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2005.03.28

美学会でしゃべる

 25日は東京大学本郷で美学会東部会で話をする。なぜか今期から美学会の委員(理事)に選ばれてしまったので、委員会から顔を出す。法文二号館の美学芸術学研究室に足を踏み入れるのは、おそらく25,6年ぶりだ。まだ尼ケ崎涁さんが助手の頃で、今道友信先生が居た頃だ。東部会というのに顔を出すのは全部で四回目くらい。そのうちの二回はいずれも依頼を受けて自分が話をするために出た時だ。それでも、色んな人が聞きに来てくれるので楽しい。いつもの例会よりは随分賑やかになって盛り上がったと言われるとそれなりにうれしい。話は研究発表というよりも私小説みたいなもので、自分と美学の関わり、現在の文化状況における芸術や理論の役割などについて話す。事前に流したレジュメは以下のようなものだ。実際には一時間近くいろいろなトピックに触れたし、かなり面白かったの思うんですがね。学会の「美学」に掲載したいという話はなかったですね。もうしばらく待って何もなければウェブの方に転載します。
 終わった後、川野洋さん、尼ケ崎涁さんらと立ち話。東大の西村清和さん、成城大学の津上英輔さんたちと遅くまで飲む。泡盛が効いて翌日は二日酔い。

「美学」の喪失−−<芸術>の死後どこに行くのか?[要旨]

 私が学生の頃、美学は既に魅力に乏しい時代遅れの分野だと言われていた。本来生き生きとした活動性であるはずの「芸術」を死んだ標本にして、暗くてカビ臭い研究室の中に持ち込み、難しい顔で解剖をしているのが美学者だと考えられていたのである。「芸術」が文化の前衛として時代の最先端を歩んでいるのに対して、「美学」は暗い場所に引きこもり、世の中の動きとかけ離れた無意味で衒学的な議論にふけるだけの退屈な学問だと考えられていた。
 そんな中で私が美学を選択したのは、自分が西欧近代の生み出した近代文学や近代芸術の「磁場」のようなものに強く囚われているという自覚があったからである。それを相対化し、自分がその中に生まれてきた文化や文明、そして「芸術」という<物語>がどのような言説構成から作り出されているかを意識化するためには、「美学」、もしくは「美学的」言説は必ずしも全く役立たずではないと思っていた。ただ、それと同時に、「美学」自体が近代的な世界観の磁場に囚われたきわめて歪められた言説装置であるという意識も強くあったために、その内側に完全に入り込み、そのボキャブラリや問題設定を盲目的に受け入れることからも注意深く距離を取ろうとしてきた。
 それから何十年かが経過して、いつしか「芸術」は死んでいた。そして、私が美学を選んだ時にこだわっていた問題設定そのものも根幹から溶解してしまった。
 正確には、ヨーロッパの近代文明が生み出したきわめて特殊でローカルな文化装置としての「芸術」や「文学」の社会構造におけるステイタスが根本的に変質したのだ。進歩主義的な歴史観やモダニズムや前衛の神話が崩壊し、芸術は「文化商品」となり、グローバル・スーパーマーケットとしての世界の中で流通する「コンテンツ」となっていった。いまやこの「芸術らしきもの」について語るということは、自らもまた地球規模の「マーケッティング」の流れの中に身を投ずるということにほかならない。「芸術らしきもの」の美的価値や美的機能は、それがスーパーマーケットの中でどれだけの売り場面積を獲得できるかという問題に吸収されてしまうのである。そして、それは美学ばかりではなく、あらゆる知識人の言説や諸科学の言説にも等しく降りかかってきている過酷な運命である。
 もちろん、美学は狭い意味での「芸術学」や「芸術理論」であるばかりではなく、「感性の学」というより広い問題設定の中で生まれてきたと言い張ることもできる。そこから、「芸術」と心中することを避けて、ポップカルチャー、スポーツ、ファッション、デザイン、都市、ライフスタイルなどに関心領域を拡張してみせたり、あるいは「感性的なるもの」を、たとえば生物学的、人類学的なフィールドの中に組み込んでいったりすることによって、「美学」の延命をはかるというような議論も出てきている。だが、近代美学が近代芸術といわば深い共犯関係にあったということは否定しようがない事実ではないだろうか。芸術、または西欧近代芸術とその後継者たちとどのようにケリをつけるかという問題は、単にその関心領域を別の場所に移すことによって解決できることではない。そうではなく美学的言説それ自体の存在要件そのものと関わっているのである。
 美学が芸術と共に心中するのか、それとすっぱりと手を切るのか、あるいは無謀にもそれを立て直そうと企てるのか、あるいはそんなことなど全く無かったかのようにして、素知らぬ顔で芸術についてのおしゃべりを続けていき、スーパーの食品売り場の商品に精通するようにしてデータベースを整備し、文化のマーケッティングに参加していくのか。美学に関わっている限り、もはやこのような困難な−−しかし、それと同時にちょっと滑稽でもある−−選択を避けて通るわけにはいかない。
 この発表では、このような状況が生まれてきた経緯を個人的な経験と絡めながら、グローバル・スーパー?マーケットの時代における文化状況について批判的な展望を行っていきたい。

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