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2010年8月

2010.08.17

北京の7日間(その2)

 中国の大学の例にもれず、北京大学もまた巨大な大学だ。すべての教員・学生はこの中に住んでおり大学内には店もホテルも沢山ある。その広大なキャンパスの至る所に何百枚もの「国際美学会」のフラッグが風にはためいている。確かにこれはひとつの政治的イベントのようだ。

 メイン会場の「百年記念ホール」はコンサート等にも使われている2000人規模の巨大会場で、そこでオープニングのセッションが開かれていた。会場で東京大学の小田部胤久夫妻らと顔を合わせる。外に出ると実践女子大学の椎原さんとも会う。学食でランチ。あまりおいしいとは言えない。レジュメ集やプログラムが余りに膨大で重いので、地下鉄を試すのを兼ねてホテルまで一度帰る。ちょうどSUICAのようなカードがあってとても便利だし、なにせ市内一律料金は2元(約26円)だ。ただ、安いだけあってあまり便利とは言えない。会場からは2度乗り換えなくてはならないが、階段の昇り降りも多く、1時間近くかかってしまった。すぐに今度は別な経路で北京大学に戻り、この日はオープニングということで、学内で一番豪華なホテルでのレセプションに参加した。どうやら日本からは数十人が来ているらしい。欧米人の参加者も多い。この機会に中国に来てみたいとみんな思っているようだ。中国人のほかに韓国人、インド人、シンガポールからの参加者も沢山いるらしい。吉岡洋と合流し、彼の泊まる学生街付近で買い物をして白酒を飲み、タクシーで帰る。

 二日目の10日には午前中から昼過ぎまで観光。ホテルから王府井、路地を通りぬけ故宮の横から天安門へ。さらに新しくテーマパークのように整備されている前門地区まで歩いた。湿度が高く、ものすごく暑い。天安門には以前も来たが、今回は観光シーズンのためか中国人観光客で溢れかえっている。確かに、中国人は旅行をするようになったようだ。人ごみで疲れる。大気汚染もかなりのもので、喉がいがらっぽくなってくる。前門から地下鉄に乗って北京大学へ。午後のセッションに少しだけ顔を出して、吉岡洋と王府井まで地下鉄で。京大の院生でパリ第八大学に留学中の大久保美紀と合流。去年のア・コルーニャの学会以来だ。観光客用のちょっと高い四川飯店で食事。あまり辛くはないが繊細な味付けでおいしかった。その後、NOVOTELのラウンジでカクテルを飲み就寝。

 11日は会場で吉岡と合流し、昼食を食べに彼の泊まっている学生街に行く。いくつかの店を回りながら、何となくオシャレなヌーベル四川料理風の「辣香美味」という店に決める。ここは素材を選んで鍋の中で辛いソースと混ぜあわせたものを食べるのだが、とても美味しい。ウェイトレスたちの愛想もよく満足。そこから会場へ。2:00から二組にわかれて故宮と頤和園への遠足。僕たちは昔故宮は見ているので、頤和園へ。西太后の別荘だがきわめて広大な施設ではあるが、高低差もありなかなか変化に富んだ庭園で楽しめた。そのまま内部にある宮廷料理を食べる。白酒を飲んで帰る。

 12日は午前に佐々木健一さんが組んだパネル「美学の哲学的役割?」に出演した吉岡の発表。とても面白く聴衆の反応もとてもいい。ただ、ほかのパネリストたちがあまりに面白くない。途中さぼって外に出ると小河原あや姉妹と遭遇。また、関西学院大学の加藤哲弘たちとも遭遇。8人くらいで昨日と同じ辣香料理。汗を沢山かく。午後は自分たちの発表だが、嫌な予感がした通り、聴衆の集まりがよくない。しかも司会をしたブラジル人のおばさんが頭が悪く、早々と発表時間にされてしまい、みんなが部屋に到着したころに終わらなくてはならないという、これまでに二番目くらいに不幸な研究発表になった。そのあと大久保や小河原たちの研究発表にも顔を出したが、前会長の娘が発表する分科会に入れられた小河原が一番幸せな研究発表になったと思う。この日はどうしても王府井で北京ダックを食べたいという加藤哲弘の仕切りで14人くらいの大所帯で王府井へ。日本よりは全然安いが、それでも全部で2400元というこの国にしては物凄い贅沢な夕食だった。始めたのが8時くらいなのでこの日はこれで終わり。何人かは翌日に日本に帰った。

 13日は朝から近くのチベット寺院雍和宮へ。その後、北京大学近くの「北京の秋葉原」中関村へ。確かにものすごく賑わっていて両手いっぱいに買い物をしている人たちが歩いていた。ただ、ビル内は市場のように小さな店が林立していて客引きがとてもうるさいので早々に退出。学食でまずいご飯を食べていると近寄ってきたのが、2001年の幕張大会で会ったスウェーデン人のMIchael Ranta。彼はバッタをすごく気に入ってくれてスウェーデンの新聞に掲載してくれたのだが、ぼくが余りにその頃忙しく返事もしていなかったために申し訳ないことをした人だ。彼はLUND大学に移ったというので、記号学会絡みでもまた会うことがあるかもしれない。昼過ぎから最後のセッションに出ている京都芸大の加須屋明子、椎原伸維らのセッションに参加。その後、総会にも参加するが、意味のない政治的デモンストレーションにうんざり。初日と同じホテルで食事だが、パーティ形式ではないのでばらける。頤和園で知り合った韓国の李花大学のイギリス人と韓国人のカップルとバーで談笑。タクシーでホテルに帰る。そして、翌14日、6:30にチェックアウトし、日本へ帰る。

 中国、特に北京にはしばらく行きたくない。別に中国人が嫌いなのではない。とにかく、いまここで目の当たりにしている中国人たちとほ本音で付き合うことが難しすぎるのだ。彼らが囲まれている環境は、ただ単に政治状況的なことからでも、因習的な習慣からだけでもないが、とにかく中国の特殊な条件に縛られすぎている。ある意味では中国はいつまでたっても「中華」なのかもしれない。そして、本当にぼくたちが彼らよりも自由であるのか、民主的であるのかも判然としない。とにかく、世界は「悠久」の中で「変わらずに」存在している。中国はこうしていつまでも「謎」として目の前に立ちふさがる。

 まだまだ書ききれないのだが長くなってしまったので二つに分けて書いてみた。
 さて、また日本でのいろいろな戦いが始まる。

北京の7日間(その1)

 8日から14日までは、北京大学で開催されている第18回国際美学会。3年ぶりに開催されている国際学会だが、2回行っていないし、最後は2001年の日本で開かれた幕張大会で、ちょうどバッタと格闘していた時期なのでほとんど顔を出していない。実際には98年のスロベニア大会以来ずっとご無沙汰していることになる。だから、知り合いもほとんど居ないしアウェイの気分で参加した。次の2013年はクラコフだし、ちょっと行きたいかな。

 そもそも中国に行くこと自体が16年ぶりである。何となく気持ちの中で中国を避けている部分があった。

 92年の10月、東アジア記号学会設立のためということで、湖北省武漢市にある湖北大学で開催された第一回の東アジア記号学会に参加した。日本からは当時記号学会の会長だった坂本百大さん、藤本隆志さん、川田順造さんをはじめ8名が参加した。吉岡洋とぼくはまだ30台半ばで「若手」であり、ぼくはこれが人生初めての「国際学会」だった。北京では中国科学院の人たちの出迎えがあり、天壇公園や万里の長城、故宮、北京ダックのご馳走、友誼商店や王府井の観光などをして、飛行機で飛んだ先の武漢は、タラップを降りると、鉄道の駅のような小さな空港。埃だらけで、タクシーなど一台もおらず、ワゴン車とトラックしか広場に停まっていないような田舎。凸凹だらけの道をワゴン車に揺られながら、湖北大学の「招待所」に連れていかれた。この時の印象は強烈だった。遠足で全員で赤壁などに旅行したが他に、ポーランドからペルチ、フランスからデルダール夫妻と当時の国際記号学会の会長、副会長も招待されていたが、外国人が参加する学会自体が珍しいらしく、この地方のテレビ局がわざわざ取材に来ていた。

 この時の中国体験は大きなショックだった。学会というものが、単なる政治的な権力誇示の道具であるということをまざまざと思い知らされた。いろいろ書き出すときりがないが、とにかく中国には驚いてしまった。単に前近代的と言うのとは違う。何かものすごくあからさまな支配と抑圧が至る所に噴き出していた。ほとんど別な太陽系の惑星を訪れた気分で世界がこれほどまでの異質性に満ちていることに唖然とするばかりだった。その後、94年まで毎年中国を訪れ、いくつかの町にも旅行したが、驚くべきスピードで進行する経済発展や、インフラの整備を目の当たりにはするものの、この国の政治体制と、おそらくはもっと昔から綿々と営まれてきた中国の封建的なシステムに関しては全く変わらないし、これからも変わることはないだろうと思われた。

 というわけで、16年ぶりに訪れた北京も、道路や地下鉄、林立する高層ビルとはかかわりなく、全く以前と同じ印象を受けた。北京大学で開かれた学会も、これまた前と同じような政治ショーの印象。短期間の滞在だと疲ればかりが残る。この冷たい、理不尽な校則だらけの高校のような町では、なかなか本当の人の心の中にまで踏み込んでいくことはできない。1000人以上参加した巨大学会だが、その半数以上を占める中国人参加者たちとの交流はほとんどできなかった。もちろんひとりひとりの中国人の優秀さや素晴らしさは確信している。だけども、彼らと本当に交流することなどはできないのだ。彼らの発言や行動は最初から巨大な枠の中で押えつけられており、その本音を引き出すことはとても難しい。

 泊まったのは王府井と東単の真ん中辺りの胡洞にあるちょっと薄汚れたビジネスホテルのようなところ。古い北京がそのまま残っているような(ということは取り残された)地区だ。北京大学近辺に泊まるのが嫌だったからだが、やはり、遠すぎた。地下鉄でも1時間、タクシーを使っても40-50分近くかかる。タクシーに乗っても、この巨大な町のすみずみまでを知る運転手はほとんどいないのか、必ずと言っていいほど迷った。また、場所がよく分からないからと乗車拒否する車も多かった。

 着いた翌日、アイ・ウェイウェイのアトリエに行くことになっていたのだが、798芸術区よりちょっと南にある草場路に1時間半遅れでたどり着いた。王府井で2台のタクシーにその辺はわからないと乗車拒否されたあげくに、3台目は雲助タクシーで、走りだした途端メーターを入れずに「500でどうだ?」と言い始める。ふざけるなと怒ったが、約束の時間に完全に遅れそうなので「300で」と手を打った。普通の料金の4-5倍高いがまあ仕方ない。ところが、このタクシー、全く場所がわからずぐるぐると回るだけ。携帯で道案内してもらっても、それでもわからず大幅に遅れてしまった。

 まるでビバリー・ヒルズの邸宅のような広大なアトリエは二棟あり、その広い中庭に十人くらいのスタッフに囲まれて、アイ・ウェイウェイは打ち合わせをしていた。顔色はすこぶる悪く、こちらが笑顔で手を振っても表情は変わらない。金髪の秘書のような女の子に、これは誰だと聞いてようやくわかったようで力なく笑った。あと5分待ってくれと言われて、スタッフの間に座らせられる。どうやら9月のスケジュールについて打合せしているようだった。そこに、欧米人の男性と中国人の女性が訪問してきた。彼らをちょっとここで待たせるようにと指示すると、左側の台所のついた建物の中に招き入れてくれてようやく会談。その間にも、また別のグループがアトリエに入ってくる。まるで日本に来日するハリウッドスターのように分刻みで訪問客がくるようだ。話している時に携帯に着信があり、また話が中断する。

 お茶をスタッフに頼みながら、「大丈夫だ。お前のことは覚えている。光州で会って、二回食事をした。そしてお前は面白い発表をした」。しかし、笑顔はない。「日本はどうだ?」と聞くので「どうしようもない。あなたが去年展覧会をした六本木なんて最悪だ。日本人は伝統も心も失ってしまった」というようなことを言うと「俺もそう思った。お前が全く違うことはよくわかる。」と答える。「どうせ、日本には行かなくちゃならないから、お前が何かやるのなら出てみたい。ただスケジュールが自分では分からないので、スタッフとメールで確認を取ってくれ」というような話。戻ってくるからちょっとその辺を見て待っていてくれ、とまた来客の接待。しばらく見学していたが、次の客の相手になったので、もう帰ると伝えると、「妻のアトリエも近くだから見ていってくれ」と握手。「体に気をつけてください」というと、ニヤリと笑って「みんな、ぼくにそう言う」と言った。彼の置かれている状況について、ある程度の想像はできるものの、本当のところは分からない。だが、とてつもないプレッシャーと戦っていることだけは確かだ。

 しばらく、中国人の男の子に案内されて付近を回ったが、草場国際芸術村はあまりに広々としていて全部を見るのは諦めた。そこからタクシーを捕まえて、今度は無事に北京大学に到着。途中で彼の設計した巨大なオリンピック・ドーム「鳥の巣」が見えた。ここはチープでキッチュな未来都市だ。

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