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2005.03.01

唐ゼミのこと(3)

 金沢公演に来てくれた人からTBもついていることだし、こういうのは当事者が読むと少し恥ずかしいだろうから(連中に読まれると思うと、ぼくも少し恥ずかしい)留守の間にどんどん進めてしまおう。とは言え、「余計者の嫉妬」というTBのタイトルは直裁過ぎて笑った。だが、本質はついている。なぜなら彼らと一番近いところにおり、ある意味でそういう環境を作り出してきた張本人のぼく自身ですら同じように連中に嫉妬することも多々あるからだ。唐さんとつきあうようになってぼく自身も大きく変わったとは思うが、それでも若い彼らの目を見張るような変わり方と比べれば、ぼくの変わり方は微々たるものにすぎないような気がしてならないからである。
 2001年春から中野、椎野、禿、石井たちが唐さんの演習(唐ゼミ)に入った。その年は、ぼくが横浜トリエンナーレのバッタをやった年だった。中野たちは、「腰巻お仙−義理人情いろはにほへと篇」の準備をしていたし、当初は業者に任せておけば学生に手伝わせる必要はないと思っていたので、唐ゼミとバッタは関係なく進行していたのだが結局はもの凄く彼らの力を借りることになってしまった。それは今年公刊される予定のバッタのメイキング本の方で詳しく書いてあるが、要するに中野と椎野には個人的に一生忘れられないほどの世話になってしまったのである。また、その時にバッタ・チームに入ってくれた新堀航、前田裕己、安達俊信たちがその後の唐ゼミを支えていくことになる。二ヶ月以上にわたって、延べ人数で学生200人以上に手伝ってもらったバッタのプロジェクトは学生たちの人生も、ぼく自信の人生も大きく変えてしまうほど大きな出来事だった。唐組にとってもこの年は大変な年だった。飯塚澄子が退団した後、ヒロイン役不在で新宿梁山泊の梶村ともみ、近藤結宥花を借りて公演をしていたのだが、主役級の堀本能礼が夏に退団し、稲荷卓央が病気でリタイアしてしまい、その年メディアを賑わした高橋祐也ら研究生を使って秋公演を敢行した年だった。また、2月に唐さんと二人でニューヨークに行って、ニューヨークでのテント公演の下見をした年だったが、それが「9.11」事件で流れてしまった年でもあった。そして、12月6日、7日の2日間、椎野と禿のダブルキャストで「腰巻お仙」は大学のサークル棟の合同演習室で上演された。唐ゼミ一期生による公演「24時53分、塔の下行きは竹早町の駄菓子屋の前で待っている」は、研究室で唐十郎の演出、唐組のスタッフワークで作られたものだったので、中野演出で、学生たちだけの力による唐ゼミの公演はこれが最初ということになる。唐さんは喜んで、初代紅テントの布を貸してくれたし、何と大久保鷹と緑魔子を呼んでしまいぼくらを驚かせた。まだ、舞台装置などもほとんどなく、原始的な荒々しい芝居だった。中野もこの時には「ドクター袋小路」役で出演しているが、それに懲りたのかそれ以降は演出だけに徹して役者はやっていない。四幕物という忙しい芝居だったが、最後に「美少年」が「フェードラ」の音楽に合わせて言う長台詞は美しく、唐さんはとても喜んでくれた。何しろ1967年にこの芝居をやった本人がいるのだから、音楽や歌も初演の通りに再現した。
 次に「ジョン・シルバー」をやろうということになって、バッタの時に技術担当だった新堀を中心に鉄パイプとトラックシートを組み合わせて学内で原始的な紅テント公演をすることになった。雨や風にたたられて、老朽化した紅テントの天井から雨漏りはするは、突風でパイプが倒れそうになるはと、深夜に全員がテントを守らなくてはならないような大変な思いを何度もしたが、この時の「ジョン・シルバー」は奇跡のような公演になった。椎野裕美子が開花し、禿、新堀、前田、安達らもまた凄い気迫を見せたのである。また、この時の松浦香里の装置も素晴らしかった。バッタの時に命がけの作業を共にした新しいメンバーたちを加えて、中野も音楽キッカケでどんどん力技で進めて行く演出手法を作り上げて行った。初演も見ている評論家の松田政男やバッタを一緒にやった椿昇も見にきて驚いていた。ある意味でこの公演は画期的だった。学生演劇どころか、日本中見渡してもこれほどまでに強度に満ちたパフォーマンスはそう見当たらないのではないかと思った。昔、ブレインのようなことをしてたことがある立ち上げ当初の「ダム・タイプ」を初めて見た時のような衝撃力があった。中野と椎野の才能を確信した瞬間でもある。
 60年代の戯曲をやろうとして、次は「腰巻きお仙−振り袖火事」をやろうと言ったら、唐さんに軽く却下された。唐十郎の選択基準は単純明快で、「もう一度見たいものをやってほしい」というのである。悪い思い出があって見たくないものはやらせない。というわけで、突然90年代に飛んで「動物園が消える日」を秋にやることになった。これも三日間限りの学内公演である。この時には、その一年前に同じ芝居をやった近藤結宥花が稽古から来てくれたり、梁山泊からも多数見に来てくれたりした。唐さんの知り合いや唐組、梁山泊といった大先輩たちが見に来ていろいろ言ってくれることも、彼らの力を限界以上に引き出してくれる力になった。この「動物園」が終わった後、中野や椎野たちと一緒に金沢に行った。バッタの地上置き展示を金沢21世紀美術館準備室がやってくれたからなのだが、この時にこの芝居の舞台になった金沢で再演するという話が決まった。金沢公演は2003年8月に香林坊にある廃業した映画館で三日間行われた。最終日には200人以上の観客が集まってくれたが、その時に長野や京都から駆けつけてくれた人たちも数人いて、今でも彼らを支えてくれている。いろいろな出会いがあった初めての地方公演だった。
 その前に、新宿の小ホールでの初の学外公演を「少女都市からの呼び声」でやった。これも当初、60年代のオリジナルの「少女都市」をやろうとしたのが、途中から唐さんの意向で「呼び声」に変更されたのである。この頃から唐さんは、「唐ゼミ」を学生とは思わずに、自分の過去の作品を違った形で見せてくれ、それが自分自身を刺激するものと考えるようになった。唐ゼミの公演で自分の旧作を見ることで、新作を書く新たな意欲が溢れ出てくるようで、実際に唐ゼミ公演の最中に新作を書き上げることが多くなった。「泥人魚」以降の作品はこうして書かれている。また、同時期に梁山泊の「吸血姫」や「唐版・風の又三郎」のような優れた公演があったことも相乗的に唐十郎の創作意欲を刺激していたことも忘れてはならない。毎日新聞の高橋豊さんが「唐十郎ルネッサンス」と呼んでいるような近年の活躍はこうした中から生まれたのである。
 その後唐ゼミは「鉛の心臓」で長期の大阪公演を成功させ、ぼくが学長から獲得した「学長裁量経費」で買った「蒼テント」で学外でのテント公演を行う。2004年4月にみなとみらいで再演した「ジョン・シルバー」、横浜駅近くの沢渡公園での「盲導犬」、「黒いチューリップ」と彼らのテント公演は続いていった。彼らの技術はどんどん進化し、演出や演技もどんどん変わっていった。しかし、ある意味ではぼくの中で最初の「ジョン・シルバー」の奇跡を越えるものはまだない。ただ、毎回越えられそうもない壁に挑戦するという姿勢だけは、彼らは保ち続けているように思う。
 その間に彼らは大学を卒業した。大学院に進んだ中野(当初は唐十郎と一緒に卒業します、とかっこいいことを言っていたが結局修士論文を書く時間がなく、卒業できない)を別として、椎野、禿、新堀、渡辺、古川などは卒業後も唐ゼミに残っているし、ぼくが非常勤で教えに行っていた多摩美の学生だった杉山雄樹など、現在の唐ゼミの半数近くはもう学籍のない社会人である。
 それでは、唐ゼミとは一体何なのか? それから唐十郎が大学からいなくなった後、彼らはどうするのか? それは次回に回すことにしよう。

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