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2005年9月

2005.09.29

唐ゼミ★新国立劇場公演開幕

 というわけで、27日には「黒いチューリップ」の、28日には禿版「盲導犬」の幕が開けた。今日は二回目の「黒いチューリップ」、明日は椎野版「盲導犬」の初日。とにかく毎日初日のようなものだから大変だ。舞台セットや照明・音響も日替りで入れ替わる。初日が開けると役者たちが主役だ。演出にも新たな課題が出てくる。芝居が終わり、お客さんを送り出し、ロビーにゴザを敷いて宴会をし、終わると全員で電車で横浜に帰る。皆口々に今日の舞台の感想や新しいアイディアについて話し合っていて楽しそうだ。ここに来て、唐組の鳥山・久保井の二人の存在が効いてきている。根っからの役者である二人は舞台監督、照明・美術というような「分業システム」の範囲を超えて、役者たちにこと細かい演技指導やアドバイスを与えてくれる。そのため、出てきた役者がリハーサルの時と全く違う演技になったり、俄然面白く変わっていたりして、毎回異なる意外性に満ちたステージになっている。何よりも、この大先輩二人から唐組で培われてきた生成変化する演劇のエキスを分け与えられていることが、若い役者たちを急速に成長させている。
 初日、二日目は招待客が多く、打ち上げの宴会も盛り上がった。唐さんも、唐組のカーテン本番一週間前で忙しいにもかかわらず結局は飲んでしまい上機嫌だったので良かった。メディア関係や演劇関係者が多数見に来てくれたので、これで唐ゼミ★は本格的に演劇界デビューしたということになる。その反響がどのようなものであるかを待ちたい。

2005.09.26

明日はいよいよ唐ゼミ★新国立公演の初日です。

 この四五日というもの、小劇場でのテクリハ、ゲネプロと続き戦争状態でした。その上、エントランスやロビーや客席をめぐって、新国立の役所的な論理との戦いが頻発して、もう少しぼくが楽をできると思っていたら、結局ずっとつきあわざるをえないような事態になりました。約束していた予定もキャンセルせざるをえなくなったりして大変でした。それでも、今日が最終ゲネプロで明日幕が開きます。今のところ、流れはいい感じに戻っています。
 チケットですが、今日から10月2日6:00の回(盲導犬、椎野バージョン)の追加公演の発売ですので、これは是非取り逃がさないようにして下さい。また当日券も少ないですが多少はあります。10時からチケットセンターで発売。また同じく10時から毎日Z席が発売されます。多少見にくい席ですがそれでも半額ですのでお得。
 27日の初日は「横浜トリエンナーレ2005」の内覧会で翌日がオープニングなのですが、とても顔を出す余裕がない。近いうちに会場には行ってみたいとは思っていますが。

 タバコのエントリーへの反響がぼつぼつ。メールでも来ます。まだ、返事をしたくなるものはひとつもありません。結局ほとんどは全くぼくの書いた文章が読めていないで感情的に反発しているだけなのです。ぼくが書いたのは「嫌煙キャンペーンの嘘」であって、「嫌煙の嘘」ではないし、けっして血管収縮で頭痛がするとか、気管支系が弱い人が喉が痛くなるということを否定などしていない。合理的な分煙にはむしろ賛成ですし、自己正当化をしようとも思っていない。多分、タバコを吸わない人には、このところの日本の環境が喫煙家たちにとっては、余りにも人権を無視したひどいものになっていることがよく分かっていないのだと思います。屋外ですら遠くで数少ない喫煙所まで行かないとならない、建物の中の喫煙所も物置のような換気の悪い場所に(多分そんなに多くはないだろうという勝手な決めつけのもとに)きわめて少ない灰皿が置いてあり座る場所もなく満員電車のような空間におしこめられて喫煙しなくてはならないことが余りにも多すぎるのです。多分長距離列車の喫煙車両も全廃されていくでしょう。ちゃんとニーズがあるのにです。
 そう言えばトラックバックしてくれた人が教えてくれたWikipediaの「喫煙」の「タバコと健康」という項目は悪くないですね。前半は冷静な文章です。後半は多分嫌煙運動家のものですね。バランスが取れていていい記事です。
それにしても、こういう文章を書くと勝手に自分たちのイメージする「身勝手でマナーの悪い喫煙者」が投影されて、必ず人格攻撃になってきますね。まあ、検索エンジンやアンテナ系でやってきて、文章を全く読めておらず言葉尻だけを引き合いに出して、それだけで人格否定されてもあまり傷つきませんが。

2005.09.23

初日まであと4日

 19日は新国立劇場中劇場で開かれていた「越境するダンス」というシンポジウムへ。松岡正剛さんがコーディネータということで、このところ通っている新国立なので見に行く。四時間近くもだらだら続くシンポジウムだったが、能役者の梅若六郎さんは面白かった。松岡さんにも唐ゼミを見に来てくれるようにお願いした。火曜は多摩美の帰りに仕込み中の現場に顔を出し、椎野と一緒に車でうちの近所の町内会長のお宅を訪ねて提灯を借りに。提灯は劇場の外の飾り付けに使われる。とにかく、すかすかしていて空間が良くない。こういう押し付けがましい建築は、文化施設には全く合わないと思う。22日の水曜は久々の教授会の後、再びBankart1929に顔を出し、岡崎松恵さんから全州大学の公演についていろいろな情報を教えてもらう。いろいろ調べた結果、宿舎に関しては何とかメドがついた。あとは劇場だ。この日の読売新聞の夕刊に祐成秀樹さんの署名記事で「磨きかかる唐ワールド」という記事が出た。唐ゼミ★も大きく紹介されている。ほかにも毎日新聞の高橋さんの記事もでるはずなので、本番前にも話題になるだろう。23日は日吉の慶応大学出版会で「新記号論叢書・セミオトポス第二号」の企画打ち合わせ。タイトルは「ケータイ研究の最前線」というやや「ベタ」なものがいまのところ有力。こういうタイプの本はこれまでに少ないので「そのままやん?」という方がいいのではないかということだ。その後、新国立に行ってテクリハを見たが、岩波の『教室を路地に!』の見本刷りができて樋口さんがもってきてくれる。なかなかしっかりした装丁の本に出来上がった。来週発売になる。書店などに置いてある岩波の宣伝誌『図書』の10月号に、「唐十郎リターンズ」というコラムを書いているが、それが送られてきた。結構目立つところに記事が配されていて、梁山泊の風又ソウル公演も写真も載せられている。来週には全国の書店に置かれるようになるので、書店で手に取ってほしい。
 唐さんも初めて劇場入りして照明や音響の綿密な打ち合わせ。ぼくは三幕前で抜けて久々に会う約束をしていた編集工学研究所の渋谷恭子さんと西麻布で遅い食事。こう書いていると同時にいろいろなことが重なっていてかなり忙しい。やらなくてはならないことでまだ手がつけられていないこともあるし、時間の配分が難しい。とりあえずは唐ゼミの公演終了まではできるかぎりつきあうことにしたいと思う。座席のことに問題があるが、何とか席数を増やすことができるように画策中。とりあえずここで書けることは、当日先着順で発売する格安のZ席−−これは位置にもよりますが、意外と悪くないです。新国立が指定するいくつかのチケットセンターで(たとえば横浜では相鉄前のチケットぴあなど)当日10時から先着順に発売するチケットですが、十分見られます。いまのところ15,6席だけですが、これも何とかもう少し増やしたいと思っていますので、電話でチケット予約取れなかった人もあきらめないで下さい。それと26日に発売される、10月2日の追加公演のチケット。これは是非とも見逃さないで下さい。最後に、いつものテントと違って、桟敷席、そんなに環境悪くないですし、舞台前ですので桟敷をお勧めします。

2005.09.18

嘘まみれの嫌煙キャンペーンを考える

 以前、タバコのことについてエントリーを書いたところ、何人もの方からコメントやトラックバックをいただいた。ぼくは喫煙者である。タバコを吸わない人が煙たい思いをしているということに対して配慮をすることにやぶさかではない。また、携帯灰皿を持ち歩き、なるべく道路を汚さないという配慮をするのもいいことだと思う。
 だが、最近の嫌煙運動はちょっと違う。それは、タバコを発ガン物質まみれの「猛毒物質」と主張し、肺がん、心臓病を初めとする万病の「元凶」と呼び、毎年数万人の人が主としてタバコのせいで死んでいるとまで主張している。「受動喫煙」の被害者数も多数であり、全面禁煙からタバコの禁止(非合法化)まで進めるべきだとすら主張している。言うまでもなく、既にこのような人たちの圧力によって、世界に類を見ない「健康増進法」という悪法が施行されており、いまや日本は屋外ですらも喫煙が著しく規制される世界でも特殊な国になりつつある。この方向は完全におかしい。タバコが健康に悪くないとまで主張するつもりはない。だが、実はタバコは肺がんや心臓病の「原因」などではないのだ。正確に言えばタバコだけでガンを作り出すことはできないのである。もちろん、喫煙がそうした病気の発病や進行に対して間接的な悪影響を与えることはあるだろう。だが、それは他の生活習慣や食品がそうであるのと同じ程度のものにすぎない。また発がん物質にいたっては、水道水に含まれるものよりもずっと微量にすぎないし、それが副流煙になった時にはさらに何千倍もに希釈されている。「科学的なデータ」と言われているものは、恣意的に拡大解釈されて広められている。たとえば、タバコはビタミンCを消耗させる。ビタミンCの欠乏は肌の荒れにつながる。このことから、タバコは肌の衰えを早めると直接の原因にされる(ビタミンCを摂取すればいいじゃないか!)。たとえば、BBCが作り出した「禁煙キャンペーン」には22歳の双子の女性の写真というものが掲載されている。片一方が喫煙し、もう一方が吸わない場合には40歳になったときこんなに違ってくるという合成写真だ。これがあらゆるところに引用されて広まっている。「合成写真」と言っているように、これには何の根拠もない。そもそもこの人物は双子ですらないだろう。こんな風にして、わけのわからない「科学的・医学的」嫌煙キャンペーンが作り出されているのだ。
 ぼくの務める大学で、「ヘルシーキャンパス21」という名前で学長裁量経費を用いて禁煙パンフレットが作成された。そこには、この双子の姉妹をはじめ、全く科学的な根拠のない「タバコの害」が紹介されていた。また、有名な浅野牧重氏による「タバコで真っ黒になった肺の写真」という捏造写真も転載されている。少なくとも大学という研究機関でこんないいかげんなものを出すのはいくらなんでもひどいのではないかと抗議したところ、実は家がタバコ屋をやっていて自分もタバコ自体は嫌いではなかったという責任者の教員から、「両論併記」という形で室井さんが反論を書いてみないかと言われて書いたのが、この文章「嘘まみれの嫌煙キャンペーンを大学人はどう考えるのか?」である。書いたのは随分前だがようやくパンフレットが発行されたのでここにも掲載することができる。是非お読み頂きたい。いろいろと調べてみて驚いたのは、実は厚生省自身が出している資料ですらも全く「タバコががんの原因になる」という根拠が見当たらないということである。「科学」や「医学」の名の下にこれほどまでにいい加減な「真理」が、一部の人々の圧力によって押し付けられていたということに驚いてしまう。
 ちなみに、ぼくはタバコをやめる気は全くないが、それでも心臓や気管支の病気になった時には禁煙をした方がいいと思うし、きっとそうするだろう。だが、それ以外の時にはいくら吸い過ぎで咳き込んだり、胃が荒れたりしても、それよりももっと有益なことが多いので、タバコを手放すつもりはない。コーヒーとタバコとビールは、ぼくにとってはなくてはならない「嗜好品」であるからである。

2005.09.17

唐ゼミ★新国立劇場・追加公演決定!

 何はともあれ唐ゼミのサイトをご覧下さい。10月2日18:00から椎野+新堀バージョンの追加公演(1回限り)が決まりました。まじな話、もう関係者に言われてもチケットは全くありません。本当に最後のチャンスになりますので、まだ予約が取れていない方はお見逃しなく。岩波本『教室を路地に!−横浜国大VS紅テント、2739日』の発売と合わせて、ぼくたちはこれを長く記憶に残る一大イベントにしたいと思っておりますので、是非その歴史に立ち会って下さい! どうせ売り切れてしまうのなら、ここを見て下さっている方に来ていただきたいというのが正直なところです。小劇場で追加公演というのは本当に例外的なことだそうで(なぜならやればやるほど赤字が増える=どうしてそういう構造になっているのかはともかくとして)、二度目はありません。

 そして、今日はリハーサル室最後の通し稽古「黒いチューリップ」を見に行った。ようやく、ギアがかみ合ってきた感じでかなり良くなっていた。ここまで、持ち込むことができた連中の底力も凄いし、これなら十分勝負できそうな感触を得た。体力的にはかなりピークに来ているようだったが、それでも稽古の調子が乗ってきたので全員顔色は明るい。あとは、「盲導犬」をどこまで伸ばせるかだが、こういうのは勢いなので、このまま行けば何とかなりそう。明日一日最後のオフで明後日からはいよいよ劇場入り。初日まで一週間、最後の仕上げを行う。まあ、いろいろあるが、それでもこんなに贅沢に稽古とリハーサルをさせてくれるのは新国立劇場ならでは(予算度外視だからだけど)でそれは助かっている。まあ、よく考えたらいつもテントでそれくらい舞台稽古をやっているが普通の劇場では考えられないことですものね。というわけで、7月の頭からほとんど朝から晩まで途方もない時間と労力をかけてやってきたプロセスが、来週からいよいよ本番を迎える。話が元に戻るが、そういうわけなので追加公演のチケットを是非手に入れて下さい。見ないと本当に後悔しますよ!(と、今日は少し自信がある)

2005.09.15

あまり中身のない話ですが

 久しぶりに大学に出ると、主に手渡し献本用のバッタ本50冊と、上越の金谷範子さんから唐ゼミ★へのプレゼントの大量の草履とか米とか、とにかく台車に載せないと運べないような荷物がどっさり届いていた。メールも沢山舞い込んでいて対応がとても大変。バッタ本はBook1stの新宿ルミネ店に平積みしてありましたーとか、池袋ジュンクで見ましたーとかいう報告もあるが、周辺のどの本屋にもなかったという報告もあり、とにかく自分のできることで営業に力を入れようと、美術館のショップには直接働きかけるようにしてみた。森美とか国立国際とか金沢とか水戸とか岡本太郎美術館とかBankArtとか、横浜市役所の売店とか。あと多摩美やIAMASではまとめて仕入れて売ってくれる。生協があるところだと営業的にはまずいけれど、直販なら割引しますので、10部以上置いてくれるところならどうぞご連絡下さい。あと、書店になかったら注文する際に一言「本棚にも並べといてよ」とバイトではなさそうな店員に言ってみて下さい(笑)。取り次ぎが弱い場合には書店の売り場責任者が頼りです。ネット本屋でも紹介が始まっているが、なぜかamazonだけ表紙画像がまだ出ない。‥‥とかとか、いろいろと気になります。
 出版社に発送を頼んだ分だけで献本も100冊を越えているが、本当はもっと送りたい人が沢山いる。本来はあの時に何万円もの高額寄付をしてくれた人たちや、関係者全員に上げたいくらいだが、そこを何とか我慢してもらって、どうぞ営業に協力してやって下さい。中身は絶対に面白いはずです。
 てなことをやっていると、あっと言う間に十月になるなあ。そうすると新しい授業も始めなければならないし、メキシコの学会で話す英文原稿もまだ手をつけていないし、その前に「セミオトポス2号」の中身も全部入れなくてはいけない。うーん、まずい。結局、やらなければならないことをリストアップしてみたら軽く10を超えてしまった。しかもどんどん増えてきそうな気もするし、えーと、こんなことしていないで、さっさとやってしまおう。

2005.09.10

この三日間のこと

 8日は新国立劇場のCリハーサル室で行われている唐ゼミ★の稽古を初めて見に行く。岩波の樋口さんと「教室を路地に!−横浜国大VS紅テント、2739日」の図版や表紙デザインの打ち合わせ。新国立劇場の内部は無駄に巨大で、セキュリティも過剰に監視的で、美術館や自治体の文化会館など普通の文化行政機関の数倍以上権力的で陰険で息苦しい空間だ。あらゆるところに管理と監視が行き届いており、そのことが文化や表現の首を絞め窒息させる行為だということに誰も気づかない。あるいは文化というものが国家や法律に従属するものでなくてはならないという、抑圧的なイデオロギーが細部まで行き届いているような空間だ。こんな「文化衛生」的で墓のような場所では絶対に人は輝くことはできない。機械と歯車になるだけだ。
 新国のスタッフが押し付けてくるさまざまな規則やルールや注文(利用規則、消防関係の規制、客席の規制‥‥)などが、どんどん余分の仕事や打ち合わせを生み出し、表現のパワーと野蛮さを削いでいく。彼らは公演がうまく行くようにサポートしているつもりなのだが、全くサポートになっていないことに気づいていない(し気づくことはないだろう)。予算を取ってくるとか、トラブルを未然に防ぐとか、関係部署や外部の人たちとうまく結びつけて行くとか、彼らが「公演を成功させる」ためだと考えていることが、実はことごとく表現のパワーや強度を弱めさせ、窒息させてしまうということが分かっていない。それに結局のところは、「何かあってクレームがついた時に責任を回避する」という目的が一番優先されているのだ。仕方ないことではあるが、こうした巨大な官僚機構の中に人質にされたような彼らの舞台稽古はややスケール感がそがれて小さく見えた。c2
 権威とは建物や劇場装置だけではなく、それを運営する人たちも含めた空間全体のことなのだ。オペラやダンスなどの稽古やリハーサルも行われている巨大なリハーサル・フロアの中で、彼らはまるで大会社に就職したての新入社員のように、少し縮こまっているように見えた。新国立にとっては、これからも延々と続いていく小劇場公演のひとつにすぎないが、彼らにとっては後がない命がけの勝負でなければならない。比喩でも何でもなく、新国立を破壊し、その空間をぶちこわすことができなければ彼らには未来がない。それが嫌ならば元々テントでやらせてくれればいいのだ。あの抑圧的でどうしようもない「小劇場」という空間でやらなくてはならないだけでどうしようもないのに、さらに様々な規制や規則や妥協を強いられるのでは、出せる力の出しようがないではないか? 「暴れる」とか「刺客」とか言うのは比喩でも何でもない。鉄条網を敷き詰め、花火をばんばん破裂させ、床をごみや蒔き散らされる水で埋めるくらいでなければ、テントでの表現に拮抗できる表現それ自体が成立しないということだってあるのだ。一見親切にケアをしてくれているように見える新国立の体制に感謝して、規則を守る良い子たちでいたのでは、絶対に勝つことはできない。彼らにいま必要なのは過剰な野蛮さと暴力性である。人には向き不向きがあるから喧嘩したり暴れたりしろと言うわけではない。礼儀正しく毅然としたやり方でも相手をぎりぎりまで追いつめることができる。これは本番になって急に出せるものではない。今のところは新国立側のいろいろな注文や要請に彼らが対応に追われている。これは逆ではならない。どんどん無理な注文を出して、どこまでやれるかを妥協することなく探らなくてはならない。どこで引くかというライン取りが重要なのだが、今のところ押し込まれすぎているように思えた。そういう意味では今後の二週間と劇場入りしてからが本当の戦いになるだろう。
 9日はアートンの編集者・米倉さんと営業の禹さんの三人で、「巨大バッタの奇蹟」の売り込みのために横浜の何か所かを回る(ようやくアマゾンに掲載されたはいいが、発売前から「在庫切れ」って何?)。言うまでもなくバッタを知っている人には好評なのだが、新しい出版社で取次との関係が弱いアートンでは、書店の売り場担当者回りをしないとなかなか本を置いてもらえないようで、これまでのところ苦戦しているらしい。有隣堂のような横浜地元の本屋ですらも反応が悪く、要するに「売れない現代美術本」扱いをされてしまうらしい。書いた僕としては「売りたい」といよりもとにかく1人でも多くの人に「読んでもらいたい」。それが、一部の書店や、店の奥の方の「現代美術」コーナーに一・二部しか並ばないのでは浮かばれない。というわけで、どんどん宣伝をして下さい。市役所の売店や横浜市のグッズ置き場、Bakartのショップ、インターコンチの売店とか美術館とかいろいろ回ったが、とにかく話題になって本屋の一般書棚に平積みされるようになってほしい。既に、見本刷りやゲラを送った人たちからは「面白すぎる」という熱心な励ましが届いている。来週始めには出版されるが、是非書店で手に取ってみてほしいと思う。そういえば、アートンの特集ページにはメイキング映像が掲載された。今後中身もどんどん変わって行く予定である。
 そして、今日10日は唐ゼミ★が留守中ずっとワゴン車を借りていた新宿梁山泊が一月半にも及ぶ韓国テントツアーを終えて帰国した。車を返しに行く中野、椎野、禿たちと一緒に成田まで出迎えに行く。みんな大量の荷物を抱えて、日焼けしていたがとても元気そうだった。あれだけのツアーを成功させた充実感が表情ににじみでている。帰ったら帰ったでいろいろ大変だろうが、とりあえずは自宅でゆっくりと身体を休めてほしいと思う。でも、本当に凄いツアーを無事に成し遂げることができて良かったですね。大久保鷹さんが全く疲れを見せず元気だった。凄い60代だ。
ryozanpaku

「ハッカー宣言」

 マッケンジー・ワークの『ハッカー宣言』(マッケンジー・ワーク著、金田智文訳、河出書房新社)についての書評が東京新聞の9月4日号に掲載された。800字の短い分量なので言いたいことをすべて述べることはなかなか難しい。書評は下のようなものである。

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「情報の不当な私有に抗する」

 すべての「ハッカー階級」は連帯せよ! 情報の搾取や囲い込みを打破せよ! と、著者マッケンジー・ワークは挑発する。情報社会における支配階級は「ベクトル階級」(情報誘導階級)と呼ばれ、かつてのイギリスの「囲い込み」で農民から土地を奪い私有することによって莫大な利益を上げた牧羊家たちや、産業革命で利益を独占してきた資本家階級たちに続くものだと彼は主張する。ハッカーとは生産を搾取される「階級」なのだという視点が新しい。
 したがって、ハッカー階級とベクトル階級の対立とは、情報を生産する者と本来共有されるべき情報を不当に「私有」し、情報の生産構造を支配しようとする者との対立である。後者は情報を囲い込むことで不当な利益を得ているマイクロソフト社やホリエモンのような人たち、地球規模の著作権ビジネスを推し進める映画・音楽関係者たちに当たる。
「ハッカー」は、通常不法にコンピュータシステムに侵入してプログラムやデータを書き換えたりする犯罪者と考えられている。だが、それと同時にハッカーはその管理システムのあり方それ自体に疑問を投げかけ、その支配と搾取の構造を暴こうとする「革命家」でもあるのだ。何よりも重要なのは「ハッカー」が情報の書き換えを通して、新しい情報を生産する生産者階級であるということである。その意味で、芸術家、哲学者、思想家、科学者、研究者たちもまた本来は「ハッカー階級」に所属していると言える。だが、そのことはまだそれほど広く自覚されてはいない。だから、この「宣言」は「眠れるハッカーたちよ、目覚めよ」と呼びかけているのである。
 最近ようやくL・レッシグらの著作によって、著作権ビジネスや情報ビジネス、さらにはそれを支える行政の政治的・経済的システムは何だかおかしいのではないかという疑いが共有されるようになってきた。そうした中で、情報社会の問題点を情報生産とその搾取という階級論的な視点を持ち込むことでくっきりと浮かび上がらせた刺激的な書物である。
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 これに付け加えることがあるとしたら、こうである。
 この本は、ドゥルーズ=ガタリ(と言うよりもガタリ)やギィ・ドゥボールら「シチュアシオニスト・インターナショナル」に影響を受けて情報社会における新たな階級闘争の始まりを定義したものだと、「訳者解説」などにも書かれているが、確かにそういう部分が濃厚で、それがこの本の明らかな「短所」である。マルクス主義の新しい土台付けを狙っていたシチュアシオニスムや、グラムシのヘゲモニー論に基づくアウトノミア運動などの理論的支柱を打ち立てようとしていたフェリックス・ガタリの文脈では、現在の情報グローバリズムに抗することなどとてもできないし、カルスタ左派(日本では上野俊哉に代表されるような)的な古くさい戦略で何か新しい立場が生み出せるとはとても思えない。
この本の長所は、むしろ生産する者と生産を搾取し独占私有体制を打ち立てる者との対立として中世から現代までの数百年の歴史を荒っぽくざっくりとまとめてしまうアメリカ的なシンプルさと大らかさにある。要するに牧羊家たちとは、中世の職人たちのギルドを崩壊させ、近代産業社会に移行する基礎を作り上げた人々であるわけだが、それをビル・ゲイツのような情報資本主義の創始者と比較している視点が新鮮で面白いのである。もっとも「牧羊家」という日本語の語感はそれとはほど遠い文字通り牧歌的なイメージだし、「ベクトル階級」という訳語も生硬だ。若い訳者にもうすこし覇気があれば、この本の荒っぽい暴力性を浮き上がらすことができたかもしれないのだが‥‥まあ、「解説」を読む限りではそこまでの見通しは持てないのだろう。
 君もぼくもハッカーなのだ。物を作ったり、観念を作り上げたり、新しい学術的な視点を生み出す人は全員「ハッカー階級」であることを自覚せよ。ものを作らずにそれを操作して、富を私有する人々は悪であり敵なのだ。著作権を守れと法制化を進め、資本のための資本を求める連中こそが真の剽窃者であり、作ってもいない情報を盗み取る犯罪者なのであるとストレートに言う姿勢が新鮮なのである。
確かに、金儲けは卑しいものであるという倫理観を取り戻すことは重要であるし、株式市場で利益を生み出している人たちは「何も生産しておらず」単に、「博打打ちの親玉」(by 西垣通)、「剽窃者」にすぎない。要するに物でも情報でも「新しい物」や「新しい関係性」を作り上げることのできる生産者階級と、それを狡猾に搾取し利用し寄生する「ベクトル階級」のどちらかに立たなければならないし、どんな場合でも「ベクトル階級」になることは「醜い」ことなのだ。反近代主義的な構図は中世を理想化するロマン主義的な匂いが濃厚ではあるが、それは、たとえばL.レッシグのように支配階級の良識の中で著作権の過剰保護に疑問を投げかけるような「穏健」な立場とは明らかに違っている。「万国のハッカー階級」よ、連帯せよ! このように読み解くことで、この強度には満ちているが、議論の深さには欠けている書物を初めて有効利用することができるようになるのではないだろうか。

 本についてもうひとつ。
 韓国に個人的な関心が深まる中、本屋の韓国コーナーに並ぶ本の多さに驚いた。いまや、韓流ドラマ本よりも「反日」デモで揺れた中国・韓国に反発する本の出版の方が目立って来ている。中でもマンガ『嫌(かん)流』というのが売れているらしい(これも現在のブログ界ネタなので「韓」だけ伏せ字にしておく)。要するに小林よしのりの「ゴー宣」と似たような右翼ナショナリスト的な朝鮮人及び韓国政府告発本であると同時に、日本国内の左翼知識人批判であるのだが、韓国人及び韓国政府が囚われている非合理的なトラウマから生まれる日本批判に、日本人が「うんざりしている」という、中国や韓国に対する反感から、それらの反日批判がいかに合理性を欠いた「言いがかり」なのかということを、資料を示して解き明かしていこうとするような本である。ただ、客観性を装いながらも、キャラクターの書き分けで明らかに対立する側を悪人面で描くなどの手法は小林よしのりと同じ。行間にそれこそ非合理的な差別感情(「朝鮮には誇れるべき文化など一つもない」、「在日は勝手に日本に残っただけなのだから、日本の悪口を言うのならさっさと半島に帰れ」「朝鮮高校生いじめやチョゴリが切られた騒ぎは自作自演」etc.)が見え隠れしている。また、大村収容所をはじめとして日本政府側がどれだけ戦後の在日に対して過酷な政策を取ったのかというようなことも隠されていて、どうみても公平な記述とは言えない。要するにこれはこれでまた一つの「偽史」構築の本であり、「ユダヤ人陰謀」本などと同質な「トンデモ本」なのである。
 西尾幹二はじめ「新しい歴史教科書」派の人たちがエッセーを書いているので、明らかに立場が偏ったある種の「運動」本なのであるが、大月隆寛の文章だけは問題意識がきちんとしていて、漫画本文に対する辛辣な批判になっている。「歴史」が「鏡」となるという点は正しいとしても、問題は「誰の」鏡であるかということなのだ。それは近代国民国家が生み出した幻の「国民」の「鏡」だったのであり、だからこそ近代国家は「国民史博物館」や「国民史教育」を進めて来たのである。韓国の歴史教育がひどいと言うが、戦前もっとひどい皇民教育を行い、民族主義的な鏡を強制して暴走して行ったのが過去の日本ではないか。まさしく、ネットでの言い争いのような低いレベルで行われる、韓国(北朝鮮)や中国叩きの大合唱は一体誰の利益になるのかというような想像力に欠けている。言っていることは、ワールドカップ共催の時の韓国チームの悪口から始まっているように、そのいかにも客観的な物言いにカムフラージュされてはいるが、きわめて子供じみていて、たとえば国内での「大阪叩き」や「名古屋叩き」を拡大したようなものであり、「言った、言わない」みたいな合わせ鏡的な論争なのだが、中国と朝鮮半島と日本がいつまでも仲良くなれないことを望んでいるのは、明らかにアメリカ合衆国の世界戦略なのであり、これらのもめ事も半分以上仕組まれたものであるということに考えが及んでいない。それに、本当に中国や朝鮮半島の人々が、過去のトラウマに囚われて非合理な日本叩きの暴走を始めているのだとしたら、それこそ東アジア地域に未来はないではないか? 中国や韓国がいかにひどい国かというような言説は、結局はアメリカやその同盟者たちとの結束を強め、これらの「下の」国々よりも日本を優位に起きたいという、これまた身勝手な論理を強化することにしか向かわないし、その底にあるのは、中国が対米関係で日本よりも優位に立ってしまうのではないかという恐怖感ではないかと思う。要するに、中国・韓国が非合理な感情によって動かされていると言うが、そうしたヒステリックな反応それ自体が日本国内のヒステリックな感情によって突き動かされているのである。それはそうだろう。少子化の進む日本や韓国と比べて、中国がこのまま成長し続ければその巨大さから言ってもとうてい日本にはとても勝ち目はなくなる。「物作りの伝統」とか「ソフトで立ち向かう」とか言われているのは、産業や市場の大きさではとうてい中国には勝てないという意識の現れであり、中国に失敗して欲しいとか、失速して欲しいとかいう身勝手な願望ばかりが暴走しているように思われる。まあ、そうなったらまた鎖国して「国風文化」に閉じこもることになるのだろうか? 
 個人的には巨大な中国が本当に開かれた社会になっていくとしたら(現状は金儲けにばかり走る、中国商人たちばかりが際立っているが)、21世紀以降の世界文明の発展に寄与していくのではないかと思う。どうせ、いまだって欧米の風下に立っているだけなのだから、中国文明圏が真の偉大さを復活させて行くのなら、それは全然悪いことではない。そのためには、揚げ足の取り合いのような不毛な関係をいかに解消して行くかということしかないし、そのためには「国家による教育装置」以外の別のコミュニケーション回路を数多く作り上げて行くことしかないのだ。
 まあ、大きな目で見ればアジア各国に関心が向けられて行くのはいいことだし、そこから誤解が溶けて行くこともあるだろう。あの国はひどいとか、あの民族は馬鹿だとかいうようなことを言う前に、自分自身の足下を見つめよという自省はいつの時代でも一番大切なことではないかと思う。現在の自分の感情や好き嫌いだけを「本音」で語るような薄っぺらい言説の中に自分を同化して、「そうだ、俺たちは正しいんだ」という自己正当化に逃げ込むというのは、「知」を求めることとは正反対の態度なのだと言いたい。

2005.09.08

悲惨は世界の(本当に)「あらゆるところ」にある

 「ほっとけない世界の貧しさ」をキャッチコピーにするホ○イトバンドについて触れたことで、前回キーワード検索組を呼び寄せてしまった。というわけで一部伏せ字にしてみる。前にゼミ生のブログ研究のブログで、「ブログ界」というものがあって、いつもネタを探して、そのネタについて論争して盛り上がるといったブロガー達のことが書かれていたのだが、どうもそういうものがあるようだ。「ホ○イトバンド」とか、最近だと「学生のレポートのコピペ問題」とか、マスコミで流れるニュースとはまた別の「ブログ界」ネタがあるらしい。それはそれで興味深いが、もう少し長い時間的レンジで物事を考えて行くのには向いていないのではないかと思う。意見や感想を提出して、そしてまたそれに対してコメントや異論が飛び交い、さらにそれに反論するというようなことだけでは見えてこないことがあるのではないだろうか。もちろん、これはちょっと昔の「論壇」とか「文壇」とかのミニ版で構造的にはそれほど新しいものではないのだが、何しろrssリーダーや、Googleのおかげてその動きが極度に加速される。まあ、それだけ多くの人がネットの中で情報をやりとりしているわけだ。
 それで言うと、「何が言われているか」よりも「何が言われていないか」の方にむしろ関心がある。たとえば、ハリケーン「カト○ーナ」の被害を受けたニューオリンズの貧しいアメリカ人たちの余りにも未来のない悲惨な映像に対して、ホ○イトバンドの人たちはなぜ何も言わないのか? アメリカ政府の借款を棒引きにしようとか、助成金をアメリカに出そうとか言うわけにはいくまい。構造的にはしかしながらそれと同じことなのだ。ブルースの発祥地に暮らす黒人を初めとするマイノリティたちがいまだにどんなに悲惨で未来を持てない暮らしをしているのかということを考えると、CDを買ったり、コンサートチケットを買ったりしている「中産階級」に「貧困を救おう」と呼びかけ、おしゃれなファッションアイテムを買わせることがいかに無意味で破廉恥なことかよくわかる。アメリカの富の(ということは世界の富の)ほとんどは5%のアメリカ人たちが支配していると言われるが、確かにアメリカの貧民層の生活の悲惨さは日本のホームレスよりもひどいのではないかと思う。そもそも、彼らはハリケーンで被害にあうずっと前から「難民」なのだ。ただ、それらはテレビ画面にはこれまで余り現れてこなかっただけである。その人たちが、水も食料もない野球ドームに無理矢理に収容されている光景は圧倒的でさえある。この人たちの「被災」ではなくて、この人たちが普段どういう生活をしているのかをなぜメディアはインタヴューしないのだろうか? ぼくはマーク・トウェィンの小説に出てくる「ジプシー・ジョー」がとても好きだったのだが、ドームに収容されるのを断固として拒絶して小さなズタ袋のような荷物をもってひとりでハイウェイを歩いている黒人男性のインタヴューを見て、ああアメリカにはまだジプシー・ジョーたちが沢山居るのだなあと思った。
 ロサンゼルスに行った時に、バスや地下鉄にほとんど白人が乗っていないことに驚いた。白人は自家用車かタクシーしか使わない。しかも、バス代をもっていない人が沢山乗り込んでくる。運転手は慣れているのか黙認している。ダウンタウンのぴかぴかしたゴージャスな地区からリトル・トーキョーの方に歩き、バス停まで戻ろうと近道を選んだら、とんだスラム街に出てしまった。路上にごろごろ寝ている人たちが道を塞いでいる。通りごとに民族グループが分かれて住んでおり、プエルト・リコ系、黒人、ヒスパニック系の極度に貧しい人たちのスラムが続く。みんな通りにたむろしており、数人で物乞いに寄ってきたり、ぐるぐる取り囲んで何かを言って来たりする人たちもいて、かなりの恐怖を感じたが、通りを一つ渡るとついてこなくなる。黒人地区だけは身なりはかなり悲惨だが、みんな敬虔なキリスト教徒らしく、なぜか荒れた感じがしなかった。しかし、やはり宗教とアヘン(ドラッグ)しか彼らには逃げ場所はないのだ。しかも、道の向こうには豪華なホテルや宝石店の並ぶ繁華街がすぐ近くにあるのである。その地区の近くにある工場のフェンスの中では警備員たちがショットガンを構えて警備している。パトカーがひっきりなしに巡回している。まさしく、天国と地獄が隣り合わせにあるような町だと思った。帰りに空港まで遠いので、一番安い乗り合いのシャトルバス・サービスを頼んだ。何人かを自宅やホテルまでピックアップして空港まで連れて行くサービスだ。時間にルーズなヒスパニック系の運転手で、ピックアップがなかなかうまく行かない。ぼくの次に乗り込んだ高級住宅地に住む白人の少女は運転手に当たり散らして、怒鳴りまくっていた。最初はぼくも英語がしゃべれないのではないかと思っていたらしいが、運転手が外に居る時に話しかけてみると、ああいう連中がいかにドジで駄目で阿呆かというようなことをぶちまける。日本人だと分かると、日本のアニメや漫画が好きだとうれしそうにいう。ああ、こういう具合にして、日本の幼児的なサブカルチャーが支配国アメリカの中流階級に現実の悲惨さから目をそらす口実を提供しているのだと思うと、確かに少しくらいはドジで間抜けかもしれない運転手の方に同情したくなってくる。コミケとか広告とかアニメとかコスプレとかお気楽に言っている日本の若い連中の頭上にミサイルが飛んで来たらいいのにと思ってしまう。こういうのは人種差別というよりも、出身階層や住んでいるところの違いによる差別なのである。たまたまそれがエスニック・グループの住み分けと一致しているにすぎない。全米の至る所でこうした激しい格差が放置されていて、それが「自由経済」に基づく競争社会を作り上げている根幹にあるのだ。日本でも、ホームレスや出稼ぎ外国人やある特定の地区に住む人たちを一律に差別する感情が強いが、メキシコやブラジルではもっとひどいらしい。ストリート・チルドレンと呼ばれるホームレスの子供たちを車で轢いても、止まると金を要求されるからとそのまま走り去るのが当たり前のようにされている。しゃべってみると、それこそ現代世界の状況についてきちんとしゃべることのできる知識階級の人たちが、平気で倒れている子供を置き去りにしていく(「当たり屋」が横行しているという日常が、「轢き逃げ」という行為を正当化してしまい、それを全く記憶に留まらない「些細な出来事」にしてしまう)。
 ぼくは、たとえ「マルクス主義」それ自体が古びたとしても、マルクスが目を向けたような一部の階級による多数者(労働者階級、プロレタリアート)の抑圧と搾取がもたらす悲惨が構造的なものであって(けっして怠け者の貧乏人が悪いのではない)、そしてそれは搾取される階級を「無知」なままの状態にしておく「権力装置」によって維持されるのだという現実を忘れるべきではないと思う。確かに人は「下部構造」のみで生きているのではないにしても、食べ物や住むところや安全すら脅かされるような環境を放置しておく(ほったらかしにしておく)ことによって繁栄している社会を尊敬することはできない。もちろん、アメリカにもいいところは沢山ある。だが、国内におけるああいう圧倒的な貧困と悲惨の上に成り立っている豊かさや活力というものは、結局は滅びの道に向かっていると思わざるをえない。そして、それをグローバル・スタンダードだなどと言って、それに追随して、マネーという幻想を拡大することが賢いと思っているような卑小な島国に関しては言わずもがなというような気がするのだ。
 今回の衆議院選挙など余り関わりたくないが、飛び込んでくるどうでもいい言説の束を前にすると無力感に囚われる。こんな国で「有権者」であること自体が屈辱ではないだろうか。一年間の間にパレスチナとセルビアという、もう百年近くも「世界の火薬庫」であり続けている地域をまわっていろいろな人たちと話しながら歩いた四方田犬彦の『見ることの塩』(作品社)を読みながらそう思った。ちなみにこの本のタイトルは高橋睦郎の次の詩の一節から取られている。
           私の見ることは塩である。
           私の見ることには、癒しがない。

2005.09.06

いくつか

 アートンのホームページに、「バッタ本」の特集ページが掲載された。もう少しするとメイキング映像のハイライトシーンが動画で掲載されることになっている。11日の発売日が楽しみだ。椿昇とぼくの手元に残っていたバッタグッズを集めたら、ミニバルーンの金と黒が20いくつかと、ピンバッジが数百個見つかった。これは本屋でのキャンペーンや読者プレゼント用になる。それにしても、金バッタが10個もあったのは驚き。あれは当時凄い人気があって、しかも一万五千円以上の高額募金者用で販売はしなかった。我々関係者も余りもっていない貴重品だ。最初は、先着順に読者プレゼントしたいと言っていたがそれはもったいないので違う使い道を考えてもらう。あれなら、今でも数千円出しても欲しい人がいるだろう。プレゼントにはもったいない。写真は当時とても喜んでくれて金バッタの写真を沢山送ってくれた方からのもの。iwos_g1010

 オンラインのチケット予約センター、e-plusのサイトに唐十郎関係の公演の紹介が沢山出ている。とりわけ、11月にシアターコクーンで始まる、「KARA COMPLEX」と題したシリーズ第一弾「調教師」のキャストが決まったという情報が新しい。e-plusでは唐組に取材したらしく、とりあえず唐さんのインタヴュー唐組劇団員のコメントの映像を見ることができる。FLASH動画でとてもきれいだ。「シアターガイド」の次の号には唐ゼミの記事も出るらしい。今日、明日が新宿梁山泊の韓国ツアーの最終日だが、台風の影響は大丈夫だろうか?二ヶ月近くにわたった過酷なツアーもこれで終わり。10日にはみんな帰国する。

2005.09.03

300ページ近くの結構厚めの本になった

 アートンから『巨大バッタの奇蹟』の見本刷りが送られてきた。正式な発売日が9/15になっているが、12日くらいから書店に並ぶことになる。税込み1470円と安い。帯と中扉が銀紙が使われていて表紙の赤も光沢があり、なんだかぴかぴかとまぶしい。この写真よりもずいぶん派手である。カバーは何度も直してくれたこともあって、とてもスッキリしていていい出来だ。coverそして、カバーを外すと山田さんがこだわってくれた、募金チラシや支援のFAXや新聞記事などが散りばめられたコラージュ。これもとても気に入っている。とにかく、いろいろな人に読んでもらいたいが、バッタの場合に余りにも協力してくれた人が多く、既に献本が100冊を越えていて、このままではその2倍くらい買い取らなくてはならない勢いだ。よほど売れなければ、きっと儲かるどころか赤字になってしまうかもしれない。一応、直接著者売りで8掛け(1200円)でも売れるが、生協で5%引きで買える人はそちらでもお願いしたいし、書店でも買っていただきたい。自分で言うのもなんですが間違いなくいい本です。何度も校正をして万全を尽くしたつもりだったが、一枚口絵を入れ忘れてしまったことに気がついた。それもまあ悪くないが、せっかくなのでここに入れておきます。こんな凄いことが目の前で起こったのだ。batta
www.konchuu.comのウェブもまだ生きていますし、関わった人もそうでない人も是非見ていただきたいと思います。また、この本の中には「劇団唐ゼミ★」のメンバーも沢山出てきます。9/28に発売される岩波書店の『教室を路地に! --横浜国大VS紅テント、2739日』(1785円)と是非合わせてお読みになって下さい。
マッケンジー・ワークの「ハッカー宣言」(河出書房新社)の書評を頼まれて、明日4日東京新聞(中日新聞)の書評欄に掲載されることになっている。前もやったことがあるが、ここは字数が800字なので、さすがに短すぎて言いたいことが尽くせない。少し時間が経ったら長めのものをサイトの方にも載せてみたい。深さにはやや欠けているが、挑発的な問題提起が面白かった。

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