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2006年7月

2006.07.31

ナポリ1,2

 午前中はバリの港をぶらぶらしていた。釣りをしている親子連れをずっと観察。余り釣果ははかばかしくない。旧市街から新市街へと歩いて公園で一休み。預けた荷物を引き取り、バス乗り場へ。土曜日だからか空いている。高速道路の快適な旅で、ナポリ中央駅裏に二時間半で到着した。

 そう言えばバスの中で日本人の親子連れに会った。この人たちはローマからの列車の中で見ている。遅れで七時間もの長旅の間、父親らしき神経質そうな40代の男性はずっと「地球の歩き方、南イタリアとマルタの旅」とか「イタリア語入門」とか数冊の本をトイレに一度も行かず読み続けており、小三くらいに見える娘はずっと夏休みの学習帳のようなものをやっていた。バリでぼくが降りたときに後から出てきたので、「今晩わ」と声をかけたら凄くおびえたので、遠慮してそれ以上話しかけなかった。その人たちとまた一緒になったのだ。

 休憩中に話しかけたが、自分のことはほとんどしゃべらない。ただイタリアが好きであと5日間ほど南イタリアだけを旅して回ると言う。ナポリのホテルが遠いのでタクシーに乗るというので分かれた。マニアックそうな人だった。女の子の方は慣れているのか悠然としていた。

 駅前がいきなりゴミの山で臭い。五月の末に嶋本昭三がパフォーマンスをやった駅前のガリバルディ広場もゴミだらけ、偽ブランドバッグを売る黒人たちや中国人たち、盗品のようなものを含めてあらゆるものを路上で売っている。車やバイクも乱暴に走り回り、まるで大阪鶴橋の朝鮮市場のように猥雑でけたたましく圧倒された。悪臭が凄い。その近くのホテルはいかにも家族経営らしく、この時点でネット環境はあきらめた。どうやらイタリアでADSLというのは電話回線のことらしい。

 外を歩くと駅前は乱雑だが、メインストリートはむしろ閑散としていて、港側の方はむしろ閑静。場所によって違うらしい。しかも駅は場末のようだ。近くに広い中国人街が広がっている。レストランで夕飯を食べて暗くなった外に出ると、露店が全部消えていてなぜか駅前もきれいになっていた。ゴミもいつの間にか掃除され、悪臭も消えている。不思議な街だ。大声で歌っている人もいるし、若者はバイクに乗って裸で走り回っている。

 明日中心地を回るのが楽しみだ。

その2

 朝から外がうるさい。どうやら日曜日にはこのあたりは古着市が立つらしく、中国人中心の露天商と地元客でにぎわっている。どうも駅前には曜日によっていろいろな市が立つらしい。偽ブランドバッグを売っているアフリカ人は常にいるが、それ以外には日によって違う市が立つ。彼らが去った後にはおびただしいゴミと得も言われぬにおいが立ちこめている。どうもこれは中央駅付近だけのことらしく、ナポリの街全体ではないようだ。古着市も朝だけで帰ったときには閑散としていた。

 港に行って1日のパレルモ行きフェリーの予約をする。個室、共同部屋、椅子席だけとあるが、ついケチなとこが出て一番安い椅子席にしてしまった。一等だし、まあいいのではないだろうか。あまりに辛いようなら帰りはキャビンを取ってもいい。そのまま中心地の王宮やヌエボ城あたりを見て、一番のメインストリート、トレド通りを抜けてダンテ広場へ。昨日書いたのは間違いで、嶋本昭三がパフォーマンスをしたのはこのダンテ広場だった。このあたりは本当の中心できれいな場所だ。嶋本さんの展覧会も三ヶ月間開かれたらしいが、インフォメーションで聞いたら六月で終了したそうである。残念。http://www.shozo.net に詳細が載っている。マフィアのボスの誘いだからとちょっと悩んでいたんだけど、良かったようだ。

 国立考古学博物館から、カポディモンテ美術館へ。帰りは古い町並みの残るナポリ地区を通って帰る。ナポリは暑いのだが、海洋性気候と言うか変化があり、時折雲が太陽を隠してくれる。昨日到着した時には通り雨だったし、夕べは凄い雷雨だった。洗濯物は余りよく乾かない。

 それにしても、今泊まっているSIRIというホテル、家族経営なのだがなかなか凄い。どうやら息子の一人ががんばっているようだが、他の家族はてんでやる気がない。朝食もいい加減、おしゃべりしていてなかなか準備してくれない。今日帰ったときにレセプションにいた凄い年寄りはテレビを見ていて鍵を取るのが面倒くさいらしく、「自分で勝手に取ってくれ」と投げやり。上の階から息子が降りてきてしきりに謝っていた。

 明日はポンペイに行こうと思っている。186766022_125
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2006.07.29

ペトリッリとポンツィオ

 朝電話すると、スーザンは12:00に大学に来てくれと言う。どうやら彼女は息子を迎えに別な町に行かなくてはならず、夕食は無理らしい。彼女とポンチオは先週まで南アフリカ、その直前まで中国の広州の学会に出ていた。そういう忙しい時期なのでまあ仕方ない。

 彼女には男の子と女の子が居て、女の子は一緒に居るが15歳の男の子を今夜迎えに行かなくてはならないらしい。この子たちと来週から二週間ギリシャ旅行をするのでバタバタしているのだと言う。

 と言っても、写真を見るとこの子たちは二人ともアフリカ人である。どういう事情か知らないが養子にしているらしい。そう言えば亡くなったシビオクもそうだった。白人の若い奥さんと黒い子供三人を率いていた。

 バリ大学はふつうの通りにあるふつうの建物いくつかであり、そのうちの「言語学・外国語学部」と書かれている建物の五階に赴く。それぞれのセクションに分かれていて、研究室や書庫や事務室のドアがたくさん並んでいる。そのうちの一つのドアの前に立つと、ポンチオが出てきた。彼は英語はしゃべれないが、フランス語なら少しはできるらしい。

 「スーザンはもう少ししたら来るからここで待っていて」と言われて、しばらく待つとスーザンがやってきた。彼女の研究室でおしゃべり。ひっきりなしに大学院生や秘書(助手?)たちが出入りする。確かに忙しそうだ。

 どうやら、彼女たちの本「Semiotics Unbounded」は、国際記号学会の機関誌「Semiotica」で特集になるらしい。それで、ぼくが頼まれていた書評も、書評ではなくこの本をめぐって何人かが論考を載せるうちのひとつに格上げになるらしく、そのため締め切りも年内に延びることになったと言う。それは助かる。

 また、バリ大学と共に、ウィーンの社会記号論研究所のジェフ・ベルナールにも、ぼくの(形式上の)引受先になってもらっているのだが、今年の初めからどうも具合が悪いらしい。スーザンがその場で電話したが、まだ自宅療養中だと言う。どうも、パニック症候群のようなもので、人と話したり、職場に行くことができなくなっているらしい。ぼくに変わろうかとスーザンが言ったが、どうも億劫らしかったので伝言だけにする。こんな感じではウィーンに行ってもとても話はできないだろう。とりあえず、社会記号論研究所には行ってみるつもりだけど。

 とにかく今回は表敬訪問のようなものだから、一緒に写真を撮り、今後何か会議をやるときには必ずあなたをイタリアに呼ぶから、またバリに来てねと言われた。

 バリは思ったよりもずっと大きくにぎやかな都会で、ショッピング・ゾーンも大きく、ブランドの店も沢山ある。ちょうど仙台くらいの規模で、もしかするとボローニャよりも賑やかかもしれない。南部の商工業の中心地らしい。旧市街の名所は、シシリー島にノルマン人がいた頃に作られた城壁や、サンタクロースの元でこの町の守護聖人サン・ニコラ寺院、カテドラルなどで、一時間ほどで全部歩いた。

 すぐそばにあるアドリア海では沢山の人が水浴をしていた。言うまでもなく、暑い。

 明日は午前中ここで過ごして、午後のバスでナポリに移動する。昨日で懲りたので明日のバスのチケットは予約した。ナポリから後は、とりあえずシシリー島に渡ってみようと思っているが、すべてはナポリに着いてからのことだ。その先どうするか、ヨーロッパ地図をにらんで考えているが、八月末にはリンツで開かれる「アルス・エレクトリカ」に行きたい。オーストリア、ハンガリー、チェコ、ポーランドあたりを考えながら、スペインとモロッコにも行ってみたい。また最後はパリで語学学校にも行きたい。悩みどころである。186021566_106
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2006.07.28

パリへ

 昨日の夜スーザン・ペトリッリに電話したら、28日の夕食を一緒にしましょうとのこと。一応その日の朝電話することになる。

 ローマからバリへの列車は一日四五本あるので、どうってことないだろうと思って11:00頃テルミニ駅に出て、自動販売機でチケットを買おうと思ったら、なんといちばん早い13:30がチケットがとれない。どうやら席がないらしい。一等でも駄目。ちょっとなめていたようだ。

 結局次の15:38の一等が取れたのだが、それまでの待ち時間が長い。イタリアの駅や列車の一部には冷房がついているが、全くきかない。日本の弱冷よりもさらに弱い。どこで待っていても暑い。一度は荷物預かり所に行ったのだが、そこの列の余りもの長さにあきらめた。駅中をうろついたり、本を読んだり、食事をしたり(結局、以前愛用したセルフサービスのレストランは元の場所にあって、全く変わっていなかった)。

 そんなこんなでようやく乗り込んだユーロスターだが、いきなり三十分遅れますというアナウンス。さらにもう少し、遅れるようだ。というわけで、この書き出しは列車の中であまりにも暇をもてあまして書き始めている。ローマからバリまでは五時間近くかかる。結構遠い。バリは多分二泊で、あとはバスでナポリに出ようと思う。鉄道だととても不便なようだ。

 さすがに一等だし、窓際の一人席だし、外の景色を見ながら旅するのはまあまあ快適なのだが、それにしてもこの列車、いったいどれくらい遅れるのだろうか?

 というわけで、ようやく着いたが二時間遅れだった。七時間近い。やれやれ疲れた。ちょっと高めの駅前の四つ星ホテルにしといて良かった。あっと言う間にチェックインできた。今回はじめてボーイが荷物を運んでくれた。

 結局今日は移動だけで終わる。185411691_26

2006.07.27

ローマ

 ホテルは中心地を少し離れた大学都市近くにあり、この周辺には何もない。ネット事情は悪いが、コンパクトにいろいろな設備があり、とりわけダブルのベッドの寝心地は悪くない。

 87年にローマに来たことがある。あの時はフィレンツェから鉄道でテルミニ駅に到着したのだった。もう二十年近く前だから、いろいろ変わってはいる。だが、それでも二千年以上前から続くこの町の全体的印象はそれほど変わらない。

 今日は、前回行けなかった場所、フォロ・ロマーノやカラカラ皇帝の浴場跡などを回る。地下鉄でヴァチカンに向かい、博物館へ。ここも入り口が新しくなっていた。ここのラファエッロやミケランジェロのテンペラ画は、実際に見ると淡く、はかなく見える。テンペラだからということもあるが、天井から壁からあらゆるものがごてごてと飾られているので、相対的に淡く見えてしまうのかもしれない。絵画館のカラヴァッジオですら、何となくあっさりとしたものに見えてしまう。相変わらずすごい人混みで満員電車の中のようだった。

 今回目につくのが、韓国人の団体客と中国人の個人客だ。両方とも「地球の歩き方」そっくりなガイドブックを携えている。日本人は驚くほど少なくなった。やっぱり八十年代というのが、日本のピークだったのだろうか(今はユーロが高いし、学生たちはみんなヴェトナムやタイに行きたがるし)。あの頃の日本人観光客は目障りなまでもパワフルだったのに、今は中国人にその座を奪われた感じ。

 帰りは適当にバスに乗って中心部の景色を眺めながら、テルミニ駅に。昔はここのセルフサービスの食堂にお世話になったものだが、完全に新しくなっていて、うら寂れた感じは一掃されていた。スーパーで肉屋で焼きたてを売っているローストしたチキンを買って帰ったが、骨まで柔らかくてうまい。こんなおいしい鶏にはめったに出会えない。

 明日、一日ローマをうろつき、あさってにはバリに移動して、そこでペトリッリらと会うことになっている。宿題もあるので、明日も観光は適当にしよう。ローマは日向はやっぱり暑いが(だから大浴場の人気があったのだろう)、ウルビノと違って蚊もいないし、日陰は涼しい。

#やっぱり写真はきついので今回はテキストのみ。

2日目
 前に来たときもそうだったが、何となくローマに来ると「ローマの休日」巡りをしてしまうんだよね。

 スペイン階段とか真実の口とか、どうってことない場所にもつい回ってしまう。またトレビの泉に行って小銭を背中ごしに投げてしまう。コロッセウムとかパンテオンとかヴェネチア広場、ナボナ広場なんかはそれなりだし、途中道に迷ってまた昨日のフォノ・ロマーナに戻ってしまい、カピトリーニ広場にも戻り、博物館も見た。前に来たときにはスペイン階段の近くで靴を買ったな。

 途中、スペイン階段で先生に引率された女子大生の団体と遭遇した。そういえば、91年にはぼくも帝塚山学院の学生たちと九月に三週間の旅行をしたことがある。あの時は島本浣さんがイタリア、スペインから、ぼくたちがオランダからチューリッヒ、ジュネーブ、ベルリン、ベルギーを経て、二グループが最後にはパリに合流して10日間過ごすという、かなり企画者島本さんの意志がはっきり反映された旅だった。いまの職場では考えにくいことだけど、あれはあれで楽しかったなあ。そうやって帰国したら突然今の大学へ来ないかという誘いの電話があったんだっけ。、

 それにしても昼は異常に暑いのでついついジェラートを食べてしまう。明日からはバリ、ナポリと未知の土地に足を踏み入れることになる。183953238_234
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2006.07.26

さらばウルビノ

 最終日は結局、エミリオやアルイーザたちとウルビノへ。パイプオルガンのコンサートに行った。

 その前に全員で記念写真を撮ったりして、さんざん別れを惜しんだが、結局その大半はこのコンサートやその後の飲み会で再会することになった。

 パイオーニ教授は来年は呼ぶからねと言ってくれたが、どうなるか。来年は六月にフィンランドで国際記号学会があり、八月にトルコで国際美学会がある。その上に七月にイタリアとはなかなか難しいだろう。第一、ここも予算がなかなか維持できなくなっているらしくいつまで続けられるかわからないらしい。まあ、パイオーニの目の黒いうちは大丈夫だろうけど。ダーミッシュ夫妻はそのままウンベルト・エーコの山荘に向かったようだ。「ナガイと奥さんによろしく」と言っていた。

 さて、コンサートはちょうど、水戸芸術館にあるのと同じくらいのオルガンで、ルネサンス音楽を演奏する。ドイツの荘厳なオルガン演奏とは違って、軽やかでイタリアの青空が広がっていくような演奏だった。

 終わった後隣のオープンカフェでビールを飲んでいると、どんどん参加者が集まってくる。結局は打ち上げ飲み会。

 翌日は朝10:00のバスでウルビノへ。ペサロへ向かうエミリオたちを見送った後、再びドゥカーレ宮殿とかいろいろ時間をつぶし、15:00発のローマ行き長距離バスへ。直通と聞いていたのに、めちゃくちゃ色々なところに止まって時間がかかった。

 途中アッシジの横を通ったので撮影。

 7:40頃ローマに到着。ホテルを見つけるのに手間取り一時間近くかかってしまった。途中で遭遇した雷雨がローマにまで追っかけてきて、そのままバーでビールを飲んで就寝。残り物のメキシカン・チップス、チーズと唐ゼミ★の禿ちゃんからもらった佃煮を食べた。おいしかったよ。

 このホテルだが、インターネットができるはずで予約したのに、部屋では不可。結局は電話回線でアクセスしている。したがって、写真とかはまた後日。ネットでホテルを探しているのだが、どうも当てにならない。ここだって、部屋でASDL回線が使えるとはっきり書いてあるのにね。183953034_146
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2006.07.24

いよいよ最終日

 昨日はティエリー・ド・デューヴの発表を聞いていて、余り に西欧中心主義的で余りに芸術至上主義的なもので、周りに 不満をぶちまけていたら、企画者の一人でこの日の司会者だったオマール・カラブレーゼがおもしろがって、夕食に誘ってくれた。もっとも昨日話したダーミッシュ教授からぼくも誘うようにと元々言われていたようである。

 そこで、またまた山の中のレストラン。前回よりお洒落な場所で、中で結婚式をやっていてやかましい。パリの高等社会科学院の学生たちや、ダーミッシュの奥様のテリーと話す。結局、帰ったのは一時過ぎ。若い人たちはまたそれからウルビノの町に遊びにいったようだ。

 ところで、ド・デューヴとは94年のニュージーランド芸術祭の時に会っている。不思議な会議だったが、あの時にもあまりにも西洋芸術中心主義的で論争になったものだった。デュシャン研究で昔から世界的に有名な人だが、ろくなものではない。

 もっとも、周囲のヨーロッパ人たちもやはり彼のことをそんな風にとらえているようである。そうしてみると、やはりダーミッシュは面白い。日本で一番びっくりしたのが信楽の方にある「MIHO Museum」だと言うので、ネットで調べてみた。こんなものがあるとは知らなかった。あとは、またまた永井君の噂話ね。奥さんも加わって、彼のことがこんなネタになっているとは知らなかった。

 今度本人に言っておかなくては。、

 さて、ずっと続いた会議も今日で最終日。明日はローマに移動する。

 今日もまた遅くなるのだろうなあ。まあ、最終日だから仕方ない。182292248_200
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2006.07.23

ダーミッシュとパイオーニ

 結局昨日はバスに乗らなかった。エミリオやアルイーザに何度も誘われたのだけど。

 宿舎の部屋は東向きで朝の六時には否応なく強い太陽の光が差し込んできて目が覚めてしまう。夜、眠いのである。いずれにしてもあと何回かは夜の会に参加せざるをえないとは思っているのだが、昨日はたまたま夕食後、ロビーに居たユベール・ダーミッシュと話ができたのでそれで満足したのだ。

 ダーミッシュは78歳の美術史家で、日本語の翻訳も多数ある。小柄な白髪の老人だ。話をしていたら、最近は日本映画が大好きで特に北野武が大好きだそうだ。カイエ・ドュ・シネマにも書いたことがあると言う。日本人で印象にあるのは誰かと聞いたら、小林康夫ともう一人、「ナガイ」と言う。よく聞いてみたらぼくの後輩で、現在は京都工芸繊維大学に居る永井隆則君のことらしい。そう言えば、パリ時代ダーミッシュについたと言っていたな。「ぼくは日本には呼ばれたことがないんだ。観光旅行で東京と京都には行ったことがあるけれど」と言っていた。なぜ誰も呼んであげようとしないのだろう。ダーミッシュは少し足腰が弱っているようで、立ったり歩いたりするのは辛そうだったが、頭はしっかりしているようで、このハードな会議にもずっと出席して、活発にコメントしたりしている。現役の高等社会科学院の教授である。

 パイオーニ教授に頼んで一緒に写真を撮った。魂を吸い取られるから写真はいやだというのを無理矢理に。隣が奥さん。これはやはりびっくりするよね。

 結局、バリ大学のアウグスト・ポンチオは来ていないようだ。スーザン・ペトリッリにメールをして、バリで会う日程を相談する。スーザンたちはまた8月2日からどこに行くようだ。全くエネルギッシュな人たちである。

 一昨日去っていった人たちの何人かからメールが届いている。エーコの時に一緒だったボローニャ大学のジャンパウロはなんと小説家でもあるそうである。181532973_8
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2006.07.22

国際学会とはどんなものか?

 最後のセッション「理論的対象としてのアート」が始まった。ユベール・ダーミッシュを始め美術系の人たちが集まってきている。前も書いたようにほとんどがイタリア語かフランス語のセッション。適当にさぼる。

 朝、パイオーニ教授と話した。彼はエーコと(パオロ)ファブリ(有名な美術史学者)との個人的な関係から、六十年代の終わりからこの夏季セッションを始めたと言う。毎日欠かさず顔を出し、もう来年の準備も始めていると言う。85歳(一説によると87歳!)なのに、背筋も伸びて元気で、おそらく40歳前後と思われる若い美人の奥様もいる。いやはや、見習いたいものだ。

 彼の話を聞いても、イタリアにおいてエーコという人の存在がどれだけ大きかったかということがわかる。

 エミリオは昨日、ボローニャ大学の講師採用の面接に行ってきたが、結果はあまりはかばかしくなかったらしい。常勤を狙っているのだが、とりあえずは二ヶ月間のコースだけしか決まらなかったと言う。

 それはいいのだが、ボローニャの駅で昨日帰った韓国のキム・ソンドを見かけたそうだ。なんと財布を盗まれて駅の中を走っていたと言う。キムは先日も夕食後のバスに乗り遅れて必死になって走ってきたところを運転手が見つけて乗せてあげたので、何だか走っている姿を想像してしまうとおかしい。盗まれたのは大変で、こちらも気をつけなくてはならないが、このキム・ソンドという人は何となく官僚っぽくて、話の中身も退屈で、学界政治ばかり気にしているようなところがあるのだけれど、それでも何となく憎めないところがある。彼の財布はどうなったのだろうか?

 ここで読んでいる人に国際学会とはどのようなものかをイメージしてもらいたい。

 これがたいていの場合結構ハードなのである。

 たとえば、ここの場合、今日は9:30に開始。そこから四人が45分ずつ発表。間に15分の休憩がある。

 たいてい遅れるので、午前の部が終わるのが13:00過ぎ。そこから昼食を取るが、これも一種の社交の場なので一時間程度かかる。

 それで午後4:00からまた再スタート。今度は三人しゃべって休憩、あと二人しゃべって、時刻通りに終わっても7:30。もちろん時刻通りには終わらない。つまりだいたい一日10人くらいの発表があるのである。それから夕食を取って、行かない日もあったが、20:30のシャトルバスでウルビノ町に行って、23:30か24:00のバスで宿舎に戻ってくる。だいたいこんな感じである。これにまともにつきあっているとかなり疲れてしまう。

 去年のメキシコの学会の時には夜9:00過ぎまで発表がもつれこんでいた。

て なわけで、結構これはこれで大変なんですよ。もうすぐ終わるけど。

 さて、今日はウルビノの町に行くことになるだろうか?180989477_112

2006.07.21

再び入れ替え日

 昨日はパースのセッションの最終日。最後にエーコを中心にしてラウンドテーブル。各国のパース研究事情とかの話になり韓国のキムも発言したので成り行き上仕方なく発言。パースに取り立てて関心がないのであまりたいしたことも言えずに残念。

 Sharon Morrisや、Nothとサンテーラや、キム。そして集まった大半の人はまたしてもここで去ってしまう。エミリオとアルイージァは残るようだ。ようやく刷り上がった次回のセッションのプログラムを見ると、ほとんどがイタリア語のセッションでフランス語と英語がほんのちょぼちょぼとあって、かなりラテン系のセッションになるようだ。これだけフランス語を聞いているのだから、もう少しぼくのフランス語も上達してもいいんじゃないかと思うが、いざしゃべり出そうとするとぐだぐだになってしまう。イタリア語となると完全にお手上げで、発表に関してはフランス語60-70%、イタリア語10-15%くらいの理解度か。

 今日はちょっとしたトラブルがあって、まずは食事の度にキャッシャーに出していたぼくのカードの限界額が消えた。もともと、どんな場所かわからなかったので、朝と昼の食事の分しか払っていなかったのを夕食もここで食べていたので、カードが使えなくなったのだ。パイオーニの秘書のメリーナに言うと、あっと言う間に解決してくれた。もちろん差額を払って、カードも使えるようになった。彼女はとても有能な秘書で、今までもらっていたメールもすべて彼女の代筆だったらしいが、本当に助かった。

 もう一つは、大学から書類の催促が来たことでてんやわんやになった。先週ヴェネチアでメールで提出していたはずの書類だが、どうやら届いていなかったらしい。ここのLANでは、なぜか通常のメールアドレスからの送信ができない。ここの大学か、あるいはうちの大学がセキュリティ制限をしていて、メールを受けることはできるが、送ることができないのだ。そこでyahooメールから送るが、何回送ってもエラーが戻ってくる。そうこうしているうちに返信があって、どうやらちゃんと届いているとが確認された。

 ここを読んでいる皆さんもそういうことがあるので注意してください。最初の奴は何のエラーもなく送ることができたので、問題ないと思っていたのだけれど。

 カードのトラブルのおかげで朝昼の食事ができなかったので、また10:00のバスでウルビノに出て、ビールや食料を買い込んできた。久しぶりに部屋でくつろぐ。

2006.07.20

エーコが来た!

 朝、パイオーニ教授から今日エーコが来るよと言われた。ウンベルト・エーコとは98年のドレスデンでの国際記号学会で山口昌男さんに紹介されて会っている。あの時には、亡くなったトマス・シビオクも来ていて、山口さんと三人だけで昼食を取ったのが思い出深い。エーコが本当に来るかどうかは、主催者はいつも気になるらしく、実際ドタキャンで来ないこともたびたびあるらしい。

 夕方になってエーコが到着した。タバコを吸っていると、向こうから何か怪訝そうに寄ってきたので話しかけた。何となく覚え居てるようだった。「マサオはどうしている?」というので、山口さんが五年前に脳梗塞で倒れたこと、その後も何度も入院して大変だったが、どうやら先日手術をしてから少し良くなってきているらしいことなどを伝えた。「あんなに世界中で暴れ回っていた男が動けなくなったら大変だろう」と言うので、「いや、そんな状態でもどこにでも出かけていましたよ。来年は長期でヨーロッパに来ると言っています」と答えるとうれしそうにしていた。エーコと山口さんは体型や雰囲気もちょっと似ていて、エーコが山口さんを気に入っていろいろなところに引き回してくれたらしい。それでももう十年ほど会っていないようだ。この二人が知り合ったということは、日本の記号論の成立に大きな関係があるのである。エーコは髪や髭がすっかり白くなった以外は、とても健康そうだった。

 「前に山口さんに言われて、ミラノに連絡して、あなたに日本に来てもらおうとしたのですが、連絡が取れませんでした」というと、「一年の半分以上いないからね。それに日本には15年前に行ったけど、もう僕も年だからなかなかね」と言う。そんなことを言いながら先日もインドに行ったり、来年は中国に行こうとしているらしい。短いシガリオをパイプに入れて、火をつけないでずっとくわえている。多分、葉巻が吸いたいのだが我慢してずっと口にくわえているのだろう。マフィアのボスのような雰囲気だった。この人はジョークを言っていたり豪快に笑っているかと思うと、とても神経質なところもあって、目はいつも余り笑っていない。夜に同席したボローニャ大学教授のジャンパウロの話だと、彼がエーコの学生だった頃はとても怖くて無口な先生だったと言う。イタリア語で何か書いてもだめだ。とにかくみんな英語で話したり書いたりできるようになるんだということを、何度も言われたと言う。

 昨日と同じように夜のバスでウルビノに出かけた。今回は10人以上で賑やかだった。広場でビールを飲んでいると、どんどん参加者が集まってくる。エーコやパイオーニもそこに立ち寄って、賑やかな宴会状態になった。エーコと一緒に写真を撮ってもらったが、手前のエミリオにピントが合ってしまって、ちょっとピンボケ。二枚目でとなりに居るのが、ジャンパウロ。


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2006年07月20日
01:46

ERI
あ、エーコのサインもらってきて。私が唯一まともに読めた記号論学者の本だから。ミーハー。
2006年07月20日
23:47

ash
勘弁してくれ。そんな雰囲気はかけらもないし。179164961_29
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2006.07.18

パースのセッション

 というわけでパースとイメージの記号論のセッションが始まったが、いきなり面白くない。

 ソシュールの記号論や「構造主義」が、静的で面白くないと言われ始めたのが、「記号論」の人気がなくなっていったひとつの理由だが、エーコがヨーロッパにパース流の記号論を導入して以来(と言っても二十年以上も前の話だけど)、パースこそが記号論の救世主になるのではないかというような雰囲気が生まれ、それも九十年代の中頃から急速に人気が出てきた。エーコやバルト、それどころかバフチンまでをパースが先取りしていたというような議論だ。今呼んでいるペトリッリの本でもパースはすべての創始者として大きく扱われている。

 そして、パースのテキストや発掘された断片がまるで聖書のように使われるようになった。パースは写真や絵画についても沢山の断片を残していた、とか、彼が死んだ後に出現した抽象絵画についてだって、彼はヒントになるような文章を残しているとか、だいたいそんなような話だ。それで本当に何かが分かるならともかく、結局のところは字句の解釈をめぐって神学論争のような退屈な議論をしているだけなのである。

 ウィンフリート・ノートやサンテーラ・ブラーガの話も退屈。韓国のキム・ソンドの話は、定番の東アジアの豊かな文化を紹介しつつ、マルチメディアについて話すという総花的でどうでもいいものだった。彼はパリ大学で学位を取っているし、英語もイタリア語も分かるらしく、官僚的に能力がある人物で、韓国記号学会の事務局もやっている。しかし、パースとの関係もあまりない上に話がつまらなすぎる。

 余りに退屈だったので、延長されて8:00をすぎたセッションが終わった後、隣に座っていたエミーリオと、8:30に毎晩出ているシャトルバスでウルビノに飲みに行くことにする。昨日も一緒だった彼女は、アルイーザと言ってマルタ出身でイギリスでエジプト考古学を専攻している学生だ。エミリオの案内で有名なレストランに行き、名物の「巨大ピザ」を食べる。エミリオはロンドンで「マーケッティング」のコースを教えているそうだが、Ph.D論文はイギリスの「バイク族」についてのエスノグラフィ研究だったらしい。変なキャリアだし、哲学や記号論についての基本的な教養は欠けているが、話しているとなかなか知的だし、誠実である。

 気づくと隣のテーブルにカナダやアメリカから来たグループが6,7人と、イタリアのバリ大学から来たグループとが来ている。車で来たらしいが、やはりここは有名な店なのだろう。バリ大学から、結局はこのセッションに間に合わなくなった(中国の学会からそのままアフリカに行って18日まで帰ってこない)スーザン・ペトリッリが、ぼくに挨拶しろと命令したのが、手前のアントネッラとティッツィアーナという女の子。二人とも歯の矯正器を入れていて若いが、ティッツィアーナは博士課程、アントネッラはナポリ大学を出て今年からバリ大学の修士に入ったばかりらしい。鼻にピアスしている女の子を国際学会で見かけるのはきわめて珍しい。が、かわいいのて一緒に記念撮影。ペトリッリがここに来るかどうかは分からないが、少なくともアウグスト・ポンチオは20日にやってくるとのこと。

 ぼくたち三人以外はみんな車で来ているので、シャトルバスの運転手にあらかじめ頼んでおいた11:30にバスが迎えに来て、いろいろな欲求不満もとりあえず解消して床についた。178425123_6
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2006.07.17

入れ替え日

 昨日第一セッション「写真の記号論」が終わったために、今日帰る人が結構いる。残る人と半々といったところだろうか。その代わりまた新しい人たちが何十人か参加する。このウルビノ大学の宿舎はさすがに国際学会で名をはせているだけあって、すばらしい。食事もセキュリティも掃除もばっちりだし、全くけちけちしたところがない。それだけ普段から沢山の訪問客がやってくるということなのだろう。

 ピエールとアンのフレスノ・デュルエル夫妻とベルナール・ダラスらのパリ大学組は朝早く出発した。車だと丸二日かかると言う。ピエールは余り英語ができないし、独特の皮肉家なので取っつきは悪いが、実は親切なことがわかる。アンに成田空港で買った

 小さなマスコットをあげたら感激してキスしてくれた。取り立てて言葉を交わしているわけではなくても、何となく相性がいい人たちはいるものだ。ダラスの方はもっといろいろ話したが、余りそういう感じはしない。

 今日帰る人たち用に特別に朝10:00にウルビノまでのバスが出るのだが、実際に乗っていたのはぼくとエミリオとエミリオの友達のマルタ人の女の子だけだった。ほとんどみんな車で来ているのだろうか? 三人でウルビノでお茶を飲んで、彼らはそのままペサロまでバスで遊びに行き、ぼくは少し散歩してからまた歩いて戻った。飲んでいるのはエミリオがイタリアで一番人気のある(?)と主張する「キノート」。コカコーラのイタリア版だ。

 この山道から見るウルビノはまるで「天空の城ラピュタ」か、あるいはカフカの「城」みたいだ。山の植生は日本と似ている。針葉樹がないだけ、昔の日本はむしろこんな感じだったのかもしれない。ひまわり畑の絨毯は相変わらず金色に輝いていて凄い。

 さて、明日からはパースに関する第二セッションが始まる。ペトリッリやポンツィオも(途中から?)やってくるし、ウィルフリート・ノートとサンテーラもやってくる(この人たちは三四度会っているが暗いし何となく肌が合わない)。

 英語圏の人も増えるしフランス語とイタリア語に集中していたこれまでのセッションよりは取っつきやすいかもしれない。177382638_58
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2006.07.16

山の中のディナー

 さて、昨夜のディナーだが三十人近くが参加した。最初はピエールとアンが車で連れて行ってくれると言っていたのだが、主催者のヤンが歩いた方がいいと主張したので歩き始めるが、とてもたどりつけない。

 方角はウルビノの町と逆の方で、どんどん山になっていく。しかも途中から急な上り坂になっているところ、後から車で来た人たちに乗せてもらえた。丘の上のレストランは百姓家の風情のある田園レストランで、にわとりや犬や子猫が庭を歩き回っている。

 自家製のパスタがもちもちしてとてもおいしい。知らない人ばかりだったが、ヤンや隣に座ったイタリア系イギリス人のエミリオらと楽しく議論する。だいたいは仲間内の噂話なのだが、いまや南西ヨーロッパでも劣勢になってしまった記号論の行く末を案じる話だったりして、どうも余り威勢はよろしくない。

 真っ暗になった山道をまた車に分乗して一時過ぎに帰った。取り残された何人かは仕方なく暗い山道を歩いて帰ったようだが、大丈夫だったのだろうか?

 今日は写真のセッションの最終日。明日は休みで明後日からパースのセッションになる。ペトリッリたちも途中からやってくる。ピエールとアンは日曜日にパリに帰ってしまうようだ。176439308_37
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2006.07.15

へーえ

 地元イタリアの新聞「IL RESTO Del CARIINO」の昨日の新聞に、このセミナーの紹介記事が載ったのだが、最後に「このセミナーには日本記号学会会長・室井尚氏も参加している」と書かれていると、受付の女性がわざわざ拡大コピーをしてもってきてくれた。

 たぶん電話取材でいろいろ話したら、記者がそんな遠いところからも来ているのだという意味で取り上げたのだろう。いやはや、この肩書きがこんなに威力をもったことは初めてかもしれない。

 朝から、写真家アラン・セクラに関するベルギーの女性の発表、パリ第一大学のベルナール・ダラスによる写真の修正に関する問題提起、ナタリーというベルギー人によるアウシュビッツの航空写真の話など、いろいろ盛りだくさんだった。アラン・セクラと言えば、横浜トリエンナーレの時に赤レンガ倉庫で展示をしていた作家である。

今日は二日目でウルビノの町で全員一緒のディナーがある。歩いていくというのだが本当だろうか?176078996_25

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2006年07月15日
01:48

ERI
ひぇ~アラン・セクラか。確かに記号学会受けしそうな作家だもんね。小林よしのりに会いたいとか、特高警察の資料とか、蟹工船の初版本とか、横須賀行きたいとか、沈没した四国の海洋高校の遺族に会いたいとか色々と言われた。作品は、ピンとこなかったけど。

2006.07.14

セッション1日目

 朝10:00から始まる前に、Pino Paioi教授に紹介された。84歳だと言う。昨日会ったJacques Geninasca教授も70代で、68年からずっとここのセミナーに参加していると言う。いやあ全く元気だ。ウルビノの国際言語学・記号論研究所が主催するこのセミナーは70年代の終わりから、80年代の前半頃まではとても有名で、ウンベルト・エーコやジュリア・クリステーヴァたちがここで議論を戦わせた。山口昌男や細川修平も来ていると思うのだが、Paioni教授にはたぶんぼくが日本人で一人目だと言われた。去年メキシコのモンテレーで会ったパリ第一大学のPierre Fresnault-Deruelleが奥さん同伴で来ていて、先週Francois Jostと会っているので、二人のパリ大学教授と期せずして再会したことになる。また、二年前にリヨンで開かれた国際記号学会の時に会った韓国記号学会のキム・ソンド氏とも会った。二人とも発表することになっていると言う。いまやっている「写真の記号論」のオーガナイザーの一人であるベルギー・ルーヴァン大学のJan Baetensにも話しかけられて、一部ではぼくが参加することも噂になっていたらしい。今回のこのセミナーは三つの独立したセッションから成り立っており、第一部がこの「写真の記号論」で明後日まで。一日休みを置いて、17−19日が「パースとイコンの論理学」、21−23日が「理論的対象としてのアート」というセッションになっており、最後のにユベール・ダーミッシュやウンベルト・エーコが参加することになっている。ぼくは最後まで居て、24日にバスでローマに移動する予定。
 フランス語のセッションを三つがんばって聞くが、お昼休憩でダウン。少し昼寝をして夕方の部に顔を出すと、イタリア語のセッションに変更になっていたため、そのままウルビノの町の方に歩き出す。誰も歩いていないうねうねと上り下りする坂道を歩いていると、鳥の声が聞こえ、がさごそとトカゲが蛇が這っている音がする。一面のひまわり畑(写真)を通り抜け、小一時間ほど山登りをすると突然景色が開け、ウルビノの城砦が目の前に現れる。よくもまあ、こんなものを中世に作ったものだ。すべては煉瓦造りの町で、舗道だけは石畳になっている。狭い町には意外と観光客ばかりではなくたくさんの人々が暮らしている。カテドラルからドゥカーレ宮殿の中を見て歩く。ラファエッロの生まれた町であり、14歳のラファエッロが初めて描いた絵があったり、ここを訪れたことのあるピエロ・デッラ・フランチェスカの絵が何気なく飾られていたりする。文化と芸術の都市ということでこんな場所にあるにも関わらず昔からいろんな人が訪れていたようである。帰りはさすがにタクシーを使った。明日以降はさらにイタリア語セッションが増えるので、時間が余る。部屋で仕事を進めようと思う。ここに来て、三食まかないつきなので、栄養のバランスは改善された。特にうまくもないが、助かる。175450228_64
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2006.07.13

ウルビノ

 何て言うか、要するに信州で学会をやりますというようなものであり、海辺の町ペサロからバスで約一時間揺られてついたのは見渡す限り山また山の山岳都市。

 城砦が張り巡らされた中世都市がウルビノだ。

 バス停にはPaioni教授の代理だと言う中年のご婦人が二人待っていた。早速宿舎兼会場のソジェスタ・キャンパスまで車で送ってくれるが、3.5キロだと言うが遠い。うねうねと山道を下り、新しい小さなキャンパスに着いた。学生はもう夏休みであまりいないし、静かだ。

 宿舎はなかなか整っていて、ベッドの二つある大きな部屋に通された。冷房も冷蔵庫もあるが(と思ったら、なつかしの「冷風扇」だった)、テレビもないし何もない。コップや灰皿もない。ワイヤレスLANが学内で使えるそうだが、少なくとも部屋にはない。窓の外にはベランダがあって、その向こうには低いがうねうねとした山並みが見える。町までは歩くと軽く一時間以上はかかりそうで、まあこりゃ確かに学会にはいいのかも。何もすることがない。

 今日の夜到着する人が多いらしいがいまのところ学内にはまだ人気はない。

 明日から三日間は写真に関するセッションだが、フランス語とイタリア語の発表がほとんど。17日からのパースに関するセッションになるともう少し人が増えるようだが、とりあえずは暇。明日は午後から町に出てみようかと思う。あとは、例の書評する本をここで読み進められるであろう。

 いやはや、全く....山だ...。174681196_214

2006.07.12

記憶の裂け目2

 さて、昨日書いたことがどうも気になるので、95年の夏、フィンランドのラハティで開かれた国際美学会に参加した時の記憶を遡ってみる。ヘルシンキのホテルで吉岡洋と合流。ツインの部屋で一緒に泊まったと思う。空港から駅について、そこから重い荷物を転がしてようやくホテルについた記憶がある。

 ラハティにはユーレイルパスで向かい、元東京芸大の武藤三千夫さんや、浅沼圭司さんに町でばったり会った。この時に初めてちゃんと話した武藤さんには次の年に東京芸大の非常勤に呼んでもらった。海外で会うとなぜかそれまで敷居が高くて話せなかった人ともうち解けるものである。

 この学会には今道友信先生も国際美学会の副会長として参加しており、青山短大にいる橋本綾子さんも一緒だった。今道さんには昔学生の時に親切にしてもらったのだが、どうも向こうには記憶がないようだった。岩城見一さんや島本浣さん、加藤哲弘君たちも参加していて、岩城さんには名物の手長エビをおごってもらった。たまたまネパール週間で来ていたネパール人の画家たちとも仲良くなって、船に乗って湖水巡りもしたし楽しかった。

 問題はそこから先である。ヘルシンキの旅行代理店で航空券を買って、一人でミラノに向かった。ミラノのホテルに大きな荷物を預けて、ベネチアへ。「地球の歩き方」で電話予約したサンタルチア駅そばの一つ星ホテルで、うるさくて暑くて眠れなかったが、ビエンナーレを見る。そして、そのまま日帰り旅行でパドヴァとボローニャに行ったのだった。

 そしてまたベネチアからミラノへ。一泊だけして荷物を引き取り、ジュネーヴの写真家、アラン・ユムローズのところに行った。別ルートで来ていた吉岡洋が居て、フランス側にあるアランの山荘へ。広い寝室を借りて、男三人で過ごしたが、この時にレマン湖の花火を見に、裏山に三人で登った。次の日は、吉岡が調査中だったオートマトンの町にアランの車で行き、工房と博物館を見学した。

 その後、ぼくだけ列車に乗り、長い旅をしてアムステルダムへ。ここでも、加藤君や島本さんたちと合流したような気がする。ベルギービールでムール貝を食べたような.....,。だいたいこんなところだろう。初めて国際美学会に参加し、初めてベネチア・ビエンナーレを見た印象深い旅行だった。ほら、ちゃんとこんな風に思い出せるから大丈夫だ。ボローニャは本当に短時間の滞在だったからで、どうも印象が混じり合ったようだ。

 ここに居ても、だいたい一通りのものはあっと言う間に見てしまえる。今日も現在のボローニャ大学の周辺と絵画館、考古学博物館に行った。何があるというのではなく、町全体が博物館のようなものなのだ。ポローニャ大学周辺は学生たちで賑わっていた。写真は記号論のセクションがある哲学部のあたり。

 明日の朝、汽車に乗ってウルビノに移ります。ウルビノには24日まで滞在する予定ですが、その間ネット事情がどうなのか? これも行ってみないとわかりません。173972875_199

2006.07.11

記憶の裂け目

 ボローニャに移動。旧市街近くの三つ星ホテルで、ここもまたとてもお得で優雅。無線LANはロビーで有料でしか使えないはずが、一階なので問題なく受信できる。これは無料ということだよね。

 明後日の朝、ウルビノに移動するまではネットは問題ない。問題はそこからだろう。ウルビノのバス停には主催者のPino Paioni教授が迎えに来てくれるそうだ。そこで24日まで記号論のセッションがあるのだが、送られてきたプログラムだとほとんどがイタリア語かフランス語のセッション。ダーミッシュやエーコといった大物も来るようだが、とりわけ前半がイタリア語セッションが続くのでどうしようかと思っている。さぼってどこか近くに旅行に行こうか? とにかく行ってみなければわからないし出たとこ勝負である。

 ところで、ボローニャであるが、9年前に確か来たはずだと思うのだが、どうも釈然としない。駅前の印象が全然違うのだ。確か、あの時はフィンランドからミラノに飛び、そこのホテルに荷物を置いて、ベネチア・ビエンナーレに行き、その間パドヴァとボローニャに日帰りで立ち寄ったはずだ。パドヴァはスクローヴェニ礼拝堂でジォットの壁画を見た記憶がはっきりしているが、その後の記憶が定かではない。

 確か11世紀に生まれた世界最古のボローニャ大学を見たと思うのだがよくわからない。二本の斜塔や大聖堂も記憶が飛んでいて、しかしボローニャ大学に来てやはりここに来ていたと思い出した。急いでいて、ここだけ見て帰ったので、斜塔のイメージが消えているのだ。この時に印象に残っているのは駅前に大きな「セーラームーン」の立て看板があったことだが、どうもあれはボローニャではなくパドヴァだったらしい。やはり記憶は書き換えられているしいい加減だ。

 そう言えばイタリアではさすがにテレビには日本アニメが(しかもオタク系の美少女アニメが)ひっきりなしに出てくる。CNNがあるので、ニュースはたいてい分かる。後は、ワールドカップ絡みのニュースだが、ローマは凄かったらしいが、昨日のベネチアやここボローニャでは全く静かなものだ。もっとも夕べはクラクションを鳴らした車が朝方4:00過ぎに大通りをパレードしていたようだが、全体的にはとても平穏。テレビの画面にも同じ映像しか出てこないから、騒ぎはそれほどでもなかったようだ。ジダンの退場からペナルティでの勝利だから、嬉しさももうひとつかも。


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2006年07月11日
03:42

ERI
キオクッテ、若い時のが比較的鮮明なんじゃない。後は、どんどん書き換えられる一方。こちらは、21日に、唐ゼミ京都公演の町内会説明会におつきあいする予定です。173315680_123
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写真はここで更新します。

こちらには写真の更新をします。
写真のコメントはおいおいやっていきます。
左の「マイフォト」から入ってください。

こちらもお忘れ無く。

2006.07.10

そぞろ歩き

 朝から本島へ。とりあえずヴァポレット(水上バス)に乗ってアカデミア美術館へ。久しぶりにティントレットやヴェロネーゼに再会。

 16世紀や17世紀のヴェネチアの絵に出てくる建物がまだ残っているのが凄い。でもよく見ると昔はやはり水面よりも陸地はだいぶ高かったことが分かる。やはり沈んでいるらしい。前回行けなかったペギー・グッゲンハイム美術館。特別展はルーチョ・フォンタナをやっていた。

 そこから、ヴァポレットにまた乗ってリド島へ。前もつい来てしまったのだが、ヴィスコンティの「ペニスに死す」の舞台となったリゾート地。今回は海水浴シーズンとあってまさしく芋の子を洗うがごとき状態。しまった。水着を持ってくるんだった。海岸は遠浅で波もほとんどなく、ぴちゃぴちゃ遊んでいる状態。日光浴している人たちを観察しながらのんびるとアドリア海の浜辺で時間を過ごす。

 そこからまたサンマルコ広場へ。野菜たっぷりの温かいロールサンドを食べた後、昨日見た「ハンス&ソフィー・アルプ展」へ。まあ、アルプだったわけだし、入場料が11Eと異常に高いと思ったが、アルプがパリからチューリッヒに移り住みダダと合流したことが分かった。

 昨日、パリより暑くないと書いたが、やはり夕方の西日はきつい。日向の温度計が36度を指していた。海水の湿気を含んだ風と強い日差しで肌がちくちくするくらいまで汗ばんでくる。

 観光客で目立つのはフランス人と中国人の団体だ。ミラノで馬場さんから聞いたら、ゴンドラに乗っている東洋人はいまや日本人ではなく中国人だとのこと。かもしれない。ゴンドラ、乗ったら楽しいんだろうなあ。しかし、一人旅ということもあり、こんなことに一万円近くかけられないという貧乏性が身に付いている。ヴァポレットで運河の上を揺られているので満足することにする。

 とにかく何百年も時間が停止しているような不思議な町だ。駅前をふらふらうろついて、カーニバルの仮面やガラスを売る土産物屋を除いて歩く。お土産を買ってしまいそうになるが、きっとここで見るからすてきに見えるのだろうと思い断念。

 今日は6:00過ぎにそのまま戻って、サッカー観戦予定。明日はボローニャに移動する。

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2006年07月10日
05:58

maruken
イタリア優勝しちゃいましたね、大変なことになってるんじゃないですか?気の荒いもんにやられないように…。
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2006.07.09

ヴェネチア

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ミラノから列車で三時間。ヴェネチアに到着。と言ってもホテルは陸地側のヴェネチア・メストレ駅そば。本当に駅前なので便利は便利だ。四つ星なのでなかなか豪華。バーゲンセール中だったのだ。

 列車でヴェネチア島までは8分。ひっきりなしに列車は通る。ここに前に来たのは95年のビエンナーレの時。フィンランドの国際美学会の帰りに飛行機でミラノに来て、そのままヴェネチア、パドヴァ、ボローニャと急ぎ足で回った。今回は特に展覧会もないのでのんびりと散歩した。

 ヴァポレットでまず運河を一周して、サン・マルコ広場。ここに来ると何か明るい気持ちになるのはサン・マルコ寺院の華やかなファサードのせいか。半分、修理中で隠されていたがこの寺院の屋根にある青銅の馬は、十字軍がコンスタンチノープルから略奪してきたもので元々は紀元前一世紀頃のものだそうである。

 ヴェネチアには車が一台もない。迷路のように狭い路地がはりめぐらされており、内側の運河はゴンドラがすれ違うのがぎりぎりなほど狭い。荷物もみんな荷車や台車で運ぶ。ここに来ると何かなつかしいような気持ちになるのはそのせいか。水没が危惧されているが本当に海の上に浮かんでいるような都市だ。ここのホテルには有料の無線LANサービスがあり、24時間だけ予約した。明日の夜まではつなげられる。

 テレビではポルトガルVSvsドイツ戦をやっている。明日は決勝のフランスvsイタリア戦だ。どちらにしても町は熱い。

 暑さといえば不思議なことに、ミラノもヴェネチアもパリよりもましな感じがする。前に来たときの海の湿気を含んだ暑さが忘れられないのだが、パリが暑すぎたのかもしれない。ホテルはエアコン付きだし、快適。明日はアカデミアやたまたま見かけたハンス・アルプの展覧会を回ってみるつもり。

 夕食はイカスミのスパゲッティを食べた。麺は細めでやきそばみたいだったが、イカスミがとても美味。ヴェネチアはまた特別だが、どうも食事が高いような気がする。タバコや水はパリよりもずいぶん安いので、何か特殊な事情があるのかもしれない。
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2006.07.08

ミラノ二日目

 昨日はTGVで六時間半の旅。ミラノ中央駅に到着。
 ミラノ地下鉄のカルネを買うが、いきなりおつりをごまかされてダメージ。大体十枚綴りだと思ったら五枚しか入っていない。ただ、これは後で一枚が二回分だと聞いて、納得。そんなことはちゃんと教えてくれないとわからない。パリでインターネット予約した

 Ritterホテルは異常に広くトイレまでが遠い。床も石のモザイクでなかなか豪華だった。だが、ネットは電話回線しかつながらない。というわけで、写真とかは後日。

 昨日は散歩しながらドゥオモまで行ったらすごい雷雨。ガレリアに避難するも、吹き込んでくる雨がすごい。結局建物の中のセルフサービスのレストランで食事。地下鉄で中央駅まで行き、スーパーで買い物をして帰る。

 今日は、朝から近くのスフォルツァ城に行き、中の博物館を見学。ミケランジェロの未完のピエタ像をみる。そこからブレラ絵画館に行くも、工事中で昼休み。午後三時に再開とのこと。仕方なくスカラ座からドゥオモまで歩き、内部をみてからエスカレーターで屋上へ。この屋上がなかなかすばらしかった。近くのレストランでシーフードのリゾットとビール。近くにあるはずの現代美術館を探すが休館中でだめ。

 昼間にみられなかったブレラに戻ろうと地下鉄に乗って、ランツァ駅で降りると、突然日本語で「あれ、室井さん?」と声をかけられた。以前世田谷美術館から森美術館を経て現在フリーの東谷さんと奥さん。バッタの時以来だからすごい久しぶりだ。「何やってるの?」と聞くと日曜から二人でイタリア旅行でローマ、フィレンツェと旅してきているらしい。文化庁から助成を受けてミラノにきている馬場健太郎さんと一緒で昨日からミラノらしい。

 今日の午後六時にはホテルを出て帰国しなければならないと言うが、こちらは暇なので近くのショップでスーツの買い物とか、ブレラ絵画館とか一緒につきあう。結局、みんなで空港行きのバスまで見送り。その後は馬場さんと二人でビールを飲む。なかなかの偶然で楽しかった(こちらも写真は後日)。馬場さんとは共通の知り合いも多く、話が盛り上がり酔っぱらうまで飲む。こうして、ミラノの二日間も瞬く間に過ぎていった。明日からはベネツィア。イタリアはやっぱりいい。

コメント
2006年07月08日
17:27

ERI
馬場健太郎さんじゃないでしょうか。東谷さんもミキシつながりで、時々日記を読ませてもらっています。
ミラノ離れる前に、真っ赤なオレンジジュース飲んでください。イタリアの中でもミラノのがおいしかったよーな。
2006年07月09日
05:00

ash
名前なおしました。
もう離れたのでよく分からないけどオレンジジュースならいろいろ飲んでいた。
2006年07月09日
09:14

ケンタウロス
こんばんわ
スプレムータ ディ アランチャと言えばとても美味しい
生絞りのオレンジジュースが出て来ます。しかも安い!
赤いヤツは、南のオレンジで春前に取れる物らしいです。
確かに、あれは美味しい! 
室井さんは、ヘビースモーカーなのでビタミンCの接収を!!
イタリアは、いっぱいありますよ!ヴィタミン豊富な美味しいもの。
2006年07月11日
05:39

ERI
なるほど、私がはじめてミラノに行ったのは3月で、その時ドゥーモの前のホテルに泊まって、次の日にアーケードに歩くこと五十メートルくらいのところの、ドゥーモにむかって右側のお店で飲んだ真っ赤なオレンジジュースは忘れられません。次にイタリア行った時に感動したのが、氷に注ぐあったかいコーヒーでつくるアイスコーヒーでした。
2006年07月11日
10:23

ケンタウロス
ERIさん
凄いっす。、マイナーな飲み物です。滞在3年の人も
アイスコーヒーは、無いと言ってました。
でもありました。カフェ フゥレッド!!!なる飲み物!
これは、美味です!ご堪能あれ!
2006年07月11日
22:17

ERI
ケンタウロスさん、多分イタリアでもソーユー作り方はしなくなってんのかもしれません。私が十代の頃の話だから。笑。でも、おいしいエスプレッソを氷に注ぐとすごく美味だったんですよ。171199970_198
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2006.07.06

明日はミラノです

 Susan Petrilli + Augusto Ponzio,"SEMIOTICS UNBOUNDED" University of Tronto Pressという本の書評を著者たちから頼まれている。630ページ(!)もある。これを全部読んで九月までに英文で書評を書かなくてはならない。まだ、30ページ足らずしか読んでいない。そんなわけで、夕方からホテルの部屋で読書していたのだが、暑すぎるとか、サッカーとかいろいろ邪魔も入ってなかなか進まない。そこで、今日は近くのヴィレット運河のほとりのベンチに座って読んでみたのだが、これがなかなか快適で、先はまだまだ長いが今までで一番進められた。(写真1)

 夕べ雨が降ったせいか、今日の暑さは比較的ましなようで、木陰や風の通る場所だと戸外が快適だ。部屋の方がだいぶ暑い。

 二時間ほど読書してから、再開発地区であるBercyに最近オープンした新しい「シネマテーク・フランセーズ」に足を向ける。まだ、開発中で地下鉄も半分しか開通していない。とりあえず常設展だけ見たが、とてもきれいな展示がされていたが、昔シャイヨ宮にあった映画博物館におかれていたエミル・レイノーのテアトル・オプティークはなくなっていて、映像記録だけが上映されていたのが寂しい。プラキシノスコープもガラスケースの中で実際に試すことができない。アンリ・ラングロワの功績だとか、フリッツ・ラングの「メトロポリス」のマリアや映画で使われた衣装などばかりで、レイノーやリュミエール兄弟の展示か少ないのにはちょっと不満を感じた。。(写真2)

 お昼はサン・ミシェルでギリシァ風サンドイッチ。こんがり焼けた肉の表面だけをこそぎとってパンに挟む(本当はトルコ風らしい)この食べ物は、最近は東京でもよく見かけるし、パリの至るところで見かけるが、たぶん流行の発信地はここ。昔の屋台は立派なギリシャ・レストランに変わっていたが、おいしさは一緒である。本当にうまい。。(写真3)

 昨日のイタリアvs.ドイツ戦はなかなか面白かった。今日はいよいよフランスvs.ポルトガル戦である。イタリアとフランスで決勝を争って欲しいが、一日中テレビで流れるリスボンの市場のおばちゃんの「ちっちゃな国だけど、長い歴史があるんだよ、私たちの国は」と言っているのを聞いて、確かにそうだな。ポルトガルが優勝したら、この国が一番うれしいだろうなと思った。昨日もイタリアが得点したときには至る所で歓声が上がり、花火まで打ち上げる奴らがいたが、今日はもっとエキサイトするのだろうね。

 やっぱりタバコは高い。一箱5Euroだから、こちらの金銭感覚では約二倍、実際はユーロがとても強くて割高だから三倍近いことになる。見ていると、みんな吸い口ぎりぎりまで吸っている。それはもう貴重品だよね。ということで、仕方なくぼくも節煙することにした。本数を減らして、その代わり久しぶりにマルボロ・ライトにグレードアップ。いつものフィリップ・モリス1と比べるとやはりうまい。タバコの味がする。

 パリには旅の終わりにもう一度訪れることになっている。10月はいい季節になっていることだろう。169686039_39

2006.07.05

ちょっとだけ外出

 今日もパリは猛暑だった。昨日書いたので、19歳の時に最初に滞在させてもらったアパルトマンの付近に足を向けた。シャルル・ドゴール広場からほど近い「Avenue Niel」という通りにそのアパルトマンはそのままあった。

 分からないかなと思ったが、とにかく着いたときに不安なままにこの辺りの路上でずっと過ごしたのでちゃんと分かる。三階(日本流では四階)の左側。パリの建物はたいてい裏に中庭があるので見た目よりは広い。その一室をあけてもらって一ヶ月過ごしていた。そのまま、昔よりもずいぶん遠く思えたが、凱旋門からシャンゼリゼを降りて再びコンコルドへ。昨日休みで見られなかった「シンディ・シャーマン展」に行く。全部ガラスケース入りの写真だし、取り立てて新しいものはないのだが、90年代前後に「美術史シリーズ」というのがあって、これだと森村泰昌とあんまり変わらない。

 屋台でサンドイッチを買って公園のベンチで食べる。平日でも沢山の人たちが公園にたむろしている。そう言えば、今朝地下鉄の方向を間違えてラ・ヴィレットまで行ってしまったのだが、ここの科学館は二十年前にできた時には第二のポンピドーセンターと言われていたのだが、何だかさびれた感じになっていた。「スターウォーズExpo」とかをやっていた。地下鉄の壁には来週博覧会場で開催される「ジャパン・ウィーク」のポスターが沢山貼られているのだが、これがアニメばっかり。下の方を見ると「PURORESU」と書かれていて蝶野らしき写真があった。ニューヨークの「リトルボーイ」展以来、日本というとこうした「サブカル」の国だというのが定着したのか? 歌舞伎、能、相撲ばかりというのも寂しいが、これも何だかなあ。そう言えば、平日のテレビには日本アニメはほとんど放映されていない。その代わり、明らかに日本アニメを真似たフランス製のアニメをいくつかやっている。ジョストの話では、PTAの批判が激しく、平日は撤退した代わりに土曜の午前中は固め打ちで沢山放映されているらしい。

 早々とホテルに戻り、仕事をして、「イタリアvs.ドイツ」戦をビールを飲みながら見ようと思う。明日がフランスvs.ポルトガル戦。明後日にはミラノに移るが、もしイタリアとフランスが勝ち残っていたりしたらまた大変だ。169076097_251

オデオンの一夜

 8時にオデオンのカフェ・レストラン「les Editeurs」で待ち合わせるが、15分くらい前に携帯に電話がかかってくる。もう店にいると言うので急いで行くと奥の見晴らしのいい場所に座って待っていてくれた。

 フランソワ・ジョストとは東大駒場で開かれた五月の記号学会の時に二度ほど一緒に飲んでおり、まだそれから一ヶ月半しか立っていない。ビールとワインを飲みながら軽く食事をした後は、付近を散歩する。ジョストは生まれたのはストラスブールだが、6歳からソルボンヌ近くのムフタール街で育ち、大学もソルボンヌ。サン・ミシェル広場のオープンカフェでビールを飲みながら、ここで彼女といつも待ち合わせをしていたと言う。

 68年の時にはデモの最前線で戦っていて、マカダム舗道の石を引きはがして投げていたという。おかげでこの辺りの舗道はアスファルトに変えられたそうだ。

 職場も家もこの近く。田舎にセカンドハウスがあって週末は必ずそちらで過ごすというが、生粋のパリジャンである。日本に帰国する前にまたこの辺で飲もうという約束をし、12時過ぎまでいろいろな話をして、地下鉄で分かれる。写真を撮ろうと思っていたが余りに楽しくて忘れてしまった。添付したのは見ようによってはパリにも見えるが五月に新宿のゴールデン街で写したもの。

 オデオンからサンジェルマンの辺りは深夜までとても賑やかで若い学生たちが楽しそうにたむろしている。いくつかの店は閉店していたり、テナントが入れ替わったりはしているが、この周辺はほとんど変わっていない。多少きれいになったり、住民が入れ替わって全体的にスノッブな感じにはなっているが、付近の映画館や古本屋もにぎわっている。よく考えてみればこのパリという小さな町全体が巨大な美術館のようなものなのかもしれない。この町での過ごし方や楽しみ方は、それによって固定されるのだ。ここに住んでいて映画や美術館に行かないことは考えられない。

 もっともジョストの話ではここ数年フランスの出版業界は本当に業績が悪く、それは若い学生たちが急速に本を読まなくなったからだと言う。それにセーヌ左岸のこの地区では古い物が守られているのに対して、パリ以外のフランスではビジネス・スクールを始め、アメリカ型の教育がどんどん浸透しているらしい。今年からソルポンヌでも「メトリーズ」(修士)を英語風に「マスター」と発音するように変わったらしいし、EU全体の教育プログラム統一のために今年から9月に新学期が始まることになったらしい。

 古き良き人文主義の牙城としてのセーヌ左岸は、いまやフランスの中の少数派になっている。だが、皮肉なことにそのことが留学生や観光客をこの地区に引き寄せ大きな経済的繁栄を保っているわけである。

 それにしても、パリは暑い。ワールドカップの日本戦の時にも暑さが問題になったが、扇風機しかないホテルの部屋やオープンカフェでは汗がとめどなく流れ出す。確かに暗くなると少しは涼しくなるのだが、実はこの季節、なかなか暗くならないのだ。夜十時過ぎにようやく暗くなり、朝の五時過ぎにはもう太陽が顔を出す。ドイツはさらに緯度が高いので、本当に暑かったろうと思う。一日に二度、三度シャワーを浴びないとたまらないほどの暑さだ。いやまあ、イタリアの暑さに不安を感じている。168578789_231

2006.07.04

ルーブル、ポンヌフ、サンジェルマン通りなど

 いろいろ宿題もあるのでホテルで本を読んだりしながら、10時頃にふらりと外に出て、最近再オープンしたジュー・ド・ポーム美術館に行こうと思ったのだが、ここは月曜日が休み。シンディ・シャーマンの回顧展をやっているのでまた来ることにして、隣のオランジュリでモネでも観ようかと思いきや、ここも個人客は午後からということで、仕方なくルーブルまで歩く。  エトワール(シャルル・ドゴール広場)の凱旋門からシャンゼリゼ、コンコルド広場、チュイルリー公園、カルーセルの凱旋門まで一直線に見渡せるこの広々とした空間はいつ来ても凄いなと思う。コンコルド広場に立つと四方がすべて手に取るように見えるようになっている。  チュイルリーの木陰で涼しい風を受けて一休みしながら、何となく京都に近いような気がした。共通しているのは、両方とも木のある場所が多いことと、建造物や町並みが(大きくは)変わらないことである。とりわけ木は大切で、人間や動物と違って何百年、場合によっては千年を超えて生き続ける植物は無闇に切ったりしてはいけないと思う。同じ場所に座って木を見ているだけで、遠く過ぎ去った時間が一瞬のうちに戻ってくるような気がする。  でもって、仕方なくルーブルへ。ここに入るのはこれまた十五年ぶりくらいではないだろうか? ピラミッドがまだ無くてドゥノン翼が入り口だった。入るといきなりサモトラケのニケのある階段だったような気がする。配置も変わり、複雑さはさらに増したが、何となくシステマティックにできており、有名物件と絵画だけ見るのは割と簡単になった。というよりも月曜なのにやはり人が多すぎる。モナリザの人垣は相変わらずだが、岩窟の聖母のあたりはなぜかそれほど混んでいない。みんなガイドブックや音声ガイドで印がついた「銘品」ばかり見に来ているらしい。  最後に来たときは帝塚山学院大学のツアーで、島本浣さんの超高速ガイドにつきあったなあ。あの時の最後はルーベンスの間でその後みんなでカフェに集まったけれど、今回もなぜか最後はルーベンスのお肉の間だった。出口も必ずピラミッドの下からでなくてはならないのね。何だか風情がなくなったような気がする。  そこからポンヌフを渡り、オデオン、サン・ミシェルの方へ。この辺りはまず19歳の時に一ヶ月フランス語学校に通った。ユーロセンターというその学校はポンヌフのそばのパサージュ・ドーフィヌというところにあったが、その前を通る。今はそのまま英語学校になっている。完全に初級で一番下のクラスだった。ベンテ、クリスタ、リンダ、マルコ、アントーニャ、マリア・ピアたちは今はどうしていることだろうか?   昔はもっときつかった臭気も消え、町は少し垢抜けてお洒落にはなっているが、基本的には変わっていないので、あっと言う間に32年前が蘇る。あの時はエトワールの近くでホームステイしたマダム・エリーが「この紙を見せて人に道を聞きなさい」と、「パサージュ・ドーフィヌにあるユーロセンターを探しています。パサージュ・ドーフィヌはドーフィヌ通りにあります」という紙を手渡してくれたものだ。月曜から授業が始まるので日曜の午後パリに着いたのだが、連絡不足で(当時はFAXすらなく、すべてテープ状のTelexという電報のようなものでやりとりをしていた)、外出しており戻ってきたのが夜の11:30過ぎで、その間ぼくはアパルトマンの階段の上に座り込み心細い思いで待ち続けていたものである。  ご主人は単身赴任していて、婦人は四歳のシャルル・エドワールという坊やと住んでいたが、とても親切にしてもらった。近隣から遠くはランスまで遠足に行き、帰りには香港にもステイオーバーした最初のヨーロッパ体験である。南回りのインド航空は10カ所以上もトランジットがあって、36時間の長旅だったが、降りるたびにハイジャック用の身体検査(考えてみればセンサーが無かったから)があり、軍人に機関銃を突きつけられていた(そういえば今回もシンガポールとパリ空港では機関銃を抱えた警備兵がいたっけ)。  ベトナム戦争が終結したのが翌75年である。  あの頃感じていた「他者性」への驚きみたいなものが、今のぼくには欠けている。今よりも外国人が少なかった当時のパリで、どこに行っても視線を浴びせかけられ、ひそひそ噂話をされ、部屋に戻って鏡で自分の顔や体を見るたびに自分でも違和感を感じていたあの頃と比べて、未知な物が既知になり、欧米人の知り合いや友達も増えたし、何よりもパリ自体が外国人の町となった。すれ違う観光客たちもまた韓国語や中国語を使っている人たちが多いし、アラブ人や黒人も多い。それでも今回排外的な新移民法を制定したフランスの中枢にいる人々は、自分たちの文化や体制を変えるつもりはないらしい。こういうかたくなな保守性や拝外性がないと、確かにこれだけのものは守れない。それでも内側からフランスは大きく変わりつつある、そのことも否めない。  ぼくのホテルの客室係は黒人の若い女の子なのだが、今日はトイレットペーパーの先端がきれいに三角に折りたたまれていた。こういうのも文化変容のひとつなのだろうか?168319952_168

ヨーロッパ日記はMixiに移動します。

 突然ではありますが・・・・・
 今回の旅は文部科学省から「海外先端研究支援」というお金をもらって来ています。まさしくそれにふさわしい旅をしていると自負はしていますが、よく考えてみたら事前に出した日程表もあるし、あまり自由に毎日いろいろなところに出かけているのを大っぴらに書くのも良くないという、ごく当たり前の指摘があって、しばらく非公開でやってみようかなと思います。ポイントポイントでこちらも続けるけど、メインはあちらでということで。終わってみて問題がないようなら、こちらにも転載できるかもしれません。
 いま400万人以上が加入しているというSNS(ソーシャル・ネットワーク・システム)のMixiというサービスがありますが、とりあえずそちらに書く場所を移してみたいと思います。うちの学生たちはたいてい入っているし、入会していない人はメールを送ってくれれば「招待状」を出します。学生たちはたいてい実名ではなく仮面をかぶったハンドルネームで入会しているようですが、ぼくは実名で入っていますので、検索で「姓:室井」「名:尚」で簡単にヒットします。Mixiは見に来た人の「足あと」がつくので尻込みする人もいるかと思いますが、現在ここは一日平均250-300程度アクセスがありますので、たとえその半分としても多すぎていちいちチェックすることはありませんから安心して読みに来てください。

2006.07.03

展覧会など

 パリ二日目。昨日は遅くまでブラジル戦に勝った騒ぎがそこここで起こっていたようだ。やっぱり、本当はプラジルに勝てるとはみんな思っていなかったんだね。ポルトガルも強いし、水曜日がまた大騒ぎになりそうだ。
 今日は第一日曜日なので美術館が無料。ピカソ美術館から回る。ここも21年ぶり。1912年の「籐椅子のある静物」というのは世界で最初のコラージュ作品ということになっているが、前に観たときの印象と余りに違う。というよりももっとずっと大きなものだと思いこんでいたので自分の記憶のでたらめさに唖然とする。実物はお盆サイズ。じゃ、階段の壁にかかっていた自転車サイズのあの記憶は何なんだよ?どこかの別の作品と混同して他の作品と混同してたのかな。Dsc06680 ここは二年前のリヨン大学での国際記号学会の時にも来たのだが火曜日で休みだったのだ。パリの美術館は月曜か火曜に休むところが多い。この二年前の印象は鮮明でヴォージュ広場からマレ地区を歩くのは地図なしで十分いけた。そこからボーブールへ。ポンピドーもレ・アールも最初の時にはまだ無かった。ここは馴染みの場所だが、南寄りの広場にあるニキ・ド・サンファルらの噴水が無くなっていたのが寂しい。国立近代美術館で開かれていた「Le Mouvement des Image」は映画の文脈ではなくアートの文脈で映像の歴史を見直そうとするもの。連続性、モンタージュ、プロジェクション、物語性の四つのキーワードで美術と映画を結びつけようとする展覧会だ。映画、絵画、インスタレーションがよく考えられて配置された知的な展覧会だった。南側のギャラリーではジャン・リュック・ゴダールの「ユートピアの旅」という展覧会。Dsc06682
映像とコラージュされたインスタレーションによる奇妙な展覧会で、最初にポンピドーが企画したものとはだいぶ違っているらしい。一昨日-昨日-今日という三つの部屋に雑然とモノや模型や映像が並べられた展覧会で、ガラクタを並べた知的意匠に走りすぎて期待はずれと言うべきか。というよりも、ゴダール.....このところ全然面白くないよね、本当は。
 そのままルーブルまで行こうと思ったが、観光客の長蛇の列に戦意喪失。あきらめて、リヨン駅でイタリア行きの切符の予約。自販機で予約しようとするもクレジットカードがはねられて、仕方なくやはり長蛇の列に一時間近く並び列車の予約完了。日本のクレジットカードははねられる時と受け入れられる時とがあってややこしい。カードの種類にもよるようだ。前回は違うカードを持って行ったが問題なくチケット買えたのにね(今回も空港バスの自販機は使えた)。明日の晩はフランソワ・ジョストとオデオンで夕食を一緒にする予定。Dsc06683 最後はホテルの写真。仕事机があって明るく使いやすい。Dsc06684

2006.07.02

パリ到着

 シンガポールでの6時間ものトランジットでのんびりくつろいでいたら、知らないうちに搭乗ゲートが変更になっていて、とんでもなく遠くのゲートまで搭乗時刻ぎりぎりに走らされる羽目になった。こんなところで飛行機に乗り遅れていたら洒落にならなかった。ちょうどワールドカップ中継の時間で、空港内電気自動車のおじさんに「乗せてくれ」と頼んでも乗せてくれないでテレビを観ており、結構焦って走らなくてはならなかった。相変わらずの狭い窓際の席で13時間。ようやくシャルル・ドゴール空港に到着。朝の7:00頃か。今、こちらは夏時間なので東京よりも七時間遅れである。というわけで成田を出てから丸一日以上の長旅だった。前も思ったことだが、この空港では入国審査というものがほとんどない。パスポート・コントロールも税関も素通りである。飛行機に乗るときにチェックしてあるはずだからいいだろうということなのだろうが、実際のところ免税品や外貨の上限もへったくれもなく何でも持ち込めるで、かえって不安になる。というよりもこの空港は出発ゲートをくぐったショッピングセンター以外はとても無愛想で、あまり時間をつぶせる場所もない。Dsc06674
 前回は国鉄でパリに出たが今日はバスでオペラ座付近まで。バスはエール・フランスとロワシィという二つの会社が競合しているが、12EUROと8.5EUROとロワシィが遙かに安いので(その代わり席は狭い)迷わずそちらへ。オペラの辺りからパレ・ロワイヤルまでふらふらしながら時間つぶしをしたが、スーツケースがあまりに重く、段差のあるところが余りに動きづらいので、ひとまずはホテルへ。まだ朝だがせめて荷物だけでも置かせてもらおうと思って行ったら、親切なおばさんがまだ11:00なのにもかかわらずチェックインさせてくれた。ここ、リバテル・カナル・サンマルタンはリーズナブルな価格の二つ星ホテルだが、小さいながらもお洒落で何よりも無線LANが無料で使い放題なのでとても便利だ。01日本にいるのと変わらずにメールやウェブが使える。一休みしてから近所のビュット・ショーモン公園まで散歩。起伏があり湖まである公園だ。土曜日なのでたくさんの人出があり、水着や裸で日光浴する人、宴会やダンスをしている人とさまざま。まるでマネの「草上の昼食」のような光景。03 パリは快晴で日向はとても暑く、30度以上ある。イタリア風ジェラートがとてもおいしい。カラカラ暑いので、水やビールやアイスクリームは、日本よりもとてもおいしく感じる。通りすがりに「アンリ・ベルクソン高校」というとても大きな高校があって思わず写真を撮ったりして、二三時間散歩して今日のところは部屋に戻る。04
 ここからイタリアに移動しなければならないが、それまでにいくつかの予定をこなさなくてはならないが、それはこれからじっくり計画を立てることにしよう。
 パリは六回目くらいだ。19歳の時に一ヶ月滞在したのから始まり、87年にもアリアンスに三週間通ったり比較的長く滞在することが多かったので、もはやあまり新鮮な感じはしない。だが、何となくなつかしい感じがする。ヴィレット貯水池近くのスターリングラードやジョレスの辺りは初めてだが、なかなか活気のあるにぎやかな界隈だ。最初の頃とずいぶん違うのは黒人、アラブ人、アジア人などの移民が増えて本当にコスモポリタンな都会になっているということ。但し、移民政策もまた厳しくなるようだし、保守化は否めない。タバコだけど全く規制を感じない。基本的に開放的な町だからかもしれないが、やっぱりここでも路上禁煙に象徴される日本の嫌煙ブームの神経症的な異常さばかりが際だつ。

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