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2006.10.24

回帰する日常

Dsc07153

 帰国してからもう10日以上が過ぎた。
 その間、週末は新潟、京都と唐ゼミ★のツアーに顔を出し、他にも三鷹の森の唐組「透明人間」、MODEの「秘密の花園」と、久しぶりに皆様にご挨拶。大学の方もとりあえず一週分の授業をこなした。

 唐ゼミ★の「ユニコン物語」の出来が果たしてどうなのかということは、ヨーロッパにいた時も気になって仕方がなかったが、新潟でようやく初見。

 唐さんが書き換えたために、幼児期と母胎的な夢魔的水平性に対して、それらを垂直に切り裂く「一角獣」の超越性というきれいな図式が壊れ、カタルシスがなかなか生まれにくい構造になっているのを、中野がうまく三幕を作り上げていた。ただ、戦後の下町の子供たちの遊び(チャンバラ、海ほうずき、多羅尾伴内ごっこ)は80年代生まれの彼らには遠い昔だし、牛乳瓶やリンゴ箱への郷愁などもあろうはずがなく(但し椎野裕美子がそれらを見事に具現していたのは流石だった)、リリシズムやノスタルジー的表現が少し苦手な演出家は、それを力押しで乗り切ろうとしたため、一幕、二幕がやや緩急のリズムがなくなり、感情移入しにくい作りになっていたようだ。八房という、初演で小林薫が演じた「怪物的道化」役を「八つの乳房を持つ両性具有」に作り替えてしまったのも展開がやや苦しくなった原因だが、しかし禿恵はそのプレッシャーから前代未聞の不思議に魅力的なキャラクターを造形してしまい、それだけでも見てもらう価値はあったと思う。何よりもメンバーの成長に目を奪われた。少ない人数での二週間以上にわたる地方公演でだいぶ鍛えられたようである。まあ、これからもっともっと成長してもらわなくてはならないのだが‥‥。

 中野と話し合いながら、京都公演では大幅に手直しをして、土曜日にはかなり満足できるものが出来上がったが、なぜか日曜日の千秋楽は役者のリズムが合わずもうひとつ。なかなか難しいものである。上に時計が掛けられた小学校の古い建物のアーチ型のゲートに消えていくエンディングはなかなか美しかった。
 まあ、彼らなりに今回は反省点が多かった公演だったようだ。次回にその悔しさを爆発させてくれるのを期待したい。

 唐組の「透明人間」も、カタルシスのないエンディングに書き換えられ、十貫寺梅軒さんが中二の少年役を演じ、唐さんの白川先生と絡むという一種のメタシアター的な構成。そこが唐さんの面白いところだが、わざとノイズを取り込み、構造を破壊し、観客をケムに巻くところがあり、今回の「ユニコン物語」の改訂にもそうした意志が反映していたように思われた。台本として固定されたものを再現するのではなく、いかにして構造を破壊して、役者の肉体と演劇の現場性につなげていくかということを常に考えるのが唐十郎が凡百の演劇人と異なっているところだと思う。

 そうやって、元通りの生活に戻ったのだが、約100日間のヨーロッパでの移動生活がいろいろなところに影を落としていることも事実である。世界は言うまでもなく「ひとつ」ではない。その多層性、重層性をどのようにして自分の生活の中に取り入れていくか‥‥というようなことを考えている。

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