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2005.05.26

内田樹「ためらいの倫理学」を読む

 記号学会以来、何だかここのアクセス数が激増している。やはり「大学人blogの王者」内田樹効果なのだろうか?
 まことに怠慢なことであるが、ぼくは内田樹さんの本をこれまであまりまともに読んだことがなかった。blogを読んでいるのでだいたいのことは分かっているつもりでいたが、今回一緒にセッションをしてみて改めて面白かったので、早速一気に「ためらいの倫理学」(角川文庫)と「先生はえらい」(ちくまプリマー新書)を読んでみた。読んでみて、なぜ内田さんが最近になって急に読まれるようになったか、その理由がよく分かった。
 90年代は思想にとってきわめて不自由な時代だった。それをもたらしたのは80年代における広い意味でのポストモダニズムである。すべてを相対化してしまう「何でもあり」のポストモダニズムに対して、フェミニズムやポストコロニアリズムなどの「政治的な正しさ」を主張する原理主義的イデオロギーが力を持つようになり、それは「従軍慰安婦問題」や「ショアー」論などの「記憶と表象と責任主体」論のような不毛で退屈な論争へと展開していった。カルスタ系の「ディアスポラ」論や国民国家論が沸騰したのも記憶に新しい。ぼく自身はこうした90年代の流れに全くなじむことができなかった。自分でも「マルチカルチュラリズム」についてのセッションをやってみたり、吉見俊哉さんたちが組織した「カルスタ」研究会に参加したりもしたが、全く面白いと思えなかった。その理由は何となく分かっていたものの、まだ少しもやもやしていたのだが、「ためらいの倫理学」を読んで、なるほどそういうことだったのかと、すっきりした思いになった。他方、ジャーナリズムの世界では社会現象を「意味」に回収しようとする社会学系や心理学系の「現場思考」の人々が大量に登場し、映画やロックの「解放的な流れ」を引き出して文化的ヘゲモニーを変革しようとするカルスタ論者も現れたが、結局は経営学者や弁護士や政治評論家のような時事問題について皮相な見解を述べるだけのさらに「現場寄り」の人たちが「知識人」ならぬ「コメンテーター」として生き残った。「現代思想」のような思想雑誌が全く面白くなくなり、それと同時にぼくのところにも原稿の依頼がほとんどこなくなったのもそうした時代状況を反映していると思う(もちろん、お前がつまらないからだと言われればそうなのかもしれないが、ぼくとしてはそうは思っていないのだから、やはりここは時代のせいにしたいところである)(笑)。
 つまり、どこにも「思想」や「批評」の居場所がなくなってしまったのである。なぜ、そうなのかということについては、大澤真幸が一連の著作で明らかにしているように、思想や論理的思考が、「相対主義/原理主義」という相互依存的な「袋小路」の中に閉じ籠められてしまったからだ。この対立を止揚したり、統合したりすることはあらかじめ論理的に禁止されている(大澤によれば、それは超越的な第三者の審級の不在として語られるが、これはこれでまた息苦しい立論の仕方だ)。そのため、一方では一貫した「主体」としてある立場を引き受け、違う立場の人々をことごとく断罪するフェミニズムのような息苦しい言説空間が支配的なものとなり(内田の言う「審問」のディスクール)、他方ではすべてが言語ゲームにすぎないという底なしの相対主義が拡散して、個別的で具体的な問題にプラグマティックに対応していくしかないというシニシズムを拡大させていったのではないだろうか。こうして、ひとは巨大な暴力を前にすると何も語ることができなくなってしまった。何かの組織や立場を共有する人々の中でしか、自由にものを語れなくなってしまった(フェミニズムの内部でどんな発言をしても、それはなんらラディカルではありえないし、どの立場につくかということだけが重要な事柄であるとしたら、知的な自由などは存在するはずがないし、インサイダー取引のような形で株で儲けてしまった人には経済システムの批判はできないし、泥棒が犯罪を告発することはできない‥‥というような形で、人々は「立場」の上でしか思考することができなくなってしまったのである)。
 内田さんの言説はこの「息苦しさ」からぼくたちを解放してくれる陶冶的な効果をもっているように思われる。そもそも、知的な言説というものが何のために必要だったのかをぼくたちは忘れていたのではないだろうか。それは誰かをやりこめるための道具でもなければ、自分を固定した立場や視点に縛り付けるものでもなく、ましてやある社会的なグループの中での自分の相対的な位階を上げるための武器でもなかったはずだ。自己目的的なゲームでもなければ、唯一の「正しさ」に漸近線を描いて接近していく探求などでもない。そうではなく、それは一つの意味や一つの立場にけっして解消されることのない揺らぎやずれや不確定性の中に自らを解き放っていくことによって、自分の立っている地平が変容し、自分自身の固定した世界観からゆるやかに解き放たれることから生まれる「自由」の感覚に結びついていたはずだ。内田さんが「自分が正しいと言い張る知」ではなく「自分が間違っているのではないかと疑う知」の側に立つと言っているのは、こうした「息苦しさ」や「自己正当化」に閉ざされてしまった90年代の思想環境に対するラディカルな異議申し立てになっているのであり、その意味でこうした本来の知の愉悦に満ちたテキストが求められるようになったのではないかと思った。だから、これは確かに「秘密の花園」に住む人文学者にしか書けないような特異なテキストなのである。

 ところで、早速内田樹さんから変な宿題をもらってしまった。

>世の中には「悪童系」というカテゴリーに属する学者がおられる。

>その知性の最良の資源の一部を惜しみなく「人をからかうこと」に投資するタイプの人々である。

>森毅先生とか養老孟司先生とかはおそらくそのタイプの先達である。

>室井先生もなんとなく「ご同類」のような気がしたので、「先生の企画する面白そうなプロジェクトがあったらお声をかけてください」とお願いしておく。

>私はほかにたいした取り柄はないが、「人を怒らせる」ことに関しては人後に落ちない。

>室井先生であればきっとこの「使途不明」の才能の功利的活用の道をお考えくださるような気がする。

 ふむ、いやあそうなのだろうか?  それにしても「人をからかう」タイプと「人を怒らせる」タイプの人間がその才能を「活用」するとなると、それはどんなケースなのだろう?  そこには、からかわれ、怒らされるという最悪の立場の人間が誰か居なければいけないことになる(そうでないとこの二人が才能を発揮できないものね)。となると、それは強大な権力そのものであるか、どんな批判にも動じない原理主義者ということになるよなあ。うーむ、考えても分からないので、とりあえず何か企画がある時には、いつでも内田さんの名前を最初に候補に挙げておくことにしようと、いい加減に決める。

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コメント

内田さんよりもっと身も蓋もなく、20世紀までの哲学(当然90年代の思想状況も含まれます)の鬱屈した流れを蹴っ飛ばしているのが、須原一秀さんの『<現代の全体>をとらえる一番大きくて簡単な枠組み』ですよ。内田さんから小狡さを抜いて破れかぶれを足した感じかな。多少議論は強引ですけど、カルスタやポスコロやサバルタンやポモの不毛さに辟易している人には爽快だと思います。お奨めです。須原さんの主張を簡単に表せば「人間の汚さや矛盾を排除しない肯定主義」+「理想主義を断念して、場当たり的対応の積み重ねで世の中を回していくことを積極的に推奨する」+「肯定主義による人類の活力の向かう先としてのフロンティアと、活力が暴走してしまわないための最低限の安全装置としての民主主義を整備しよう」ということでしょうか。

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» ついつい でも、最近は [ほげほげ意匠]
「息苦しさ」からぼくたちを解放してくれる         と。 なるほど   ほげほげに  似る。とも。 活字も  ぶろぐ散歩以外 [続きを読む]

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