいないのに、律儀にホームの端の喫煙所までわざわざ行って吸っている人を見てもいやになる。こういうのは、マナーとかルールというようなものではないだろう。車が一日に数台しか通らない見通しのいい道で信号待ちをしている歩行者はルールを守るから偉いのか?  ただのバカなんじゃないか? 地方都市で「大人も信号を守りましょう」というような交通標語を見て(多分、子供が真似するからというようなことからだろうが、「大人なら、交通信号守らなくてもいいの?」みたいな子供口調の標語も多い)、もしぼくなら「そうだよ。まともな人間なら自分の目で判断して必要がなければ信号守らないよ」と言いたくなるのだが、こういう当たり前のことが通りにくくなっているのが現代の日本だと思う。

2005.03.11

壁の中の日常

 10日は新宿パークホールで開催中のアルカサバ・シアターの「壁−占領下の物語」の初日に行く。バッタの時の相棒の椿昇が美術をやっているのである。詳しくは椿昇のパレスチナ日記に書かれている。椿は昨年の10月約一週間にわたってパレスチナ自治区やエルサレムを訪れた。アルカサバ・シアターはアラファトが幽閉されていたラマラにある劇団。まさしく「壁の中の日常」を生きている劇団だ。
 会場には扇田昭彦さん、鴻英了さん、田之倉稔さんらの演劇関係者、金沢21世紀美術館の黒沢さん、四方田犬彦夫妻なども顔を出していた。今回ぼくは大久保鷹さんに頼まれて、映画監督で元日本赤軍コマンドの足立正生さんたちを椿に紹介することになった。足立さんは言うまでもなく、70年代からずっとパレスチナ解放運動に関わり、2000年に収監されていたレバノンの刑務所から日本に送還され、現在は新作映画「13月」の製作に取りかかっている。この辺りの事情は、最近の自伝的著作「映画/革命」や、盟友・若松孝二監督の新刊「時効無し」に詳しく書かれている。どうやらこの映画は日本の劇団がパレスチナを訪れるという話らしく、ドキュメンタリーとフィクションの入り交じった作品になるらしい。コソボ、エルサレムという世界の火薬庫から帰国したばかりの四方田さんも交えて話した。
 アルカサバ・シアターは少数派のキリスト教徒中心の劇団らしく、思いのほかソフィストケートされた無機質なスタイルの劇団だった。だが、そこに壁があり(椿は実物サイズの壁の装置を作った)、その壁に現実に閉ざされているパレスチナ人たちがそこにいるだけで、ある意味で演劇を越えているパフォーマンスであり、ずっしりした重さが伝わってくる。ただ、場所といい、雰囲気と言い、国際文化交流の取り澄ました空気に包まれていて、バレスチナで起こっている歴史的で政治的な悲惨がきれいに覆い隠されているような気もした。主宰者のジョージ・イブラヒムさんや椿お勧めのモアッズさんとも少し話したが、彼らが生きる日常と彼らの世界に向けた「演劇表現」とのつながりがもう一つよく分からないような気もした。写真はレセプションで挨拶する椿昇とイブラヒムさん。
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 レセプション終了後、大久保鷹さんと少し飲む。大久保さんは椿昇を大変気に入ってくれたそうだ。32年前、「唐版・風の又三郎」でレバノン、パレスチナを訪れた時に、「夜の男」役でロバにまたがって登場しようとしたらロバが全然言うことを聞いてくれないので、そいつを抱きかかえて持ち上げて舞台に登場したという話をしてくれた。ここから、もしかしたら何かが始まるかもしれない。

2005.03.09

唐ゼミについて(5)--近畿大学唐フェスティバル終了

 というわけで、5日に東大阪・近畿大学に入り、7日に帰ってきました。7日の夕方には、唐さんが近畿大学の客員教授に就任するという記者会見があり、各新聞やNHKのニュースなどで流れました。
 そう。そういう段取りだったわけだ。近畿大学に勤めている演出家の松本修さんや演劇評論家の西堂行人さんに働きかけ、一年以上前から進めてきた話がこういう形で実を結んだ。だから、「唐十郎フェスティバル」というのはその序曲として、ぼくにとってもとても重要な意味をもっていたわけです。
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 昼過ぎに到着すると、巨大なキャンパスの中に四会場がばらばらに配置されていて、案内板もほとんどない中で唐ゼミの青テントが寒風の中にぽつんと立っていた。近大の学生が「唐版・風の又三郎」をやったテント・カフェに行くと松本さんが一人でポツンとコーヒーを飲んでいる。初日の予約が30人で今日が15人で、初日はそれでも招待や唐ゼミ関係者が来て60人程度になったけれど、今日は20人行くかどうか分からないと聞いて、ここの実行委員の学生たちは何をしているんだと思ってチラシを撒いたり、電話で宣伝をさせようかと思っていたところ、当の実行委員長が3時半すぎにのんびりと出勤してきた。寒い戸外で受付に立っている学生たちや、客の居ないカフェで待機していたりする学生たちを見ていたので、ちょっと切れそうになった。スケジュールもでたらめで、アフタートークと次の公演時間がかぶさっていたりする。実行委員の学生たちは交流会に忙しいらしく、ほとんど会場に姿を見せない。ゲストを何時にどこに呼ぶというようなこともしておらず、南河内万歳一座の内藤裕敬さんにも芝居を見てからアフタートークしてくださいとしか伝えていなかったらしく開演5分前まで現れず焦る。というようなことが重なり、これまでのことを唐ゼミの連中から聞いて、こんなことでやっていけるのかと不安になった。
 その夜の宴会で直接、松本さんや西堂さんにこの不満を伝えたが、あまりピンと来ないようだった。「学生に全部任せているから」とか「学年によってちゃんとできる時もあるから」とか「大阪では演劇に客を集めるのが難しい」とか「学生たちがこんなに駄目だとは思わなかった」とか言い訳をされたが、そういうものではないだろうと思った。「最終講義」の時もそうだが、もしあれに100人しか観客が集まらなかったり、メディアに無視されたりしたら、ぼく自身が唐さんに申し訳が立たない。ぼく自身が実は相当追い込まれていたわけだ。唐ゼミの連中にしてもそうで、学年末の試験やレポートで忙しい時期に何日も徹夜して徹底的にリハーサルをしてくれた。劇団でためていた資金も持ち出しているし、二次会に残ってくれた数十人のお客さんたちにも手作りの料理でもてなした。唐ゼミの子たちはたとえ一年生で数ヶ月しかいない子たちまで含めて、真剣に寝る間を削って働いている。それが近大の学生にできないわけはないし、たとえできないとしても、努力さえしない学生に対して、少なくともぼくだったら絶対に許さないと言った。こんなやり方をしているようでは、とても安心して唐さんを送り出すことはできないと思ったからだ。
 そうやって怒ったことが少しは通じたのか、次の日になると実行委員の学生たちが道案内の紙を持って立っていたり、駅前でサンドイッチマンよろしく看板をつけて宣伝をしていたりした。やればできるじゃないかと思ったが、その日の会費制の「交流会」にしてもそうだし、唐ゼミがまだテントのバラしを夜中までやっている次の日の晩には身内だけの打ち上げをやったりしていて、要するに自分たちが楽しんでいるだけで、大学の外に向けてきちんとアピールしていこうという意識が薄い。これでは縮小版の大学祭にすぎないではないかと思った。
 唐ゼミの公演は初日、二日目と古くからの大人のファンが足を運んでくれた。とりわけぼくの居なかった初日には、椿昇、嶋本昭三、前回お世話になった劇団The KIOのメンバーらが来てくれたが、風が強く凍える程に寒かったらしい。二日目も60人ほどの客の中には、東京から来てくれた唐組の公認ファンサイト「唐ファン」の管理人、藤澤さんと岡山からわざわざ来てくれた友人、唐組の丸山厚人のご両親、ぼくの勤めていた帝塚山学院大学の卒業生二人、前回の大阪公演にも来ていただいた南河内万歳一座から内藤さんはじめ5名が、また最終日には東京からいつもきてもらっている唐ゼミファンの内田さん、岩波の編集者の樋口さん、読売文化部の山内さん、京都精華大学の島本浣さんとやはり帝塚山学院大学の卒業生5人、などの方々に来ていただけた。横浜国大の学生やOBも5,6名駆けつけた。新潟県の上越からは、社会人大学院生で中野の一年先輩だった金谷さんがお友達を連れて、金曜日から彼らの食事係をずっとやってくれている。ある意味でとてもぜいたくな話だが、それだけに大きなプレッシャーがかかってくる。唐ゼミの公演にはこのところいつも関西や長野や新潟や水戸から大人の観客たちがわざわざ泊まりがけで見に来てくれるようになっている。この人たちに「来て良かった」と言ってもらえるために、また新しい観客との出会いを期待して、全員が自分のもっている以上の力を引き出そうと、無理をして頑張ってくれるのである。
 実はぼくは二日目までの公演にいくつか重大な不満があった。その前の週にも二日間、延べ10時間以上に渡って中野と議論した(ぼくは彼らの劇団としての自立性を信じているので、中野や作業監督、舞台監督を通してしか現場に口出しはしないようにしている)のだが、やはり納得ができないところがあって、その日の晩と次の日の朝にも中野と議論をした。それから、中野は短時間の間に信じられない集中力を発揮して、いくつかのシーンを根底から作り替え、新しい装置を作ったり、舞台床に穴を掘ってエンディングを変えたりして、最終日はそれまでと全く違うものを作り出してくれたのである。毎回のことであるが、そうした時の彼らの頑張りと一丸となった時の集中力にはいつも目を見張る。その結果、千秋楽の舞台はぼくにとって特別なものとなった。感動で涙が止まらなくなった。これはさすがに100人程度にはなった観客にも通じたらしく、二日目とは反応が違っていたし、終わった後何人もから言葉をかけていただいた。中野は一番悔しかったのは近大の学生に「演劇科がないのに、みんな凄くうまいですね」と言われたことだったらしい。「演劇科がないから、みんな頑張れるんですよ」と言い返したらしいが、学科があるとかないとか、実技の時間があるとかないとか、そんなことではないのだ。それに、彼らは唐十郎との出会いや様々な観客との出会いによってこうなったのであって、「演劇」一般に関心があるわけでもなければ、「演劇関連の仕事」に就職したいからやっているわけでもない。「演劇っていいですねえ」というような業界志向の学生たちとは根底から違うのだ。
 最終日にやってきた唐十郎は不満足な出来だった京大系劇団の「少女仮面」と「少女都市からの呼び声」を見た後、シンポジウムと「交流会」に参加したが、芝居と関係なく勝手に「交流」している学生たちや、サインや記念撮影を頼んでくる関係者に対してストレスがたまったらしくホテルの狭い自室で、当日ゲストに来ていた新宿梁山泊の金守珍さん、松本、西堂さん、中野、ぼくを連れ込んで朝方まで倒れるまで飲んだ。近畿大のお二人には今後ともこういうつきあい方をしてほしい。まるで、マネージャーの仕事の引き継ぎのようだが、唐十郎を呼ぶだけでは何かが変わるわけではない。まずはお二人や近大の学生たちの意識から少しずつでも変えていってほしいと思う。ただ、「唐フェス」というこうした迎え方をしてくれたこと自体に対しては、唐さんもぼくもとても感謝しているということは付け加えておきたい。ちなみに唐さんは8日から泊まりがけの「人間ドック」に入ったが、何の異常も無いことが分かって絶好調だ。さっきも「入院中食べれなかったから、メンチカツとか魚とか大量に買って劇団で飲み会するから、中野や室井さんも来ない?」と電話があった。ぼくは会議で無理だったが、きっと中野は連日の徹夜と宴会続きにもかかわらず駆けつけたことだろう。
 その後、7日に一日がかりでテントをバラし、2台のトラックに荷積みをしたあと、8日の朝からトラック組と「青春18切符」組に分かれて、夕方に大学着。荷下ろしをして8:30位まで働きづめに働いた連中は、ぼくの差し入れした焼き肉を食べてからようやく家路についた。さすがに疲労困憊していたが、それでもきちんと後片付けをして散っていった。
 ぼくが感動するのは、自分の学生に対する「身びいき」でもなんでもなく、きっと近大の学生たちと基本的に同じようなものだった唐ゼミの学生たちが、唐十郎や唐ゼミという「装置=メディア」と触れることによって、こんなにも短期間に、こんなにも奇跡的に変化していくという事実である。出会いが化学反応を引き起こすというのは本当なのだ。そして、それは学校とかカリキュラムとか演劇科のあるなしとかとは全く無縁なことである。そして、同年代の若者たちと比べて、「唐ゼミ」という「触媒」が、どれほどまでに人間の元々持っている力を引き出すことができるのか、ある意味ではまざまざと目にすることのできた3日間だった。それが秋に予定されている新国立劇場での彼らのメジャー・デビューにどういう爆発を引き起こすのか、是非見てみたいと改めて思う。

2005.03.04

唐ゼミについて(4)

 「少女都市からの呼び声」から唐ゼミは学外公演を始めた。チラシも作り、いわゆる制作活動も始めた。唐組の公演でもチラシを挟み込みしてくれて、次第に学外の大人の観客たちが来てくれるようになった。何よりも、この時から椎野、禿、渡辺はもう学生ではなくなった。大学を卒業したのである。中野は大学院に進学し、石井はテレビの制作会社に就職した。要するに彼らはそれぞれに腹を固めたのだ。唐が居て、稽古場や作業場が大学にあって、外に張れるテントもある。後は前に進むも潰れるも自分たちの努力と才能の問題だと覚悟をするしかなかった。大学の外の厳しい風にさらされる度に、集団の中に大きな波が起きた。犠牲にするものの大きさを考えると、いくら楽しいからといって、みんな仲良くというわけにはいかない。何人かが脱退し、それぞれの別な道を歩み始めた。
 この頃からぼくは唐ゼミをもはや「学生劇団」とは思わないようになった。唐十郎と中野や椎野、そしてそれに必死になってついてくるメンバーたちと、裏方としてのぼくを含めたこの集団が今やっていることは、プロとかアマといった境界を越えて、今日本でも相当に面白い演劇空間を作り上げていると考えるようになった。国立大学という場所でそうした人間の出会いによる化学反応が起こっていることが面白いのだ。これはカリキュラムとかそういう問題ではない。それは、偶然に出会った人と人の出会いがあって、そこに大学というモラトリアムな空間、しかも十分な資源と時間がある場所でしか起こりえないことなのである。かつて、大学からしか生まれない文化があった。しかし、今はそんなものはない。大学は外の社会に出るまでの準備期間であり、面白いものは産業システムの中に組み込まれた「ブロ」の仕事の中にしかないと考えられている。クリエーターになりたい奴らは沢山いるが、今ここで世の中で一番面白い表現が可能だと考える奴は少ない。つまり、大学祭やサークル活動がそうであるように、すべては適度に社会の枠組みに収まることしか考えていない。所詮それは「大学時代」の思い出にしかすぎない。本当の人生の勝負は社会に出てから始まるとみんな思っている。でも、本当にそうなのだろうか。大学の中でしか生まれないものがあるのではないか? それはかつては「研究」だった。だが、みんな今では「研究」は社会に帰属するものだと思い込んでいる。社会の役に立つ「研究」を大学はすべきだと考えているのだ。そうではない、役には立たない「研究」は社会には存在すべきではないとまで言う人もいる。その逆に、たとえば日本アニメが世界で有名になると、すぐに大学に「アニメ」学科や「漫画学科」を作って「人材育成」をしようというような話になる。ぼくはそれは逆だと思っている。社会に役に立たないものこそが、社会を成り立たせているものなのだ。そして、それこそが大学でしかできないことなのである。自分の本の中にも書いたが、人間は「社会的であるばかりの存在」ではない。今やすっかりポンコツになって、単なるシステムの道具になってしまった大学にはそれでも多様な人が集まる場所がある。この場所を廃物利用するようにして、社会のどこにもない場所を作り出すことができるのではないかと考えるようになったのだ。
 とは言え、これがいつまでも続くものではない。いつまでも続かないからこそ、そこにありえない強度が生まれることがある。ぼくが愛おしく思っているのもその「生」の強度なのである。
 というわけで、明日は大阪に旅立とう。

2005.03.01

嶋本昭三さんが見に来る

 いっぺんこの辺で中休み。知る人ぞ知る嶋本昭三さんが近大に行くよという電話をくれた。唐十郎とともに現存する本物の天才芸術家の一人としてぼくが昔から尊敬しているアーティストだ。最近では日産のCMでクレーンに吊られて空から絵を描くパフォーマンスが紹介され話題を呼んだ。
 その嶋本さんだが、今年のベネチア・ビエンナーレでは歯ブラシの毛の一本一本に超微細な絵画や文字を埋め込んで行くという。これまで極大のものや、ヘリコプターや気球から絵の具を落として巨大なキャンバスに絵を描くというようなことをやってきたが、今度は極小のものの中に巨大な宇宙を埋め込んでいくということだ。それを拡大してポスターや国際的美術雑誌の特集に組み込んで行く。例のごとく国際的なネットワークを駆使していろいろな人から絵やメッセージを集めるらしい。室井さんも出してよと言われた。楽しみだ。
 その後、唐さんと電話で話す。近大版の「風又」が相当気に入ったようだ。そう言われると見られないのが残念になるが五月には東京でもやることになったらしい。近々、打ち合わせをすることになって予定を確認したのだが、来週入ることになっている泊まりがけの人間ドックが相当気になっているらしい。「説明をよく読んだら、もしポリープとかが発見されたら、即切られてしまって入院で、1-2週間出てこられなくなるらしいんだよ」と不安がっている。当分酒は控えると言っていたが、なあにどうせ日曜には飲むことになるに決まっている。

唐ゼミのこと(3)

 金沢公演に来てくれた人からTBもついていることだし、こういうのは当事者が読むと少し恥ずかしいだろうから(連中に読まれると思うと、ぼくも少し恥ずかしい)留守の間にどんどん進めてしまおう。とは言え、「余計者の嫉妬」というTBのタイトルは直裁過ぎて笑った。だが、本質はついている。なぜなら彼らと一番近いところにおり、ある意味でそういう環境を作り出してきた張本人のぼく自身ですら同じように連中に嫉妬することも多々あるからだ。唐さんとつきあうようになってぼく自身も大きく変わったとは思うが、それでも若い彼らの目を見張るような変わり方と比べれば、ぼくの変わり方は微々たるものにすぎないような気がしてならないからである。
 2001年春から中野、椎野、禿、石井たちが唐さんの演習(唐ゼミ)に入った。その年は、ぼくが横浜トリエンナーレのバッタをやった年だった。中野たちは、「腰巻お仙−義理人情いろはにほへと篇」の準備をしていたし、当初は業者に任せておけば学生に手伝わせる必要はないと思っていたので、唐ゼミとバッタは関係なく進行していたのだが結局はもの凄く彼らの力を借りることになってしまった。それは今年公刊される予定のバッタのメイキング本の方で詳しく書いてあるが、要するに中野と椎野には個人的に一生忘れられないほどの世話になってしまったのである。また、その時にバッタ・チームに入ってくれた新堀航、前田裕己、安達俊信たちがその後の唐ゼミを支えていくことになる。二ヶ月以上にわたって、延べ人数で学生200人以上に手伝ってもらったバッタのプロジェクトは学生たちの人生も、ぼく自信の人生も大きく変えてしまうほど大きな出来事だった。唐組にとってもこの年は大変な年だった。飯塚澄子が退団した後、ヒロイン役不在で新宿梁山泊の梶村ともみ、近藤結宥花を借りて公演をしていたのだが、主役級の堀本能礼が夏に退団し、稲荷卓央が病気でリタイアしてしまい、その年メディアを賑わした高橋祐也ら研究生を使って秋公演を敢行した年だった。また、2月に唐さんと二人でニューヨークに行って、ニューヨークでのテント公演の下見をした年だったが、それが「9.11」事件で流れてしまった年でもあった。そして、12月6日、7日の2日間、椎野と禿のダブルキャストで「腰巻お仙」は大学のサークル棟の合同演習室で上演された。唐ゼミ一期生による公演「24時53分、塔の下行きは竹早町の駄菓子屋の前で待っている」は、研究室で唐十郎の演出、唐組のスタッフワークで作られたものだったので、中野演出で、学生たちだけの力による唐ゼミの公演はこれが最初ということになる。唐さんは喜んで、初代紅テントの布を貸してくれたし、何と大久保鷹と緑魔子を呼んでしまいぼくらを驚かせた。まだ、舞台装置などもほとんどなく、原始的な荒々しい芝居だった。中野もこの時には「ドクター袋小路」役で出演しているが、それに懲りたのかそれ以降は演出だけに徹して役者はやっていない。四幕物という忙しい芝居だったが、最後に「美少年」が「フェードラ」の音楽に合わせて言う長台詞は美しく、唐さんはとても喜んでくれた。何しろ1967年にこの芝居をやった本人がいるのだから、音楽や歌も初演の通りに再現した。
 次に「ジョン・シルバー」をやろうということになって、バッタの時に技術担当だった新堀を中心に鉄パイプとトラックシートを組み合わせて学内で原始的な紅テント公演をすることになった。雨や風にたたられて、老朽化した紅テントの天井から雨漏りはするは、突風でパイプが倒れそうになるはと、深夜に全員がテントを守らなくてはならないような大変な思いを何度もしたが、この時の「ジョン・シルバー」は奇跡のような公演になった。椎野裕美子が開花し、禿、新堀、前田、安達らもまた凄い気迫を見せたのである。また、この時の松浦香里の装置も素晴らしかった。バッタの時に命がけの作業を共にした新しいメンバーたちを加えて、中野も音楽キッカケでどんどん力技で進めて行く演出手法を作り上げて行った。初演も見ている評論家の松田政男やバッタを一緒にやった椿昇も見にきて驚いていた。ある意味でこの公演は画期的だった。学生演劇どころか、日本中見渡してもこれほどまでに強度に満ちたパフォーマンスはそう見当たらないのではないかと思った。昔、ブレインのようなことをしてたことがある立ち上げ当初の「ダム・タイプ」を初めて見た時のような衝撃力があった。中野と椎野の才能を確信した瞬間でもある。
 60年代の戯曲をやろうとして、次は「腰巻きお仙−振り袖火事」をやろうと言ったら、唐さんに軽く却下された。唐十郎の選択基準は単純明快で、「もう一度見たいものをやってほしい」というのである。悪い思い出があって見たくないものはやらせない。というわけで、突然90年代に飛んで「動物園が消える日」を秋にやることになった。これも三日間限りの学内公演である。この時には、その一年前に同じ芝居をやった近藤結宥花が稽古から来てくれたり、梁山泊からも多数見に来てくれたりした。唐さんの知り合いや唐組、梁山泊といった大先輩たちが見に来ていろいろ言ってくれることも、彼らの力を限界以上に引き出してくれる力になった。この「動物園」が終わった後、中野や椎野たちと一緒に金沢に行った。バッタの地上置き展示を金沢21世紀美術館準備室がやってくれたからなのだが、この時にこの芝居の舞台になった金沢で再演するという話が決まった。金沢公演は2003年8月に香林坊にある廃業した映画館で三日間行われた。最終日には200人以上の観客が集まってくれたが、その時に長野や京都から駆けつけてくれた人たちも数人いて、今でも彼らを支えてくれている。いろいろな出会いがあった初めての地方公演だった。
 その前に、新宿の小ホールでの初の学外公演を「少女都市からの呼び声」でやった。これも当初、60年代のオリジナルの「少女都市」をやろうとしたのが、途中から唐さんの意向で「呼び声」に変更されたのである。この頃から唐さんは、「唐ゼミ」を学生とは思わずに、自分の過去の作品を違った形で見せてくれ、それが自分自身を刺激するものと考えるようになった。唐ゼミの公演で自分の旧作を見ることで、新作を書く新たな意欲が溢れ出てくるようで、実際に唐ゼミ公演の最中に新作を書き上げることが多くなった。「泥人魚」以降の作品はこうして書かれている。また、同時期に梁山泊の「吸血姫」や「唐版・風の又三郎」のような優れた公演があったことも相乗的に唐十郎の創作意欲を刺激していたことも忘れてはならない。毎日新聞の高橋豊さんが「唐十郎ルネッサンス」と呼んでいるような近年の活躍はこうした中から生まれたのである。
 その後唐ゼミは「鉛の心臓」で長期の大阪公演を成功させ、ぼくが学長から獲得した「学長裁量経費」で買った「蒼テント」で学外でのテント公演を行う。2004年4月にみなとみらいで再演した「ジョン・シルバー」、横浜駅近くの沢渡公園での「盲導犬」、「黒いチューリップ」と彼らのテント公演は続いていった。彼らの技術はどんどん進化し、演出や演技もどんどん変わっていった。しかし、ある意味ではぼくの中で最初の「ジョン・シルバー」の奇跡を越えるものはまだない。ただ、毎回越えられそうもない壁に挑戦するという姿勢だけは、彼らは保ち続けているように思う。
 その間に彼らは大学を卒業した。大学院に進んだ中野(当初は唐十郎と一緒に卒業します、とかっこいいことを言っていたが結局修士論文を書く時間がなく、卒業できない)を別として、椎野、禿、新堀、渡辺、古川などは卒業後も唐ゼミに残っているし、ぼくが非常勤で教えに行っていた多摩美の学生だった杉山雄樹など、現在の唐ゼミの半数近くはもう学籍のない社会人である。
 それでは、唐ゼミとは一体何なのか? それから唐十郎が大学からいなくなった後、彼らはどうするのか? それは次回に回すことにしよう。

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