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2007.03.22

ジョン・シルバー(続)終了

 演劇を評価するには色々な視点の取り方があってなかなか難しい。

 なぜなら演劇とは雑多な層の交じり合った複合的ジャンルであり、戯曲、演出、俳優、美術、音楽、照明、劇場などのさまざまな要素が重層的に重なり合っているからだ。評価軸をどこに置くかによって、同じ体験の意味内容は著しく違って来る。実際にやってみるとはっきり分かることは、その上にさらに「観客」の存在もきわめて大きい。だが、それらはばらばらに存在しているのではない。

 まず基底には戯曲がある。戯曲が凡庸なのに、俳優や美術がいいから最高の演劇になるということはけっしてない。もちろんストーリーのないパフォーマンスもあるが、台詞のある演劇の場合に戯曲の役割は決定的である。

 その上に、空間・音楽プランも含めた演出があり、最後に舞台美術、照明、そして俳優による演技と観客との相互的空間創造が演劇の最終局面となる。それでもこの図式が必ずしも単純でないのは、最後の俳優によるパフォーマンスがなければ、そしてそれに応えることのできる観客がいなければ、そもそも演出や戯曲がいいのか悪いのか分からなくなってしまうということだ。つまり、本当はいい台本なのに、俳優(と観客)が悪ければそれが伝わらないということになるわけである。

 世の中には文学作品としてそのまま通用する戯曲と、上演されなければ理解できない戯曲とがある。一般に近代戯曲は「文学」としての性格を強く押し出しており、その意味ではチェーホフもテネシー・ウィリアムスも三島由紀夫も別役実もテキストとして読める。ただそうではないものもある。鶴屋南北やシェークスピア、そして唐十郎の戯曲は読んだだけではほとんど分からない。イメージが石化したような言葉は、俳優の肉体によって具現化されなければ、文脈を追うことすら困難になる。それは演奏されなくては分からない楽譜のような戯曲なのである。音楽の場合にも楽譜があって、指揮者(第一の解釈=演奏家)が居て、演奏者がいる。それは戯曲作家と演出家と俳優の関係と似ている部分をもっているが、それでもちょっとばかり違っているような気もする。なぜなら、演奏家が駄目でも名曲は名曲だが、俳優が駄目だと戯曲の善し悪しは絶対に分からなくなってしまうからだ。

 エイゼンシュタインは歌舞伎のロシア巡業を見て、彼の「モンタージュ」のアイディアを得たと言われている。彼は日本文化や日本語に関心を抱いており、たとえば漢字の中の会意文字や、俳句や歌舞伎のあり方が「モンタージュ」的=つまりは二つ以上のものがそこで出会い、全く新しい第三の意味を生み出す、と考えた。複数の要素、重なり合うさまざまな層が衝突し合い、単なる加算ではなく乗算的な意味融合を作り出すのが演劇の醍醐味なのかもしれない。エイゼンシュタインはメイエルホリドの弟子だったが、唐十郎の演劇はスタニスラフスキーよりもメイエルホリド的なものにより近い。

 唐ゼミ☆の「続ジョン・シルバー」は相反する極端な評価を受けた。唐十郎を含めたある人々は、顔を紅潮させ興奮して喜んでくれた。とりわけ「状況劇場」の過去を知る人たちは相当面白がってくれたことがよく分かった。だが、唐ゼミ☆を続けて見てくれていて、場合によっては唐組や新宿梁山泊よりも贔屓にしてくれている人たちの中には否定的な感想を述べる人も多かった。難しいところである。ぼく自身は、今回はこの戯曲の底知れぬ深さに出会えたということが大きかった。テキストを読んだ時にちょっとバカにしていたのである。若さと情念が先行して、まとまりのない作品だと思っていたのが唐ゼミ☆が実際に上演することによって裏切られた。相当練り込まれて唐以外には書けないユニークな戯曲だということを再認識した。これは、三年前の1965年に上演された「ジョン・シルバー」や、それ以前の「腰巻お仙」物と思った以上につながっているし、その後の「少女仮面」や「吸血姫」のモチーフが原形質のまま全部盛り込まれている。唐十郎の作品世界の再発見につながるような発見がいくつもあった。

 他方、演出や演技においては、普通の「演劇」につながるような方向性が強すぎたようにも思える。普通の「演劇」では、役者の「自然な」演技における技量や唄や踊りのうまさや存在感などが評価される。ストーリーや文脈をつなげる横軸を織りなす方向性(記号論で言えば統辞論的軸)が強くなると、「分かりやすく」はなるが、イメージが石化したものが溶け出し、文脈とは無関係に屹立するような方向性(範列論的軸)が弱まってしまう。

 ぼくは前々から言っているようにジャンルとしての「演劇」はきらいである。「劇場」も嫌いだ。そんな狭苦しい檻のようなジャンルの中で勝負することはとっても貧乏臭いことのように思われてならないのだ。今回は、みんなが「うまくなった」と言われたが、逆に言えばそういう評価軸から見られてしまうという弱点があったということだろう。「演劇」以外のものにならなくてはならないのだ。唐十郎という現役ではあるが、百年に一人出るかどうかわからない才能に正面からぶつかり合う「武者修行」を、彼らにはずっと続けて行って欲しいし、そういう落ち着きのなさ、不安定な荒々しさを失ってしまっては唐ゼミ☆は普通の(プロの)劇団になってしまうし、下北あたりでやっている連中と同じ範疇の集団になってしまう(ますます痙攣的で、断片的な強度を強めている最近の唐組は全く違うけど)。そうした中途半端さが今回の欠点だったと言えるだろう。「前の方が面白かった」と言われてしまっては続ける意味が無い。少なくともぼくにとっては面白くない。もっとも前に戻ることはできないのだから、別なものを手にすることで「先に」進まなくてはならない。

 役者やスタッフが「うまくなる」ことは危険な兆候である。それはすべてを「段取り」に変質させてしまうからだ。滑舌が悪かろうが、唄が下手だろうが、音楽がうるさかろうが、客席が狭かろうが、そんなことは本当にどうでもいいのだ。それらを上回るものがそこに現れなければならない。そうなれば、誰も役者の技量のことなどは口にできなくなるはずである。椎野裕美子や禿恵はよくやったし、当たり屋の少年をやった佐藤千尋は幸福なデビューを果たした。それ以外のメンバーも皆それなりに頑張った。だが、それらをどのように一時間半のパフォーマンスにまとめあげるかという演出における総合的な戦略が足りなかったと言うか、やや方向性が違う方向に引きずられていたのかもしれない。それでも、この戯曲が素晴らしいと思わせてくれた演出家の力量はなかなかのものなのだが‥‥。そんなことを考えながら中野敦之と本番中からこの数日間ずっと議論を続けている。この時間も大切なのだ。

 久保井授業のはぐれ組が4月18-20日に学内テントでやる「海賊版・舞台芸術論/ジョン・シルバー愛の乞食」が楽しみだ。それが、ぼくたちにも新しいヒントを与えてくれるような予感がするし、唐ゼミ☆の次の公演「鐵假面」にもいい刺激を与えてくれるだろう。

 舞台の写真は夜光さんのblogなどを参照してください

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コメント

<演劇とは雑多な層の交じり合った複合的ジャンルであり、戯曲、演出、俳優、美術、音楽、照明、劇場などのさまざまな要素が重層的に重なり合っている>・・・・映画、歌舞伎等を含み、観客を相手とする、総合芸術とは、そういうものだと思います。
「演劇」の場合は、舞台と観客(ほとんどが、わざわざ、その演劇を期待して来ている限られた人なので、なおさら…、)席が一体になっているので、
『その上にさらに「観客」の存在もきわめて大きい』事は、「演劇」の特殊性だと思います。

(私は、一時、大学時代、「演劇」をやりたいと、思ったことがありますが、その部が無く、諦めたことがありました。
しかし、やはり、気が収まらず、「演劇」じみたことは、大学四年の学園祭で、「火祭り」の形で、仲間と一種のパフォーマンスをやりましたが…。)

しかし、総合芸術としての、映画は好きですが、「演劇」は、何か「オーバー」な演技、その「癖」があまり好きではありません。
「演劇」の範疇に入るかは分かりませんが、「舞踏」の方が好きです。「大駱駝鑑」、「「山海塾」は、最近は観てみませんが、パフォーマンスとしての総合芸術の局地と思っています。

<台詞のある演劇の場合に戯曲の役割は決定的である。その上に、空間・音楽プランも含めた演出があり、最後に舞台美術、照明、そして俳優による演技と観客との相互的空間創造が演劇の最終局面となる。それでもこの図式が必ずしも単純でないのは、最後の俳優によるパフォーマンスがなければ、そしてそれに応えることのできる観客がいなければ、そもそも演出や戯曲がいいのか悪いのか分からなくなってしまうということだ。つまり、本当はいい台本なのに、俳優(と観客)が悪ければそれが伝わらないということになるわけである。>・・・・
おっしゃるとおりで、私は、(観客論も映画においてもあると思い、)映画等においても同じで、戯曲(シナリオ)がしっかりして無くては(破綻のない筋が重要であり、)、作品が成り立たず、
また演出効果の舞台裏が重要であり、「最後の俳優によるパフォーマンス」こそが、その作品の価値を高めるものと思っています。

しかし、あまり観ていない私が言う立場はありませんが、映画と違い、「演劇」俳優は、あまりにも、パフォーマンスし過ぎるのが、私に観劇に向かわせない要素のように思えます。(個人的な意見なので、すみません。)
映画の方が、自然な演技であり、演技者の気持ちになりきれます。
映画においても、演技者のパフォーマンスが重要な事は、「演劇」俳優と同じはずなのですが…。
演劇の舞台は観てはいませんが、演劇界出身のダスティ―ン・ホフマン、ロバート・デニーロの、映画での演技が、私は好きです。もちろん、演技者としてのチャールズ・チャップリンも評価します。

<普通の「演劇」では、役者の「自然な」演技における技量や唄や踊りのうまさや存在感などが評価される。ストーリーや文脈をつなげる横軸を織りなす方向性(記号論で言えば統辞論的軸)が強くなると、「分かりやすく」はなるが、イメージが石化したものが溶け出し、文脈とは無関係に屹立するような方向性(範列論的軸)が弱まってしまう。>・・・・
ここら辺の理論は、私には難しく、完全に理解は出来ませんが、<イメージが石化したものが溶け出し…>との言葉は、役者と舞台作家(映画の監督及びシナリオ作家)との関係での、総合芸術の難しさと思います。

演技者(役者)がいなければ、舞台作家(映画の監督及びシナリオ作家)の意思は、伝わりません。
しかし、舞台作家(映画の監督及びシナリオ作家)の意思が強すぎると、役者の演技の自由度が弱まり、全体の流れが<石化>して、しまうと解釈すれば良いのでしょうか?
<雑多な層の交じり合った複合的ジャンル>である、演劇は、難しいものだと思います。

笛木さん(ご本名ではないのでしょうけど)、今度是非劇団員かぼくにお声をおかけ下さい。今回は新潟、上越から三人も来ていただいております。

佐藤千尋さんには、釘付けでした!
「船橋ヘルスセンター」が哀愁を帯びてました。

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