« いくつか | トップページ | 「ハッカー宣言」 »

2005.09.08

悲惨は世界の(本当に)「あらゆるところ」にある

 「ほっとけない世界の貧しさ」をキャッチコピーにするホ○イトバンドについて触れたことで、前回キーワード検索組を呼び寄せてしまった。というわけで一部伏せ字にしてみる。前にゼミ生のブログ研究のブログで、「ブログ界」というものがあって、いつもネタを探して、そのネタについて論争して盛り上がるといったブロガー達のことが書かれていたのだが、どうもそういうものがあるようだ。「ホ○イトバンド」とか、最近だと「学生のレポートのコピペ問題」とか、マスコミで流れるニュースとはまた別の「ブログ界」ネタがあるらしい。それはそれで興味深いが、もう少し長い時間的レンジで物事を考えて行くのには向いていないのではないかと思う。意見や感想を提出して、そしてまたそれに対してコメントや異論が飛び交い、さらにそれに反論するというようなことだけでは見えてこないことがあるのではないだろうか。もちろん、これはちょっと昔の「論壇」とか「文壇」とかのミニ版で構造的にはそれほど新しいものではないのだが、何しろrssリーダーや、Googleのおかげてその動きが極度に加速される。まあ、それだけ多くの人がネットの中で情報をやりとりしているわけだ。
 それで言うと、「何が言われているか」よりも「何が言われていないか」の方にむしろ関心がある。たとえば、ハリケーン「カト○ーナ」の被害を受けたニューオリンズの貧しいアメリカ人たちの余りにも未来のない悲惨な映像に対して、ホ○イトバンドの人たちはなぜ何も言わないのか? アメリカ政府の借款を棒引きにしようとか、助成金をアメリカに出そうとか言うわけにはいくまい。構造的にはしかしながらそれと同じことなのだ。ブルースの発祥地に暮らす黒人を初めとするマイノリティたちがいまだにどんなに悲惨で未来を持てない暮らしをしているのかということを考えると、CDを買ったり、コンサートチケットを買ったりしている「中産階級」に「貧困を救おう」と呼びかけ、おしゃれなファッションアイテムを買わせることがいかに無意味で破廉恥なことかよくわかる。アメリカの富の(ということは世界の富の)ほとんどは5%のアメリカ人たちが支配していると言われるが、確かにアメリカの貧民層の生活の悲惨さは日本のホームレスよりもひどいのではないかと思う。そもそも、彼らはハリケーンで被害にあうずっと前から「難民」なのだ。ただ、それらはテレビ画面にはこれまで余り現れてこなかっただけである。その人たちが、水も食料もない野球ドームに無理矢理に収容されている光景は圧倒的でさえある。この人たちの「被災」ではなくて、この人たちが普段どういう生活をしているのかをなぜメディアはインタヴューしないのだろうか? ぼくはマーク・トウェィンの小説に出てくる「ジプシー・ジョー」がとても好きだったのだが、ドームに収容されるのを断固として拒絶して小さなズタ袋のような荷物をもってひとりでハイウェイを歩いている黒人男性のインタヴューを見て、ああアメリカにはまだジプシー・ジョーたちが沢山居るのだなあと思った。
 ロサンゼルスに行った時に、バスや地下鉄にほとんど白人が乗っていないことに驚いた。白人は自家用車かタクシーしか使わない。しかも、バス代をもっていない人が沢山乗り込んでくる。運転手は慣れているのか黙認している。ダウンタウンのぴかぴかしたゴージャスな地区からリトル・トーキョーの方に歩き、バス停まで戻ろうと近道を選んだら、とんだスラム街に出てしまった。路上にごろごろ寝ている人たちが道を塞いでいる。通りごとに民族グループが分かれて住んでおり、プエルト・リコ系、黒人、ヒスパニック系の極度に貧しい人たちのスラムが続く。みんな通りにたむろしており、数人で物乞いに寄ってきたり、ぐるぐる取り囲んで何かを言って来たりする人たちもいて、かなりの恐怖を感じたが、通りを一つ渡るとついてこなくなる。黒人地区だけは身なりはかなり悲惨だが、みんな敬虔なキリスト教徒らしく、なぜか荒れた感じがしなかった。しかし、やはり宗教とアヘン(ドラッグ)しか彼らには逃げ場所はないのだ。しかも、道の向こうには豪華なホテルや宝石店の並ぶ繁華街がすぐ近くにあるのである。その地区の近くにある工場のフェンスの中では警備員たちがショットガンを構えて警備している。パトカーがひっきりなしに巡回している。まさしく、天国と地獄が隣り合わせにあるような町だと思った。帰りに空港まで遠いので、一番安い乗り合いのシャトルバス・サービスを頼んだ。何人かを自宅やホテルまでピックアップして空港まで連れて行くサービスだ。時間にルーズなヒスパニック系の運転手で、ピックアップがなかなかうまく行かない。ぼくの次に乗り込んだ高級住宅地に住む白人の少女は運転手に当たり散らして、怒鳴りまくっていた。最初はぼくも英語がしゃべれないのではないかと思っていたらしいが、運転手が外に居る時に話しかけてみると、ああいう連中がいかにドジで駄目で阿呆かというようなことをぶちまける。日本人だと分かると、日本のアニメや漫画が好きだとうれしそうにいう。ああ、こういう具合にして、日本の幼児的なサブカルチャーが支配国アメリカの中流階級に現実の悲惨さから目をそらす口実を提供しているのだと思うと、確かに少しくらいはドジで間抜けかもしれない運転手の方に同情したくなってくる。コミケとか広告とかアニメとかコスプレとかお気楽に言っている日本の若い連中の頭上にミサイルが飛んで来たらいいのにと思ってしまう。こういうのは人種差別というよりも、出身階層や住んでいるところの違いによる差別なのである。たまたまそれがエスニック・グループの住み分けと一致しているにすぎない。全米の至る所でこうした激しい格差が放置されていて、それが「自由経済」に基づく競争社会を作り上げている根幹にあるのだ。日本でも、ホームレスや出稼ぎ外国人やある特定の地区に住む人たちを一律に差別する感情が強いが、メキシコやブラジルではもっとひどいらしい。ストリート・チルドレンと呼ばれるホームレスの子供たちを車で轢いても、止まると金を要求されるからとそのまま走り去るのが当たり前のようにされている。しゃべってみると、それこそ現代世界の状況についてきちんとしゃべることのできる知識階級の人たちが、平気で倒れている子供を置き去りにしていく(「当たり屋」が横行しているという日常が、「轢き逃げ」という行為を正当化してしまい、それを全く記憶に留まらない「些細な出来事」にしてしまう)。
 ぼくは、たとえ「マルクス主義」それ自体が古びたとしても、マルクスが目を向けたような一部の階級による多数者(労働者階級、プロレタリアート)の抑圧と搾取がもたらす悲惨が構造的なものであって(けっして怠け者の貧乏人が悪いのではない)、そしてそれは搾取される階級を「無知」なままの状態にしておく「権力装置」によって維持されるのだという現実を忘れるべきではないと思う。確かに人は「下部構造」のみで生きているのではないにしても、食べ物や住むところや安全すら脅かされるような環境を放置しておく(ほったらかしにしておく)ことによって繁栄している社会を尊敬することはできない。もちろん、アメリカにもいいところは沢山ある。だが、国内におけるああいう圧倒的な貧困と悲惨の上に成り立っている豊かさや活力というものは、結局は滅びの道に向かっていると思わざるをえない。そして、それをグローバル・スタンダードだなどと言って、それに追随して、マネーという幻想を拡大することが賢いと思っているような卑小な島国に関しては言わずもがなというような気がするのだ。
 今回の衆議院選挙など余り関わりたくないが、飛び込んでくるどうでもいい言説の束を前にすると無力感に囚われる。こんな国で「有権者」であること自体が屈辱ではないだろうか。一年間の間にパレスチナとセルビアという、もう百年近くも「世界の火薬庫」であり続けている地域をまわっていろいろな人たちと話しながら歩いた四方田犬彦の『見ることの塩』(作品社)を読みながらそう思った。ちなみにこの本のタイトルは高橋睦郎の次の詩の一節から取られている。
           私の見ることは塩である。
           私の見ることには、癒しがない。

« いくつか | トップページ | 「ハッカー宣言」 »

「Non Section」カテゴリの記事

コメント

早速のご回答ありがとうございます。僕も現行の民主制には大いに疑問を持っているのですが、ポスト民主主義はあり得るのかということを考えるときに、室井さんはどういった政体なり制度なりを許容範囲と考えられているのかと思い、先の質問をさせて頂きました。非常に答え難い質問だと分かっていながら敢えてご質問させて頂いたのですが、丁寧にご回答頂き感謝致します。ありがとうございました。

コメントありがとうございます。
難しい質問をされますね。たとえば、独裁国家に生まれて、その国の民主化を目指している人にとっては、日本のような間接民主主義国家で選挙に参加できるということは夢のようなことでしょう。しかし、近代民主主義という制度が本当にベストなものなのか、あるいは少なくとも他の政治形態よりベターなものなのかというと、私にはよくわかりません。言えることは、近代国民国家という大規模な共同体と、この間接民主主義による「代議制」という政治形態が密接に絡み合っているということで、私には少なくとも「代議制」(representatative)というものがすっきり納得できたためしがありません。つまり、私の「代わり」に国会で私を「代表」してくれるような候補者を見たことがないのです。選挙の度に新聞やテレビ局が世論調査しますが、どうせなら世論調査で当確を決定してしまえばいいのにと思います。選挙に行かない人は最低だというようなマスコミで流れる決めつけにはいつもとても鼻白む思いをしています。じゃ、山谷の労働者やホームレスはどうなんだ。お前らがルールを決めたゲームに参加しない(できない)人たちはみんな悪なのか? というような腹立ちから、こういうフレーズを書いたのは事実です。そもそも、政治や社会参加するだけが人間なのではない、そこからはみ出してしまう部分こそが生き物ととしての人間の一番大切な部分なのだと言いたいと思っています(が、今日もちょっと酔っぱらってしまったので、あまりこれ以上合理的に話をすることはできません)。

「有権者」であることが屈辱ではない国があるとしたら何処ですか?

と問われると、ですから統計的に処理される数千万分の一という「参政権」をあまり信じていないという点では、どこでもないでしょうね。ただ、私が前のエントリーで言いたかったことは、与野党が「マニフェスト」に出しているような問題意識のどれにも私は与することができないという絶望感です。そのような問題意識しか持てない国家や制度の一員であると考えるとかなり悲惨な気持ちになるということに重点があります。それをコメントで全面的に説明することはちょっと難しいのでご容赦下さい。もし、ずっと読んでいただけるようでしたら、おいおいとそういうことに関しても述べて行きたいと思っています。

まあ、こういうことを言っても、選挙に参加できないのは嫌なので、当日の体調次第ですが、投票に行くことになるかもしれません。でも、どこにも私を「代表」してくれる党はないので、白票にするか、せいぜい共産党か社民党のような圧倒的なマイノリティに嫌々票を入れて、地区では無駄な票をひとつ投じるか、比例区でちょっとくらいこれらの党のどうしようもない人の議席を獲得するのに統計学的に貢献するか、それくらいしかないのですね。家で寝ていた方がましだと思わざるをえません。そういう意味では、日本で有権者であるのが恥だというよりも、どういう状況認識がいまその共同体で支配的なイデオロギーなのかということの方が重要ですね。また、制度そのもののあり方に対する共同体の成員の意識のあり方にもそれは依存するものなのではないかと思います。

だらだらしていてすみません。こんなところです。

いつも、とても興味深く拝読しております。僕も、今回の災害映像を見て同じ印象を持ちました。この不健全さがアメリカという国の一つの側面であり、そして恐らく、世界が向かおうとしている方向なのだと思います。

それにしても、いつも室井さんの文章には独特の毒というか、皮肉が含まれていて、僕はそれが好きでもあるのですが、今回はちょっとその毒の部分についてお伺いしたいことがあります。

>> こんな国で「有権者」であること自体が屈辱ではないだろうか。

上記の件なのですが、室井さんにとって「有権者」であることが屈辱ではない国があるとしたら何処ですか?興味本位の質問で恐縮なのですが、宜しければご教示下さい。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/16230/5837718

この記事へのトラックバック一覧です: 悲惨は世界の(本当に)「あらゆるところ」にある:

» ほっとけないブラジルの貧しさ [非国際人養成講座]
せっかく沢山のアクセスをいただいているので、たまにはブラジルの話も読んでもらいたい。実はこの問題について語るほど私は十分な材料を持っているわけではないが、そんなことを言っていたら、誰も論ずる人がいなくなってしまう。... [続きを読む]

« いくつか | トップページ | 「ハッカー宣言」 »

最近のトラックバック

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31