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2006.03.21

パパ・タラフマラの「三人姉妹」

 昨年末、パパ・タラフマラの「百年の孤独」に招待して頂いた(http://www.pappa-tara.com/)。主宰の小池博史さんは、ぼくが子供時代に住んでいた日立市出身で学年も近いということで何かしらの同質性のようなものを感じている。妹島和世も書いているように、日立製作所の城下町であり、山地から海に向かってまっすぐに傾斜しているこの町では、水平線が空の中程までせりあがっていて、まるで擂り鉢の底に世界から切り離されて生きているようで実に息苦しいのだ。世界中から切り離されていて、何一つここでは重要で真実なことが起こりそうにも無いように思われるその町で、海外文学や映画だけを見ながら、いつかそこから脱出する日を夢見ている少年時代を過ごしたというのが彼とぼくとの共通項である。ほら、これってチェーホフの「三人姉妹」と全く同じようなシチュエーションではないか? ぼくや妹島が中学や高校を日立ではなく水戸にしたのに対して、小池さんは中学だけ水戸に通ったが面倒くさくなり高校は日立一高にしたと言っていたが、それはほとんど東京に留まらず外国での活動を中心にしているというパパ・タラフマラの今のスタンスまでつながっているのかもしれない。要するに小池さんは「反中央」とか「反中心」というわけではないが、どこにも「中心がない」、もしくは「中心から遥かに離れている」という世界を一貫して生きてきているのではないかという気がする。あるのは遥かに遠い「中心」についての神話、または「物語」だけなのだ。世界文学と「地球の歩き方」を愛読していたという彼の話は、どこかの何億光年も離れて別の太陽系の植民星に住んでいて、けっして近づくことのできない地球文明の「中心」と「現在」との「隔たり」の意識に貫かれているような気もする。そして彼らのパフォーマンスには、その惑星で起源も忘れられてただ風習として時々演じられる子供の遊戯のような独特の希薄性が感じられる。
 京都から直行して、中野の早稲田通り裏にあるダンススタジオで二日だけ上演されている「三人姉妹」を観に行った。風塵(風のほこり)舞い散る大風の吹く中を歩き、前回の世田谷パブリックとは対照的な小空間で70人くらいの客席に身動きできないほどにぎゅうぎゅうに詰め込まれて見せていただいた。
 女性三人によるダンスなのだが、見かけは全然違っていても前回の「百年の孤独」とほとんど同じような構造を強く感じた。要するに「百年の孤独」や「三人姉妹」をプレテキストにして、その濃密な物語や19世紀ロシア貴族の没落とは何の関係もなく、「世界文学」に憧れ、何も起こらない退屈な日常の中で、そうした希薄な物語の助けによって励起させられるままごと遊びを繰り返している「子供の領分」を映し出しているのだ。ここでは、ガルシア=マルケスやチェーホフに「接近」することが目指されているのではなく、最初からその「遠さ」を主題化することだけが目指されている。「百年の孤独」の場合には外国人のパフォーマーも何人か出ていたが、全体としてはやはり「子供」の身体をした日本人パフォーマーが、その文脈も歴史的根拠も欠落している南米の神話的世界にまつわる「まがいものの物語」を、洗練の極まで推し進めようとしたものであった。最後に巨大なオブジェが出てくるスペクタル的な場面ですらも、それは目の前に起こっていることではなく、拡大された子供の遊びであり、そこには何一つ真正なものなどなく、すべては子供たちによるブリコラージュ(間に合わせのものを使って作られる器用仕事)なのであり、その「隙間」や「隔たり」を見せることだけが重要なことであるかのようであった。
 「三人姉妹」の場合は、よく考えてみれば原作戯曲自体がそのような「距離」や「隔たり」と向き合う未成熟な子供たちをめぐる作品である。小池は昭和三〇年代の日立の家庭を設定したと言っているらしいが、それは日本という場所に生まれてピアノやバレーを習ったり、海外文学や映画、音楽に憧れているすべての田舎者に当てはまる風景である。昭和三〇年代の日本家屋の中で子供たちによって演じられる、「大人の世界」や「セックス」や「文学」や「西欧」にまつわる憧れや妄想は、何も重要なことは起こらず、徹底して日常的で退屈な「こちら側」の世界へと回帰していくことが宿命づけられている。それが、バレエという19世紀ヨーロッパで生まれた一地方文化を「中心」と思い込み、子供の頃からトウシューズを履かされた徹底して日本人の身体をした女性たちによって演じられるというところに、小池さんの冷めた視線を感じた。この希薄さが批評性に変わることがあるとすれば、それはそれでとても面白いことなのだが、そのためにはこの「中心の喪失」というフランカステル的な感情に対して、もっと自覚的に正面から対峙しなくてはならないのではないかと思った。ぼくたちの世代とは違って、ここ数十年の若い世代はこの隙間を膨大なサブカルチャー的イメージを挿入することで強引に乗り切ってきているように思われるのだが、この埋めても埋めても埋まらないすかすかと希薄な空間性がどこまで通じるのだろうか? ぼくは逆にいつもリアルなものがいまここに生起しているような空間性に惹かれるようになってきたのだが、それは彼らのパフォーマンスのように、リアルなものがどこにもなく、常に遥か遠くに遠ざけられているような疎外感や距離の感覚と根を同じくしているものなのだということを再確認させられた。

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