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2005年6月

2005.06.27

唐ゼミ★の「煉夢術」

 唐ゼミの特別新人公演「煉夢術」が、今週末の7/1,2と来週の8,9,10に上演されます。26日には初めて唐十郎を迎えてテントでの通し稽古。ぼくも初めて観ました。主力の役者も出ていないし、戯曲はモノローグの連続で、カタルシスもなく、果たして大丈夫かなあと心配だったのですが、これが相当に面白い。中野敦之の演出が冴えまくり、テントでのエンディングも稀にみる完成度で、これはイケます。テントがイケる。二日間しか入れなかったのが残念になるくらい。
唐十郎23歳の時の若書きの作品で、まだスタイルを確立する前のものですが、それでも随所に唐でなければ書けない言葉が散乱していて、中野の演出はそれをていねいに拾い上げながら屹立させていく。ある意味で、同じ年頃の青年たちがまともに向かい合っているのは、この作品の本来のあり方なのかもしれないし、時代を超えた普遍性を感じさせます。
 確かに、役は少ないし、プロの劇団がこの作品を上演することは今後ないだろうと思われますし、「唐ゼミ」の「新人公演」という形はなかなか良かったのではないかという気がします。
 というわけで、これはなかなかイケます。それもできればテントで観てほしいところ。
 三ヶ月ぶりに大学に来た唐さんを「おかえりなさい」とみんなで迎え、唐研での宴会。「鉛の兵隊」の公演を終え、近畿大学の講義や劇団のお疲れさま会と飲み会が続いて相当体調が良くなさそうな唐さんでしたが、とても喜んでくれたので良かった。

2005.06.20

「鉛の兵隊」千秋楽

 気温の変化が激しいこの時期には体調が崩れやすい。木曜日の午後から喉が痛く、金曜日から夏風邪をひいてしまった。土曜日は日本記号学会の打ち合わせで東大駒場へ。太陽がまぶしく蒸し暑いのに、寒気がして頭がくらくらする。唐組の最後の公演場所「西新宿原っぱ」にたどり着くと、唐さんも朝から少し喉が痛いと疲れた表情だった。どうやら、この原っぱは10月の秋公演にも何とか使用できることになったらしい。これ以上の場所はなかなか見つからないだろうと思えるだけに、うれしいニュースだ。
 最後だけあって二日とも超満員。土曜は石橋連司、石橋凌の大物俳優陣に、カズモ制作の「愛の劇場/コスメの魔法」に出演している大鶴義丹、十貫寺梅軒、小野真弓ら。日曜は、「北の国から」の杉田監督、渡辺えり子(とご主人)、来年一月にロードショー公開の決まった映画「ガラスの使徒」の主演女優・佐藤めぐみ、金守珍さんたち梁山泊組、松本修さんらに加えて、多くの常連の人々を集めて、まあお祭りのような賑やかさだった。以下は、その席で議論したことの概略である。芝居を見ていない人にはよく分からないと思いますが、唐十郎の劇作法に関わる話なので書いてみたいと思う。
 今回の芝居のポイントは二幕で語られる「春光台ペット・セメタリー」をめぐるエピソードにあると思われる。久保井研演ずる月寒七々雄が少年時代、親友二風谷ケンの出身地「近文」が、春光台というどこにでもありそうな住宅地に名を改められ、祖父母の地が団地のペットの墓地になっていることに腹を立て、地名表示板を書き換え、墓場を荒らしたというエピソードが語られる。これは、稲荷卓央演じる二風谷と、入れ墨師の娘小谷(藤井由紀)の二人が「アイヌ出身者」であるということに深い関係がある。
 明治政府は北海道の開拓を、西部開拓の実績のあるアメリカ合衆国の指導に従って進めた。インディアンと同じように、アイヌを居留地に押し込め、後には同化政策によって固有の言語や文化を封殺していった。そして、日本は「単一民族国家」であるという虚構を浸透させると同時に、朝鮮半島や台湾などの植民地においても、創氏改名の強制などの同化政策を採った。こうしてブルドーザーのように先住民族の文化や生活を押しつぶしてしまった象徴が「春光台ペット・セメタリー」なのである。征服民である七々雄が、被征服民である二風谷のために、ペットの墓場を破壊したというところにこの話の核心がある。
 戦前から北海道の陸軍部隊はとりわけ戦闘が激しい地域に最初に派遣されるという傾向があった。移民たちやアイヌ出身者の多い部隊だったからかもしれないが、実際に旭川の第七連隊は「全滅部隊」と呼ばれていたらしい。それから数十年を経て、イラクに最初に派遣されたのがやはり旭川の部隊だったというところに唐十郎は目をつけている。アメリカのスタントとしてイラクに赴いた部隊の中には、やはりアイヌ出身の自衛隊員が居たのかもしれない。彼らは自らが被征服者として被ったのと同じことをイラクの民衆に対して行っていることになる。つまり、ここでは単に「イラク派兵」が問題にされているのではない。人類の歴史の中で絶えず繰り返されてきた征服と屈従の物語、文化や言語の収奪と破壊、ひいては数万年前に北アフリカのアファール地峡から始まったにすぎないと言われる渦巻きのような現存人類の大移動がそこでは問題とされているのだ(彼らは大地溝帯にそって、アフリカを南下する方向と、パレスチナを経てアジアや北方に移動する方向に分かれたと言われる)。
 一方数千年単位で見るならば、縄文人はアイヌだったと言われている。後から弥生に入ってきた大陸系、半島系の民族が現在の日本人のルーツだとされている。天皇家も明らかに朝鮮半島系の人々だ。それが歴史の中で、ある時は征服者に、あるときは被征服者にと立場を入れ替えて動いている。「鉛の兵隊」でも征服者が被征服者に、被征服者が征服者に入れ替わる。あるいは辻孝彦が演ずる渦子のように性別が入れ替わったり、人の話を自分の記憶に組み込むあやこ(伊東しげ乃)のように人格や由来も入れ替わる。だからこれは「スタント」という代行と交換の物語なのである。一幕の最後にバイオリンで朝鮮歌曲「鳳仙花」のメロディが流れる。アイヌ出身の小谷が、同じく日本に植民地化され民族が分断された朝鮮のメロディを奏でるところに、歴史の無意識の中で渦を巻く暗闇が立ち現れてくる。半地下のスタント事務所から始まる物語は、二幕の地下世界での「冥界下り」に流れて行き、記憶と歴史の暗闇の中で「指紋」と「砂嵐」のイメージが発せられる。指紋は無限に多様であるが、それはヒトのDNAがそうであるように混じり合うことのけっしてない決まりきったいくつかのパターンの組み合わせにほかならない。ラストでみんなと一緒には戻らずに「このソドムの町(東京)のペット・セメタリー」に向かおうとする二風谷の決意にも、この渦を巻く歴史の暗闇の中に決然として立ち向かおうとする決意が現れている。西新宿の会場では、地下街や高層ビルの中をくぐり抜けて、この都会の「穴」のような空き地にきているだけにこのイメージには迫力が感じられた。
 路頭に迷っているのを拾われた、二風谷と小谷(なぜか放浪民は必ず川で拾われることになっているのが面白い。そういえば「銀の匙」のおばさんも放浪民のように扱われていた)を養った家の姉弟は、二つに分裂する。姉の冴(赤松由美)は、弟を愛する余り、二風谷に弟の代わりになって(スタントになって)イラクに行ってくれと頼む。だが、それを悔やみ、幻想の力が溢れ出してくることを拒む匠(丸山厚人)の側に立とうとする。このところ、赤松、丸山、鳥山は現実やシステムの側に立つ「悪役トリオ」の役回りであり、稲荷、藤井、久保井による「善玉トリオ」の前に立ちはだかる形になっている。間に道化回しとして入るのが、唐と真名子美佳という構図なのではあるが、どうもこの「悪役」たちは根本的に善良すぎる。資本主義や経済の側に立つと言いながらも、すぐに幻想の魔力にほだされてしまう上に、自分たちもまた「道」のザンパノとか、「銀の匙」の「おばさん」とかの幻想に取り付かれているわけであり、要するにコインの表裏のような存在なのだが、それだからこそ、そこから立ち上がってくる幻想の起爆力はすごい。唐の世界では幻想は必ず現実に勝利するのだ。それが最後には、開放されたテントから外の世界に溢れ出していくのである。
 唐は必ずしもここに書いたようなことを論理的に構成しているわけではない。自動記述のようにして、常識や論理では到底結びつかないような形で、さまざまな情報を結びつけられ、こうした複雑で底知れないイメージの回廊が開かれるのだ。「鉛の兵隊」にはあまり劇評が書かれなかった。その少ない劇評でもこのような地点までたどりついているものは全くない。単純に「諫早湾の干拓問題」と絡めて論じられる「泥人魚」のようなものとは違い、「鉛の兵隊」の提起する底知れないイメージの渦巻きの凄みに、劇評家たちは誰も到達できないでいる。その意味でも、まだ時代は唐十郎に追いついていない。唐は過去の劇作家などではない。はるか未来の劇作家である、というのは例えばこういうところなのである。

2005.06.18

反響

 先週上げた「美学の喪失」に対して、いろいろな反響があってうれしい。言及していただいた方、どうもありがとうございました。
 ただ、皆さん共通しているのは、ぼくが現状をきわめてペシミスティックに捉えているという印象であった。実際にはそんなことはないのだ。
 まあ、「喪失」と言えば「喪失感」ということになるから、ぼくが「深い喪失感」に肩を落として、「長い黄昏」の中を歩いているというイメージにどうしてもなってしまうのだろうが、ここに書いているエントリーからもお分かりのように、そんなことはないのだ。むしろ、人生の「夜明け前」のようなつもりで前向きに生きている。それを支えているのが、社会システムや制度ではなく、具体的で個別的な生き物としての人間たちであるというようなことを書いていたつもりだし、それが根源的に抱えている過剰に満ちた「カオス」に注目して行きたいと考えたのだ。
 というようなことを書くと、かつて、「戦後の思想」に拘っていた論壇に対して「戦前の思想」を対置させてみた柄谷行人さんの戦略を思い出す。これが、歴史観の問題である限りにおいて、柄谷さんは失敗していると思う。そこから先の柄谷さんは迷走するばかりだ。なぜそうなったのかと言うと、要するに歴史理論の内部での視点の取り方を変えただけだっただからではないだろうか? そうではなくて、「歴史」や「世界史」の枠組みそれ自体の「外側」に行かなくてはならないのではないかと思う。
脳梗塞から復活した栗本慎一郎さんの新刊「パンツを脱いだサル」(現代書館)を読んだ。これと一緒に81年にカッパサイエンスから出た名著「パンツをはいたサル」も再刊されている(本当はもう一冊87年頃出た「パンツを捨てるサル」というのもあるのだが、なぜかここでは無視されている。ウィルス進化論を極端に推し進めたものだったので、本人もなかったことにしたいのであろうか?)が、ところどころ論旨が破綻しているところはあるものの、栗本さんのこうした外部からの挑発的な思考は好きだ。ただ、今回のものでは、人類を根本的に進化の方向が破綻した生き物として捉える見方が強すぎて、国家や言語に対してとてもペシミスティックになっている。まあ、人間の「文化」が「脱ぎ捨てる快感のために作り出された」パンツであるというのは本当だと思うが、その「快感」を外から観察するのと「内側」から体験することの「意味」は違うだろうと思う。
 卒業生についてのエントリーについても三人の「卒業生」からメールをもらった。みんな頑張ってくれ。

2005.06.11

卒業生

 木曜のゼミ中に突然ドアを叩いて顔を出したのは、五年前に卒業した佐藤恭子さんだった。マルチを作る前の総合芸術課程情報芸術コースの七期生で、在学時代ジャズ研でアルトサックスを吹いていたが、卒業後奨学金を得て、アメリカのバークリー音楽院に留学。在学中にさまざまなアワードを得て、卒業後の現在はニューヨーク、ボストンで音楽活動をしていると言う。サックスばかりでなく、作曲・編曲、バンドのオーガナイズなど幅広く活躍している。小柄でおとなしそうな子だったのに、内側にはこんな大きなカオスとエネルギーが秘められていたらしい。それが、ジャズという音楽との出会いによって解き放たれていったのだから、面白い。この学年は、マルチの設置時期と重なっていて、総合芸術課程の学生たちには何だか申し訳ないような気持ちが残っているが、それでもこうして活躍しているのを聞くとうれしい。佐藤さんの公式サイトでは楽曲の一部も試聴することができる。やさしく繊細な音楽だ。そういえばやはりジャズをやっている加藤隆幸君という総合芸術課程の三期生が居て、昨年だったか演奏旅行中に研究室を尋ねてくれたこともある。一度大学でジャズ・コンサートをやってみたいものだ。いや、どうせなら野音もあることだし、ジャズ・フェスティバルにしてしまったらどうだろう。他にもがんばっている卒業生の情報を知っていたら教えてください。
 最近考えているのは、唐ゼミも含めて、大学からの文化発信に対して、講座や課程が本腰を入れてサポートしていくような体制が何とか作れないかということだ。サークルや大学祭のような中途半端なものではなく、資金提供を含めて、公式に大学がサポートできるような形を作りたい。外での展覧会やコンサート、演劇公演やイベントなどで、一定の水準を満たしているものに、大学が積極的に関与していくことはできないものか? 企業メセナとは違って、ここは教育機関なのだから、その代わり中身や企画にも踏み込んでいく。学内の資産を徹底活用して人の持っている潜在的な可能性を外に引き出していくことができないだろうか。そんなことを考えている。
 台風と梅雨入りが重なった金曜日は雑司ヶ谷鬼子母神社の唐組公演へ。平日で雨という最悪のコンディションにもかかわらず立ち見が出る盛況だった。ペーター・ゲスナー率いる「うずめ劇場」の面々と、松田政男さんらと談笑。

2005.06.07

「美学」の喪失−〈芸術の死後〉どこへ行くのか?

 という「ショーゲキ的」な話を、3月26日に東京大学で開かれた美学会・東部会で、何かやって下さいよと言われてやったわけだが、どういうわけか誰も学会誌の「美学」に掲載したいと言ってこないので、本体のWebの方に挙げておきました。「最近の仕事から」の中にありますが、ここからも直接見ることができます
 最初の部分はほとんど「私小説」風の思い出話。大学時代、大学院時代のことが書かれていて、ぼくの昔からの友人たちには是非とも読んでいただきたい。中盤からは結構まともな話なんだけれど、どうもあの日の聴衆には通じなかったようだ。東大の西村清和さんには、室井さんの話はよく分かるけれど、ぼくはそれほど芸術好きではないからなあと言われた(哲学好きということなのだろうが、芸術の未来に関心がないのにそれじゃどうして美学をやるようになってしまったのかな?と思うと、これもまた結構根深い話だよね)。あるいは、「研究発表」というのは、こういう私的な領域に触れてはならないとみんな信じ込んでいるのかもしれない。
 とにかく、これはこれで面白いものだと思いますので、是非ご一読いただきたいと思います。

2005.06.06

先週末、まとめて

 3日はマルチの一年生の初めての飲み会につきあう。何浪しているかとか、実年齢とかは別に、人間関係が全く確立していないでさまざまな鞘当てが企てられるこういう時期の学生の飲み会は一番面白い。「子供力」というか、獣の遭遇のような、わくわくするようなイベントで、大学教員でなければ立ち会えないこういう場所に呼ばれても来ない人の気持ちが理解できない。というわけで、そういう好奇心をまだ失っていない新人彦江君や、いつまでも失わない某数学探偵「セイヤ」と共に変てこな時間を過ごす。4日は美学会の委員会のために慶応大学三田へ。全国大会の発表者の選抜というきわめて権力的な仕事を行い、その後新国立劇場の田中泯独舞「赤光」へ。鼓:大倉正之助、能管:一噌幸弘、選歌・書:松岡正剛という達人を揃えた泯さんの公演なのだが、どうもよろしくない。唐ゼミが使う空間なのだが、衛生無害な空間で息づかいや皮膚感覚が全く伝わってこない。田中泯がすばらしいダンサーであることは疑いない事実なのだが、まるでフィールド・アスレチックのような舞台で全く良くない。この空間をいったいどうやって破壊すればいいのか、悩む。
 招待券をいただいた松岡正剛さんの奥さん、まりの・るうにいさんたちと外へ出ると、岡本慶一さんに連れられた山口昌男さんとロビーでばったり。そこへたまたま来ていた写真家の細江英公さんも加わり、近くで軽く食事。次の日は、お昼に大学で「煉夢術」の稽古中の中野を拾い、唐組の豊田公演へ。
DSC05332
 豊田は二年ぶり、三回目だが、駅前が再開発中で、最初の2001年の「闇の左手」の時に使った「おいでん広場」はなくなっていた。さすがトヨタの城下町。何の根拠があるのか分からないが、とにかくここだけは景気がいいらしい。唐十郎はこの旅公演中に秋にやる電子城2改め「カーテン」を書き上げたらしく疲労の中にも高揚している。挙母神社で行われた公演はしっとりと素晴らしかったが、終わった後の飲み会で荒れる。豊田の問題は「町おこし」はいいのだが、芝居と関係なく地元の人たちが始まる前からビールや酒を飲んでいることだ。ちょっと失礼な言動があって声を荒げるシーンがあったのだが、招致委員会の人たちが場をきちんと仕切れないのがよろしくない。やっぱり、田舎なので無理があるのだろうか? いい土地なのだが、今後唐組がここで公演をしていく価値があるのかどうかは少し疑わしい。終わった後、唐さんをホテルに送った後、唐組の宿舎で話をしながら雑魚寝。さすがによく眠れず寝不足になる。朝現場に挨拶に顔を出してから、車で大学へ戻る。途中、箱根仙石原に寄って温泉に入ったので、何とか身体は元気になった。大学で書類をチェックしてから、「煉夢術」の劇中歌を歌う土岐にギターを教えてあげて帰宅。いっぱい雑用が残っているが、適当に切り上げてもう寝ることにする。

2005.06.03

「バッタ本」打ち合わせ

 月曜日にアートンの郭充良さんから電話がかかってきて、「バッタ本」の担当編集者に引き合わせたいからと予定を聞いてきた。火曜の夕方なら、ということですぐ次の日、多摩美の非常勤講師の仕事を終えてから、道玄坂上のアートンへ。ここは出版社だが、さまざまな事業に手を広げていて、金守珍さんの映画「夜を賭けて」や「ガラスの使徒」の制作、イベントや興行の企画、シネマアートン下北沢の運営、飲食店、通信販売、韓国茶の店など次々に新しいことに挑戦している。
 元々は新宿梁山泊の打ち上げなどで郭さんと時々顔を合わせて、会釈を交わすくらいだったのだが、昨年春のシネマアートン下北沢のオープニング・イベントの後、レディ・ジェーンで行われた打ち上げで、郭さんと初めてじっくり話をしてみて、ああこういう人だったんだと感銘を受けたのである。
 二十数年前、立命館の学生だった郭さんは、父親の事業が失敗して、家がとんでもない金額の負債を抱えた時に、猛勉強をしてさまざまな手練手管を学び、とても返しきれないと思われた借金を全部返済してしまった。その時に、初めてああ自分にはこういう才能があるのだと気づいた。それまでは文学や絵本に関心のある文学青年だったのだが、自分にとって「事業」こそが原稿用紙やキャンバスなのではないかと考えるようになったと言うのだ。つまり、事業は郭さんにとって「アート」なのである。「アートン」という社名は「あ」と「ん」、つまり始まりと終わりという意味であると同時に「アート」という意味をこめているそうである。府中で一人で事務所を開いてから十数年かけて、さまざまな事業を重ねながら大きく成長してきた。こんなふうに事業を「アート」だと考えている人はとても少ない。郭さんの事業のやりかたは生態学的、あるいは進化論的なものであるように思われる。進化の歴史の中でなぜかくも多様な生物種が花開いてきたのか。それは多様性がある方が情報が生き残る確率が高いからである。さらに言えば新しい情報が創出される可能性も高い。いくらひとつの事業で大成功したからと言っても、それが新しい情報を生み出すとは限らない。株の売買などで資金をいくら増やしたからと言って、あるいは会社をいくら買い占めたからと言って、何かを創造することができるわけでもなければ、新しい技術を生み出すことやそれどころか既に作られた技術を後世に残すことだってできない。特許やライセンスでいくら儲けても、それは既存の情報にぶら下がってうまく立ち回っているだけで、何の創造性もない。そんな事業家と違って、郭さんがやろうとしているのは人の生き物としての活力やネットワークの中から相乗的に生まれてくるパワーを生かすような新しい「場所」を事業の中に作り出すことであって、ひとつひとつの事業が成功したり失敗したりするのはそうした「場所」を作り出すためのプロセスにすぎない。その中心にあるのは「人」であって、システムやノウハウではない。だから、さまざまな人やさまざまな事業をまるで熱帯雨林のようにどんどん取り込んでいく中で、そこから新しい生物が生まれてくるのを待つような、そんな考え方がその底にあるように思われる。その郭さんが多様な事業の中核に置いているのが出版事業である。
 最近の編集者は自分のポリシーがない人が多く、原稿だって自分の考えを著者にぶつけてきて、著者との共同作業だと考える人が少なくなったというような話をしていたら、郭さんは「私は違います」と言った。それで、ずっと書きたいと思っていた横浜トリエンナーレのバッタの話を本にしたいと郭さんに伝えたのだ。ほとんどそのときの直感的なひらめきと言っていい。それから、郭さんと何度か会って、去年の夏休みに初稿を書いた。郭さんはその頃映画のことで忙しく飛び回っていてなかなか原稿を読んでもらえない。携帯電話に連絡を入れて、まだ読んでもらえないのかと何度か催促した。郭さんはその度に謝り、もう少し待ってくださいと言ったが、どうしても時間がひねりだせないようだった。その間に自分でいろいろ気になるところに手を入れて第三稿まで大幅に書き直した。年末と、二月の「ガラスの使徒」の試写会の時にも、郭さんは申し訳なさそうに、もう少し待ってくださいと謝った。二月の時には、ぼくはかなりじりじりしていたので、「郭さんが忙しすぎるのはよく分かるから、郭さんが無理ならば担当の編集者を誰かつけてください」と頼んだ。二・三分じっと考えた後で、郭さんは「いや、これは私にやらせてください。必ずやりますから、もう少し待ってください」と言った。それではやはり最初の直感の通りにこの人に託すことにしようと決めた。
 四月に郭さんと会って、かなり手厳しい駄目出しと書き直しを要求された。それから第四稿を書いて、五月はじめに送った。先週郭さんから携帯に電話がかかってきて「素晴らしい。これで行きましょう!」と言ってくれた。半年以上、いやことの始まりからは一年以上かかったプロセスがこうしてようやく最終段階に入ることになったのだ。本は八月末に公刊されることになった。
 そこで、最後の実務的な編集者を紹介したいと言うのでアートン事務所に行ったのだが、またそこで驚かされた。郭さんを含めて六人の編集スタッフとデザインスタッフに取り囲まれたのだ。しかも、直接の担当者は四月に入社したばかりの女性の編集部員。懇親会をしましょうと称して、円山町で最初は三人、途中から二人が合流してまたまた飲み会になってしまった。何か郭さんにまたしても仕掛けられているような気もするが、しかしまあ面白い。きっとすばらしい本が出来上がることとわくわくしている。やっぱり面白いのは結果じゃなくて過程だよね。
 水曜日は、南河内万歳一座の「みんなの歌3」を新宿のシアタートップスへ見に行く。唐ゼミ大阪公演の時にお世話になっているし、みんなとてもいい人たちだ。唐ゼミの中野、椎野、禿と四人で打ち上げに参加。楽しかったが、結局また飲んでしまって体調は余り良くない。

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