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2010年9月

2010.09.20

Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(3)

 どうして、こういうことをやりたいのかというと、いまやマーケットやそれを利用しようとする行政や企業の論理に埋没してしまっているように見える文化商品としての「アート」、あるいは引き籠ってまるでインティメットな巣穴のような「私の空間」を作ろうとしかしない気弱で優しげな「アート」とは違ったものをどこかに見出していきたいと思うからだ。この二人は、現実から逃げようとはせず、誰にも頼らず、自分自身の想像力と思想だけを武器に「現代」と対峙している。これは、ただ単に政治的な姿勢を保持しているとか、反体制的であるとかいうこととは全く別なことではないかと思う。そして、それは芸術的アヴァンギャルドの最良の部分を「ラジカルな想像力」として引き継いでいくことではないのだろうか?

 もはや、アーティストとは「モノを作る」人々のことではない。むしろ自律的で完結した「作品=モノ」を作る人々からはもっとも遠いところに行こうとしている人こそが、ぼくたちが守らなくてはならないアーティストであり、アートの可能性なのだ。そこではぼくたちの意識や文明の諸制度の虚構を暴き、新しい世界の見え方を提案する活動性が開かれている。

 いや、けっして確信をもってそう言えるわけではない。むろん、もはや西欧近代が生み出した文化制度としての「アート」の可能性はほぼ汲み尽くされていると言えなくもない。もはやとっくの昔にアートは死んだのであり、いま残っているのはアートのゾンビにすぎないのかもしれない。だが、そのことは哲学や思想についても全く同じことなのだ。人文的思考がこの2-30年間、いったい何をしてきたと言えるのだろうか? リオタールが「知のステイタスの変容」を指摘して以来、「現代思想」はマイノリティの人権を訴え、マジョリティを糾弾する政治的な武器であるか、そうでなければ脆弱で刹那的なオタク・カルチャーを擁護するソフィスティケートされたツールとしてしか生き残れなくなってきている。思想や哲学の言葉もまたハイデガーの言う道具的連関の中に飲み込まれてしまっているのだ。もはや、思想やアートを保持してきた「近代」という足場が崩れてしまった以上、その「外」へと踏み出すためには、ひとりひとりが空中に自分だけの足場や階段を組み上げていくしかないのではないだろうか?

 ぼくが関わっている北仲スクールでは「アートとコミュニティ」、「アートと都市」、さらには「クリエイティヴ・シティ」というような問題圏の中で活動している。美術マーケットや業界の中で仕事を続けている「売れっ子」の人たちや、逆に自分と周辺だけに閉ざされた社会の中で「モノ」を作っているだけの人たちと比べれば、社会や都市の中に飛び出し、コミュニティと積極的に関わろうとしている人たちもまた何かを求めているのかもしれない。だが、壊れかけているコミュニティや衰退した都市や地域をアートの力で再活性化させようというような問題設定には、アート自身がとっくの昔に壊れてしまっているという真摯な自己認識が徹底的に欠落している。社会の論理からは異質なものとしてのアーティストが社会の中に暴力的に介入し、コミュニティの存立そのものの虚構性を暴くのではなく、逆に地域おこしや街作りに生ぬるい形で奉仕しようとしている。あるいは、貸し画廊を借りる手間が省けて自分の作品を展示することができるというような相互依存から、何か新しいものが生まれてくるとはとても思えない。〇〇芸術祭や〇〇トリエンナーレの乱立は一時的なもので、すぐに衰退していくことだろう。なぜなら「アート」という一般名詞は何も内実をもってはおらず、重要なのはいつも少数の特権的なアーティストの生き方だからだ。アートと観光産業の結託は、ヨーロッパの美術館を見れば当たり前のことではあるのだが、だからと言ってそれが地域経済の永続的な活性化に直接結びつくとは思えない。アートとコミュニティという問題設定の中で一生懸命に活動している人達を支援していくこととは別に、そうした活動に未来が存在しえないということも冷徹に見通していかなくてはならない。そのためにはそこにはないもの、そこからは生まれてはこないものを守り、育てていくという全く別の活動性が必要になってくるのではないかと思っている。

 はっきりしているのは、このような問題圏で活動している人たちとは全く違って、ぼくたちはアートそのもの、そして哲学や思想そのものの成立可能性、存続可能性について考えていきたいということだ。そして、それはぼく自身にとってもひと事ではない切実な問題なのである。ヴォディチコは、アーティストと哲学者・社会学者・心理学者等々との連携がどうしても必要だと言っている。そして、いまぼくたちはヘレニズム期に活動した犬儒派の哲学者(アレクサンダー大王と論争をして勝利したディオゲネスのような)のような生き方を学ばなくてはならないと、彼は言う。ディオゲネスとは大樽を住処とし、犬のような生活とをしていたいわば「ポリスカー」に乗ったホームレスのような存在である。もちろん、実際にそうなることが問題なのではなく、そうした視点を持ち続けることが何よりも重要だということなのだろう。

 横浜トリエンナーレ2011は、横浜美術館とBankArt-NYKを拠点とする「世界の現代美術の集約的な紹介」と、黄金町や街中を舞台とするコミュニティアートのパート、単発的なイベントなどによって構成されるはずである。そして、それは単純に集客数だけで成功か、失敗かが判定される。その中でぼくたちは何か別のことを仕掛けていきたいと考えている。いくつかの計画があるが、その一つが、まだ単なる計画にすぎないが、ヴォディチコ(もし可能ならアイ・ウェイウェイも)を中心とした企画だ。そして、この計画に関しては、北仲スクールの後期ワークショップ「展覧会を作る」で、参加者とともに練りあげていきたいと考えているので、我こそと思う人は是非手伝ってほしいと思っている。

Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(2)

 東京駅の丸の内北口で会うことにした。ちょっと早めに行ってみると、工事中であの丸い天蓋が完全に隠れている。これはわからないかなと思っていると、通路の人ごみの中で小柄で髪の毛をちょん髷のように結わえている独特の彼の後ろ姿を見つけた。よく見つかったなと言われたが、確かに偶然の神様がずっとついてきているような気がする。

 タクシーで九段下に向かうと、「どこかに公衆電話はないか?」と言う。妻と連絡をしたいと言うのだが、いまどき公衆電話はなかなか見つからない。携帯電話を出すとブラックベリ端末だったので、それでかかるのではないかと海外通話の仕方を教えると掛かったようで、車の中でポーランド語で通話をしていた。奥さんもアーティストで、中世の宗教画のようなペインティングをしているらしい。見せてくれた絵葉書にはガスマスクをつけている聖母マリアが描かれていた。「誰か彼女を日本に呼んでくれないかな」と言う。どうやら日本でのお土産を頼まれたようだ。

 靖国神社の参道は花見客で溢れかえっていた。大村益次郎の銅像の前には仮設ステージが設けられ、若者たちがよさこいソーランのようなダンスをしていた。それを見て、「あの若者たちは無意識ではあるが、あの銅像の前で歴史的に正しい行為をしている」というようなことをヴォディチコは言う。確かに彼らは大村益次郎が誰かは知らなくても、桜の季節にその前で踊りを奉納しているのかもしれない。人ごみに溢れた参道を歩きながらあまりの活気にふたりともちょっと圧倒されていた。

 拝殿の中の本殿に入りたいと言うので、御籤を売っていた巫女に話しかけると、明らかに大学生のバイトとしか思われない若い女の子は、「こちらは宗教施設でして、観光施設ではありません。内宮には祈祷などをされる方にしかご案内しておりません」というようなことを言う。「それでは祈祷料はどれくらいですか?」と尋ねると「あくまでもお志しですので決まっておりませんが、大体平均7万円くらいです」と言うので、ヴォディチコと顔を見合わせて諦めた。実際はここには神様はいない。約二百五十万人の「国のために戦死した」人々の名前が記されたノートブックが祭神なのである。ここは神社でありながら神社庁に属さない軍直轄の施設であり(だから戦後、靖国神社法案が何度も提出されたのだ)、A級戦犯はもとより軍属の朝鮮人もキリスト教徒も幕末の志士も、とにかくこのノートブックにいわば勝手に名前が記された人々が祀られている奇妙な宗教施設なのだ。単なる宗教法人なのに、戦前の大日本帝国時代の形態を受け継いでいる。併設されている遊就館という博物館には明治維新以来の資料や、人間魚雷「回天」などの兵器、「真珠湾はアメリカの謀略だった」などという映画を上映するホールなどがある。それらを見ながら、「この兵器を提供したのはアメリカだよね。だって、こんなに完全な姿の戦闘機や魚雷とか提供できるのは米軍しかないじゃないか」というようなことを言う。確かに、戦後靖国神社の存続を決めたのはアメリカに違いない。国粋主義的な施設の曖昧な形での存続は、日本の戦後史においてきわめて重要な役割を確かに果たしてきた。

 二人とも無言になり、少し休んだあとで新宿に移動した。普段はどうか知らないが、桜の季節の靖国神社は慰霊の場所というには余りにも喧騒に満ちた場所だった。奥さんへの土産を買うため伊勢丹1Fのデザイン宝石ショップでデザインリングを買いたいと言うので結構時間をかけて物色したあと、もう3:00をすぎていたがお腹が減ったというので、となりの別館にあるタイ料理屋へ連れていった。目玉焼きの乗ったガバオを食べてこれまで食べたタイ料理の中で一番おいしいと喜んでいた。そのあと、六本木アートナイトへ。「椿昇を知っているか?」と聞くと「椿は大好きだ」と言うので連れていった。

 六本木ヒルズのテレ朝側のステージでテンパッている椿に引き合わせたが、この時のことはあまり書きたくない。その二週間前に浜川崎の体育館で素晴らしい展覧会をいっしょにやった椿だが、ここではコマーシャリズムにすっかり押しつぶされていた。アートの力は完全に商業主義の中に埋没してしまっていた。新幹線で京都に帰るが、行き方がよく分からないというヴォディチコを八重洲口まで送って、ハグをして別れたあと、もう一度六本木に戻ったが、頭の中はヴォディチコのことでいっぱいだった。

 彼はこの時に、『逃れの町』と『ゲスト』という最近出た二冊の本と、広島賞を獲った時のカタログ、そして自分で作ったDVDをくれた。広島のカタログはカバーが破れていて貴重なものだった。そして、このDVDと本を読みながら、彼をどうやってもう一度日本に呼べばいいのだろうかとずっと考えていた。

 『逃れの町』はとても難しいテキストだった。ユダヤ系の家系であるヴォディチコが旧約聖書やカバラやレヴィナスなどのテキストを引用しつつ、ニューヨークを逃れの町にしなくてはならないと主張し、ニューヨーク湾の真ん中に戦争慰霊施設を建造するというような提案だった。巻末にはCGでドームのような建物が掲載されている。その感想を送ると、彼からは「このあいだ京都で話した、パリの凱旋門のプロジェクトをいまやっている。テキストを送るが、画像などもできたらすぐにお前に送る」という返事がきた。

 いま、ぼくたちがメールのやり取りをしているのは、来年の横浜トリエンナーレ2011横浜トリエンナーレに合わせて、ヴォディチコと何かやれないだろうかということだ。このことについて、北京でアイ・ウェイウェイに話を持ちかけたら、スケジュール次第ではあるが、関心はあるので連絡を取り合おうというメールがきた。何が起こるのかはわからないが、これが実現できたらすごいことになる。とりあえず考えているのは国際シンポジウムであるが、加須屋明子からどうせなら展覧会もやりませんかという提案があり、それに関しても準備を始めている。(続く)

Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(1)

 暑い夏の間、いろいろなことをしながら、来年のことについて考えていた。
 その間、ようやく横浜トリエンナーレ2011の記者発表が行われた。北仲スクールは、都市デザイン系の人たちが黄金町と密接に関わっているし、トリエンナーレと無縁であるわけにはいかない。だが、ぼく自身がいったいどういう形で関わればいいのかとなるとそう簡単に決められない。

 しかも10年目である。2001年に開催された第一回からも、そしてあの「9.11」事件からも。

 「ゼロ年代」は、少なくともぼくにとって、この二つの出来事を清算することでしか終りにすることはできないという思いがある。去年の「開港150周年」イベントで、バッタは8年ぶりに横浜に戻ったし、またこの春の椿昇展でだいぶ自分の中では清算された感があったのだが、後者に関してはそうは言えない。

 考えて見れば、2001年に第一回のトリエンナーレに参加したのもいろいろな偶然の出会いからだった。四人のディレクターの中で、建畠晢さんとは一番古く、もう30年来のつきあいである。もはや時効だと思うから書いてしまうが、実は横浜国大のマルチメディア文化課程を作るときにも、実現はできなかったのだが、彼を呼ぼうとしたこともあった。だからと言って仲がいいというわけではなく、何となくお互いに喧嘩腰で張り合っているようなところがあるつきあいだ。それは、建畠さんがバブル期の現代アートの中心人物となってしまったことに対して、彼自身が一種の後ろめたさと割り切れなさのようなものを持っていて、ぼくが何を言ってもそのことに対する批判のように受け止められていたからだと思う。

 だから、声をかけてくれたのは建畠さんではなく、京近美の河本信治さんだった。そして、その河本さんのやった椿昇の展覧会「Gold/White/Black」を今年の春浜川崎の体育館でやった時に、成田空港へ行く途中に駆けつけてきた森美術館館長の南條史生さんもまたこの時のトリエンナーレ・ディレクターのひとりで、この人もアートバブルの火付け役のような人でありながら、「バッタ」を評価してくれ、その後もいろいろ応援してくれた。そして、その南條さんのかつての右腕であり、バッタを購入してくれた水戸芸術館の学芸主任だった逢坂恵理子さんが現在の横浜美術館の館長であり、また次回の横浜トリエンナーレ2011のディレクターでもある。まあ、いろいろな意味で因果は巡るものなのである。そう言えば、北仲スクールがやる公開講座のゲストとして建畠さんを10月11日に呼ぶことになった。いまやっている「あいちトリエンナーレ」ディレクターとしてだが、実際に会って話すのは随分久しぶりになる。

 そんなことを考えている中、椿展のお礼にと日帰りで行った京近美の展覧会「マイフェイバリット」展(平成22年3月24日(水)~5月5日(水・祝))のオープニング・パーティ(23日)で10年ぶりに出会ったのが、ポーランド人アーティスト、クシュシュトフ・ヴォディチコだった。ヴォディチコは、80年代の冷戦時代に広場にある記念碑や建物に映像を投影する「パブリック・プロジェクション」の作家として知られ、母国を飛び出しカナダやアメリカに移住してからは、移民やホームレスなど社会からはじき出された人々を扱う作家として知られていたが、日本では河本さんが紹介した「ポリスカー」や、広島の原爆ドームでのプロジェクションなどで有名になった。アメリカでは長くMITに務め、今年の夏にはハーバード大に招かれて新しい学科主任を務めている。彼は第一回トリエンナーレにも招待されていて、河本さんが担当した赤レンガ会場のブースで展示をしていたが、それはメキシコのティファナで撮られたビデオ映像を流すだけの作品で、本人は二回準備のために来日したことはしたが、会期中には一度も姿を現さなかった。その時に、野毛にあるブリーズベイ・ホテルのバーで一緒に酒を飲みながら彼と話をしたことがある。

 京近美のパーティで、ヴォディチコは着物姿の女性や女子大生に囲まれて記念撮影の中心だった。その隙を見て彼に話しかけた。「9年前、あなたと横浜で話をした。バッタの構想を話したら、あなたは愉快そうに笑って、『深夜映画で巨大なバッタの群がシカゴを襲う映画を見たことがある』と教えてくれた。その映画を探してみたらそれは、"The Beginning of the End"というタイトルだった。そして、バッタは大変な冒険だった。バッタが風で壊れて落ちた日に、家に帰ったら貿易センタービルが崩れるライブ映像を見た。"The Beginning of the End"というタイトルが頭の中で何回も点滅していた。そして、いったいアートに何ができるんだろうというようなことを考えた」というような話をした。ヴォディチコは疲れているような、怒っているような複雑な表情をしてぼくの話を聞いていた。その顔を見て、これ以上邪魔しちゃいけないのかなと思って、ぼくは退いた。再び沢山の女性たちが彼を取り囲み、彼の小柄な姿は人ごみの中に隠れていった。

 ところが、ヴォディチコはしばらくして自分からぼくのところに近づいてきて、「お前は今日時間があるか?」と聞いてきたのだ。「いや、今日の新幹線で横浜に帰る」と言うと、「私は夜ホテルで人と会う約束があるが、それまで時間はあるか?」と聞いてきたので「大丈夫」と答えて、美術館の近くの喫茶店まで雨の中を歩いたのである。一緒にいたのは、北仲スタッフだった児玉智美と、ポーランド美術の専門家で京都市立芸大准教授の加須屋明子の二人だった。岡崎の喫茶店で彼は、日本に来てたまっていた不満のようなものを一気にまくしたてた。

 昨日、ぼくは講演会で話をしたのに、パーティで誰もそのことに触れてくれない。去年やはり日本に呼ばれてやった「アーティスト・サミット」でも、ぼくは重要な提案をしたのに全然議論をしてくれない。だが、去年ぼくは『逃れの町』という「9.11」をテーマにした本を出版しているんだ。そこでは哲学者や社会学者や心理学者がぼくの提案した「戦争記念碑」のプロジェクトについてコメントをしてくれている。ぼくは、ブッシュ政権が終わって、これから本当に人類がこの血塗られた戦争と暴力の歴史について本当にきちんと議論すべきではないかと思っている。ぼくは3つの国籍のバスポートを持っている。戦争と暴力の歴史の中でぼくは生きてきたし、そのことに対してぼくたちは正面から向き合うべきではないかと思っている。ぼくがいまやっているのは、パリの凱旋門を人類全体の戦争記念碑にしようというプロジェクトなんだ。凱旋門をそれをくるむ大きな建築物の中に入れて、そこにさまざま国際機関が集まって、どうやったらこの血塗られた歴史を終わりにできるかということを議論する。このぼくの提案に関してフランス人は何人か興味を持ってくれたが、日本では誰も意見を言わないんだ。お前、どう思う? 

 日本でもこういうことができないだろうか? たとえば靖国神社はどうだ?

 こんな話をまくしたてた。「靖国?、それは絶対に無理だ」というようなことを言うと、「なぜだ? どこが違う。凱旋門だってナショナリストや右翼の象徴だし、困難は同じだ」、「お前が、ムキになって否定することで、靖国がとてもいい提案だということを確信した」。「しかし、あなたは本当にそれで人類の血塗られた歴史が終わると思うのか? ぼくはそれが人類の本性なのだから乗り越えることは無理だと思う」。「いや、そんなことはない。人類がこれほどまでに暴力的になったのは国家の誕生以降だからせいぜい数千年前のことだ。それ以前は我々はもっと平和に生きてきた」。「そうかな。クロマニヨン人の時代から、人は大量殺戮を繰り返してきたのではないか?」。「いや、そんなことはない」。というような議論をした。

 横浜に帰ってから、話ができて楽しかった、というメールを出した。するとすぐに返事が戻ってきて、「ぼくは28日の朝の便で帰る。金曜までは予定があるが、土曜日なら日帰りで東京に行くことができる。お前の都合はどうだ? 一緒に靖国に行かないか?」と言うので、ちょっと予定はあったがキャンセルできそうだったので、「大丈夫だ」と返信した。

 そして、3月27日の土曜日、ヴォディチコは新幹線に乗って東京にやってきた。それは快晴で桜が満開になっている日。そして偶然にも100万人近くの人が集まり、椿昇がメインとなっている「六本木アートナイト」が開催された日だった。(続く)

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