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2009.11.18

追悼:大里俊晴君のこと

 11月17日朝、起きると1:40分過ぎに携帯電話に着信が入っていた。マナーモードにしたままだったので気づかなかったようだ。パソコンを開くと深夜にメールがいっぱい入っていた。

 大里君は前日の月曜日、授業をしに馬車道・北仲スクールに来ることになっていた。授業の直前に、また出血し入院したということで中止になっていたのだ。気にはなっていたが、出血はこのところ頻繁だったし、まさか危篤になるようなことはないだろうと思っていたのが、静脈瘤破裂でそのまま帰らぬ人になってしまった。呆然としながら、朝からいろいろな人に電話をし、自分が責任者になっている委員会を休めないので、とりあえず大学から何人かに病院に行ってもらい、葬儀の相談に入ってもらった。

 死因は、本人もよく言っていたが「不摂生」である。大里君は酒もタバコも全く受け付けないが、肉や魚を食べないベジタリアンであり、しかもそれはどちらかというとかつて生きていた動物を食べるのは嫌だという一種の思想からの菜食主義ならぬ菜食趣味であり、そのため甘いものやチーズ、卵、アイスクリーム、スナック菓子など高脂肪なものばかり食べていたこと。それで、大学に来てからはひたすら肥り続けていたが、極度の照れ屋で人前で体を曝け出すのが堪えられないということで、一度も健康診断を受けていなかった。病院嫌いで、この二年程はかなり体調が悪そうであるにもかかわらず、結局は喀血するまで病院に行くことはなかった。病気は、放置していた大腸がんが肝臓に転移してしまったというものである。昨年、大腸がんの摘出手術は行ったが肝臓は手術できる状態ではなく、血管のバイパス手術を行ったり抗がん剤の投与をしたりしていたが、好転する兆しはなく、この段階で医者から余命2-3ヶ月と言われていたらしい。無理にバイパス手術をした血管はよく破れ、何度も緊急入院しなくてはならず、とりわけこの一ヶ月はその頻度が高かった。だから、直接の死因はがんではなく静脈瘤破裂となっている。もしも健康診断を受けていたら、大腸がんの段階で簡単に快癒していただろうにと思うと悔しいが、それもまた大里君らしいので悔やんでも仕方ない。

 大里君との出会いは偶然だった。教育人間科学部の改組をしている時に、他の大学ではできない人事をやろうということで、ユニークな活動をしている人を幅広く捜していた。唐十郎さんを呼んだのもその時だ。大里君はその頃「ユリイカ」や「現代詩手帖」、「ジャズ・マガジン」などに音楽評論を書いていて、梅本洋一さん周りの若い人から「この人が最近一番面白いのではないか」と推薦されていた。その自伝的な著書『ガセネタの荒野』(洋泉社)を読んでとても面白く、ガセネタやタコの音楽もとても面白かったので、是非呼びたいということになったのだ。大学に助教授として呼ぶ条件が全部揃っていたわけではない。なぜなら、大里君はバンド活動を終えた後、パリ大学に留学していたのだが、博士論文に着手することもなく途中で帰国してしまったので、研究者のキャリアとしては早稲田大学学士でしかない。だから、ロック音楽のキャリアを無理矢理研究者としてのキャリアに置き換えて、いわば音楽家として取るしかなかったのだが、そのため給料の査定が低くなってしまった。この時に同時に着任したが、唐十郎さんと大里君、それから現在は慶應大学に転任した許光俊君の三人で、あまりにもユニークな新任教員ということで、歓迎の懇親会にこの三人が現れると保守的だった学部の人たちはかなり驚いていたようだ。

 大里君はとても純粋な人であり、音楽活動以外のアルバイトはしたくないということで、いつも貧乏だった。友人の家に居候をしたり、あまりにも金がなくなると高層ビルの窓拭きのアルバイトをしたりしていたが、予備校とか塾とかといった仕事はけっしてしようとはしなかった。その頃40歳手前だったのだが、「一度も風呂付きのアパートに住んだことはない」と言っていて、着ている服はダイエーの特売の黒いジャケットとズボン、靴下ははいておらず、底に穴があいたサンダルを履いていた。その彼は、97年10月の就任の時には、「母親が、ちゃんと靴ぐらい履いていきなさいとうるさいので、秋葉原の露店で一番安い革靴を買ってきましたよ」と、もちろん皮ではなくビニールの安物の靴を履いてきたが、その後もずっとサンダル履きを通した。

 極度に気が弱いというか気が優しいので、学生たちの目を直視することができず、授業ではいつも黒いサングラスを着用していて、よれよれの着古した黒づくめの服にサンダル、黒メガネと長髪というのが彼のスタイルで、入試などの監督をさせると、それを見た受験生が目を白黒させているのが面白かった。その頃、うちの講座には佐藤東洋麿さん、木下長宏さんも居て、それに梅本さん大里君の四人がフランス語を担当しており、『現代フランスを知るための36章 エリア・スタディーズ』(明石書店)というロングセラーも生まれた。

 彼との12年間の思い出は数限りない。98年春のマルチメディア文化課程の開幕から、一年生向けの「メディア基礎論」という名物授業を10年間ずっと一緒に担当してくれて、いろいろな話を交わした。また、劇団唐ゼミ☆も当初からずっと応援してくれて、とりわけ06年の新潟公演の時には家族と一緒に見に来てくれた上に、新潟新聞に宣伝文まで書いてくれた。学生たちにも慕われていたが、照れ症で感情を露にすることを嫌がるので、厳しい教員のフリをしていた。レポートの締め切り時刻を17:00にすると、遅れてくる学生たちに会うのが怖いので(彼の主義として絶対にレポートは受け取らないので)、電気を消して隠れて、研究室にはいないフリをするのである。以前、学生の一人が交通事故で亡くなった葬儀で埼玉県のベッドタウンに行ったときに、後から吐いてしまうほど衝撃を受けていたが、同時に団地の集会所で行われた葬式の様子やそのときに集まったその学生の友人たちを見て、「こんなところで生活していたのでは、文化なんて接することができるわけがない」というよく分からない怒りと焦りを覚えたらしく、「大学で一から教養を叩き込まないといけない」とその後、妙に教師としての使命感に燃えるようになっていったのも印象深い。最後まで授業をすることにこだわって、先々週からは車椅子で北仲スクールや大学に来ていた。

 ミュージシャンは中央線沿線に住まなくてはいけないと言い、ずっと西荻窪の2DKアパートに住んで通勤をしており、CDや本が風呂場にまで進出し、アパートの床が落ちそうになっているほどだったが、4年前に新宿駅南口前の古いマンション屋上にある事務所スペースを購入。全く貯金がないのに、引っ越し代までローンを組んで、貸し付け詐欺なではないかなどと言われた上に、税金の知識も全くなく、翌年60万円の固定資産税を請求され青ざめていたが、それでも自分の城を構えたと満足して喜んでいたようだった。着るものや食べるものに関しては極度にけちでお金を全然使わないが、本やCD、DVD、楽器などには湯水のように金を注ぎ込み、そのため何度もカードを止められたり、電話はもちろん、電気やガスを止められたりすることも何度もあった。屋上にペントハウスのように独立して立てられているこの家は、もとは本当にヤクザの事務所だったようなのだが(だから都心にしては格安?)、約100平米の事務所スペースにひと一人がやっと通れるような通路とベッドを除けばびっしりと作り付けの棚が並び、まるで巨大な古本屋のようにモノが氾濫していた。引っ越しの直後に、リフォームしてあったフローリングの床が余りの重さにバリバリ割れてしまうほどの物量である。引っ越してからはさらにモノが増え続け、ちょうど狭い古本屋の主人のようにそれらのモノに囲まれて、大音量で音楽を聴いている彼はうれしそうだった。この大里君の「巣」には何度か訪れた。彼の頭脳と肉体をそのまま拡大したような、とてもヘンテコな空間だった。

 大里君は北仲スクールの企画に大きな関心をもってくれていて、体調が悪いにもかかわらずここで授業をするのをとても楽しみにしてくれていた。北仲スクールのオープニング・イベントは19日にYCCで開かれる。その二日前に逝ってしまうなんて、悲しくて仕方ない。とりあえずは葬儀などでバタバタするが、きっとこれらのイベントが終わったあと、またどっと悲しみが襲ってくるだろうと思う。またその頃にでも仲間たちと彼の思い出を語り合いたいと思う。そして月並みだけど、彼の魂に安息が訪れますようにと祈ることしか、いまとなってはできない。

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コメント

昨夜偶然に新聞で大里さんの死を知りました。私の”青春”(恥ずかしい言葉)の一番大切な部分がぽろっとなくなってしまったような悲しさ。彼にとって私は単なる一つの周辺だったかもしれない。でも彼をパリ留学に駆り立てたのも、『ガセネタの荒野』を書き上げさせたのも、そして、いつまでもパリの穴蔵に隠れていようとする彼を東京に引きづり戻したのも私だと言ってくれた彼の言葉をせめてもの慰めにしましょう。22歳で日仏学院のクラスで出会い、33歳でアメリカに渡り決別するまでの変則的な彼との時間は、私の人生の最も苦しくも輝いた決定的な時間でした。またいつか会えることを夢見ていました。あの優しい大里さんが、こんなに早く、こんなに酷い死を迎えるなんて、、、生の苦しみを終えられた大里さんにご苦労様と言いたいです。私と過ごしてくれたあなたの時間をありがとう。あなたは私の思いの中で永遠に絶対的なあなたです。(太られたと言うあなたを私はみたことがないから安心してください)

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