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2008年5月

2008.05.15

四川省の地震

ぼくのゼミ生の女の子の故郷も震源から50-60kmの近傍であり、ご両親の消息はまだ分からない。おばあさんが小学校に避難していることだけは分かったが、その他の親戚の消息もわからない。もちろん電話もメールも通じない。ボランティアで現地入りできるのなら、今すぐにでも参加したいと言っていたが、武装警察と軍、少数の中国人ボランティア以外、外国からの人的支援はなかなか受け入れ態勢が整わない。とりあえず、募金はできるし、お金なら何とか支援できるが、生き埋めになっている人の救出の時間的期限が迫っているのにもどかしい。それでも今回の台湾人の同胞に対する迅速な支援には驚いた。総選挙以来の大きな事件だからということもあるだろうけどね。震源地がチベット族の自治区であったということもあり、中国をめぐって、ここから何か大きな変化が起ころうとしているのかもしれない。
それでも中国の方がまだ全然マシだ。ミャンマーと比べれば、だけど。

2008.05.12

日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」終了

 さて、3日に唐組の初日に顔を出してからそのまま水戸入り。
 4,5,6と三日間のバッタ公開も最終日の青空に救われて無事終了。
 いろんな人が来てくれていろいろなことがあった。が、それはまた後日。
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 そのまま、息継ぎする間もなく週末は京大での日本記号学会の大会

 いやあ、今回もいろいろ考えさせられた。
 今回は河田学君に企画を任せていたのだが、なかなかまとまらず、四月の初めに日帰りで京都に行き、急遽決めたのが初日の企画、

 シンポジウム「すべての女子は《腐》をめざす─BLとフィクショナリティの現在」

だった。

 遍在するフィクショナリティということから、携帯小説やblog小説、BLなどを扱おうということになり、「腐女子」に詳しい清田友則君に電話で相談。『やおい小説論』の著者である永久保陽子さんを迎えて、BLや腐女子についてのセッションをやることにした。基本的には永久保さんに30分くらいレクチャーしてもらって、清田君といろいろ事前に準備したことを永久保さんとの一問一答形式で進めて行こうという話だったのだが、結局永久保さんは10分程度で話をやめてしまい、あとは手探りで話を展開していく「メディア基礎論」スタイルになった。これはこれでスリリングで面白かったのだが、会場の一部には不評。「シンポジウム」というジャンルを「お約束通り」やって欲しかったらしい。お約束通りのシンポジウム程退屈なものはないのに‥‥。もちろん、清田君の特異な個性もあり、別な一部にはきわめて好評。手を打って面白がってくれる人たちも沢山居た。これほど正反対の評価が出てくるセッションも珍しく、その意味では最初から荒れ模様だったのだ。

 BL(boy's love)と呼ばれる男性同士の性愛を描いた漫画や小説は、「腐女子」と呼ばれるオタク系女性たちに幅広い人気を得ており、いまや一般書店で独立した大きなコーナーをもつほど「一般的」なジャンルになっている。これらは基本的には少女漫画の伝統を受け継ぐ心理小説的「純愛物」スタイルを持ちながらも、過激なセックスシーンを含む倒錯したポルノグラフィなのだが、驚く程パターン化されている。消費者である「腐女子」たちはそのパターンを楽しみながら、密かに自らの抑圧された性衝動を発散させている。

 永久保さんの説明するストーリーは、「抑圧された女性たちの性欲を満たす、女性のためのポルノグラフィを試行錯誤で作り上げている、女性による女性のためのセクシュアリティの解放」こそがBLであり、その視点から「作品研究」を積み重ねて行くことが重要であるというもの。

 それに対して、ぼくの思惑は、このようなストーリーこそが「フィクショナリティ」であり、そうしたフィクショナリティが一般化され、「有力な商品」として消費の欲望の対象になってしまうという現代的な状況を記号論的に暴き出せないかということだった。確かに以前の「やおい」の女の子たちは複雑な性意識を投影しており、そこには何かしら日の当たるところには出せないうしろめたさのようなものがあったに違いない。だが、現在のあまりにメジャーになった「BL」の愛好家たちはもはやそのような背徳的な暗さとは無縁に、一般に認知された商品としてあけすけにそれを消費しているようにしか思えない。オタクやコスプレに関しても同じようなことが言える。この変化は一体なんなのだろうか?

 一方で、清田君の作り出そうとしたストーリーは、自らのセクシュアリティやジェンダーをこのような屈折した回路に注ぎ込んで行く「腐女子」たちの中に、セクシュアリティ一般の向かう方向を見出していけないかというようなものだった。この流れで言えば、すべての「女子」ばかりではなく、すべての「人間」は腐女子を目指しているということになる。そして、そこにはファロス中心主義やゲイ、レズビアン、クイアなどに関するこれまでの議論を超えていく、人間の自らのセクシュアリティとの関わり方を解く鍵があるかもしれないという期待もこめられている。

 しかし、話がそうした抽象的な局面に移行しようとすると、永久保さんの顔が曇り、「BLと腐女子の話に戻して下さい」というようなことになる。彼女がついてこなければこのセッション自体が成り立たなくなるので、またその平面まで降りて行って、腐女子たちのセクシュアリティの話に戻る。その繰り返しで、いくつもの面白くなりそうなトピックが中途半端な展開のまま置き去りになってしまった。前半では、セクシュアリティこそがフィクションだ。もしくはセクシュアリティを作り上げているのがフィクションだ、というような事が浮かび上がってきて面白くなりそうだったのだが、なかなかその先に進めない。

 休憩後、フロアに質問をしてもらう段階になってくすぶっていた対立が前景化してきた。この手のイベントには異様な程、多数の挙手があったのだ。チラシに惹かれて集まったオタクと腐女子、及びそのシンパたちの大群である。今回は無料で入場できるようになっている(プログラムが欲しい人は二日間の参加費込みで1500円)。しかも、それらの質問者たちの大半は学会員ではなく、永久保さんに(だけ)、BLのジャンル論や重要作家を訊ねてくるといった「データベース型消費」者たちの群れだったのだ。要するに、私もBLが好きである、BL以外のオタクだが、BLの魅力について関心がある、BLと他のサブカルチャーとのジャンル的な相違について、というような質問ばかり続く。中には、永久保さんの話(だけ)を聞きたかったのに、オジサン二人が遮るので駄目なシンポジウムだったと指摘する人まで現われ、失望と怒りが募ってきた。まあ、スーパーマーケットの人気商品の売り場でその商品の悪口を言っているようなものだから、ある意味当然の帰結だったのだ。次から次へとその手のオタク質問が続き、永久保さんもその方が安心するのか、セッション中の途切れ途切れの話し方から一変して澱みなくしゃべり出すようになって、さらに会場からは沢山の手が上げられるようになった。このまま終わらせたのでは、今回の学会の企画意図が完全に潰されると思ったため、こちらからキレて、質問を封じるという実力行使に出ることにした。

 そこからは、ネットでの「炎上」のような混乱が。突然会場から学会とは何の関係もない学部学生が立ち上がり司会者の横暴をなじり、室井さんたちは全く面白くなかった。面白かったと思う人、手を挙げてくださいと言いだし、それに便乗して不規則発言する人も出てくる。

 ぼくは、ここは記号学会である。みんなが同じ価値観を共有したり、スーパーマーケットの商品コーナーにそれが好きな人が集まって情報交換したりするようなことではなくて、異なる価値観、異なる専門領域を持つ人たちが境界を越えて行こうとする場なのだ。ぼくたちがこのセッションで試みたのもそれであり、そうではないオタク・トークはどっかよそでやってくれというようなことを言ったのだが、明らかに全くそれが通じない人たちがいたし、その一部は次の日のパネリストであった。こういう風景は見覚えがある。タバコの話の時にわさわさと群がってきたネット嫌煙運動家たちとそっくりだ。

 ただ、面白いことにその後のパーティでも、二次会でも、むしろぼくたちに共感し支持してくれる若い人たちが多数集まってきてくれたのは心強かった。ある意味、衝突を作り出すことで問題点がかえってくっきりと浮き上がってきたとも言える。また、この手のデータベース型消費者は実は心に深い不安感を抱いていて、同時にフロイトやラカンを読みふけっている者も多く、ひとりひとりきちんと話してみればちゃんと話が通じるのだ。ただ、そのまま四十代前後までなってしまった団塊ジュニア世代の大学教員はもはや話が完全に通じなくなっている。

 そして、その混乱と衝突から一夜明けて、次の日に開かれたもう一つのシンポジウム、

「物語を語ること、フィクションについて語ること」
奥泉光[作家・近畿大学]×岩松正洋[関西学院大学]×石田美紀[新潟大学]

 では、物を作り出す側の作家である奥泉さんと、二人のデータベース型消費者の対比が浮き彫りになってくる。プロットとキャラのデータベースからフィクションのジャンル論を語る二人に対して、作り手の奥泉さんは、「物を書くということは、それだけには留まらないsomthing else があって、それは書いてみないと分からない」と言う。すると、それは直ちに「そのsomething elseというのは、ノリとかグルーヴ感とかいうものですよね?」と、消費者から見た商品特性に変換される。この唖然としてしまうような取り違えには誰も気づかないまま、物を作る側とそれを消費するだけの側とのすれ違いは最後まで続いていく。「奥泉さんの小説を読んで泣いたんです。泣き要素というのは、萌え要素と比べて数は少ないんですが、奥泉さんはそれをちゃんと押さえて書いている」というような発言。読者が泣くのは感動するからではなくて、きちんと泣き要素を取り込んだ優秀な商品だからだと言いたいようだ。自分に充分な「快楽」を与えてくれる商品としてしか「文学」や「芸術」もありえない。そこではサブカルチャーも伝統文学もすべてゲームの規則を備えたデータベースの項目、消費者に個別的で多様なニーズに応えた快楽をもたらしてくれるグローバル・スーパーマーケットに並べられた商品として等価である。データベースの無時間性が、この終わらないワンダーランドを支えてくれている。この、もはやアイロニーとも呼べない程のどうしようもないニヒリズム。フロアからも、オタク的知識をひけらかし、2ch的に「おまいら、まだまだだな」というようなことを言いたがる質問者が次々現われ、もはやあきらめた。「データベース型消費」者たちは気づかないうちにこんなに増殖していたのだ。東浩紀の影響力は思っていた以上に凄い。BLや「ラノベ」の「ユーザー」が蔓延していくわけだ。
 物心がついた頃からネットで育っている世代にとって、世界とはこのようなグローバル・スーパーマーケットに他ならず、生きるとはその中でもっとも自分に快楽を与えてくれる商品やジャンルを選択し、その中で遊ぶことにすぎない。「データベース型消費」の快楽に浸り込む人々は確かに増えてきているし、彼らはこの「窒息感」をネットやコミュニティの中で共同化することによって乗り越えようとしている。だが、それでもぼくたちはスーパーマーケットの「外部」やデータベースやジャンルの規則には取り込めないものがあることにこだわりつづけなくてはならないと改めて思うのだ。全く話の脈絡や構図を理解できずに、その日の晩のうちにぼくたちのシンポジウムのとんでもなく見当はずれな悪口を書き散らしている「ユーザー」たちのblogや日記を見て、情報社会は新しいタイプの心の牢獄を作り出しているのではないかと思った。本当に外部どころではなく、隣の商品コーナー(「関心領域」と名付けられる)すら見ようとしていない「ネットワーク化された心の巨大な閉域」が生まれつつある。

 学会とは共感の輪を広げたり、自己正当化を相互確認するような場ではなく、ひとつの場所に人が集まることによって新しいことが生まれてくる場所でなくてはならない(キャリア作りやポストを配分する既成の学会と日本記号学会とでは全く違うけれども)。その意味では衝突と対立を生み出した今回の学会はけっして無駄にはならないだろう(各セッションのつながりや内容は本当に情けないほどバラバラになってしまったけれども)。というわけで、次の本にはこの経験から得たものを取り入れて行きたいと思う。

 会場には先週も唐組でご一緒してから、少し元気になられた山口昌男さん、久しぶりに来られた脇坂豊さん、松島征さんらの顔も見えた。山口さんは久しぶりにカッとなったぼくを愉快そうにからかって楽しんでいた。永久保さんに歴史的な文学の系譜やさまざまな文学理論の視点からBL研究に取り組んだらと助言されていたのも、いかにも山口さんらしい。

 連日、沢山の友人や若い大学院生たちと飲み会で盛り上がり、最終の新幹線で東海大学の水島久光さんとビールを飲みながら帰った。来年の記号学会は東海大学で開かれる。

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