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2008.06.15

唐組「夕坂童子」千秋楽

 4月から続いてきた劇団唐組の「夕坂童子」が本日で終了する。
 今回も大阪初日から、花園神社、雑司ケ谷鬼子母神と通い続けた。

 この作品は、読売新聞夕刊で連載中の小説「朝顔男」がきっかけとなって書かれた下町もの。
 鴬谷の坂道をめぐって、「朝顔男」の登場人物たちが「坂に沈む夕日にかざす手袋は何がふさわしいか?」をめぐって賑やかに暴れ回る。

 通常、唐十郎の劇作品で小説をベースとしている場合には、小説のモチーフを大きく膨れ上がらせたり、複数の小説を組み合わせた複雑な構成になるのだが、今回はその逆。連載中の複雑な物語とは関係なく、登場人物や背景だけを借りてシンプルな小品に仕上げている。

 何せ、物語は単純。ドラマとしては人間同士の対立というよりも、舞台半分を占める「坂」と人々(子供たち)の対立しかないし、物語としては「夕日にかざす手袋」しかない。さまざまな細かい下町的なオブジェが散乱する舞台の上で、朝顔−夕顔、山の手−下町、夕方と夜といった二項対立的なイメージがいくつも重ねられ、夕顔のイメージはビクターのトレードマークの犬が耳を傾ける蓄音機の「ラッパ管」へとつながていく。それらの「ブツ」の連鎖は隠喩ではなく、それら自身のアウラ的な存在感と物質感を主張し、役者の身体と張り合っている。

 グローバル資本主義の時代に、鴬谷という場末の下町で、夕日にかざす手袋だけをめぐって展開するこの作品は、しかしながら、微細なものに無限大の想像力を注ぎ込むこの作家の作劇の魔術によって、この時代の空気を鮮烈に切り裂いていく。坂上から差し込む夕日を浴びて道路で遊んでいる子供たちが、ひとりひとり帰っていく。黄昏から夜へと向かっていく夕空を見上げる、最後に残された子供の孤独のようなものが、誘い坂に攫われた「暮之介」の話と、ラッパ管を取り出そうとする時にみんなが立ち去り、一人だけぽつんと舞台に取り残される主人公が鮮やかに響き合い、そして最後にまるで夕日の残照を観客に分け与えるかのように、巨大なラッパ管を客席に向けてゆっくりと動かすエンディングは、言葉と「ブツ」のマジックを自在に操る作家の真骨頂であり、見事としか言いようがない。極小の世界の中に極大の宇宙が出現する瞬間である。

 構成的には役者たちが次々と現われ、キャラクターと持ち芸を披露するというイタリア喜劇や浅草軽喜劇的な展開であり、丁々発止の役者同士のやり取りによって、客を乗せていくスタイルなので、前半ではまだタイミングが合わずぎくしゃくしていた舞台も、後半になって見事なアンサンブルを作り出すようになってきた。とにかく出演者全員がのびやかに楽しそうに演じている。これを見せられると、一幕の軽妙でスピーディな展開に腹の底から笑い、二幕の「夕顔」と「手袋」をめぐる協奏曲のような展開に引きつけられ、最後に蓄音機のラッパ管に、もどってきた全員が手袋をかざすシーンでは、胸が締め付けられ涙が流れてしまい、なぜこんなことにこんなに単純に深く感動してしまうのだろうかと、唐流のマジックに魅了される。

 そんな感じでどんどんのめり込んで行ってしまった。

 いつものように色々な人がやってくるが、とりわけ昨日は二十年近くぶりに紅テントを訪れた柄谷行人さんと唐さんとのやりとりが面白かった。極度に緊張しながら話していた唐さんが、泥酔して柄谷さんに絡み、それでも最後は手を取り合い抱き合うといった不思議な光景に同席できたのはラッキーだった。さて、今日は何が起きるのか。

 それ以外に、この間、いろいろな人が研究室に尋ねて来たり、出かけて行ったり、なかなか充実した日々。若松孝二「連合赤軍・実録浅間山荘」、望月六郎「JOHNEN−定の愛」、南河内万歳一座「ジャングル」などに顔を出す。唐ゼミの野毛バーもいろいろな動きが出始めて面白くなっている。

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