« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »

2005年4月

2005.04.26

「汚れた天使」

 月曜日は、下北沢にあるシネマアートン下北沢で開かれた「楽音キネマvol2」という企画で安保由夫さんの演奏と「幻のテレビ映画」「追跡・汚れた天使」の上映会に顔を出す。この「汚れた天使」というのは1973年に関西テレビ制作で作られながら、「意味不明」「お茶の間にそぐわない」という理由で放映が中止された唐十郎監督の作品で、「木枯らし紋次郎」の後、 市川崑総監督、中村敦夫主演という社会派ドラマシリーズの一作である。放映中止に抗議した唐、中村、脚本の石堂淑郎らは、それを支持した製作会社からラッシュで使ったフィルムを勝手に持ち出して、全国七カ所で自主上映会を行ったという幻の作品だ。
 これが凄かった。全編、「盲導犬」「ベンガルの虎」「唐版・風の又三郎」といった傑作群を送り出していた時期の唐十郎の狂気と紙一重の天才で満たされている凄まじい作品だった。確かにこれはゴールデンアワーのテレビでは流せないだろう。李礼仙、大久保鷹、根津甚八といった状況劇場の俳優たちの圧倒的な存在感も見逃せない。ぼろぼろのフィルムでところどころ見にくいところも多かったが、大満足。32年ぶりに公開された傑作と言うのに客席は余り埋まっておらず勿体なかったと思う。唐ゼミの連中数人と出かけたが、こんなことならみんな連れてくるんだったと後悔した。会場に来ていた新宿梁山泊の金守珍さん、秋元けい子さん、演奏を終えた安保さんらと一緒に一時間程飲む。いろいろな情報交換を行った。
 実は、この映画を見ながら思い出したのは、この事件の時に京大西部講堂で上映された時にぼくもその場にいたという自分でも意外な事実だ。骨折して病院に入院している中村敦夫のところに常田富士男が訪ねてくる冒頭のシーンははっきり覚えている。あの時のぼくにはこの作品が理解できずに、どうやら「小百合荘」が出てくる辺りで見ることを放棄して立ち去ったような気がする。これまた勿体ないことだ。あの頃のぼくは年長の唐さんたちの演劇に反発しか感じていなかったし、理解することもできなかった。
 というわけで、いろいろなことが重なりながらも、今週末唐組の「鉛の兵隊」の初日が新宿花園神社で幕を開ける。初日には沢山の関係者が押し寄せ、宴会も大変なことになるだろう。それまで、体調を戻しておかなければ……。

2005.04.25

同窓会好きとよく言われるが

 世の中にはぼくよりもずっと同窓会好きな奴が沢山居る。でも、たまたまある時期に同じ場所に居た人たちが集まると、ある意味では自分自身の鏡を見るようなところがあって面白いし、生き生きしている奴らを見るし発奮するし、疲れていて冴えない奴らを見ても俺だけは頑張ろうと思うし、たまには人生のスパイスとなって、それもいいんじゃないかと思う。それに、思い返してみればどの場面でもぼく自身はちょっと浮いていたような気もするし、今でもつきあっている人はずっとつきあっているけれど、そのとき限りの出会いしかなかった人とは結局は同窓会くらいでしか顔を見ないし、また同窓会で出会ってちょくちょく会うようになる人たちとかもいるし、まあ人生色々という感じでなかなかおもむきが深い。
 でもって今回は京都大学L4の同窓会。L4というのは語学で分けられたクラスのことで、第一外国語がフランス語のクラスのことだ。54人いたらしい。1973年にぼくたちはたまたま一緒のクラスにいた。実はほとんど覚えていない。クラスでコンパとかやっていたのは最初の二ヶ月くらいで、あとは授業にほとんど出なかったり夜通し議論して大げんかしたりして全く付き合いがない人たちがほとんどだ。また同業者になった人たちも多いが、思想的・政治的なスタンスが違ったりして余り口をききたくない人も多い。そんな連中が16人、京都に集まった。32年ぶりだ。会場は四条大橋横の東華菜館。昔からある古い中華料理屋だ。名前を聞いてもよく分からない奴もいるし、名前を聞くと口をききたくなるなる人もいるし、それなりに自分にとって重要な思い出を共有している人もいる。大学教員と編集者も多いが、昔明石家さんまのマネージャーをしていた吉本興業の取締役とか、寺の住職とか、薬屋の社長とか、欠席したが山下久美子を売り出したレコード会社のディレクターで太田裕美の旦那とか、売れない小説家とか、いろいろな人生を歩んでいる奴らがいて話を聞くと面白い。二次会に残った6,7人で、居酒屋からカラオケからそば屋からショットバーから梯子して飲んだくれて木屋町を歩いて戻ったのが二時前。昔、18歳で飲んだくれた時と同じように肩を組み、喧嘩し、突っ張り、仲直りしながらへろへろになるまで飲んだ。DSC05247
 朝起きると身体が異常につらいが、天気がとても良かったので、幹事をしてくれた旅行関係のリサーチ会社に勤める磯貝政弘君と京大から昔下宿していた田中高原町、銀閣寺辺りを散歩する。二人とも二日酔いで歩いているうちに実は極度に体調が悪くなり、銀閣寺道の喫茶フィレンツェでアイスコーヒーを飲んで別れるが、帰りの新幹線の中でも死んだように寝ていた。さすがに身体にこたえた。
 そのまま、東京大学駒場小空間で、唐ゼミとも深い関わりがある清末浩平君が主宰する「サーカス劇場」の公演「幽霊船」に顔を出す。唐ゼミから前田裕己も客演しているし、常連の新名佳奈子、森澤友一朗、町野啓介らもみんな生き生きしていて悪くない。芝居全体としては出来がとても良いとは言いがたい。それでも苦しみながら頑張っている若い連中を見ていると自分も元気が湧いてくる。普段そんなことは余り思わないが、こんな奴らとつきあっていけるのだから大学勤めもそんなに悪くはないかなと思ったりする。一緒に見に来ていた唐ゼミの若い連中は二日酔いが消えず気持ちが悪いぼくを尻目に渋谷の街に消えて行った。
 へろへろになって家にたどり着いてパソコンの電源を入れてみると、ホームページのカウンターが10万を越えていた。余り正確な数とは言えないが、96年から始めて9年目でようやく10万アクセスを越えたということになる。よく考えるとパソコンとの付き合いももう随分長くなったなあと思う。

2005.04.19

唐組「鉛の兵隊」

 17日、大阪城公園での最終日に行く。唐ゼミから参加している古川と伊東が挨拶に来たが二人とも元気そうだったのでひと安心。大阪公演の時期は毎年寒かったり雨が降ったりと大変だが、今年は三日とも天気には恵まれたらしい。但し、晴れの日が続いたためにグラウンドの埃が大変な上に、花見、カラオケ、バンド演奏、サッカー、野球などにどっと繰り出した人出から出される騒音、暗くなるとロケット花火などにかなり悩まされていた。土曜日よりは少ないとは言っていたが、ほぼ300人に達する満員。芝居は、複雑な人間関係やストーリーに翻弄されながらも、イメージが重ね合わされた台詞と人物造形の豊かさに魅了される。唐十郎の頭の中が沸騰しているのがよく分かる、前のめりになって言葉の増殖していくような作品だ。指先の指紋がシナイ半島の砂漠の波紋や砂嵐へと広がり、イラクから北海道へ、そして朝鮮半島から大陸へと想像力の翼が飛び立って行く。戯曲を読んだ時には分からなかったが2001年の「闇の左手」と鏡像関係になっているような「代行と交換の物語」となっているところもある。役者たちはみんな生き生きとしていて面白い。キャラクターも前作を引き継いでいて、まるでイタリア喜劇的(あるいは吉本新喜劇的)な面白さを作り出している。みんな何かに強いオブセッションをもっている奇怪で魅力的な登場人物たちであり、その「モノ憑き」に媒介された人間関係はきわめてユニークでどこでも見たことがないものだ。一匹狼自衛隊になって、夜の闇に消えて行く稲荷卓央の背後にライトアップされた大阪城はまるで古武士のようにも見えて、美しいエンディングだった。
 南河内万歳一座の荒谷・鴨夫妻、東京から団体でやってきた坪内祐三と文芸雑誌「enTAXI」のチーム、そして大阪公演の関係者で打ち上げの宴会。二時前まで盛り上がり、唐さんはそのまま倒れ込むように蒲団へ直行。劇団員たちも次の日8:30からのバラしが待っている。週末一日だけの神戸公演をやって、30日、5月1日の新宿花園神社公演で東京にお目見えすることとなる。ぼくは今年も出来る限りつきあいます。
 ちょっと疲れたので朝起きてからすぐに新幹線に乗って帰宅。少し眠って元気を取り戻した。

2005.04.16

第二週終了

 こちらも同じく超多忙だった。風邪が治りきっていないが、何とか乗り切る。非常勤で行っている多摩美も横国もとにかく初めて顔を合わせる学生たちばかりで緊張する。いつまで立っても緊張する。長い間同じことをやっているのにこちらがどぎまぎしているのは恥ずかしいという気持ちもあるが、しかしこうしたどぎまぎしたところからしか、何かは始まらない。確かに見かけの年齢はどんどん離れて行くが、そうした相対的な「若さ」が「新しい」わけではなく、自らの内側に自らを変革していくような動きを絶やさないことが、年齢と関係のない「若さ」だとしたら、実はどぎまぎしたり、相手をどぎまぎさせる能力の方が重要なのかもしれない。どちらかと言うと学生たちの方が、「○曜○時限の先生」というような枠の中で授業を捉え、観客席から冷静に教壇の前に立つ教員を吟味しようとしている。たいしてどぎまぎもしないし、自分たちの知っている「先生」の枠組みの中に配列しようとしている。それをどうやって突き崩し、相手にどぎまぎさせてやろうかと考えるから、初講義は疲れるし、そのパワーの消費量は多い。こうして、何度かやっているうちに「まあ、こいつらはこんなものだ」という相対化が完了してしまうと、やる方も受ける方も何にも驚かなくなってしまい、つまらない儀式と知識の伝達に陥ってしまう。今年はどこまで行けるだろうかと考えると、ますますどぎまぎしてしまう……まあ、だいたいこんなような感じだ。
 だいたい満足できた時間もあり、全く自分に不満な時間もあり、夜遅くまでの会議もあり、電話やメールでのやり取りもあり……と、休む暇無く一週間が過ぎた。
明日は唐組公演「鉛の兵隊」を見に大阪へ行ってくる。

2005.04.10

第一週終了

 予想通りに毎日大変だった。ここのところ風邪っぽくて身体がだるく、今日は一日寝ていた。
6日は新入生ガイダンス。午後三時に終わり、それから二年生が仕込んだ屋外でのバーベキューパーティに。これは直前まで「カレーパーティ」だったのだが、前日にクーデターが起こって焼き肉パーティに変更されたらしい。ちょっとだけぼくも噛んでいる。ほとんど全員が残ってなかなか盛り上がった歓迎パーティになった。新二年生の連中とはこの半年顔を余り会わせることが無かったが、みんな頑張っていて楽しみだ。
 そのまま渋谷に行って、アートンの社長の郭充良さん、涌井さんと「バッタ本」の打ち合わせ。前回横浜トリエンナーレの時のことを書いた本だが、何とか今年秋の第二回トリエンナーレまでに間に合わせたい。いろいろと注文をもらったり、他にも様々な話をしたりしてで終電を取り逃がし結局タクシー帰り。疲れたし、余り飲み慣れないバーボンが効いた。
 タバコの吸い過ぎで喉が痛い上に二日酔いのまま翌日は在学生のガイダンス。そのまま会議になり、7:30過ぎまでかかる。唐ゼミの中野と椎野が待っていてくれていろいろと報告を受ける。
8日は一年生の基礎演習の顔合わせ。今年は424のマックを使って何かを発信させたい。いつものことだが、マスメディアの流す情報にどっぷりと浸かっていて他には何の関心も興味もないことに改めて衝撃を受ける。
 来週も忙しい。週末には唐組の大阪公演にも行く予定。唐さんの近畿大学初講義には中野が随行することになったがぼくは今回はパス。是非成功してほしい。
 そういえば今発売されている「せりふの時代」に「最終講義」の対談が、それから文芸雑誌「en−TAXI」には特別付録で文庫本サイズの春公演の戯曲「鉛の兵隊」がついている。特に後者は面白い企画なので是非買っていただきたい。ついでに、15日には慶應大学出版会から「新記号論叢書・セミオトポス」の第一号「流体生命論」が発売される。これは日本記号学会の新しい企画だが、結構面白いと思うので、こちらもよろしく。

2005.04.05

今日が入学式

 桜も開花し、また新しい出会いが始まる。
 3月31日は、四月からゼミが始まる新三年生たちとプレゼミ・コンパ。一月末からblogを始めていろいろあったりして何となく始まる前なのに打ち上げ的感覚。久々に二次会のカラオケまでつきあった。みんなJ−POP好きなので何となくいじめたくなり、「こんな中途半端なものは文化じゃない」と難癖をつけると、みんな「そんなのは個人個人の趣味ですよ」と口を揃えて反論する。「そーじゃないよ。何でも鑑定団と同じで、本当にいいものが分かるには知識も必要だし時間がかかるんだよ」と決めつけてやると、悔しがって「そうかもしれないけれど、だからこそ私たちが共感できるんじゃないですか?」と言い返してくるので、「等身大とか共感できるのが大事とか言うこと自体恥ずかしいことなんだ」というようなことを言うと、これまた全員「いやー、それは違いますよ」とぷんぷん怒っているのが面白い。多分、話の中身それ自体よりも、ぼくがそう決めつけてくるのに反応しているのだろう。「あれって、いいよねえ」とか「あれにはすごく共感した」とかいうことに、ケチをつけられたことが余りないに違いない。その部分だけが「人それぞれの価値観」で許される部分だと思い込まされているし、その部分の「共感つながり」が人間関係を作り上げているのだから、そこを突っ込まれるとムキになって反論してくるのだ。逆にぼくはそこに切り込んでいきたいと思っている。これも切り込みすぎると、すっかりいじけて寄り付かなくなってしまうので、どこまで突っ込むのかというバランスが難しいけれども、そこに切り込んでいかない限り、文化について教えることなんてできるはずがない。
 4月1日は、何人かの学生と約束してあったので研究室で面談。唐ゼミの新ウェブについての会議、それから講座に新任の二人の先生を迎える。4月2日、午後から横浜で慶應大学出版会から出す「新記号論叢書・セミオトポス」第二号の打ち合わせ。第一号「流体生命論」は15日に発売されます。そのまま、飲み会に。
 4月3日は高田馬場で、5月21−22日に開かれる「日本記号学会第25回大会・<大学>はどこに行くのか?」の打ち合わせ+飲み会。大垣から吉岡洋が来てくれる。4日は大学で学生スペースフロアの大掃除。新しいゼミ生や、新入生歓迎イベント準備中の新二年生たちと掃除をしながらおしゃべりをする。悪くない。
 帰ったら、中村敬治さんの訃報を聞く。ぼくの誕生日に亡くなっていたらしい。68歳だから今時まだまだ若い。80年代の初め、国立国際美術館の主任学芸員だった頃知り合って、時々いろんなところで会っていた。この人は同志社大学の造反教員の一人で、大学と喧嘩して美術館に入った。硬派のモダニストで、いろいろなところで喧嘩をしていたが、なぜかぼくには割と親切だった。国立国際を辞めた後は、初台のICC(NTTインターコミュニケーションセンター#どうやらここも潰れるらしい)の初代副館長で実質的に現場を取り仕切っていた。木場の東京都現代美術館で「ウォーホル展」をやった時に一緒にシンポジウムに出たり、水戸芸術館で「TVゲーム展」をやった時に、なぜかぼくを指名してくれて公開の対談をしたりした。ICCで「メディアアート」をしなくてはならないのが相当嫌だったようで、水戸の時には「メディアアートなんて!」というタイトルで徹底的にメディアアートの悪口を言っていたのが印象深い。この十年程鬱病でどんどん痩せていき、元気がなくなっていくのが気になっていたが、結局胃ガンだったらしい。多分、変っていく世の中を嘆きながら、飲み過ぎたのが原因だったのではないだろうか。立場的には全く違うけれども、モダニズムを愛した侍のような人だったし、嫌いではなかった。さびしい。

« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »

最近のトラックバック

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31