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2009年11月

2009.11.27

冷たい雨(追悼・大里俊晴君-2)

 19日に北仲スクールのブレオープン・イベントがあった。その準備でばたばたしている頃、大里君の通夜の準備も同時進行で進めてきた。

 19日のお通夜には300人もの人々が溢れ、雨の中外には長い行列ができたらしい。その多くは大学関係者と卒業生・在学生たちだったと聞いて、大里君が大学でやってきたことがこんなに沢山の人々の心をつないだのだとうれしかった。そこから遠く離れた関内の地で、通夜が終わった報告を受けて、うれしくて涙ぐんだ。こちらのブレオープン・イベントもまずまずの盛況。お披露目も無事に完了した。

 翌20日は告別式。いてもたってもおられず早くから上落合の最勝寺会館へ。夕方にはまた雨が降り始めたが日中は天気もよく、平日の昼間なのに200名近い多くの参列者がいた。とりわけ、マルチの卒業生たちで仕事を休んで遠方から来てくれた人たちも多い。一期生などもう30台だから、ちょっと見ただけでは誰だか分からない人も多かった。お通夜では一部の人しか大里君の顔を見ることができなかったというのを、献花のルートを変えて全員がお別れの対面をできるようにとしたのだが、さすがに皆こみあげてくるものがあったようで、しめやかなお葬式だった。言うまでもなく何度か涙が止まらなくなって困った。
 そのまま北仲に戻って、後片付け。空腹だったので、椎野と一緒に近くのファミレスに昼ご飯を食べにでたのだが、食べ物を前にすると突然気分が悪くなり、すぐに全部吐いてしまった。全く自覚していなかったのだが、張りつめていた神経のせいか胃が食べ物を受け付けなくなっており、それは三日間以上も続いた。大里君のせいでダイエットできたなんて不思議だ。

 この週は予定がいっぱいだったのだが、大里君の葬儀のせいにしてそれらをキャンセルしたくはなかった。ちゃんとやるべきことを全部やり遂げることが、大里君への供養にもなると思って、食べたり飲んだりするのを控えめにしながら、全部予定通り乗り切ることができた。Y150でお世話になった人たちの慰労会も、水曜日行けなかった新宿梁山泊の芝居に顔を出すことも、近畿大学の唐十郎演劇塾の公演もとにかく全部予定通りに行った。まだまだいろいろ続くがとりあえずは一段落したことでほっとしている。

 大里君はタコやガセネタの話をするのを嫌がっていた。『ガセネタの荒野』についてもいっさい触れたがらなかった。80年代のバンド活動をこの本で葬送して、新しい自分の居場所を大学に作り上げようとしていた。めったに演奏をしない彼だったが、大学の授業で講演会を担当するようになってから、何人かの音楽家とのセッションをしていた。大友義英、ジム・オルーク、中原昌也、吉増剛造氏らとのセッションに立ち会ったが、驚くべき演奏だった。照れ屋で聴衆に丸めた背中を向けて後ろ向きで演奏するという独特のスタイルだったが、共演者を圧倒していた。彼の演奏には彼の実存とでも言うか、ソウルが充満してて、後ろ向きの背中からは新潟の海鳴りが聞こえてくるようだった。もちろん、実務能力が皆無で、かといって人に頼むこともしたがらない大里君が、ライブを定期的に行ったり、もっと広い範囲の聴衆の前で演奏する機会を作ることは難しかったのかもしれないが、一度そういうことを言ったら「じゃ、室井さんがぼくのプロデュースして下さいよ」と半分本気の顔で言われたことがある。その時は「俺はそんなに暇じゃないよ」とかわしたが、今から考えると、少なくとも一二回くらいは本当にそうしてあげれば良かったと悔やまれてならない。

 授業以外の仕事をあまりしなかった大里君であるが、未公開の演奏の音源と映像を中心として1月の9-10日頃に追悼イベントを考えているほか、雑誌原稿などを集めて何とか出版物として何かを残せないかと考えている。彼の人生の痕跡をモノの形で何とか残したいので、周囲の人にも相談している。

 元同僚だった木下長宏さんが、blogで大里君のことを書いている。ぼくたちにとって1998年から始まったマルチメディア文化課程とその頃のメディア研究講座というのはきわめて重要な組織だった。それから10年が過ぎ、木下さんをはじめいろいろな人が去り、こうして大里君が去って行った。「あの頃は面白かったね」と言い合える仲間がこうして消えてしまうのはとてもさびしい。だけど、そうした仲間たちのためにも、新しい道に踏み入っていかなくてはとも思う。そのために、バリバリとこれから働こうと考えている。

2009.11.18

追悼:大里俊晴君のこと

 11月17日朝、起きると1:40分過ぎに携帯電話に着信が入っていた。マナーモードにしたままだったので気づかなかったようだ。パソコンを開くと深夜にメールがいっぱい入っていた。

 大里君は前日の月曜日、授業をしに馬車道・北仲スクールに来ることになっていた。授業の直前に、また出血し入院したということで中止になっていたのだ。気にはなっていたが、出血はこのところ頻繁だったし、まさか危篤になるようなことはないだろうと思っていたのが、静脈瘤破裂でそのまま帰らぬ人になってしまった。呆然としながら、朝からいろいろな人に電話をし、自分が責任者になっている委員会を休めないので、とりあえず大学から何人かに病院に行ってもらい、葬儀の相談に入ってもらった。

 死因は、本人もよく言っていたが「不摂生」である。大里君は酒もタバコも全く受け付けないが、肉や魚を食べないベジタリアンであり、しかもそれはどちらかというとかつて生きていた動物を食べるのは嫌だという一種の思想からの菜食主義ならぬ菜食趣味であり、そのため甘いものやチーズ、卵、アイスクリーム、スナック菓子など高脂肪なものばかり食べていたこと。それで、大学に来てからはひたすら肥り続けていたが、極度の照れ屋で人前で体を曝け出すのが堪えられないということで、一度も健康診断を受けていなかった。病院嫌いで、この二年程はかなり体調が悪そうであるにもかかわらず、結局は喀血するまで病院に行くことはなかった。病気は、放置していた大腸がんが肝臓に転移してしまったというものである。昨年、大腸がんの摘出手術は行ったが肝臓は手術できる状態ではなく、血管のバイパス手術を行ったり抗がん剤の投与をしたりしていたが、好転する兆しはなく、この段階で医者から余命2-3ヶ月と言われていたらしい。無理にバイパス手術をした血管はよく破れ、何度も緊急入院しなくてはならず、とりわけこの一ヶ月はその頻度が高かった。だから、直接の死因はがんではなく静脈瘤破裂となっている。もしも健康診断を受けていたら、大腸がんの段階で簡単に快癒していただろうにと思うと悔しいが、それもまた大里君らしいので悔やんでも仕方ない。

 大里君との出会いは偶然だった。教育人間科学部の改組をしている時に、他の大学ではできない人事をやろうということで、ユニークな活動をしている人を幅広く捜していた。唐十郎さんを呼んだのもその時だ。大里君はその頃「ユリイカ」や「現代詩手帖」、「ジャズ・マガジン」などに音楽評論を書いていて、梅本洋一さん周りの若い人から「この人が最近一番面白いのではないか」と推薦されていた。その自伝的な著書『ガセネタの荒野』(洋泉社)を読んでとても面白く、ガセネタやタコの音楽もとても面白かったので、是非呼びたいということになったのだ。大学に助教授として呼ぶ条件が全部揃っていたわけではない。なぜなら、大里君はバンド活動を終えた後、パリ大学に留学していたのだが、博士論文に着手することもなく途中で帰国してしまったので、研究者のキャリアとしては早稲田大学学士でしかない。だから、ロック音楽のキャリアを無理矢理研究者としてのキャリアに置き換えて、いわば音楽家として取るしかなかったのだが、そのため給料の査定が低くなってしまった。この時に同時に着任したが、唐十郎さんと大里君、それから現在は慶應大学に転任した許光俊君の三人で、あまりにもユニークな新任教員ということで、歓迎の懇親会にこの三人が現れると保守的だった学部の人たちはかなり驚いていたようだ。

 大里君はとても純粋な人であり、音楽活動以外のアルバイトはしたくないということで、いつも貧乏だった。友人の家に居候をしたり、あまりにも金がなくなると高層ビルの窓拭きのアルバイトをしたりしていたが、予備校とか塾とかといった仕事はけっしてしようとはしなかった。その頃40歳手前だったのだが、「一度も風呂付きのアパートに住んだことはない」と言っていて、着ている服はダイエーの特売の黒いジャケットとズボン、靴下ははいておらず、底に穴があいたサンダルを履いていた。その彼は、97年10月の就任の時には、「母親が、ちゃんと靴ぐらい履いていきなさいとうるさいので、秋葉原の露店で一番安い革靴を買ってきましたよ」と、もちろん皮ではなくビニールの安物の靴を履いてきたが、その後もずっとサンダル履きを通した。

 極度に気が弱いというか気が優しいので、学生たちの目を直視することができず、授業ではいつも黒いサングラスを着用していて、よれよれの着古した黒づくめの服にサンダル、黒メガネと長髪というのが彼のスタイルで、入試などの監督をさせると、それを見た受験生が目を白黒させているのが面白かった。その頃、うちの講座には佐藤東洋麿さん、木下長宏さんも居て、それに梅本さん大里君の四人がフランス語を担当しており、『現代フランスを知るための36章 エリア・スタディーズ』(明石書店)というロングセラーも生まれた。

 彼との12年間の思い出は数限りない。98年春のマルチメディア文化課程の開幕から、一年生向けの「メディア基礎論」という名物授業を10年間ずっと一緒に担当してくれて、いろいろな話を交わした。また、劇団唐ゼミ☆も当初からずっと応援してくれて、とりわけ06年の新潟公演の時には家族と一緒に見に来てくれた上に、新潟新聞に宣伝文まで書いてくれた。学生たちにも慕われていたが、照れ症で感情を露にすることを嫌がるので、厳しい教員のフリをしていた。レポートの締め切り時刻を17:00にすると、遅れてくる学生たちに会うのが怖いので(彼の主義として絶対にレポートは受け取らないので)、電気を消して隠れて、研究室にはいないフリをするのである。以前、学生の一人が交通事故で亡くなった葬儀で埼玉県のベッドタウンに行ったときに、後から吐いてしまうほど衝撃を受けていたが、同時に団地の集会所で行われた葬式の様子やそのときに集まったその学生の友人たちを見て、「こんなところで生活していたのでは、文化なんて接することができるわけがない」というよく分からない怒りと焦りを覚えたらしく、「大学で一から教養を叩き込まないといけない」とその後、妙に教師としての使命感に燃えるようになっていったのも印象深い。最後まで授業をすることにこだわって、先々週からは車椅子で北仲スクールや大学に来ていた。

 ミュージシャンは中央線沿線に住まなくてはいけないと言い、ずっと西荻窪の2DKアパートに住んで通勤をしており、CDや本が風呂場にまで進出し、アパートの床が落ちそうになっているほどだったが、4年前に新宿駅南口前の古いマンション屋上にある事務所スペースを購入。全く貯金がないのに、引っ越し代までローンを組んで、貸し付け詐欺なではないかなどと言われた上に、税金の知識も全くなく、翌年60万円の固定資産税を請求され青ざめていたが、それでも自分の城を構えたと満足して喜んでいたようだった。着るものや食べるものに関しては極度にけちでお金を全然使わないが、本やCD、DVD、楽器などには湯水のように金を注ぎ込み、そのため何度もカードを止められたり、電話はもちろん、電気やガスを止められたりすることも何度もあった。屋上にペントハウスのように独立して立てられているこの家は、もとは本当にヤクザの事務所だったようなのだが(だから都心にしては格安?)、約100平米の事務所スペースにひと一人がやっと通れるような通路とベッドを除けばびっしりと作り付けの棚が並び、まるで巨大な古本屋のようにモノが氾濫していた。引っ越しの直後に、リフォームしてあったフローリングの床が余りの重さにバリバリ割れてしまうほどの物量である。引っ越してからはさらにモノが増え続け、ちょうど狭い古本屋の主人のようにそれらのモノに囲まれて、大音量で音楽を聴いている彼はうれしそうだった。この大里君の「巣」には何度か訪れた。彼の頭脳と肉体をそのまま拡大したような、とてもヘンテコな空間だった。

 大里君は北仲スクールの企画に大きな関心をもってくれていて、体調が悪いにもかかわらずここで授業をするのをとても楽しみにしてくれていた。北仲スクールのオープニング・イベントは19日にYCCで開かれる。その二日前に逝ってしまうなんて、悲しくて仕方ない。とりあえずは葬儀などでバタバタするが、きっとこれらのイベントが終わったあと、またどっと悲しみが襲ってくるだろうと思う。またその頃にでも仲間たちと彼の思い出を語り合いたいと思う。そして月並みだけど、彼の魂に安息が訪れますようにと祈ることしか、いまとなってはできない。

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