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2007年7月

2007.07.28

WZERO-3[es]購入!

 初代のWZERO-3が死にかけていたので、新しいAdvanced W-ZERO3[es]を購入した。
これが2005年末に発売された初代のWS003SH。WindowsMobile搭載の画期的なスマートフォンである。
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 ショック吸収カバー「まもる君」というのを装着してガンガン使った。ガンガン使いすぎて早めにお亡くなりになってしまったのである。これには去年の今頃、ヨーロッパでお世話になった。ウィーンの駅でVAIOを盗まれてしまってから、ブタペスト、クラコフ、ワルシャワ、ベルリン、ミュンヘンとこのマシン一つで旅行して回った。もちろんPHS機能は使えないが、WiFi接続ができるのでこれでインターネットにつないでいたのである。メールやウェブチェックはもちろん、ホテルやフライトの予約など何でもこれでやった。ほぼ毎日日記すら書いていた。ブタペストのホテルで必死でLANサービスにつないだり、プラハのネットカフェでコンセントの横の席でつないだり、ワルシャワで完全初期化をして復活したりと、その時々の記憶が鮮明に蘇ってくる。短い間だったが本当にお世話になった可愛い奴だった。

 そんなハードな使い方をしていたせいか、途中から電源の具合がおかしくなった。充電できないのである。接触不良かと思うが、圧力をかけないと充電できないどころか勝手に放電して死んでしまう。さらにはバッテリーの消耗が早く、すぐに消える。電源部を修理交換してバッテリーを新品に変えれば何とかなると思っていた時期に、新製品が発売された。何せWindowsMobileもV.6に更新されているし、もともと電話とPDA機能が一体化しているものにしか興味はないので、すぐに予約した。だいぶ軽量化して、ちょっと大きめの携帯電話という感じか。初代はでかすぎるので、これで電話しているとみんなが「えっ、それって電話なんですか」と驚いてくれたが、これならそういうこともなくなるだろう(ちょっと寂しい)。

 画面とキーボードが小さすぎるのはやはり残念だが、普通の電話のテンキーもついているし、このサイズの中にあらゆる機能が詰め込まれているのはやはり凄い。弱点だった電源部も改善され、USB充電もできるようになった。以前使えたフリーソフトや外部アプリもほとんどがそのまま使える。値段は高いけど、それでも昔のように、98LT、初代Dynabook、NECモバイルギア、HP200LX、Palm、ザウルスと次々とラップトップやPDAを買いまくっていたことを思い出せば、安い買い物だよね。

2007.07.26

パイプの話

 日本パイプクラブ連盟という団体から、煙草についての連載をしてみないかという話があって、二週間程前に丸の内のシガーバーで打ち合わせをした。パイプのコレクション千本以上という連盟の会長と理事の方とお目にかかり、連載をお引き受けした。既に第一回が掲載され、第二回の原稿を執筆中である

 今年に入ってWHOや、その傘下にあるFCTC(煙草規制枠組条約機構)などによるなりふり構わぬ攻勢が激しい。全く根拠もなく「科学的エビデンス」の旗印の下に「異端狩り」を進めようというこれらの健康ヒステリー患者たちの姿は、「禁煙ファシズム」と言うよりもまさしく中世の十字軍や「魔女狩り」にきわめて近いように思われる。21世紀と共に世界は「新しい中世」に突入した。「ポストモダン」の後に来たのは不寛容な原理主義と一元的なグローバル経済が結びついた「中世」への回帰だったのだ。まあ、そんなようなことは連載の方でじっくりと考えて行きたい。

 さて、問題はこの依頼を頂いたのが「日本パイプクラブ連盟」であったと言うことである。打ち合わせ中三人のパイプスモーカーがご自慢のパイプでうまそうに煙草を吸っているのを見て羨ましくなってしまった。雑談中にも何度も勧められるので、とりあえずネットで「スターターズキット」を購入して面白半分で試してみることにした。

 昔、煙管タバコや、葉巻やシガリロは試したことがあるが、パイプは初めてである。やってみたら、これがめちゃくちゃ旨い。元々ぼくたち喫煙者は煙草が旨いから吸っているのである。けっして単なるニコチン中毒で吸っているのではない。だが、パイプ煙草の旨さはシガレットとはちょっと次元が違う。ゆったりと吸い終わった後、思わず「ごちそう様」と言いたくなるほど満足感が深いのだ。葉巻も旨いがやはり高価だし、それなりの時間的余裕がないと吸えないし場所も限定される。

 シガレットは肺の奥まで吸い込む肺喫煙だが、パイプや葉巻は口腔と舌や鼻の粘膜で楽しむ口腔喫煙である。最初はこんなもので満足できるものかと思ったし、舌先や唇にぴりぴりした刺激があったりもしたが、これは吸い方次第でコントロールできる上に、何よりも煙草それ自体が「旨い」のである。肺まで吸い込まないから喉や気管への負担も軽い。実際、シガレットが全く吸えず、煙草の煙に咳き込んでしまうような人でもパイプなら全く大丈夫らしい。アメリカでも、シガレット喫煙者は生命保険料が非喫煙者よりも数倍高くなるが、パイプ喫煙者は安いのだそうだ。ぼくはシガレット喫煙の肺ガン原因説は相当誇張されている嘘だと思っているが、それでも少なくとも呼吸器官を刺激することなく、煙草の旨さをこれほどにまで楽しめるのならそれはそれでいい。一種のおしゃぶりだから癒されるし、パイプという道具にも何か安らぎを感じるので、これはなかなかいいのではないかと思った。

 連盟の方にそんな感想を伝えたら、早速銀座で開かれる日本パイプスモーカーズクラブの例会に招待された。老若男女、多種多様な職業のパイプスモーカーが二十数名集まって、全員パイプをくゆらせている。その日は年に二回のオークションで、会員の人たち秘蔵のパイプや関連グッズが出品され、ぼくも思わず二本ほど購入してしまった。昔のパソコン通信のオフ会にも似て、見知らぬ人たちともパイプのネタですぐに話が弾むようになるところも面白い。なるほど、これはクラブとか連盟とか、仲間が居るとますます楽しくなる道楽なのだということが分かった。

 てなわけで、最近はいつもパイプを持ち歩いている。運転中にシガレットをちょっと吸う以外はずっとパイプ。煙草代も大幅に安上がりだし、何となく幸福感もある。「似合わない」とか「似合っている」とか色々言われもするが、まあそんなことはどうでもいい。煙草は楽しいし、やっぱり美味しい。パイプ煙草にはウィスキーや香料が加えられたものもあり、たいていみんな「いい臭い」と言ってくれるし、シガレットよりも煙が少ないので周りの人にもあまり迷惑をかけないで済む。いいことだらけである。というわけで、今やぼくも、ぼくに盛んにパイプを始めることを勧めてくれた連盟の人たちと同じ気持ちになりかけている。まあ、単純なものだが、要するにそれほどパイプ煙草は旨いし、幸福で豊かな満足感を与えてくれるのである。手軽さではシガレットにかなわないが、ネイティヴ・アメリカンたちが教えてくれた本来の煙草の素晴らしさ、美味しさ、文化的伝統を感じさせてくれる。

2007.07.18

池袋西口公園での「鐵假面」終了

 この公園に毎日やってくる、ホームレス、外国人労働者、高校生、大学生、チーマー、やくざ、酔っぱらい、他に行き場所のない人たちの群れに囲まれ、金曜のゲネプロ時には、ステージで宴会をしていた酔っぱらいに何度も「オメーラ、ウルセー」と怒鳴り込まれたり、終わり際にコンパ帰りで盛り上がりたい大学生30人以上に囲まれたりと、果たしてこんなところで公演が打てるのかと危ぶまれた池袋公演であったが、四日間無事に終了した。ゲネプロの日には中野と二人で電車で帰りながら、「もうこんなところで芝居はやらない方がいいよ」と言ったものだが、終わってみるとなかなか感慨深い。最初はここの住民の異様さに完全に引いていたメンバーたちもみんな達成感と、この場所や人々への愛着のようなものが出て来たようなのが面白い。何よりもエンディングでは他の場所では絶対に味わえない感動を体験することができた。無事に終われた達成感も大きい。

 初日は金曜日。この日は普通のウィークエンドで酔っぱらいが多く、ピリピリした雰囲気の中、役者たちもやや外の群衆に押された感じで固くなっていた。2日目は台風の影響で一日中大雨。トイレで喧嘩があり、警官が出動する騒ぎはあったものの芝居には集中することができたが、雨の音に対抗して喉を痛める者が続出。それでもエンディングの時には小降りになってくれて助かった。3日目は台風直撃の予報の中、南に逸れてくれたおかげでこれまた無事に。唐さんや、唐組の鳥山君が心配して駆けつけてくれたが、やや拍子抜けの感じだった。とは言え、安心していたら夜になると意外に風が強く、台風の雰囲気は充分以上味わわせてもらえた。4日目。当日客がどんどん増えてやはり大入り満員。幸せな楽日を迎えられた。これで終わってしまうのが名残惜しいくらいであった。この間、ぼくはずっと公園に居たり、お世話になった望月六郎監督がやっているDogaDogaプラスの「贋作・春琴抄」や南河内万歳一座の「滅裂博士」などに顔を出したりしていてなかなか忙しかった。

 当日に来てくれる観客も多く、結局初日以外はすべて立ち見の出る大入り満員。京都や新潟、水戸からもいろんな人が来てくれたし、この作品に強い思い入れをもつ旧状況劇場の面々、とりわけ大久保鷹さんは三回も来てくれたし、堀切直人さん、扇田昭彦さん、高橋豊さんを初め唐さんにゆかりのある方々にも喜んでいただけたようで良かった。やはり、これは圧倒的に面白い作品なのである。

 唐十郎作品にしてはめずらしい硬質な思想劇、というか異化効果を組み込んだメタシアター的構成に戸惑われる方も多かったかもしれないが、(アンチ)ヒロインが軽薄で移り気な女で感情移入しにくい(できない)のも、畳屋の子供じみた妄想が常に裏切られるのも、母よりも昔の時代から生きていた紙芝居屋が「父」の名の下に「夢からさめろ!」と叫ぶのも、大衆の夢魔にうなされながらも、大衆の深層に想像的エネルギーの鉱脈を探し出そうとする彷徨からもたらされる必然なのである。一幕終わりに便所に現れる満州帰りの叔父の亡霊の象徴する歴史の悪夢と、二幕終わりの超速度でめまぐるしく展開する地獄巡りの5分間の中にすべてが凝縮されている。二幕の「鉄仮面裁判」から後の椎野裕美子はほぼ完璧にそれを演じきっている。今回の唐ゼミ☆の「鐵假面」は単なる心理劇やメロドラマには還元されえない非構造的な強度の演劇として成立していると思う。最後の五分間でスイ子も畳屋も、それまでの人物造形とは全く異なる別の生き物に生成=変化していかなくてはならないのだ。中野演出ではそれは花道と舞台の階段を結びつける垂直軸上の「道行き」、あるいは「オルフェウス神話」として見事に造形化されている。それは『吸血姫』のエンディングにもよく似ている。おそらく、今週末の関内公演で、エンディングはさらに形を変えてこれまでとは全く違ったものになっていくだろう。さらに、観客の一人一人が鐵假面という登場人物にほかならないということがもう少しくっきりと伝えられれば、ほぼ完成形に近づくと言っていいのではないだろうか?

 そういうわけで、残り2日の関内公演に是非それを確かめにきて欲しい。一度見ただけでは分からないことも多い筈です。

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