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2007.02.18

渋谷と下北

 火曜日は大久保鷹デーということにして、渋谷のユーロスペースで上映中の足立正生監督「幽閉者(テロリスト)」を見た後、下北沢ザ・スズナリでやっている鐘下辰男さんのTheガジラ「セルロイド」を観劇。両方とも大久保さんが重要な役で出演している。

 まずはユーロスペースが移転していることを知らずに、だいぶ時間を無駄にしてしまい焦った。必ずあると思ったところに目的物が存在しないととても焦る。坂道を何度も上がったり下がったりしながら混乱して、ようやくコンビニの情報誌で確認したら、道玄坂の方に移転していることを発見。上映時間に間に合うかどうかを気にしながら、井の頭線を通り抜け、ホテル街の路地を走ってようやくたどりついた。文化村の裏にある新しいビルに映画館がいくつか入っている。ユーロスペースは客席数150位のサロンが二つあるきれいな映画館に変貌していてなんだか勘が狂う。以前の狭苦しい感じが日本でも稀なマニアックな小劇場の雰囲気に合っていたのになあ。

 「幽閉者(テロリスト)」は、72年に実際にあった日本赤軍ゲリラによるテルアビブ空港襲撃事件(自動小銃と手榴弾での襲撃、26人死亡、73人重軽傷)のただ一人の生き残り、岡本公三をモデルにしている。共に襲撃した奥平、安田は自爆したと言われており、ただ一人自決に失敗した岡本の囚人生活が中心に描かれている。世界革命を目指して「オリオンの三つ星になる」と宣言した彼らの行動は新左翼系の若者たちに当時大きな衝撃を与え、ぼくが在学していた京都大学西部講堂の瓦葺きの屋根は一夜にして白い三つ星を描いたブルーに染め上げられた(後から、これをやったのは当時公演中だった演劇団の流山寺祥らだったことを本人から聞いた)。

 74年にパレスチナの日本赤軍に合流し、85年に捕虜交換された岡本とその後行動を共にしてきた足立正生は、いわば岡本と直接関わりをもつ当事者としてこの映画を撮ったのだが、焦点を岡本の獄中生活に当てている。度重なる拷問に精神の変調をきたした岡本(映画ではM)の幻想の中に過去の革命家たちやラスプーチンを思わせる牧師らが現れ、問答を繰り広げる。最後に捕虜交換でMは仲間たちの元に帰還するのだが、彼はそれを信じず、仲間たちもすべて敵に囚われて解放された演技をしているだけだと思い込む。もはや彼はどこに居ても幽閉されているとしか思えなくなっている。世界とはいつも既に巨大な刑務所なのだ。

 いわば、「生き残ってしまった」男の物語である。Mは輝ける死から遠ざけられ、死ぬことを許されず、不条理な獄中生活に取り残されてしまう、足立は派手なアクションや、叙事的な、あるいは歴史的な語りを遠ざけることによって、現代を生きる我々が広く共有する絶望と希望を描き出そうとしたのだろう。何よりも足立自身の人生がそこには重ね合わされている。大友良英、ジム・オルーク、飴屋法水、刀根康尚、PANTAら豪華なメンバーによる音楽、四方田犬彦、若松孝二、流山寺祥、赤瀬川源平、平岡正明、松田政男と言った今もなお足立を支える人々らの協力や友情出演と、さまざまな期待とさまざまな思いがこの映画に重ね合わされている。何よりも今もなお複雑で希望の見えない状況にあるパレスチナと日本を足立を介して結びつけたいという思いのようなものが感じられるが、それは何に向かっているのだろうか? 反グローバリズム、反米、反イスラエルという具体的で政治的な身振りへか、20世紀の世界革命の夢へのノスタルジックな帰還か、日本の現状に対する苛立なのか、政治と芸術との結合なのか、それはよく分からないし、当事者たちにも分からないことなのではないだろうか? それは「生き残った人々」から「生き続ける人々」へ突きつけられた、振り上げたもののどこに斬りつけていいものか方向を見失ってしまった刃のようにも思える。

 だが、映画は果たしてこの実際にあった「事実」や「歴史」に拮抗しえているのだろうか? 見終わった後、大きな疑問と疲れが残った。さまざまな拷問にのたうちまわり、精神に失調をきたしていく囚人Mを演じる田口トモロヲの演技はただ大仰なだけで、そのすべすべした健康そうな肌からしても、彼の苦しみは何も伝わってこない。囚人生活をたんたんと描く訳でもなく、幻想シーンにも深みはない。金髪に染め、下手な英語をあやつる日本人俳優たちの演技も興醒めだし、重信房子を思い起こさせる女性革命家を演じた荻野目慶子もただの神経症にしか見えない。論争劇としても中途半端な印象が残った。足立自身がまだ強制送還され戻って来た日本でどんな映画を撮るべきかという態度を決めかねているのではないか。ルパシカのような服を野蛮に着込み、ネチャーエフをイメージしているという革命家の亡霊を演じた大久保さんは登場の時にやたらうれしそうに出てくるのが印象的だったが、この肉体はリアルだ。「生き続ける」肉体なのだ。そういう意味ではイスラエル軍の将校をまるで旧日本軍の将校のように演じた流山寺祥もまたリアルだったのだが、映画は常に観念的な迷路の方に傾斜していき、生きた人間の肉体にはけっして降りてこようとはしない。結局全ては孤独な男の脳の中に生まれた幻想の亡霊にすぎないのだ。そんな隔靴掻痒感が残る作品だった。ただ、足立にしてもこの映画に協力した人たちにしても、彼らが何かを必死になって探し求めている、表現の中に希望を見出そうとしているという志のようなものだけは伝わってくる。次に彼(ら)がどこに向かうのか、そのことは気になるし、見届けて行きたいと思った。

 一方のTheガジラの「セルロイド」についてはあまり語る気が起こらない。まあ、要するに父親のDVによって、トラウマを抱えたまま破滅していく女のゴミだらけの部屋の中に、彼女の妄想の中の父や兄の亡霊、三歳で死んでしまった息子の亡霊が現れて、女が「あんたのせいで私はこうなっちゃったのよ」とか「あたしがどれほど苦しんだか分かる?謝ってよ」とかヒステリックに叫び続けるきわめて気の滅入る芝居だった。誰のせいって、お前自身のせいに決まっているじゃないか。これをわざわざ芝居にして、客に見せるという行為がどんな表現衝動によってなされているのか? またそれを消費の対象として見にきて「深い」とか「人間の根源的悲しさが掘り込まれている」とか等身大の自分の姿を投影して「感動」してしまう観客たちが何を求めているのか、ぼくには全く理解できない。こういう集団的な自慰行為が一般に「真面目な演劇」だとみんな思い込んでいるからなのだが、表現としてぼくにはとても耐えられない。病気を見せびらかしているだけじゃないか。ちょうど山本直樹の「ありがとう」のように、大久保鷹は実存的な暴力性を秘めた父親としてキャスティングされているのだが、あんな使い方をすべきではないし、大久保さんにはあんな女に謝ったりして欲しくない。どうせのことなら、舞台をめちゃくちゃにして暴れ回り、全員を叩きのめし、ついでに作家の首を絞める大久保さんを見たいという想像を膨らましながら、退屈で気の滅入るだけの二時間強の時間を耐えた。

 終わった後、大久保さんを囲んで、一緒に来ていた唐ゼミ☆のメンバー、新宿梁山泊の小檜山君、梶村さん、元状況の田村泰二郎さんらと飲んで、気勢を上げる。

 土曜日は大里俊晴君が大学でやっている連続講義の一環である「佐野史郎講演会」に。佐野さんと大里君のコアな対談でとても面白かった。佐野さんは、金守珍、六平直政さんらと共にぼくと同学年なのだが、16歳の時に中津川フォークジャンボリーに参加するなど、きわめてアクティヴに自分の快感を追求してきた。映画監督、エッセー執筆、俳優業とやりたいことに今でも貪欲に挑戦し続けているのだが、たった五年間しか在籍しなかった状況劇場時代のことを語り出すと、今でもとても熱くなる。これまで聞けなかった裏話や、飴屋法水さんとの関係など、終わった後聞き出すことができて面白かった。ちょっとだけと言いながらかなりビールを飲み、撮影のために京都に行かなくてはならないぎりぎりの時間まで打上げに参加してくれた。この日も数人で横浜駅西口で二次会。

 明日は三枝健起組の映画のラッシュ上映会があり、本番27日のシネマアートン下北沢での上映会まで最後の手直しが始まる。

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