« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

2007年3月

2007.03.27

ちょっと照れくさいね

 24日が誕生日だったのだが、何人もの卒業生からメールもらったり、26日はお昼に唐ゼミ☆の中野、椎野、禿がバラ寿司とケーキを持参してお祝いしてくれた。このところ、ずっとやってもらっているのだけど、気恥ずかしいね。山崎組の2幕までの通し稽古を見て、近所の「馬さんの店」で打ち上げ。「続ジョン・シルバー」の決算と次回作の日程会議で集まっていた唐ゼミ☆の椎野、新堀、前田、杉山も合流して賑やかだった。
 アポなしで何人かが研究室を訪ねてきたり、春休み中なんだけど何となく周囲が賑やかだ。桜のつぼみも膨らんできているし、春だね。
 気を遣ってくれているのだろうが、長い5本のローソクと短い2本のローソクを立てて、プレートには「ひさしちゃん、おめでとう」と書かれていた。なんだ、それ?
Birthday

2007.03.26

卒業

 卒業式が終わった。毎度のことではあるが、何だかぐっと重い気持ちになって、とにかくこの日は気疲れする。本当に毎年のことなのだが、どうも余り比較したり相対化したりすることがいつまでたってもできない。もう、先生になってから、この日を25年近くの長きにわたって迎えている。

 自分のことを反省してしまうのも毎年のことだ。どうして、もっとこいつらと本気で渡り合うことができなかったのだろうか? こいつらの自分でも気づいていないいいところをどうしてもっと引き出してやれなかったのだろうかと考えて、どうも気分が重くなる。これまたいつものことではあるが、たいてい体調まで悪くなる。

 先生にできることは結局のところもの凄く限られている。人に教えることなどは原理的にできないのだ。人は学ぶことしかできないのである。人が学ぶことの口実になることだけが教師にとって可能なことなのだ。それは「壁」になることであり、この人を乗り越えないともう先に進めないと本気で思わせることなのだ。その点で、ぼくは「褒めるのが教育」という派閥には与しない。狭い世界で先生に褒められて調子に乗るような奴らに未来はないに決まっている。だから、先生の役割は憎まれ役であると基本的には思っている。それでも、ただの憎まれ役だと避けられるだけで終わってしまうのが、ちょっと難しい。それに、「先生は本当は優しい」とかすぐに言われてしまうのも余りよろしくない。ゼミの学生ばかりではなく、在学中避けられてしまって余り顔を合わせることのなかった学生たちと会うのも苦しいし、それなりに関わりがあったのに卒業パーティに顔を出さない学生のことを思い浮かべるのもまた苦しい。結局、卒業式の日は先生としての自分がテストされているような気分になるので、とても苦しいのだ。まあ、こんな風に正解が出ないのが人間のコミュニケーションというものである。一律に授業を「改善」したり、数値化したり、「教育再生」できると考えるような人たちに馴染めないのは、それらがこうした割り切れなさとは無縁な思考から生み出されているからである。マニュアルからは何も新しい物は生み出せないのだ。

 ちょっとだけ春休みっぽくなったが、まだ送別会とか人と会ったりする機会が多く、そうこうしているうちに来週はもう新学期になる。時の進み方が早い。車検を済ませたり、フィンランドの学会の準備とかもしなくては。

2007.03.22

ジョン・シルバー(続)終了

 演劇を評価するには色々な視点の取り方があってなかなか難しい。

 なぜなら演劇とは雑多な層の交じり合った複合的ジャンルであり、戯曲、演出、俳優、美術、音楽、照明、劇場などのさまざまな要素が重層的に重なり合っているからだ。評価軸をどこに置くかによって、同じ体験の意味内容は著しく違って来る。実際にやってみるとはっきり分かることは、その上にさらに「観客」の存在もきわめて大きい。だが、それらはばらばらに存在しているのではない。

 まず基底には戯曲がある。戯曲が凡庸なのに、俳優や美術がいいから最高の演劇になるということはけっしてない。もちろんストーリーのないパフォーマンスもあるが、台詞のある演劇の場合に戯曲の役割は決定的である。

 その上に、空間・音楽プランも含めた演出があり、最後に舞台美術、照明、そして俳優による演技と観客との相互的空間創造が演劇の最終局面となる。それでもこの図式が必ずしも単純でないのは、最後の俳優によるパフォーマンスがなければ、そしてそれに応えることのできる観客がいなければ、そもそも演出や戯曲がいいのか悪いのか分からなくなってしまうということだ。つまり、本当はいい台本なのに、俳優(と観客)が悪ければそれが伝わらないということになるわけである。

 世の中には文学作品としてそのまま通用する戯曲と、上演されなければ理解できない戯曲とがある。一般に近代戯曲は「文学」としての性格を強く押し出しており、その意味ではチェーホフもテネシー・ウィリアムスも三島由紀夫も別役実もテキストとして読める。ただそうではないものもある。鶴屋南北やシェークスピア、そして唐十郎の戯曲は読んだだけではほとんど分からない。イメージが石化したような言葉は、俳優の肉体によって具現化されなければ、文脈を追うことすら困難になる。それは演奏されなくては分からない楽譜のような戯曲なのである。音楽の場合にも楽譜があって、指揮者(第一の解釈=演奏家)が居て、演奏者がいる。それは戯曲作家と演出家と俳優の関係と似ている部分をもっているが、それでもちょっとばかり違っているような気もする。なぜなら、演奏家が駄目でも名曲は名曲だが、俳優が駄目だと戯曲の善し悪しは絶対に分からなくなってしまうからだ。

 エイゼンシュタインは歌舞伎のロシア巡業を見て、彼の「モンタージュ」のアイディアを得たと言われている。彼は日本文化や日本語に関心を抱いており、たとえば漢字の中の会意文字や、俳句や歌舞伎のあり方が「モンタージュ」的=つまりは二つ以上のものがそこで出会い、全く新しい第三の意味を生み出す、と考えた。複数の要素、重なり合うさまざまな層が衝突し合い、単なる加算ではなく乗算的な意味融合を作り出すのが演劇の醍醐味なのかもしれない。エイゼンシュタインはメイエルホリドの弟子だったが、唐十郎の演劇はスタニスラフスキーよりもメイエルホリド的なものにより近い。

 唐ゼミ☆の「続ジョン・シルバー」は相反する極端な評価を受けた。唐十郎を含めたある人々は、顔を紅潮させ興奮して喜んでくれた。とりわけ「状況劇場」の過去を知る人たちは相当面白がってくれたことがよく分かった。だが、唐ゼミ☆を続けて見てくれていて、場合によっては唐組や新宿梁山泊よりも贔屓にしてくれている人たちの中には否定的な感想を述べる人も多かった。難しいところである。ぼく自身は、今回はこの戯曲の底知れぬ深さに出会えたということが大きかった。テキストを読んだ時にちょっとバカにしていたのである。若さと情念が先行して、まとまりのない作品だと思っていたのが唐ゼミ☆が実際に上演することによって裏切られた。相当練り込まれて唐以外には書けないユニークな戯曲だということを再認識した。これは、三年前の1965年に上演された「ジョン・シルバー」や、それ以前の「腰巻お仙」物と思った以上につながっているし、その後の「少女仮面」や「吸血姫」のモチーフが原形質のまま全部盛り込まれている。唐十郎の作品世界の再発見につながるような発見がいくつもあった。

 他方、演出や演技においては、普通の「演劇」につながるような方向性が強すぎたようにも思える。普通の「演劇」では、役者の「自然な」演技における技量や唄や踊りのうまさや存在感などが評価される。ストーリーや文脈をつなげる横軸を織りなす方向性(記号論で言えば統辞論的軸)が強くなると、「分かりやすく」はなるが、イメージが石化したものが溶け出し、文脈とは無関係に屹立するような方向性(範列論的軸)が弱まってしまう。

 ぼくは前々から言っているようにジャンルとしての「演劇」はきらいである。「劇場」も嫌いだ。そんな狭苦しい檻のようなジャンルの中で勝負することはとっても貧乏臭いことのように思われてならないのだ。今回は、みんなが「うまくなった」と言われたが、逆に言えばそういう評価軸から見られてしまうという弱点があったということだろう。「演劇」以外のものにならなくてはならないのだ。唐十郎という現役ではあるが、百年に一人出るかどうかわからない才能に正面からぶつかり合う「武者修行」を、彼らにはずっと続けて行って欲しいし、そういう落ち着きのなさ、不安定な荒々しさを失ってしまっては唐ゼミ☆は普通の(プロの)劇団になってしまうし、下北あたりでやっている連中と同じ範疇の集団になってしまう(ますます痙攣的で、断片的な強度を強めている最近の唐組は全く違うけど)。そうした中途半端さが今回の欠点だったと言えるだろう。「前の方が面白かった」と言われてしまっては続ける意味が無い。少なくともぼくにとっては面白くない。もっとも前に戻ることはできないのだから、別なものを手にすることで「先に」進まなくてはならない。

 役者やスタッフが「うまくなる」ことは危険な兆候である。それはすべてを「段取り」に変質させてしまうからだ。滑舌が悪かろうが、唄が下手だろうが、音楽がうるさかろうが、客席が狭かろうが、そんなことは本当にどうでもいいのだ。それらを上回るものがそこに現れなければならない。そうなれば、誰も役者の技量のことなどは口にできなくなるはずである。椎野裕美子や禿恵はよくやったし、当たり屋の少年をやった佐藤千尋は幸福なデビューを果たした。それ以外のメンバーも皆それなりに頑張った。だが、それらをどのように一時間半のパフォーマンスにまとめあげるかという演出における総合的な戦略が足りなかったと言うか、やや方向性が違う方向に引きずられていたのかもしれない。それでも、この戯曲が素晴らしいと思わせてくれた演出家の力量はなかなかのものなのだが‥‥。そんなことを考えながら中野敦之と本番中からこの数日間ずっと議論を続けている。この時間も大切なのだ。

 久保井授業のはぐれ組が4月18-20日に学内テントでやる「海賊版・舞台芸術論/ジョン・シルバー愛の乞食」が楽しみだ。それが、ぼくたちにも新しいヒントを与えてくれるような予感がするし、唐ゼミ☆の次の公演「鐵假面」にもいい刺激を与えてくれるだろう。

 舞台の写真は夜光さんのblogなどを参照してください

2007.03.11

「ジョン・シルバー(続)」

 来週は劇団唐ゼミ☆の「ジョン・シルバー(続)」が始まる。16日から18日の三日間たった五回の公演だが、彼らにとって大きな境目となる重要な公演になることだろう。

 ちなみに、「ジョン・シルバー(続)」でgoogle検索をかけたら、根津甚八さんのblogを見つけた。但しヒットしたのは、唐ゼミ☆の前田裕己がつけたTBからだったけれども、状況劇場入団の頃の話などが書かれていてとても面白い。この頃の話は当時のどの関係者に聞いても面白いので、この辺りのことをまとめて本にしたら相当いいんじゃないかと思う。

 今回の「ジョン・シルバー(続)」では、会場に新宿梁山泊の本拠地「芝居砦・満天星」を使わせてもらう。普通のマンションの地下なので何本も柱や梁があるのだが、今回中野敦之は敢えて柱をど真ん中に入れるという斬新な発想で、いままでこの場所では考えられなかった幅の広い舞台空間を作り上げた。テントよりもだいぶ広い。海の見える丘、と言うよりも海の底にある喫茶店を作り上げている(写真はごく一部なので、実際の舞台の印象はこれよりもずっと幻想的だ)。
Dsc07247

 水曜日に初めて通し稽古を見せてもらって、金曜日には唐さんに久々に大学に来てもらい見てもらった。相当気に入ってもらえたようだ。大学で宴会をして、何人かで高円寺まで送って行き、アトリエで三次会まで飲んだのだが、ずっと興奮していてとても楽しそうだった。この席で、中野がずっと唐さんに懇願してきたある大作を上演する許可をもらえて、夏のテント公演でかけられることになったことも大きい。この件は、「ジョン・シルバー(続)」の本番で中野の口から発表されることだろう。

 ぼく自身も、テキストを読んだ時には全く理解できなかったこの作品の豊かさがようやく分かってきた。20代の唐十郎の頭の中の妄想がシュールレアリスティックで賑やかなバーレスクになっているのだが、元々50年代、60年代ポップスで満載の中に、2002年に「ジョン・シルバー」でスタートした唐ゼミ☆の軌跡を中野が音楽として挿入したので、さまざまな意味連関が生まれている。転機となった「吸血姫」以前の唐作品のエッセンスが盛り込まれており、若さが炸裂している唐十郎の原点とも言える作品であり、初めての観客にも勿論訴えかけてくるが、唐ゼミ☆をずっと見てきてくれた人にはまた違った喜びをもたらしてくれる作品になったのではないかと思う。

 この頃の唐作品では李礼仙、麿赤児、大久保鷹、四谷シモン、不破万作といった個性溢れる役者体に支えられる部分も大きかったのだが、その点でも今回はみんな頑張ってくれているのではないだろうか。キャスティングがとてもいい。

 もっともぼくの身辺も結構忙しく、5日には下北沢「ザ・スズナリ」でのmode「変身」を見たり、大学では学生の卒業判定をめぐって走り回ったり、まだ12日には後期入試もあるし、連日会議や打ち合わせもある。それでも何とか工夫して本番には全部顔を出していようと思いますので、皆さん是非ご来場下さい。これは絶対見ておくべき価値があります。

2007.03.05

読書、三題。

 ちょっとだけ休みになって時間が出来たので、気になっていた本を一気に読んでみた。

池谷裕二『進化しすぎた脳』(講談社ブルーバックス)
内田樹『下流志向』(講談社)
仲正昌樹『集中講義・日本の現代思想』(NHKブックス)

 それぞれ面白かったが、
『進化しすぎた脳』では脳科学の最前線を語る若い著者の溌剌とした語り口が何と言っても面白い。

 脳科学から人間を語ることの面白さは、精神分析や構造主義人類学と同じく、我々が自明としている「人間」や「自己」の概念を外部から解き明かしてくれるところにある。著者が言うように脳科学それ自体で「心」を「解明」することは原理的にできない。なぜなら、そこには「(科学的)言語」による脳の理解という限界があるからだ。「理解」とは言語化することにほかならない。それでも、著者はその限界を超えて「心」の謎について問いかけようとする。神経系のメカニズムに関して現在分かっている知見を総動員しての「意識」に関して、また「言葉」に関しての考察は興味深い。著者は「意識」を「表現が選択できる」こととしている。つまりは「自己の意志による自由選択」を、脳における神経系の反射から区別できる「意識」の境界線と捉えようとしているのだ。だが、それは同時に「言語」によって作り出された神経系の複雑なネットワークが組み込まれているはずであり、そして「言語」は脳内にそれ自体として組み込まれているものではない。言語とは常に「他者の言語」であり、他者性に貫かれているものである。してみると、神経系の反射でもなく、「自己」による選択でもないとすると、結局のところ「個別の身体」の中にしか個体性は存在しないとするか、特異な脳=神経ネットワークの組織化における言語のデザインやアレンジの特異性の中に「虚の焦点」としての「自己」を求めることしか出来ないのではないかとも思える。

 たとえば、内田樹の『下流志向』でも、こうした「自己決定・自己責任」という人間主体をめぐる言説が、他者の存在や時間性を捨象した虚構であるとして、そうした無時間的な思考や人間観が、消費資本主義の「等価交換」という原理と結びついたことが、「学ばない子供たち」「働かない若者たち」を生み出していると主張されている。学ぼうとしない子供たちやいわゆるニートの若者たちが、消費資本主義に適応して「合理的」に行動しているだけだという指摘は、一定の説得力があるが、それでは彼らが抱える「不安」や社会構造的な問題は解消されない。だが、ノイズに耳を傾ける時間的なあり方が人間存在にとって重要であるとともに、ノイズをシグナル(意味)に変えていくことが「学ぶ」ことだという主張には共感するし、また内田さんが大学でやれることの限界を超えるために早期退職して町道場を開いてそこで私塾をやりたいという気持ちにも共感できる。ただ、ぼく自身は別に武道をやっているわけでもないし、まだ大学で出来ることがあるのではないかと願っているのではあるが‥‥。いずれにしても、スカッとした読後感をもたらしてくれる書である。内田さんの本の中でもかなりいいのではないだろうか。文部科学省の官僚や中教審の委員、大学の官僚主義的な同僚たちに読ませたいものだ。

 この本の元になった講演がなされたのが2005年の6月であり、その一ヶ月前に日本記号学会の「大学」をめぐる大会で内田さんと議論したことも反映している。こちらは、慶應大学出版会の『溶解する大学』 に収録されている。宣伝ではあるが、こちらも面白い。

 内田さんの主張は分かりやすく説得力があるが、しかしよく考えてみると、現在の状況を説明するモデルとしてはまだ不十分であるようにも思われる。アメリカ流のグローバル資本主義が問題であることはよく分かるが、しかし功利的に動くという点では昔から人はそうだし、功利的な考え方や自己責任自己決定できる主体という虚構こそが「近代的自己」モデルであったことは確かで、そこから「文学」や「近代哲学」が生まれて来たのもまた事実なのだ。また共同体や家族や親密圏からの離脱と孤立が同じように近代的な主体を作り上げて来たことも歴史的事実である。だとすれば、内田的=部分的には室井的・啓蒙的反省的主体もまたそのような流れに内属するものであることは否定できないことのように思われる。また、もしグローバル資本主義に適応することが人間の本性に最終的には反するものであるのなら、なぜ新自由主義的な政策に(明らかにその方が不利な人々をも含む)多数派が雪崩うって同調していくのかが理解できないし、そこに組み込まれることを忌避する「人文的知性」がますます表舞台から追放されて行くことも分からない。もはやここで語られている「学ぶこと」=教養は、ブルデューの「文化資本」的な捉え方をするならば、社会にとって不必要な不良債権のようなものになってしまっているのではないか? それともそれはまた「世界名作アニメ」のような形で消費文化の中に回収されていくものなのだろうか? 人文的知性や、「座」やコーヒーショップ的サロン文化がますます社会から追放されて行くのはなぜか? それはメディアやアメリカに起源を持つ主流派の「権力」の狡猾さによってのみ説明できるものなのだろうか? ただ、学ばない子供や働かない若者たちが彼ら自身の自己決定・自己責任によって生み出されているという指摘、そして人は他者とのコミュニケーションに開かれることによってのみ生きることができるのだという指摘は興味深いし、重要であると思う。無時間的な、あるいは時間すらも空間軸に投影してしまう「歴史の終焉」の時代において忘却されているのは何よりも「生きられる時間」なのだ。

 そういうことを考えながら、仲正昌樹『日本の現代思想』を読むとこれがなかなか面白かった。この著者の本は『なぜ話は通じないのか』(晶文社)から二冊目だが、前著では鬱屈しながら愚痴ばかり言う独身者といった印象しか無かったこの著者が、言説の交通整理に関してはなかなかの才能の持ち主であることがわかった。戦後日本の「近代思想」、「現代思想」の歴史と展開を短くまとめているのであるが、とりわけ戦後マルクス主義思想のまとめ方に関してはなかなか切れ味鋭い。改めて教えられることが多かった。ただ、現在の状況を語る段になると、急速に迫力がなくなるのがご愛嬌かもしれない。「ウヨク/サヨク」の二項対立的言説の氾濫はもう嫌だ、って、確かにその通りだが余りにもそのまんまの愚痴ではないか? 確かに思想や人文的知性を貫き通すことが難しい時代ではあるのである。それでも、そういうことが重要であると信じる人たちは存在しているし、たとえ少数ではあってもそこにこそ人間が作り上げてきた人工的システム(言語、法、哲学、芸術、文学、歴史学etc.)の最良のものがあると考える人たちがいるのだ。いつも考えるのだが、数としては昔からそんなに変わらないのかもしれない。ただ、それが社会全体の中で占める重要度の割合が、話にならない程低下しているだけのことなのだ。ただし、潜在的な才能のある人間がそうした衰えた文化資本に対してあまり欲望をもたなくなっていることは確かで、彼らがより現状において有利なシステム的技能の獲得やテクノクラート化の方に盲目的に傾斜して行くことの方が問題なのかもしれない。こうした情勢の中では、「有機的知識人」とか「ヘゲモニー」とか言ってみたって空しいだけである。

 そう言えば、この間、大久保鷹さんに呼び出されて、中野の小ホールでやっていたマフムード・ダーウィッシュ「壁に描く」の朗読パフォーマンスに行った。若いパレスチナ人の奥さんとの間に生まれた赤ちゃんをあやしていた足立正生さんとも立ち話をしたが、世界革命というテロス(目的)に導かれていたかつての新左翼系の人たちが、現実に「イスラエル」という「敵」からの解放を求める「民衆」とじかに触れ合い、一緒に解放を祈るという立場に移行しているのは確かに幸せなことかもしれない。そうしたグローバル資本主義の外部はいまでも確実に、現実の中に存在しているからだ。

 いずれにしても、ぼくたちが今、この歴史的段階に個体として生きているということは偶然的なことにすぎない。そして、ここにしか生きられないという個としての必然性も確かな事実である。その中でぼくたちが生き物として輝くためには、いま同じ時代を生きている様々な世代の他者たちとどのような関係をもちうるかということの中にしか答えは存在しない。それが限定された狭いサークルや共同体や家族・親密圏だけではないこと、いわゆるグローバル・コミュニケーションの中に開かれていることもそれだけを取ればけっして悪いことではないだろう。ただ、そのことがかつての狭い共同体空間の中では予想も出来なかった新しい困難を引き起こしつつあるということなのではないだろうか? 

2007.03.01

上映会終了

 その前に、土曜日には下北沢駅前劇場で唐組の久保井研が出演している「庭劇団ペニノ」の「笑顔の砦」を見て来た。客席に居た唐組の藤井由紀、赤松由美と数人で終わった後飲む。日曜日は入試。今回も午後の採点だけで楽な作業だった。ペニノは昨年もこの時期に「ダークマスター」を見ている。美術やキャスティングにもこだわりを見せ、ていねいに作られているのだが、演劇というジャンルでこれをやらなくてはならない理由がよく分からない。作者は精神科医だと言うから、一種の臨床例として客に提示したいのだろうか? 二本とも見える場所と見えない場所、二つ(今回は中庭も含めて三カ所)の場所をつないで、空間の方をアクティヴにするために、役者の身体やモノと「場所」の前景/後景を巧妙に入れ替えるという仕掛けになっていた。いわゆる「リアル」なドラマ性のない台詞回しで、長い間を取りながら展開して行く。マメ山田、久保井研をはじめ役者は悪くない。だが、それらは前に書いたように、装置と相まって舞台空間を前景化、最後に輝くように活性化していくための仕掛けに過ぎないようにも思える。どうも方向性としてはしっくりこないのだが、それでも何かしらの才能を感じさせる集団ではある。

 火曜日の上映会には、三枝さんの声かけで松竹の本木克英監督がいらしてくれた。松竹最後の社員監督で、「釣バカ」シリーズやテレビの大型時代劇などをやっている。ゴールデンウィークに公開される実写版「ゲゲゲの鬼太郎」、春のドラマ特番「メゾン一刻」など。どうも処女作の「てなもんや商社」に一番思い入れがあるらしい。何とか見たいものだ。「本当はアッパス・キアロスタミが大好きなのに、俺が撮っているの<釣バカ>だものなあ」とおっしゃる。

 三枝さんにしても、本木さんにしても、こういう学外の人を前にすると、ついつい「ウチの若いモンに何か粗相があっては申し訳ない」という気持ちになる。普段、慣れてしまっているせいか、気がつくと学生たちの礼儀が全然なっていない。まともに挨拶できない者が多すぎる。途中から欠席した学生が、追加レポートで何とか単位をと頼みに来るが、三枝さんが不快そうな表情をしているのを見ると、やっぱりこいつらきちんとした話し方もできないなあと改めて思い、何だかそれが自分のせいのようで申し訳なくなる。終わった後で、全員で昼食会になったが、帰り際にやはり三枝さんや本木さんにきちんと挨拶ができる学生がとても少ない。必ずしもぼくのせいではないのだが、何となく申し訳ないし、恥ずかしい気持ちになる。まあ、こういうのは一種の世間知らずから来るものなので、彼らが根っからの無作法というわけではないのだが、そういう意識をもたせることができなかったという点ではぼくの持ち込み方が不十分だったのかもしれない。

 いずれにしても、今回のことを彼らがどのように受け止め、次に繋げて行くのか、行かないのか、それは楽しみだ。ぼく自身も沢山のことを学び反省した。次回は全く新しい形で最初から考え直してやってみたい。

 結局1:30から飲み始め、11:00過ぎまで下北沢で飲んでしまった。三次会は松田優作はじめ映画人ゆかりの「メリージェーン」。Dsc07245

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

最近のトラックバック

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30