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2005.05.23

日本記号学会二日目終了

 朝早いので前日は早く寝たのだが、今度は起きるのが早すぎた。5時過ぎには目が覚めてしまった。というわけで、やはり今日も眠い。9時前に現場に到着すると岡本さんはまだ来ていなかった。だいたい僕は見かけとは違って極度に神経質なので、約束の時間の30分前くらいに到着していないとなんだか落ち着かない。見かけは傲慢そうで、「何でも来い」という感じに見えるらしいが、世間というのは簡単に騙されるものなのであり、実はこのところずっとこの大会がうまくいくかどうか心配で胃が痛いのであった。
 分科会の準備。またしても、機材関係のトラブル。どうも、この大学は設備は大変すばらしいのだが、あまり日常的に使用されていないらしく、前日はテープデッキにうまく録音できず、本日はPCからプロジェクションすることができず、焦る。結局は10分遅れくらいで終了。ぼくが聞いたのは去年精華大学の大会でお世話になったタン・ズイチン君の「マレーシアの大学変革」に関する報告、京都大学大学院の松本健太郎君の「丸山圭三郎とメディア論」についての報告、途中何度か中座したが東京大学大学院の西兼志さんの「<顔>の記号学」に関する報告の三つである。それぞれに興味深い報告であるし、何よりも聴衆が思ったよりも多かったし、質疑も活発だったのでうれしかった。松本君の発表は記号論=丸山、バルト、メディア論=マクルーハン、ボルツ、フルッサーその他大勢みたいな杜撰な見取り図が気になったが、パワフルで言いたいこともはっきりしていて好感がもてた。ただ、こういうのはもっと研究会みたいなところで微にいり細にいり徹底的に議論してみたいネタなので、そういう意味ではちょっとこれだけで終わるのが残念。どうなんだろう。たとえば、WebやBlogに発表論文を載せてもらって、そこにコメントや議論を書き込んでいくというのは‥‥。そういうのを記号学会のWebでやってみようかな。
 学会というものは、結局は人が一カ所に集まるのが一番の目的であるから、いろいろなコミュニケーションの輪を作り上げていかなくてはつまらない。会長をしていて、偉そうに理事会メンバーやお年寄りとだけ話をしているのでは意味がないので、手伝いの学部学生から、大学院生、中堅のメンバーとなるべく多くの人と話して、さらにはそれぞれのグループをつないでいくのが会長の役割だと考えているのだが、さすがに時間が足りなくてなかなか思うようには動けない。初対面で挨拶しそびれた人には申し訳なかった。それに細かい雑務も結局は人を使うよりも自分でやった方が早いので、メイン会場の張り紙や椅子の配置、マイクの設定なども隙をみてちょこちょこと自分でやってしまった。張り紙の張り方が曲がっていたりして汚いと学生たちに突っ込まれた。それは分かっているけど、じゃお前ら気を利かせてやっといてよと言い返してしまうのが大人げない。こういうことをやっているからいつまでたっても偉くなれないのだと思う。
 で、最初のラウンドテーブル。静岡大学の外山さんと、横国の榑沼君登場。外山さんに国立大学の「惨状」を報告してもらうが、どうもオーディエンスにうまく伝わらない。何よりも、以前の国立大学があまりに恵まれていて、浮世離れしすぎていたために、私立大学や地方の公立大学の人には「何言っているんだよ。そんなこと当たり前じゃないか」という印象を持たれたようだ。だって、研究費が1/3に減らされたと言われても、じゃそれまでどんだけもらっていたんだよと思われるのが当たり前である。他方、榑沼君が同僚のぼくのネタを振りすぎるのも良くない。まあ、彼はメゲない奴なので、こんなことを書いてもどうせ別なところでまたこれをネタにするのだろうが。というわけで、いろいろ微調整しながら何とか筋道をはっきりさせようとして話を進めるが、フロアからも活発な意見が飛び出して助けられた。ゲストの金子郁容さん、内田樹さんもずっと聞いていてくれたようだった。内田さんが見つけられなかったので、とりあえず金子さんだけにしゃべってもらう。いい雰囲気で次につなげることができた。
 そのままわずか10分の休憩で次のシンポジウムに突入。金子さん、内田さんの順番で話してもらうが、どうも内田さんは勘違いしていて、自分だけが場違いで特殊な意見の持ち主だと思っていたらしい。違うんです。ほとんどが人文系の研究者で今どうしたら効果的に抵抗できるかを求めているんです。ですから申し訳ないですけれど、今日の悪役は金子先生の方なんですと説明する。そうすると、金子郁容はすぐに自分の役回りを理解してきびきびと悪役を演じてくれた。こういうところが金子さんの素敵なところである。数量化やデータを示すことが政治的にもたらす効用について語り、努力しないで既得権益にしがみつくような「象牙の塔」をみんなで良くしていかなくてはならないという金子さんの主張は、基本的には現在の支配的なイデオロギーに近い。何よりもアメリカ生活が長い金子さんには、多民族国家で「常識」や「コンテクスト」がばらばらなためにすべてを明文化し、数量化された合理的「根拠」を示せないと社会がうまく機能しないアメリカ型の手続きに対する信頼が強い。昨日の西垣さんの話にもあったように、こうしたアメリカ型のシステムが世界中のあらゆるところにはびこり始めている。その一見すると誰しもが「正しい」と思ってしまうようなシステムの拡大が問題なのだ。さらに、そうしたシステムに従わないと、すぐに「悪の枢軸」呼ばわりして劣化ウラン弾を打ち込む単純さが問題なのである。金子さんの発言の中で一番印象に残ったのは、「そんなことを言ったってリベラル・アーツ教育が何を成し遂げたんですか。現在の政治状況についてまともに発言できる知識人が日本に誰もいないのは、あなたたちの怠慢ではないですか」(正確な引用ではない)、というようなものだった。金子さんが時々そのソフィストケートされて穏やかな装いをかなぐり捨てて、むき出しな怒りを出すことがあるのが面白い。以前「ボランティア」ブームを作り上げた時に、ある席上でぼくが「市民」ネットワークや「ボランティア」流行の弊害についてあてこすり的な批判を連ねた時に、金子さんが急に怒りだして「そんなことを言う室井君は自分で何もやっていないじゃないか」と切れた。気持ちは分かるが、これは言い過ぎだと思った。批判になっていない。ぼくは何もやっていないわけではない。それどころか、ボランティア的な行為は自分の一生の中でかなりの部分を占めている。つまり、金子さんは「ボランティア」という名前をつけ、そのカテゴリーの枠の中にあるものだけを合理的に調整しようという信念をもっている。その外側にある曖昧模糊としたカオスや謎や外部は嫌いなのだ。だが、昔のたとえばサルトルのような「哲人」的でパワフルな知識人や「市民」を魅了する有力な知識人がいないのは、けっして人文系大学人の怠慢などではない。だいたい過去のそうした人たちだって大学が「育てた」ものではなく、勝手に現れたのである。なぜそれが可能だったかというと、社会がそうした存在を求め、許容していたからだ。だから、そうした言論人が相対的に減ったのは、むしろ金子さんがいうような「合理的システム」が社会を浸食し、それらを閉め出したからではないかと思う。
 内田さんの姿勢の面白さは、フランス文化に関する浩瀚な知識や教養はもちろんであるが、その底に「武道」といった人間の身体や生命につながる領域に深く通じているからではないかと思う。それはぼくにとっても重要で、知識や教養が「有意義」でありうるのはそうした生き物としての姿勢や構えがあってのことなのだと思う。逆に言えば、フーコーやレヴィナスやドゥルーズが重要なのではない。彼らの思考を重要だと思える「からだ」を作り上げることの方がずっと重要なのだ。そうでない「からだ」ができていない奴らが増えるとそれはただの「思想オタク」になる。アートにしても、演劇にしても、もの作りにしても、文学にしても、そうした「からだ」を作り上げることに意味がある。そうでなければ、哲学や思想など身につけても仕方ない。ぼくがずいぶん久しくゼミでテキストを使った勉強会や原書講読をやらなくなったのは、そんなことは自分で勝手にやればいい、もっと重要なことは、家畜のようにシステムから与えられた餌や情報に満足することなく、批判的な視点を自分を含めたあらゆる方向に持つことのできるような「からだ」を作ることであると考えるようになったからである。だから、手作りせんべい作りも重要な教育成果なのだ。ただ、内田さんが仏文科の環境と人文系女子大という「秘密の花園」で暮らしているためか、やはり工学系や情報系といった現在の大学制度の中の「主流」に属する人々への理解に乏しく、その意味ではやや狭く閉ざされた主張であることは否めないようにも思われる。「黙って俺の言うことを聞け」と言っても、こうした現在の大学行政の主導権を握っているテクノクラートたちはけっして耳を傾けてはくれないであろう。どうやってそれが可能であるかということに関して、「プチやくざ」としてうまくシステムをだまくらかしていくスキルを身につけなくてはならないというのが、吉岡洋の主張だが、ぼくとしてはむしろ大学がつぶれてしまっても生き残れるパワーをなくさないようにしよう(「失業なんて怖くない」という図太い姿勢を育てていくこと)と言いたい。これは京都精華大学の島本浣が「みんな大学教員が失業してしまってタクシー運転手をやりながら、それでも若い人たちを集めてゼミを続けていく」というような言い方で言ってくれた。そう。重要なのは「大学」という現実の制度なのではない。それを支えているのは授業料でも税金でもなく、大学や知識を必要とするような「からだ」なのである。言い換えれば、それは現存のシステムや社会におさまりきれない人間のもつ「思い」が支えているのだ。ぼくとしてはそうした原点を思い出させてくれるような学会だった。
 会場には横国の同僚や大学院生たち、IAMASの学生たち、内田さんや金子さんに惹かれて来てくれた非会員のひとたちがつめかけ大いに盛り上がった会になった。西垣さんにしても金子さんにしても内田さんにしても、信じられないほど安い謝金額にもかかわらず快く引き受けてくれて、しかもとても面白いセッションになったし、ありがたいことである。また、何かあったらきっとお返しをしようと心に決める。終わった後、岡本さんや吉岡と一緒に高田馬場駅近くで軽く打ち上げ。IAMASの稲川君や群馬大の後藤さんのはぐれものとしての半生を聞いて強い印象を受ける。小説にしてほしいほど面白い。こういう徹底してはぐれてきた人たちは大好きだ。だけど、君たちこのままじゃだめだよ。次に会う時まで上に述べたような「からだ」作りをきちんとしておいてほしい。
 さらに8:00過ぎには南新宿にある同僚の大里俊晴君のところで開かれているパーティに顔を出す。マルチの一期生、唐ゼミメンバー、記号学会から流れた榑沼君や学生たちが集まってわいわいやっていた。大里君は新宿南口駅前の13階建てマンションの14階にある屋上のペントハウスに引っ越したのだが、まるで巨大な学生アパートのようなワンルーム(基本的には事務所スペース)で、これまた巨大な学生コンパのような飲み会を楽しむ。
 ちょっと、内田さんのblogの余りの早さとそのボリュームに影響を受けてめずらしく長い文章を書いてしまった。また、このネタについては継続していくつか書いていこうと思う。

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