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2005.06.20

「鉛の兵隊」千秋楽

 気温の変化が激しいこの時期には体調が崩れやすい。木曜日の午後から喉が痛く、金曜日から夏風邪をひいてしまった。土曜日は日本記号学会の打ち合わせで東大駒場へ。太陽がまぶしく蒸し暑いのに、寒気がして頭がくらくらする。唐組の最後の公演場所「西新宿原っぱ」にたどり着くと、唐さんも朝から少し喉が痛いと疲れた表情だった。どうやら、この原っぱは10月の秋公演にも何とか使用できることになったらしい。これ以上の場所はなかなか見つからないだろうと思えるだけに、うれしいニュースだ。
 最後だけあって二日とも超満員。土曜は石橋連司、石橋凌の大物俳優陣に、カズモ制作の「愛の劇場/コスメの魔法」に出演している大鶴義丹、十貫寺梅軒、小野真弓ら。日曜は、「北の国から」の杉田監督、渡辺えり子(とご主人)、来年一月にロードショー公開の決まった映画「ガラスの使徒」の主演女優・佐藤めぐみ、金守珍さんたち梁山泊組、松本修さんらに加えて、多くの常連の人々を集めて、まあお祭りのような賑やかさだった。以下は、その席で議論したことの概略である。芝居を見ていない人にはよく分からないと思いますが、唐十郎の劇作法に関わる話なので書いてみたいと思う。
 今回の芝居のポイントは二幕で語られる「春光台ペット・セメタリー」をめぐるエピソードにあると思われる。久保井研演ずる月寒七々雄が少年時代、親友二風谷ケンの出身地「近文」が、春光台というどこにでもありそうな住宅地に名を改められ、祖父母の地が団地のペットの墓地になっていることに腹を立て、地名表示板を書き換え、墓場を荒らしたというエピソードが語られる。これは、稲荷卓央演じる二風谷と、入れ墨師の娘小谷(藤井由紀)の二人が「アイヌ出身者」であるということに深い関係がある。
 明治政府は北海道の開拓を、西部開拓の実績のあるアメリカ合衆国の指導に従って進めた。インディアンと同じように、アイヌを居留地に押し込め、後には同化政策によって固有の言語や文化を封殺していった。そして、日本は「単一民族国家」であるという虚構を浸透させると同時に、朝鮮半島や台湾などの植民地においても、創氏改名の強制などの同化政策を採った。こうしてブルドーザーのように先住民族の文化や生活を押しつぶしてしまった象徴が「春光台ペット・セメタリー」なのである。征服民である七々雄が、被征服民である二風谷のために、ペットの墓場を破壊したというところにこの話の核心がある。
 戦前から北海道の陸軍部隊はとりわけ戦闘が激しい地域に最初に派遣されるという傾向があった。移民たちやアイヌ出身者の多い部隊だったからかもしれないが、実際に旭川の第七連隊は「全滅部隊」と呼ばれていたらしい。それから数十年を経て、イラクに最初に派遣されたのがやはり旭川の部隊だったというところに唐十郎は目をつけている。アメリカのスタントとしてイラクに赴いた部隊の中には、やはりアイヌ出身の自衛隊員が居たのかもしれない。彼らは自らが被征服者として被ったのと同じことをイラクの民衆に対して行っていることになる。つまり、ここでは単に「イラク派兵」が問題にされているのではない。人類の歴史の中で絶えず繰り返されてきた征服と屈従の物語、文化や言語の収奪と破壊、ひいては数万年前に北アフリカのアファール地峡から始まったにすぎないと言われる渦巻きのような現存人類の大移動がそこでは問題とされているのだ(彼らは大地溝帯にそって、アフリカを南下する方向と、パレスチナを経てアジアや北方に移動する方向に分かれたと言われる)。
 一方数千年単位で見るならば、縄文人はアイヌだったと言われている。後から弥生に入ってきた大陸系、半島系の民族が現在の日本人のルーツだとされている。天皇家も明らかに朝鮮半島系の人々だ。それが歴史の中で、ある時は征服者に、あるときは被征服者にと立場を入れ替えて動いている。「鉛の兵隊」でも征服者が被征服者に、被征服者が征服者に入れ替わる。あるいは辻孝彦が演ずる渦子のように性別が入れ替わったり、人の話を自分の記憶に組み込むあやこ(伊東しげ乃)のように人格や由来も入れ替わる。だからこれは「スタント」という代行と交換の物語なのである。一幕の最後にバイオリンで朝鮮歌曲「鳳仙花」のメロディが流れる。アイヌ出身の小谷が、同じく日本に植民地化され民族が分断された朝鮮のメロディを奏でるところに、歴史の無意識の中で渦を巻く暗闇が立ち現れてくる。半地下のスタント事務所から始まる物語は、二幕の地下世界での「冥界下り」に流れて行き、記憶と歴史の暗闇の中で「指紋」と「砂嵐」のイメージが発せられる。指紋は無限に多様であるが、それはヒトのDNAがそうであるように混じり合うことのけっしてない決まりきったいくつかのパターンの組み合わせにほかならない。ラストでみんなと一緒には戻らずに「このソドムの町(東京)のペット・セメタリー」に向かおうとする二風谷の決意にも、この渦を巻く歴史の暗闇の中に決然として立ち向かおうとする決意が現れている。西新宿の会場では、地下街や高層ビルの中をくぐり抜けて、この都会の「穴」のような空き地にきているだけにこのイメージには迫力が感じられた。
 路頭に迷っているのを拾われた、二風谷と小谷(なぜか放浪民は必ず川で拾われることになっているのが面白い。そういえば「銀の匙」のおばさんも放浪民のように扱われていた)を養った家の姉弟は、二つに分裂する。姉の冴(赤松由美)は、弟を愛する余り、二風谷に弟の代わりになって(スタントになって)イラクに行ってくれと頼む。だが、それを悔やみ、幻想の力が溢れ出してくることを拒む匠(丸山厚人)の側に立とうとする。このところ、赤松、丸山、鳥山は現実やシステムの側に立つ「悪役トリオ」の役回りであり、稲荷、藤井、久保井による「善玉トリオ」の前に立ちはだかる形になっている。間に道化回しとして入るのが、唐と真名子美佳という構図なのではあるが、どうもこの「悪役」たちは根本的に善良すぎる。資本主義や経済の側に立つと言いながらも、すぐに幻想の魔力にほだされてしまう上に、自分たちもまた「道」のザンパノとか、「銀の匙」の「おばさん」とかの幻想に取り付かれているわけであり、要するにコインの表裏のような存在なのだが、それだからこそ、そこから立ち上がってくる幻想の起爆力はすごい。唐の世界では幻想は必ず現実に勝利するのだ。それが最後には、開放されたテントから外の世界に溢れ出していくのである。
 唐は必ずしもここに書いたようなことを論理的に構成しているわけではない。自動記述のようにして、常識や論理では到底結びつかないような形で、さまざまな情報を結びつけられ、こうした複雑で底知れないイメージの回廊が開かれるのだ。「鉛の兵隊」にはあまり劇評が書かれなかった。その少ない劇評でもこのような地点までたどりついているものは全くない。単純に「諫早湾の干拓問題」と絡めて論じられる「泥人魚」のようなものとは違い、「鉛の兵隊」の提起する底知れないイメージの渦巻きの凄みに、劇評家たちは誰も到達できないでいる。その意味でも、まだ時代は唐十郎に追いついていない。唐は過去の劇作家などではない。はるか未来の劇作家である、というのは例えばこういうところなのである。

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