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2008.05.12

日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」終了

 さて、3日に唐組の初日に顔を出してからそのまま水戸入り。
 4,5,6と三日間のバッタ公開も最終日の青空に救われて無事終了。
 いろんな人が来てくれていろいろなことがあった。が、それはまた後日。
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 そのまま、息継ぎする間もなく週末は京大での日本記号学会の大会

 いやあ、今回もいろいろ考えさせられた。
 今回は河田学君に企画を任せていたのだが、なかなかまとまらず、四月の初めに日帰りで京都に行き、急遽決めたのが初日の企画、

 シンポジウム「すべての女子は《腐》をめざす─BLとフィクショナリティの現在」

だった。

 遍在するフィクショナリティということから、携帯小説やblog小説、BLなどを扱おうということになり、「腐女子」に詳しい清田友則君に電話で相談。『やおい小説論』の著者である永久保陽子さんを迎えて、BLや腐女子についてのセッションをやることにした。基本的には永久保さんに30分くらいレクチャーしてもらって、清田君といろいろ事前に準備したことを永久保さんとの一問一答形式で進めて行こうという話だったのだが、結局永久保さんは10分程度で話をやめてしまい、あとは手探りで話を展開していく「メディア基礎論」スタイルになった。これはこれでスリリングで面白かったのだが、会場の一部には不評。「シンポジウム」というジャンルを「お約束通り」やって欲しかったらしい。お約束通りのシンポジウム程退屈なものはないのに‥‥。もちろん、清田君の特異な個性もあり、別な一部にはきわめて好評。手を打って面白がってくれる人たちも沢山居た。これほど正反対の評価が出てくるセッションも珍しく、その意味では最初から荒れ模様だったのだ。

 BL(boy's love)と呼ばれる男性同士の性愛を描いた漫画や小説は、「腐女子」と呼ばれるオタク系女性たちに幅広い人気を得ており、いまや一般書店で独立した大きなコーナーをもつほど「一般的」なジャンルになっている。これらは基本的には少女漫画の伝統を受け継ぐ心理小説的「純愛物」スタイルを持ちながらも、過激なセックスシーンを含む倒錯したポルノグラフィなのだが、驚く程パターン化されている。消費者である「腐女子」たちはそのパターンを楽しみながら、密かに自らの抑圧された性衝動を発散させている。

 永久保さんの説明するストーリーは、「抑圧された女性たちの性欲を満たす、女性のためのポルノグラフィを試行錯誤で作り上げている、女性による女性のためのセクシュアリティの解放」こそがBLであり、その視点から「作品研究」を積み重ねて行くことが重要であるというもの。

 それに対して、ぼくの思惑は、このようなストーリーこそが「フィクショナリティ」であり、そうしたフィクショナリティが一般化され、「有力な商品」として消費の欲望の対象になってしまうという現代的な状況を記号論的に暴き出せないかということだった。確かに以前の「やおい」の女の子たちは複雑な性意識を投影しており、そこには何かしら日の当たるところには出せないうしろめたさのようなものがあったに違いない。だが、現在のあまりにメジャーになった「BL」の愛好家たちはもはやそのような背徳的な暗さとは無縁に、一般に認知された商品としてあけすけにそれを消費しているようにしか思えない。オタクやコスプレに関しても同じようなことが言える。この変化は一体なんなのだろうか?

 一方で、清田君の作り出そうとしたストーリーは、自らのセクシュアリティやジェンダーをこのような屈折した回路に注ぎ込んで行く「腐女子」たちの中に、セクシュアリティ一般の向かう方向を見出していけないかというようなものだった。この流れで言えば、すべての「女子」ばかりではなく、すべての「人間」は腐女子を目指しているということになる。そして、そこにはファロス中心主義やゲイ、レズビアン、クイアなどに関するこれまでの議論を超えていく、人間の自らのセクシュアリティとの関わり方を解く鍵があるかもしれないという期待もこめられている。

 しかし、話がそうした抽象的な局面に移行しようとすると、永久保さんの顔が曇り、「BLと腐女子の話に戻して下さい」というようなことになる。彼女がついてこなければこのセッション自体が成り立たなくなるので、またその平面まで降りて行って、腐女子たちのセクシュアリティの話に戻る。その繰り返しで、いくつもの面白くなりそうなトピックが中途半端な展開のまま置き去りになってしまった。前半では、セクシュアリティこそがフィクションだ。もしくはセクシュアリティを作り上げているのがフィクションだ、というような事が浮かび上がってきて面白くなりそうだったのだが、なかなかその先に進めない。

 休憩後、フロアに質問をしてもらう段階になってくすぶっていた対立が前景化してきた。この手のイベントには異様な程、多数の挙手があったのだ。チラシに惹かれて集まったオタクと腐女子、及びそのシンパたちの大群である。今回は無料で入場できるようになっている(プログラムが欲しい人は二日間の参加費込みで1500円)。しかも、それらの質問者たちの大半は学会員ではなく、永久保さんに(だけ)、BLのジャンル論や重要作家を訊ねてくるといった「データベース型消費」者たちの群れだったのだ。要するに、私もBLが好きである、BL以外のオタクだが、BLの魅力について関心がある、BLと他のサブカルチャーとのジャンル的な相違について、というような質問ばかり続く。中には、永久保さんの話(だけ)を聞きたかったのに、オジサン二人が遮るので駄目なシンポジウムだったと指摘する人まで現われ、失望と怒りが募ってきた。まあ、スーパーマーケットの人気商品の売り場でその商品の悪口を言っているようなものだから、ある意味当然の帰結だったのだ。次から次へとその手のオタク質問が続き、永久保さんもその方が安心するのか、セッション中の途切れ途切れの話し方から一変して澱みなくしゃべり出すようになって、さらに会場からは沢山の手が上げられるようになった。このまま終わらせたのでは、今回の学会の企画意図が完全に潰されると思ったため、こちらからキレて、質問を封じるという実力行使に出ることにした。

 そこからは、ネットでの「炎上」のような混乱が。突然会場から学会とは何の関係もない学部学生が立ち上がり司会者の横暴をなじり、室井さんたちは全く面白くなかった。面白かったと思う人、手を挙げてくださいと言いだし、それに便乗して不規則発言する人も出てくる。

 ぼくは、ここは記号学会である。みんなが同じ価値観を共有したり、スーパーマーケットの商品コーナーにそれが好きな人が集まって情報交換したりするようなことではなくて、異なる価値観、異なる専門領域を持つ人たちが境界を越えて行こうとする場なのだ。ぼくたちがこのセッションで試みたのもそれであり、そうではないオタク・トークはどっかよそでやってくれというようなことを言ったのだが、明らかに全くそれが通じない人たちがいたし、その一部は次の日のパネリストであった。こういう風景は見覚えがある。タバコの話の時にわさわさと群がってきたネット嫌煙運動家たちとそっくりだ。

 ただ、面白いことにその後のパーティでも、二次会でも、むしろぼくたちに共感し支持してくれる若い人たちが多数集まってきてくれたのは心強かった。ある意味、衝突を作り出すことで問題点がかえってくっきりと浮き上がってきたとも言える。また、この手のデータベース型消費者は実は心に深い不安感を抱いていて、同時にフロイトやラカンを読みふけっている者も多く、ひとりひとりきちんと話してみればちゃんと話が通じるのだ。ただ、そのまま四十代前後までなってしまった団塊ジュニア世代の大学教員はもはや話が完全に通じなくなっている。

 そして、その混乱と衝突から一夜明けて、次の日に開かれたもう一つのシンポジウム、

「物語を語ること、フィクションについて語ること」
奥泉光[作家・近畿大学]×岩松正洋[関西学院大学]×石田美紀[新潟大学]

 では、物を作り出す側の作家である奥泉さんと、二人のデータベース型消費者の対比が浮き彫りになってくる。プロットとキャラのデータベースからフィクションのジャンル論を語る二人に対して、作り手の奥泉さんは、「物を書くということは、それだけには留まらないsomthing else があって、それは書いてみないと分からない」と言う。すると、それは直ちに「そのsomething elseというのは、ノリとかグルーヴ感とかいうものですよね?」と、消費者から見た商品特性に変換される。この唖然としてしまうような取り違えには誰も気づかないまま、物を作る側とそれを消費するだけの側とのすれ違いは最後まで続いていく。「奥泉さんの小説を読んで泣いたんです。泣き要素というのは、萌え要素と比べて数は少ないんですが、奥泉さんはそれをちゃんと押さえて書いている」というような発言。読者が泣くのは感動するからではなくて、きちんと泣き要素を取り込んだ優秀な商品だからだと言いたいようだ。自分に充分な「快楽」を与えてくれる商品としてしか「文学」や「芸術」もありえない。そこではサブカルチャーも伝統文学もすべてゲームの規則を備えたデータベースの項目、消費者に個別的で多様なニーズに応えた快楽をもたらしてくれるグローバル・スーパーマーケットに並べられた商品として等価である。データベースの無時間性が、この終わらないワンダーランドを支えてくれている。この、もはやアイロニーとも呼べない程のどうしようもないニヒリズム。フロアからも、オタク的知識をひけらかし、2ch的に「おまいら、まだまだだな」というようなことを言いたがる質問者が次々現われ、もはやあきらめた。「データベース型消費」者たちは気づかないうちにこんなに増殖していたのだ。東浩紀の影響力は思っていた以上に凄い。BLや「ラノベ」の「ユーザー」が蔓延していくわけだ。
 物心がついた頃からネットで育っている世代にとって、世界とはこのようなグローバル・スーパーマーケットに他ならず、生きるとはその中でもっとも自分に快楽を与えてくれる商品やジャンルを選択し、その中で遊ぶことにすぎない。「データベース型消費」の快楽に浸り込む人々は確かに増えてきているし、彼らはこの「窒息感」をネットやコミュニティの中で共同化することによって乗り越えようとしている。だが、それでもぼくたちはスーパーマーケットの「外部」やデータベースやジャンルの規則には取り込めないものがあることにこだわりつづけなくてはならないと改めて思うのだ。全く話の脈絡や構図を理解できずに、その日の晩のうちにぼくたちのシンポジウムのとんでもなく見当はずれな悪口を書き散らしている「ユーザー」たちのblogや日記を見て、情報社会は新しいタイプの心の牢獄を作り出しているのではないかと思った。本当に外部どころではなく、隣の商品コーナー(「関心領域」と名付けられる)すら見ようとしていない「ネットワーク化された心の巨大な閉域」が生まれつつある。

 学会とは共感の輪を広げたり、自己正当化を相互確認するような場ではなく、ひとつの場所に人が集まることによって新しいことが生まれてくる場所でなくてはならない(キャリア作りやポストを配分する既成の学会と日本記号学会とでは全く違うけれども)。その意味では衝突と対立を生み出した今回の学会はけっして無駄にはならないだろう(各セッションのつながりや内容は本当に情けないほどバラバラになってしまったけれども)。というわけで、次の本にはこの経験から得たものを取り入れて行きたいと思う。

 会場には先週も唐組でご一緒してから、少し元気になられた山口昌男さん、久しぶりに来られた脇坂豊さん、松島征さんらの顔も見えた。山口さんは久しぶりにカッとなったぼくを愉快そうにからかって楽しんでいた。永久保さんに歴史的な文学の系譜やさまざまな文学理論の視点からBL研究に取り組んだらと助言されていたのも、いかにも山口さんらしい。

 連日、沢山の友人や若い大学院生たちと飲み会で盛り上がり、最終の新幹線で東海大学の水島久光さんとビールを飲みながら帰った。来年の記号学会は東海大学で開かれる。

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コメント

興味深いテーマだったので、そういった話が来るのかと期待していたのですが、多数の消費者にこちらのその期待も泡と消えました。
ただ、それについての意見は是にと感じた次第です。

ネットは議論できる場に成熟するかは非常に怪しいというよりも不可能だと考えていますが(レビューとしつつも要素に縛られている日記や対案を出さない非難など、これらはシステム上のこともありますが)、それでも何かあるのではないかと考えている私です。

北仲スクールから辿り着いたので、無責任なコメントで申し訳ないです。

 ここにきて、大会実行委員長だった吉岡洋の「何でもないことの幸せ」が出た。ぼくたちが問題にしようとしたことのかなりの部分が明晰な言葉で解き明かされている。
 かなりの部分にすぎず、すべてではないと思われるのは、もしそうだとして、永久保さんが重要なBLコミック作家の一人として挙げた「あさぎり夕」(たまたまぼくが何冊か読んだ)が本当にそうした条件を満たしているのかということだけど。それと大島弓子に関しては同意。
 それと、それが「演歌」や他のサブカル・ジャンル(たとえばミステリー)に関してどのような形で適用されるのかという疑問が取り除けない。何かを強迫的に確認したいという欲望がサブカルやエンタメを支えていることはよく分かるし、ハイカルチャーに対する欲望がそれほどの「切実さ」を徐々に失いつつあるというような状況こそが、本当に問題にしたかったことなのかもしれない。

いやはや、何かいろいろ外での雑音が多いけど、当日のことはちゃんと録画してあるし、発言の改竄とか改変とかはあろうはずもない。あの場に居た人には明白なはずだ。あるとしたら、要約に伴う解釈の違いだけだろうね。だから、当日の記録を(改竄せずに)ちゃんと出版したらいいじゃないの? アマゾンのアフィリエート・サービスの目的と成り立ちのことも少しはその初歩から勉強して欲しいね。思い込みが強いことそれ自体は別に悪いことではないけれどね。

ちなみに、ぼくは永久保さんには今でもとても感謝しているし、お呼びして本当に良かったと思っている。ご本人からも来て良かったと言って頂いた。また、その研究姿勢も尊重しなくてはならないと思っている。それに、石田さんにも何の悪意も持っていないので、「一味」とかは全く思っていないですし、「帽子」さんに対しては、そのダウナー系の才気と今回のことで知った著書のタイトルや目次の可愛らしさは認めてあげてもいい。あんなに無駄に進行の邪魔したり、粘着質に変なことばかり書き散らしさえしなければね。だから、まあこの人に関しては不幸な出会いだったわけですね。それに、ぼくたちの計画通りことが進まなかったことに関しては十分反省していますよ。なるほど、こういうエキセントリックな人もいて、こういう邪推の仕方をしてくるんだ、と。でもね、限られた時間の中で司会者が質問をさえぎるのは当然のことだし、それが嫌なら自分たちでそれを超えるイベントを開けばいいと思いますね。それに次の日のセッションでなぜその不満をぶつけてくれなかったのかが分からない。そうしてくれたら、まだもう少し全体の流れが面白くなったののに、残念なセッションでした。いずれにしても、ネット以外の現場で、きちんとぼくたちの意図を汲んでくれて、面白かった、遠くから来て良かったと言ってくれた多くの人たちの声の方を信じます。だから、ここからそれぞれの現場での生産的な議論を展開したらいい。もう、全くピントはずれなぼくの分析は結構ですよ。お互いの時間の無駄だから。

それにしても、2002年から2003年当時、MovableTypeによるblogシステムの日本への導入にちょっとばかり関わった者としては、「はてな」bookmarkの邪悪さを目の当たりにして少しショックを受けていますね。ネットの良くないところは、ネット以外のところで起こっている現実の動きを(おそらくは無意識的に)シャットアウトしてしまうところだ。もの凄く息苦しい「牢獄」と言ったのはそういう意味である。現場にいた人なら、間違った捉え方をされてもまだ仕方ないが、それをネットに不正確な形で曝す人がおり、現場に居なかった関係ない奴らがそこに集まって憶測で勝手にぺちゃくちゃとしゃべりまくる醜悪さ。また、それを利用して自分の立場を有利にしようというような卑小なネット内政治。山形☆生氏の時もそれにうんざりしたけれど、それでも、ついネットを覗いてしまうのは、二つ前のエントリーに書いたように、草創期のネットワーカーであったからですね。パソコン通信もそうだし、日本初のインタラクティヴなBBSシステム開発にも関わっていた。ネットという言説空間にさんざん絶望しながらも、もう少し観察だけはしていたいとは思っているんだけど、今回もほんとしょうもない話の広がり方でまたまたがっかりしてしまいますね。SN的に使うならいいけど、不特定多数の匿名の集まりに対しては「はてな」は、2chと同じくらい邪悪だ。重要なことは、以前も、そして今でも「ネットの外の生身の世界」で起こるのであって、ネットにできることはせいぜいその補完にすぎない。Ted Nelsonがずっと言い続けているように、いまのところやはりネットは「ゴミの山」にすぎないと言わざるを得ません。Xanadooはやっぱり必要かもしれない。何か言うのならその前にぼくの本か、せめてWebに載せてあるテクストくらい目を通してからにして欲しい。レベル、低すぎる。

そしてまた、こういうことを書くとそいつらのネタにされてしまうだろうなあという何度も経験してきたうんざり感。本当にどうしようもないね。言っとくけど、その場にいなかった人の無責任なコメントやTBは受け付けません。特に90年代型の古くさいマイノリティ・ポリティクスを未だに振りかざしてくる人たちは、あそこでの「対立」とは何の関係もないし、「帽子」さんにしてもそんな(多分彼が嫌いなタイプの)人たちの援軍は必要ないと思うので、どうぞ別なおもちゃで遊んでて下さいね。

最近、自分に起こった出来事と照らし合わせて、興味深かったです。
ゲームのためにPCを長く愛用していた、という人は自分(仕事)の目的のためにPCを使いこなせないことに驚いたけど、そのことに本人がまったく気付いてません。

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