« Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(1) | トップページ | Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(3) »

2010.09.20

Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(2)

 東京駅の丸の内北口で会うことにした。ちょっと早めに行ってみると、工事中であの丸い天蓋が完全に隠れている。これはわからないかなと思っていると、通路の人ごみの中で小柄で髪の毛をちょん髷のように結わえている独特の彼の後ろ姿を見つけた。よく見つかったなと言われたが、確かに偶然の神様がずっとついてきているような気がする。

 タクシーで九段下に向かうと、「どこかに公衆電話はないか?」と言う。妻と連絡をしたいと言うのだが、いまどき公衆電話はなかなか見つからない。携帯電話を出すとブラックベリ端末だったので、それでかかるのではないかと海外通話の仕方を教えると掛かったようで、車の中でポーランド語で通話をしていた。奥さんもアーティストで、中世の宗教画のようなペインティングをしているらしい。見せてくれた絵葉書にはガスマスクをつけている聖母マリアが描かれていた。「誰か彼女を日本に呼んでくれないかな」と言う。どうやら日本でのお土産を頼まれたようだ。

 靖国神社の参道は花見客で溢れかえっていた。大村益次郎の銅像の前には仮設ステージが設けられ、若者たちがよさこいソーランのようなダンスをしていた。それを見て、「あの若者たちは無意識ではあるが、あの銅像の前で歴史的に正しい行為をしている」というようなことをヴォディチコは言う。確かに彼らは大村益次郎が誰かは知らなくても、桜の季節にその前で踊りを奉納しているのかもしれない。人ごみに溢れた参道を歩きながらあまりの活気にふたりともちょっと圧倒されていた。

 拝殿の中の本殿に入りたいと言うので、御籤を売っていた巫女に話しかけると、明らかに大学生のバイトとしか思われない若い女の子は、「こちらは宗教施設でして、観光施設ではありません。内宮には祈祷などをされる方にしかご案内しておりません」というようなことを言う。「それでは祈祷料はどれくらいですか?」と尋ねると「あくまでもお志しですので決まっておりませんが、大体平均7万円くらいです」と言うので、ヴォディチコと顔を見合わせて諦めた。実際はここには神様はいない。約二百五十万人の「国のために戦死した」人々の名前が記されたノートブックが祭神なのである。ここは神社でありながら神社庁に属さない軍直轄の施設であり(だから戦後、靖国神社法案が何度も提出されたのだ)、A級戦犯はもとより軍属の朝鮮人もキリスト教徒も幕末の志士も、とにかくこのノートブックにいわば勝手に名前が記された人々が祀られている奇妙な宗教施設なのだ。単なる宗教法人なのに、戦前の大日本帝国時代の形態を受け継いでいる。併設されている遊就館という博物館には明治維新以来の資料や、人間魚雷「回天」などの兵器、「真珠湾はアメリカの謀略だった」などという映画を上映するホールなどがある。それらを見ながら、「この兵器を提供したのはアメリカだよね。だって、こんなに完全な姿の戦闘機や魚雷とか提供できるのは米軍しかないじゃないか」というようなことを言う。確かに、戦後靖国神社の存続を決めたのはアメリカに違いない。国粋主義的な施設の曖昧な形での存続は、日本の戦後史においてきわめて重要な役割を確かに果たしてきた。

 二人とも無言になり、少し休んだあとで新宿に移動した。普段はどうか知らないが、桜の季節の靖国神社は慰霊の場所というには余りにも喧騒に満ちた場所だった。奥さんへの土産を買うため伊勢丹1Fのデザイン宝石ショップでデザインリングを買いたいと言うので結構時間をかけて物色したあと、もう3:00をすぎていたがお腹が減ったというので、となりの別館にあるタイ料理屋へ連れていった。目玉焼きの乗ったガバオを食べてこれまで食べたタイ料理の中で一番おいしいと喜んでいた。そのあと、六本木アートナイトへ。「椿昇を知っているか?」と聞くと「椿は大好きだ」と言うので連れていった。

 六本木ヒルズのテレ朝側のステージでテンパッている椿に引き合わせたが、この時のことはあまり書きたくない。その二週間前に浜川崎の体育館で素晴らしい展覧会をいっしょにやった椿だが、ここではコマーシャリズムにすっかり押しつぶされていた。アートの力は完全に商業主義の中に埋没してしまっていた。新幹線で京都に帰るが、行き方がよく分からないというヴォディチコを八重洲口まで送って、ハグをして別れたあと、もう一度六本木に戻ったが、頭の中はヴォディチコのことでいっぱいだった。

 彼はこの時に、『逃れの町』と『ゲスト』という最近出た二冊の本と、広島賞を獲った時のカタログ、そして自分で作ったDVDをくれた。広島のカタログはカバーが破れていて貴重なものだった。そして、このDVDと本を読みながら、彼をどうやってもう一度日本に呼べばいいのだろうかとずっと考えていた。

 『逃れの町』はとても難しいテキストだった。ユダヤ系の家系であるヴォディチコが旧約聖書やカバラやレヴィナスなどのテキストを引用しつつ、ニューヨークを逃れの町にしなくてはならないと主張し、ニューヨーク湾の真ん中に戦争慰霊施設を建造するというような提案だった。巻末にはCGでドームのような建物が掲載されている。その感想を送ると、彼からは「このあいだ京都で話した、パリの凱旋門のプロジェクトをいまやっている。テキストを送るが、画像などもできたらすぐにお前に送る」という返事がきた。

 いま、ぼくたちがメールのやり取りをしているのは、来年の横浜トリエンナーレ2011横浜トリエンナーレに合わせて、ヴォディチコと何かやれないだろうかということだ。このことについて、北京でアイ・ウェイウェイに話を持ちかけたら、スケジュール次第ではあるが、関心はあるので連絡を取り合おうというメールがきた。何が起こるのかはわからないが、これが実現できたらすごいことになる。とりあえず考えているのは国際シンポジウムであるが、加須屋明子からどうせなら展覧会もやりませんかという提案があり、それに関しても準備を始めている。(続く)

« Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(1) | トップページ | Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(3) »

「文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/16230/49503176

この記事へのトラックバック一覧です: Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(2):

« Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(1) | トップページ | Krzysztof Wodiczkoのこと、そして横浜トリエンナーレ(3) »

最近のトラックバック

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30