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2005.09.10

「ハッカー宣言」

 マッケンジー・ワークの『ハッカー宣言』(マッケンジー・ワーク著、金田智文訳、河出書房新社)についての書評が東京新聞の9月4日号に掲載された。800字の短い分量なので言いたいことをすべて述べることはなかなか難しい。書評は下のようなものである。

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「情報の不当な私有に抗する」

 すべての「ハッカー階級」は連帯せよ! 情報の搾取や囲い込みを打破せよ! と、著者マッケンジー・ワークは挑発する。情報社会における支配階級は「ベクトル階級」(情報誘導階級)と呼ばれ、かつてのイギリスの「囲い込み」で農民から土地を奪い私有することによって莫大な利益を上げた牧羊家たちや、産業革命で利益を独占してきた資本家階級たちに続くものだと彼は主張する。ハッカーとは生産を搾取される「階級」なのだという視点が新しい。
 したがって、ハッカー階級とベクトル階級の対立とは、情報を生産する者と本来共有されるべき情報を不当に「私有」し、情報の生産構造を支配しようとする者との対立である。後者は情報を囲い込むことで不当な利益を得ているマイクロソフト社やホリエモンのような人たち、地球規模の著作権ビジネスを推し進める映画・音楽関係者たちに当たる。
「ハッカー」は、通常不法にコンピュータシステムに侵入してプログラムやデータを書き換えたりする犯罪者と考えられている。だが、それと同時にハッカーはその管理システムのあり方それ自体に疑問を投げかけ、その支配と搾取の構造を暴こうとする「革命家」でもあるのだ。何よりも重要なのは「ハッカー」が情報の書き換えを通して、新しい情報を生産する生産者階級であるということである。その意味で、芸術家、哲学者、思想家、科学者、研究者たちもまた本来は「ハッカー階級」に所属していると言える。だが、そのことはまだそれほど広く自覚されてはいない。だから、この「宣言」は「眠れるハッカーたちよ、目覚めよ」と呼びかけているのである。
 最近ようやくL・レッシグらの著作によって、著作権ビジネスや情報ビジネス、さらにはそれを支える行政の政治的・経済的システムは何だかおかしいのではないかという疑いが共有されるようになってきた。そうした中で、情報社会の問題点を情報生産とその搾取という階級論的な視点を持ち込むことでくっきりと浮かび上がらせた刺激的な書物である。
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 これに付け加えることがあるとしたら、こうである。
 この本は、ドゥルーズ=ガタリ(と言うよりもガタリ)やギィ・ドゥボールら「シチュアシオニスト・インターナショナル」に影響を受けて情報社会における新たな階級闘争の始まりを定義したものだと、「訳者解説」などにも書かれているが、確かにそういう部分が濃厚で、それがこの本の明らかな「短所」である。マルクス主義の新しい土台付けを狙っていたシチュアシオニスムや、グラムシのヘゲモニー論に基づくアウトノミア運動などの理論的支柱を打ち立てようとしていたフェリックス・ガタリの文脈では、現在の情報グローバリズムに抗することなどとてもできないし、カルスタ左派(日本では上野俊哉に代表されるような)的な古くさい戦略で何か新しい立場が生み出せるとはとても思えない。
この本の長所は、むしろ生産する者と生産を搾取し独占私有体制を打ち立てる者との対立として中世から現代までの数百年の歴史を荒っぽくざっくりとまとめてしまうアメリカ的なシンプルさと大らかさにある。要するに牧羊家たちとは、中世の職人たちのギルドを崩壊させ、近代産業社会に移行する基礎を作り上げた人々であるわけだが、それをビル・ゲイツのような情報資本主義の創始者と比較している視点が新鮮で面白いのである。もっとも「牧羊家」という日本語の語感はそれとはほど遠い文字通り牧歌的なイメージだし、「ベクトル階級」という訳語も生硬だ。若い訳者にもうすこし覇気があれば、この本の荒っぽい暴力性を浮き上がらすことができたかもしれないのだが‥‥まあ、「解説」を読む限りではそこまでの見通しは持てないのだろう。
 君もぼくもハッカーなのだ。物を作ったり、観念を作り上げたり、新しい学術的な視点を生み出す人は全員「ハッカー階級」であることを自覚せよ。ものを作らずにそれを操作して、富を私有する人々は悪であり敵なのだ。著作権を守れと法制化を進め、資本のための資本を求める連中こそが真の剽窃者であり、作ってもいない情報を盗み取る犯罪者なのであるとストレートに言う姿勢が新鮮なのである。
確かに、金儲けは卑しいものであるという倫理観を取り戻すことは重要であるし、株式市場で利益を生み出している人たちは「何も生産しておらず」単に、「博打打ちの親玉」(by 西垣通)、「剽窃者」にすぎない。要するに物でも情報でも「新しい物」や「新しい関係性」を作り上げることのできる生産者階級と、それを狡猾に搾取し利用し寄生する「ベクトル階級」のどちらかに立たなければならないし、どんな場合でも「ベクトル階級」になることは「醜い」ことなのだ。反近代主義的な構図は中世を理想化するロマン主義的な匂いが濃厚ではあるが、それは、たとえばL.レッシグのように支配階級の良識の中で著作権の過剰保護に疑問を投げかけるような「穏健」な立場とは明らかに違っている。「万国のハッカー階級」よ、連帯せよ! このように読み解くことで、この強度には満ちているが、議論の深さには欠けている書物を初めて有効利用することができるようになるのではないだろうか。

 本についてもうひとつ。
 韓国に個人的な関心が深まる中、本屋の韓国コーナーに並ぶ本の多さに驚いた。いまや、韓流ドラマ本よりも「反日」デモで揺れた中国・韓国に反発する本の出版の方が目立って来ている。中でもマンガ『嫌(かん)流』というのが売れているらしい(これも現在のブログ界ネタなので「韓」だけ伏せ字にしておく)。要するに小林よしのりの「ゴー宣」と似たような右翼ナショナリスト的な朝鮮人及び韓国政府告発本であると同時に、日本国内の左翼知識人批判であるのだが、韓国人及び韓国政府が囚われている非合理的なトラウマから生まれる日本批判に、日本人が「うんざりしている」という、中国や韓国に対する反感から、それらの反日批判がいかに合理性を欠いた「言いがかり」なのかということを、資料を示して解き明かしていこうとするような本である。ただ、客観性を装いながらも、キャラクターの書き分けで明らかに対立する側を悪人面で描くなどの手法は小林よしのりと同じ。行間にそれこそ非合理的な差別感情(「朝鮮には誇れるべき文化など一つもない」、「在日は勝手に日本に残っただけなのだから、日本の悪口を言うのならさっさと半島に帰れ」「朝鮮高校生いじめやチョゴリが切られた騒ぎは自作自演」etc.)が見え隠れしている。また、大村収容所をはじめとして日本政府側がどれだけ戦後の在日に対して過酷な政策を取ったのかというようなことも隠されていて、どうみても公平な記述とは言えない。要するにこれはこれでまた一つの「偽史」構築の本であり、「ユダヤ人陰謀」本などと同質な「トンデモ本」なのである。
 西尾幹二はじめ「新しい歴史教科書」派の人たちがエッセーを書いているので、明らかに立場が偏ったある種の「運動」本なのであるが、大月隆寛の文章だけは問題意識がきちんとしていて、漫画本文に対する辛辣な批判になっている。「歴史」が「鏡」となるという点は正しいとしても、問題は「誰の」鏡であるかということなのだ。それは近代国民国家が生み出した幻の「国民」の「鏡」だったのであり、だからこそ近代国家は「国民史博物館」や「国民史教育」を進めて来たのである。韓国の歴史教育がひどいと言うが、戦前もっとひどい皇民教育を行い、民族主義的な鏡を強制して暴走して行ったのが過去の日本ではないか。まさしく、ネットでの言い争いのような低いレベルで行われる、韓国(北朝鮮)や中国叩きの大合唱は一体誰の利益になるのかというような想像力に欠けている。言っていることは、ワールドカップ共催の時の韓国チームの悪口から始まっているように、そのいかにも客観的な物言いにカムフラージュされてはいるが、きわめて子供じみていて、たとえば国内での「大阪叩き」や「名古屋叩き」を拡大したようなものであり、「言った、言わない」みたいな合わせ鏡的な論争なのだが、中国と朝鮮半島と日本がいつまでも仲良くなれないことを望んでいるのは、明らかにアメリカ合衆国の世界戦略なのであり、これらのもめ事も半分以上仕組まれたものであるということに考えが及んでいない。それに、本当に中国や朝鮮半島の人々が、過去のトラウマに囚われて非合理な日本叩きの暴走を始めているのだとしたら、それこそ東アジア地域に未来はないではないか? 中国や韓国がいかにひどい国かというような言説は、結局はアメリカやその同盟者たちとの結束を強め、これらの「下の」国々よりも日本を優位に起きたいという、これまた身勝手な論理を強化することにしか向かわないし、その底にあるのは、中国が対米関係で日本よりも優位に立ってしまうのではないかという恐怖感ではないかと思う。要するに、中国・韓国が非合理な感情によって動かされていると言うが、そうしたヒステリックな反応それ自体が日本国内のヒステリックな感情によって突き動かされているのである。それはそうだろう。少子化の進む日本や韓国と比べて、中国がこのまま成長し続ければその巨大さから言ってもとうてい日本にはとても勝ち目はなくなる。「物作りの伝統」とか「ソフトで立ち向かう」とか言われているのは、産業や市場の大きさではとうてい中国には勝てないという意識の現れであり、中国に失敗して欲しいとか、失速して欲しいとかいう身勝手な願望ばかりが暴走しているように思われる。まあ、そうなったらまた鎖国して「国風文化」に閉じこもることになるのだろうか? 
 個人的には巨大な中国が本当に開かれた社会になっていくとしたら(現状は金儲けにばかり走る、中国商人たちばかりが際立っているが)、21世紀以降の世界文明の発展に寄与していくのではないかと思う。どうせ、いまだって欧米の風下に立っているだけなのだから、中国文明圏が真の偉大さを復活させて行くのなら、それは全然悪いことではない。そのためには、揚げ足の取り合いのような不毛な関係をいかに解消して行くかということしかないし、そのためには「国家による教育装置」以外の別のコミュニケーション回路を数多く作り上げて行くことしかないのだ。
 まあ、大きな目で見ればアジア各国に関心が向けられて行くのはいいことだし、そこから誤解が溶けて行くこともあるだろう。あの国はひどいとか、あの民族は馬鹿だとかいうようなことを言う前に、自分自身の足下を見つめよという自省はいつの時代でも一番大切なことではないかと思う。現在の自分の感情や好き嫌いだけを「本音」で語るような薄っぺらい言説の中に自分を同化して、「そうだ、俺たちは正しいんだ」という自己正当化に逃げ込むというのは、「知」を求めることとは正反対の態度なのだと言いたい。

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ISBN:4309243487:detail えー、発売してかれこれ二ヶ月くらい経つのですが、反響などなど。 まずは書評で、STUDIOVOICEの10月号に豊福剛さんが書評を書いてくださっています。 所有の抽象化という『ハッカー宣言』のコアとなる論点にスポットを当てていただいて、訳者としても嬉しい書評でした。 それから、室井尚さんにも東京新聞9月4日付けの夕刊で書評を書いていただき、またその書評をフォローするエントリをご自身のblogに掲載されています。(短信: 「ハッカー宣言」) もっとも「牧... [続きを読む]

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