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2007.03.05

読書、三題。

 ちょっとだけ休みになって時間が出来たので、気になっていた本を一気に読んでみた。

池谷裕二『進化しすぎた脳』(講談社ブルーバックス)
内田樹『下流志向』(講談社)
仲正昌樹『集中講義・日本の現代思想』(NHKブックス)

 それぞれ面白かったが、
『進化しすぎた脳』では脳科学の最前線を語る若い著者の溌剌とした語り口が何と言っても面白い。

 脳科学から人間を語ることの面白さは、精神分析や構造主義人類学と同じく、我々が自明としている「人間」や「自己」の概念を外部から解き明かしてくれるところにある。著者が言うように脳科学それ自体で「心」を「解明」することは原理的にできない。なぜなら、そこには「(科学的)言語」による脳の理解という限界があるからだ。「理解」とは言語化することにほかならない。それでも、著者はその限界を超えて「心」の謎について問いかけようとする。神経系のメカニズムに関して現在分かっている知見を総動員しての「意識」に関して、また「言葉」に関しての考察は興味深い。著者は「意識」を「表現が選択できる」こととしている。つまりは「自己の意志による自由選択」を、脳における神経系の反射から区別できる「意識」の境界線と捉えようとしているのだ。だが、それは同時に「言語」によって作り出された神経系の複雑なネットワークが組み込まれているはずであり、そして「言語」は脳内にそれ自体として組み込まれているものではない。言語とは常に「他者の言語」であり、他者性に貫かれているものである。してみると、神経系の反射でもなく、「自己」による選択でもないとすると、結局のところ「個別の身体」の中にしか個体性は存在しないとするか、特異な脳=神経ネットワークの組織化における言語のデザインやアレンジの特異性の中に「虚の焦点」としての「自己」を求めることしか出来ないのではないかとも思える。

 たとえば、内田樹の『下流志向』でも、こうした「自己決定・自己責任」という人間主体をめぐる言説が、他者の存在や時間性を捨象した虚構であるとして、そうした無時間的な思考や人間観が、消費資本主義の「等価交換」という原理と結びついたことが、「学ばない子供たち」「働かない若者たち」を生み出していると主張されている。学ぼうとしない子供たちやいわゆるニートの若者たちが、消費資本主義に適応して「合理的」に行動しているだけだという指摘は、一定の説得力があるが、それでは彼らが抱える「不安」や社会構造的な問題は解消されない。だが、ノイズに耳を傾ける時間的なあり方が人間存在にとって重要であるとともに、ノイズをシグナル(意味)に変えていくことが「学ぶ」ことだという主張には共感するし、また内田さんが大学でやれることの限界を超えるために早期退職して町道場を開いてそこで私塾をやりたいという気持ちにも共感できる。ただ、ぼく自身は別に武道をやっているわけでもないし、まだ大学で出来ることがあるのではないかと願っているのではあるが‥‥。いずれにしても、スカッとした読後感をもたらしてくれる書である。内田さんの本の中でもかなりいいのではないだろうか。文部科学省の官僚や中教審の委員、大学の官僚主義的な同僚たちに読ませたいものだ。

 この本の元になった講演がなされたのが2005年の6月であり、その一ヶ月前に日本記号学会の「大学」をめぐる大会で内田さんと議論したことも反映している。こちらは、慶應大学出版会の『溶解する大学』 に収録されている。宣伝ではあるが、こちらも面白い。

 内田さんの主張は分かりやすく説得力があるが、しかしよく考えてみると、現在の状況を説明するモデルとしてはまだ不十分であるようにも思われる。アメリカ流のグローバル資本主義が問題であることはよく分かるが、しかし功利的に動くという点では昔から人はそうだし、功利的な考え方や自己責任自己決定できる主体という虚構こそが「近代的自己」モデルであったことは確かで、そこから「文学」や「近代哲学」が生まれて来たのもまた事実なのだ。また共同体や家族や親密圏からの離脱と孤立が同じように近代的な主体を作り上げて来たことも歴史的事実である。だとすれば、内田的=部分的には室井的・啓蒙的反省的主体もまたそのような流れに内属するものであることは否定できないことのように思われる。また、もしグローバル資本主義に適応することが人間の本性に最終的には反するものであるのなら、なぜ新自由主義的な政策に(明らかにその方が不利な人々をも含む)多数派が雪崩うって同調していくのかが理解できないし、そこに組み込まれることを忌避する「人文的知性」がますます表舞台から追放されて行くことも分からない。もはやここで語られている「学ぶこと」=教養は、ブルデューの「文化資本」的な捉え方をするならば、社会にとって不必要な不良債権のようなものになってしまっているのではないか? それともそれはまた「世界名作アニメ」のような形で消費文化の中に回収されていくものなのだろうか? 人文的知性や、「座」やコーヒーショップ的サロン文化がますます社会から追放されて行くのはなぜか? それはメディアやアメリカに起源を持つ主流派の「権力」の狡猾さによってのみ説明できるものなのだろうか? ただ、学ばない子供や働かない若者たちが彼ら自身の自己決定・自己責任によって生み出されているという指摘、そして人は他者とのコミュニケーションに開かれることによってのみ生きることができるのだという指摘は興味深いし、重要であると思う。無時間的な、あるいは時間すらも空間軸に投影してしまう「歴史の終焉」の時代において忘却されているのは何よりも「生きられる時間」なのだ。

 そういうことを考えながら、仲正昌樹『日本の現代思想』を読むとこれがなかなか面白かった。この著者の本は『なぜ話は通じないのか』(晶文社)から二冊目だが、前著では鬱屈しながら愚痴ばかり言う独身者といった印象しか無かったこの著者が、言説の交通整理に関してはなかなかの才能の持ち主であることがわかった。戦後日本の「近代思想」、「現代思想」の歴史と展開を短くまとめているのであるが、とりわけ戦後マルクス主義思想のまとめ方に関してはなかなか切れ味鋭い。改めて教えられることが多かった。ただ、現在の状況を語る段になると、急速に迫力がなくなるのがご愛嬌かもしれない。「ウヨク/サヨク」の二項対立的言説の氾濫はもう嫌だ、って、確かにその通りだが余りにもそのまんまの愚痴ではないか? 確かに思想や人文的知性を貫き通すことが難しい時代ではあるのである。それでも、そういうことが重要であると信じる人たちは存在しているし、たとえ少数ではあってもそこにこそ人間が作り上げてきた人工的システム(言語、法、哲学、芸術、文学、歴史学etc.)の最良のものがあると考える人たちがいるのだ。いつも考えるのだが、数としては昔からそんなに変わらないのかもしれない。ただ、それが社会全体の中で占める重要度の割合が、話にならない程低下しているだけのことなのだ。ただし、潜在的な才能のある人間がそうした衰えた文化資本に対してあまり欲望をもたなくなっていることは確かで、彼らがより現状において有利なシステム的技能の獲得やテクノクラート化の方に盲目的に傾斜して行くことの方が問題なのかもしれない。こうした情勢の中では、「有機的知識人」とか「ヘゲモニー」とか言ってみたって空しいだけである。

 そう言えば、この間、大久保鷹さんに呼び出されて、中野の小ホールでやっていたマフムード・ダーウィッシュ「壁に描く」の朗読パフォーマンスに行った。若いパレスチナ人の奥さんとの間に生まれた赤ちゃんをあやしていた足立正生さんとも立ち話をしたが、世界革命というテロス(目的)に導かれていたかつての新左翼系の人たちが、現実に「イスラエル」という「敵」からの解放を求める「民衆」とじかに触れ合い、一緒に解放を祈るという立場に移行しているのは確かに幸せなことかもしれない。そうしたグローバル資本主義の外部はいまでも確実に、現実の中に存在しているからだ。

 いずれにしても、ぼくたちが今、この歴史的段階に個体として生きているということは偶然的なことにすぎない。そして、ここにしか生きられないという個としての必然性も確かな事実である。その中でぼくたちが生き物として輝くためには、いま同じ時代を生きている様々な世代の他者たちとどのような関係をもちうるかということの中にしか答えは存在しない。それが限定された狭いサークルや共同体や家族・親密圏だけではないこと、いわゆるグローバル・コミュニケーションの中に開かれていることもそれだけを取ればけっして悪いことではないだろう。ただ、そのことがかつての狭い共同体空間の中では予想も出来なかった新しい困難を引き起こしつつあるということなのではないだろうか? 

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コメント

<#「歴史の終焉」はフランシス・フクヤマの本のタイトルですが、冷戦終了以降のグローバル資本主義、あるいは新自由主義の世界観を象徴する言葉として用いてあります。>との、コメント、有り難うございます。
・・・「歴史の終焉」は読んではいませんが、その主旨は聞いていますので、その意味での<「歴史の終焉」の時代>と、記されていれば、 「読書、三題。」の文は、理解できます。
但し、私は、まだ現在は、世界が<歴史の終焉>を迎えているとは、思っていません。
しかし、その内、このまま行ったら、ゴア等が叫んでいる「環境問題」からで無く、
フランシス・フクヤマ氏の言わんとする(?)<グローバル思想>が世界に蔓延し、世界が画一化したら、世界の様々な(民族・国家及び)人間の生きる意味は、無くなるように思えます。

moharizaさん
何度かコメントありがとうございます。私としてはここは学生や卒業生を中心として身近な100人くらいに向けて書いているつもりですが、コメントも楽しく読ませていただいております。気の向いた時にどうぞごゆるりとお立ち寄り下さい。

#「歴史の終焉」はフランシス・フクヤマの本のタイトルですが、冷戦終了以降のグローバル資本主義、あるいは新自由主義の世界観を象徴する言葉として用いてあります。

投稿にある3冊とも読んでいませんが、

室井氏の<言語とは常に「他者の言語」であり、他者性に貫かれているものである。してみると、神経系の反射でもなく、「自己」による選択でもないとすると、結局のところ・・・神経ネットワークの組織化における言語のデザインやアレンジの特異性の中に「虚の焦点」としての「自己」を求めることしか出来ないのではないかとも思える。>は、興味深い考察と思います。
「虚の焦点」とは、フラクタル及びカオスの「特異点」のようにも思えますが、人間は、所詮、「自己を本当に理解しているのか?」、「自分とは?」は、自分では理解出来ず、また、他人からも、自己を理解することは出来ないように思えます。
やはり、3次元の人間は、自己を理解するには、4次元から理解するしかなく、それは、不可能です。

<無時間的な、あるいは時間すらも空間軸に投影してしまう「歴史の終焉」の時代において忘却されているのは何よりも「生きられる時間」なのだ。>
・・・今、<ジョン・バロウ著、「宇宙が始まるとき」/草思社>を読んでいる所ですが、「3次元の次の段階の4次元は、時間でなく、空間でないか?」と言う章に行き着いています。
その考えから<時間すらも空間軸に投影してしまう>との考えは、理解できそうですが、何故、現代が、<「歴史の終焉」の時代>とされているのか?は、全ての投稿を読んでないので、理解できません。
しかし、<忘却されているのは何よりも「生きられる時間」なのだ。>との言葉は、分かります。人間の生き様は、一瞬の「時間」に集約されると思えるからです。但し、「時間」は、3次元の人間には、理解できるものでは無いとも思っています。歴史として、記録されているものはあるが、今現在の時間を客観的に捉えることは、不可能と考えます。でも、その時間を生きなければ行けない人間は、「生きられる時間」を生きるしかないと、考えます。

<・・・それが限定された狭いサークルや共同体や家族・親密圏だけではないこと、いわゆるグローバル・コミュニケーションの中に開かれていることもそれだけを取ればけっして悪いことではないだろう。ただ、そのことがかつての狭い共同体空間の中では予想も出来なかった新しい困難を引き起こしつつあるということなのではないだろうか?>は、
まさしく、その通りで、パソコンによる「グローバル・コミュニケーション」による、他人の顔を知らず、コミュニケーション出来る時代になり、また、発した言葉がどこまで行ったかを、本人が知らない世界は、実態が無く、「真のコミュニケーション」と言えるか?の問題だと思います。・・・、と言って、私は、(こうやって、)発していますが・・・。

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