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2006.07.04

ルーブル、ポンヌフ、サンジェルマン通りなど

 いろいろ宿題もあるのでホテルで本を読んだりしながら、10時頃にふらりと外に出て、最近再オープンしたジュー・ド・ポーム美術館に行こうと思ったのだが、ここは月曜日が休み。シンディ・シャーマンの回顧展をやっているのでまた来ることにして、隣のオランジュリでモネでも観ようかと思いきや、ここも個人客は午後からということで、仕方なくルーブルまで歩く。  エトワール(シャルル・ドゴール広場)の凱旋門からシャンゼリゼ、コンコルド広場、チュイルリー公園、カルーセルの凱旋門まで一直線に見渡せるこの広々とした空間はいつ来ても凄いなと思う。コンコルド広場に立つと四方がすべて手に取るように見えるようになっている。  チュイルリーの木陰で涼しい風を受けて一休みしながら、何となく京都に近いような気がした。共通しているのは、両方とも木のある場所が多いことと、建造物や町並みが(大きくは)変わらないことである。とりわけ木は大切で、人間や動物と違って何百年、場合によっては千年を超えて生き続ける植物は無闇に切ったりしてはいけないと思う。同じ場所に座って木を見ているだけで、遠く過ぎ去った時間が一瞬のうちに戻ってくるような気がする。  でもって、仕方なくルーブルへ。ここに入るのはこれまた十五年ぶりくらいではないだろうか? ピラミッドがまだ無くてドゥノン翼が入り口だった。入るといきなりサモトラケのニケのある階段だったような気がする。配置も変わり、複雑さはさらに増したが、何となくシステマティックにできており、有名物件と絵画だけ見るのは割と簡単になった。というよりも月曜なのにやはり人が多すぎる。モナリザの人垣は相変わらずだが、岩窟の聖母のあたりはなぜかそれほど混んでいない。みんなガイドブックや音声ガイドで印がついた「銘品」ばかり見に来ているらしい。  最後に来たときは帝塚山学院大学のツアーで、島本浣さんの超高速ガイドにつきあったなあ。あの時の最後はルーベンスの間でその後みんなでカフェに集まったけれど、今回もなぜか最後はルーベンスのお肉の間だった。出口も必ずピラミッドの下からでなくてはならないのね。何だか風情がなくなったような気がする。  そこからポンヌフを渡り、オデオン、サン・ミシェルの方へ。この辺りはまず19歳の時に一ヶ月フランス語学校に通った。ユーロセンターというその学校はポンヌフのそばのパサージュ・ドーフィヌというところにあったが、その前を通る。今はそのまま英語学校になっている。完全に初級で一番下のクラスだった。ベンテ、クリスタ、リンダ、マルコ、アントーニャ、マリア・ピアたちは今はどうしていることだろうか?   昔はもっときつかった臭気も消え、町は少し垢抜けてお洒落にはなっているが、基本的には変わっていないので、あっと言う間に32年前が蘇る。あの時はエトワールの近くでホームステイしたマダム・エリーが「この紙を見せて人に道を聞きなさい」と、「パサージュ・ドーフィヌにあるユーロセンターを探しています。パサージュ・ドーフィヌはドーフィヌ通りにあります」という紙を手渡してくれたものだ。月曜から授業が始まるので日曜の午後パリに着いたのだが、連絡不足で(当時はFAXすらなく、すべてテープ状のTelexという電報のようなものでやりとりをしていた)、外出しており戻ってきたのが夜の11:30過ぎで、その間ぼくはアパルトマンの階段の上に座り込み心細い思いで待ち続けていたものである。  ご主人は単身赴任していて、婦人は四歳のシャルル・エドワールという坊やと住んでいたが、とても親切にしてもらった。近隣から遠くはランスまで遠足に行き、帰りには香港にもステイオーバーした最初のヨーロッパ体験である。南回りのインド航空は10カ所以上もトランジットがあって、36時間の長旅だったが、降りるたびにハイジャック用の身体検査(考えてみればセンサーが無かったから)があり、軍人に機関銃を突きつけられていた(そういえば今回もシンガポールとパリ空港では機関銃を抱えた警備兵がいたっけ)。  ベトナム戦争が終結したのが翌75年である。  あの頃感じていた「他者性」への驚きみたいなものが、今のぼくには欠けている。今よりも外国人が少なかった当時のパリで、どこに行っても視線を浴びせかけられ、ひそひそ噂話をされ、部屋に戻って鏡で自分の顔や体を見るたびに自分でも違和感を感じていたあの頃と比べて、未知な物が既知になり、欧米人の知り合いや友達も増えたし、何よりもパリ自体が外国人の町となった。すれ違う観光客たちもまた韓国語や中国語を使っている人たちが多いし、アラブ人や黒人も多い。それでも今回排外的な新移民法を制定したフランスの中枢にいる人々は、自分たちの文化や体制を変えるつもりはないらしい。こういうかたくなな保守性や拝外性がないと、確かにこれだけのものは守れない。それでも内側からフランスは大きく変わりつつある、そのことも否めない。  ぼくのホテルの客室係は黒人の若い女の子なのだが、今日はトイレットペーパーの先端がきれいに三角に折りたたまれていた。こういうのも文化変容のひとつなのだろうか?168319952_168

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