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2006.11.04

最近の唐十郎について

 前のエントリーで、「ユニコン物語」と「透明人間」で、唐十郎が「わざと」完成された構造をぶち壊しているというようなことを書いたことで、ある人から質問された。どうしてそうなのか、と。

 「透明人間」は1991年に初演された時から、卓越した構造をもった完成度の高い戯曲だった。90年代の唐の代表作のひとつ言っていい。元々これは「調教師」という小説を状況劇場の稽古場公演のために戯曲化したものが原型であり、若手時代の佐野史郎、金守珍、六平直政、石川真希らが取り組み、その後新宿梁山泊の稽古場公演にも受け継がれて来たものを、唐がさらに書き直したものである。とりわけ、この時に書かれたエンディングは、登場人物全てが水槽の中に消えて、舞台上に誰も居なくなるという、この上なく美しく、観客を震撼させる完璧なものだった。

 その後、98年の新人特別公演、2001年の秋公演、05年の内藤裕敬演出によるシアターコクーン版と、このエンディングは基本的にそのまま踏襲されてきた。それくらい完成度の高いエンディングだったからである。

 それを今回の唐組の「透明人間」では全く違う新しいエンディングに変えていた。稲荷が白滝状のものを口から出して唄うシーンでは必ず笑いが起こる。エンディングでは今まで遠ざかっていたヒロインが、逆に手前に歩いてきて、自ら背中のコブと思えた洗面器を外してそれを観客に見せて微笑む。

 作品の完成度や観客に与える感動だけで言えば、この変更は自ら作品を台無しにしているとしか受け取られない。十貫寺梅軒さんに中二の役を振ることだってそうである。だが、それは唐が「わざと」しているとしか思えないのである。これは「同じことをしたくない」というだけのことでは説明がつかない。

 「ユニコン物語」のラストでも同じような操作が唐によって行われた。作品構造からすれば、最後に自転車が出てきては終われないのである。原作にあるように、たとえパワーショベルでないとしても、あそこは「巨大な一角獣」が垂直に立ち上がってくれなくてはならない。そんなことは、唐十郎にはとっくの昔に分かっていることのはずだ。だが、彼はそれをわざと崩した。両方の場合とも、書いたのも壊したのも同じ唐なのだから、十分に自覚的だったとしか思えない。

 兆候はなかったわけではない。去年の秋の「カーテン」は、もともと反構造的で反有機的な92年の「電子城2」を大幅に書き換えた「訳の分からなさ」を増幅した怪作だった。終わった後で頭がくらくらした。あの時には唐組の役者陣が成長したので、初演当時失敗作と言われたあの混沌とした作品をもう一度世に問う意図があるのかと思ったが、同じ時期に書き下ろされたその冬の「風のほこり」、春の「紙芝居の絵の町で」にも同じような「破れ」がかなり露骨に仕込まれている。「紙芝居の絵の町で」のラストもこれまで見たことのない、ヒロインがこちら側に残るというエンディングだった。そしてそこには糸が張り巡らされていた。

 どうやらここには「観客」と「演劇」の関係を組み替えようという、唐なりの新しい観客論的挑発が隠されているような気がしてならない。「ユニコン物語」のラストの変更も、中野演出とは違って、もしかするとカタルシスのないエンディングにもっともっと無数の赤い糸が張り巡らされているイメージだったのではないかという気もする。そして、それはぼくや唐ゼミの中野や梁山泊の金守珍、MODEの松本修やその他、唐を取り囲む人たちが、ともすると唐を「正当に評価されてこなかった天才」として、唐の過去の作品をまるでシェークスピアやラシーヌをやるように固定したものとして捉えようとすることに対する、唐自身の反発であり抵抗であるかもしれないという気もする。彼はまだ過去を振り返りたくないし、過去を固定されたくもないのではないか。新国立劇場で過去の作品が上演されたり、紫綬褒章のオファーが来たり、演劇賞を受賞したり、複数の書籍が出版されていることを喜びながらも、それに全く満足できない自分を隠すことができないのではないだろうか。そんな、現役の芸術家としての唐十郎の「あがき」がこうした、一見自分で自分を破壊するような最近の仕事の中に現れてきているのかもしれない。だが、たとえそうだとしても「天才」ではないぼくたちにはただ見守ることしかできない。唐がこうした本能的な動きの中で向かおうとしている方向を、何とかつかみ取ろうとすることしかできないのである。だから、むしろこの「違和感」を押し隠すのではなく、こじ開け、拡大していく先に何があるのかを見て行かなくてはならない。それは観客の多数を失う危険性も十分に自覚しつつ、唐がもっと遠くへ、もっと先の方へ行こうとしていることにほかならない。

 こんなことを思いついたのは新宿梁山泊の「風のほこり」再演で、鳥山昌克演ずる湖斑(コムラ)がトランクの中の義眼を「観客」にたとえるシーンをまた見たからである。唐十郎ブームでこのところ複数の作品がいろいろなところで上演されているし、唐組のテントは連日満員になっている。だが、唐はいまの「観客」に満足していないのではないだろうか。観客を「感動させる」のではなく、破れ目をどんどん作り、その落とし穴の中に観客が落ち込むような罠を演劇の中に仕込もうとしているのではないだろうかと思えなくもない。

 「透明人間」は唐の作品の中でも完璧な構造をもつ傑作であり、たとえば初めてこの作品を見る人にあのエンディングはかわいそうじゃないかとぼくも思う。だが、同時にそうはさせまいとする唐は、現役の演劇人としてあの中で戦っているのである。観客に媚びるのは論外としても、観客を圧倒し感動させるだけでも十分ではない。それを違うところに人さらいのように連れ去るにはどうしたらいいかと、虎視眈々と幕の向こう側から客席を覗いているのである。

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