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2011年2月

2011.02.21

アイロニカルな半演劇/チェルフィッチュ「ゾウガメのソニックライフ」

 Twitterでちょっと書いただけでずらずらとフォロワーが増えたのは、やはりこのカンパニーに対する関心がいまとても高いからだろう。単につまらないと言っているだけではよく分からないだろうから、まだ地方巡回が残ってはいるが、横浜での公演が終わったところなので、本業の美学者に戻ってちょっとだけその根拠となる分析をしてみたいと思う。

 まず、このカンパニーの作品に関しては、NHK教育テレビで「三月の5日間」という、岸田戯曲賞を獲り、彼らを有名にした作品のビデオを途中で集中力を失いながらも最後まで見たことがあること、岡田利規氏の書いた上演台本を演劇雑誌か何かで何本か読んだことがあること。その結果その作風とか、作品構造とかに関してはある程度わかっていたので、実際に見に行く必要性をあまり感じていなかった。したがって、神奈川芸術劇場(KAAT)の大スタジオのこけら落としに彼らの公演があることは知っていても自分からは行く気にならなかったところ、たまたまこの劇場の館長の真野純氏と一緒にトークをしたご縁でご招待して頂いたので見に行ったのである。だから、元々そんなに期待していなかった。が、実際の舞台はその期待をさらに下回っていた。

 見終わった後、かなり苛々して、ツイッターに書き込んだのは下のような呟きだった。

 "思っていたよりも果てしなく退屈で見るべき価値のない演劇ごっこだ。「三月の5日間」以来進歩なくて頭を使っていない。これを面白いと騙されている人が多いらしいので、ちゃんとダメな所を分析してあげた方がいいのだろうか?いやまあ二度と観ない方がいいか。"

 なせ苛々したのかと言うと、基本的にはまるでダンスの舞台のように空間をいくつかのゾーンに分割して、それぞれの場所と俳優の仕草の役割を決めて、そこに日常のだらだらとした動きとどうでもいい内容の呟き(この作品の場合には、日常と旅行の対比を通して、満ち足りた人生って何だろうというような問を蜿蜒と呟き続ける)と、日常の仕草や身振りを振付化した意味のない動きの反復という単純な仕掛け(しかもユニットがひとつ追加されただけで、6年前の「三月の5日間」とほとんど変わらない新鮮さのない空間構成)だけで、まるで新しい実験や挑戦がそこで行われているかのような錯覚を観客に与えようとしているアイロニカルな姿勢にうんざりしたからである。コンテンポラリーダンスの舞台構造の上に、どうしようもなく自堕落でくだらない独り言を載せているだけの話だ。ダンスならもう少し真面目な身体的表現が見られるだろうが、岡田氏の場合は日常的なだらだらした動きを何度も適当に繰り返すだけ(しかも、出演者の一人が異常に身体が固いのは、本当に身体訓練ができていない俳優なのか、演出上の意図なのかわからないが、あのやる気のない動きを延々と見せられるのは耐えられない)。もはや新鮮ではない。

 何かここには観客には簡単に分からない深遠な仕掛けがあるかのように見せかけていて、実はなんにもない。何もないという徒労のような作業を観客に押し付けてくるのが気に障った。要するにこれに意味があると思った観客は、自分の「空虚な日常」を、目の前で行われるパフォーマンスに鏡のように重ね合わせているだけなのである。これは、「作品の意味は観客自身が作る」というのとは根本的に異なる。

 これと、ちょっと似ているものに平田オリザの「青年団」や宮城聰の「ク・ナウカ」のような「システムやメソッドを見せる演劇」がある。こういうジャンル系パフォーマンスの特徴は形式と内容が分離しているために、何でもできるけれども、何一つ本気でやっているものがないということである。しかし、たとえどんなにダメなものでも、やっている側が演劇という形式でどうしてもこれを伝えたいと本気で真摯にやっているものならこれほどまでに苛々することはない。ダンスのジャンルにしても同じことである。ところがチェルフィッチュの場合には中途半端なテキストと役者の動きを、あたかもそれが「現在」を反映している忠実な鏡であるかのような装いで意図的にぐだぐだしたものにしている(おそらくは役者の自然な反応すらも演出的に抑圧して)ので、「真面目になんかやっていないし、ストレートな真剣さなんて嘘っぽいし不誠実だ」と言わんばかりに力を抜いた演出になっている。それが一番耐えられなかった。人間をナメているとしか言いようがない。つまり、自分の暮らしている世界の「外部」に対する意識と想像力が皆無なのだ。

 これに間違って感動している人は、だらだらした舞台に自分自身のだらだらした日常を重ねあわせて、勝手に自分自身の回想や日頃やり過ごしているような自問自答を真似して、反復するのが「リアル」だとでも思っているのだろう。その意味で、動物園の管理のような生政治的支配を及ぼされているのかもしれない。健康な神経を持っている客なら即退屈して居眠りをするというのが正しい反応だと思う。休憩があったらそこで席を立つのが正しい。起きて見続ける価値はほとんどない(仕方ないから頑張って起きてたけど…アフタートークは耐えられないと思い退出した)。

 何か新しい演劇を作っているかのように勘違いして真面目な顔をして観て、あたかもそれが現実の正確な描写であるかのような間違った感想を語ったりしている観客たちにも腹がたった。これは演劇というシステムを全く信用していない人(たち)による、ニヒリスティックでアイロニカルな何も生み出すことのない遊戯にしかすぎない。

 何もこんなことを肩に力を入れて力説するまでのことはないのではないかとも思った。なぜなら、そもそも現代における大半の上演芸術、演劇やパフォーマンスはたいていはとてもつまらなく面白くないからである。もちろん、魅力的な役者や舞台美術や照明効果に出会えることはあるが、そうではなくその企画意図や構想や演劇史的に見た演出上の革新にはほとんど出会えないからである。それは、もちろんポストモダンという時代状況と大いに関係がある。一つには近代演劇とそのジャンルの「解体」の結果、前衛や実験演劇という構図が無効になってしまっていることが挙げられるだろう。演劇が社会や観客の意識を変えることができる「解放の窓」と思われていた時代はもうとっくに終わったし、オペラやコントから実験演劇にいたるまですべてが刹那的なエンターテイメントとしてしか考えられなくなって随分久しい。演劇やパフォーマンスに関わる人の数は減っていないが、いずれにしても劇団四季のように産業化するか、テレビタレントの掛け持ちをするか、文化行政の中で補助金で生きるか、企業とタイアップでもしない限り、チケット収入だけで利益を上げることができないジャンルなので、表現芸術としてそれが自立していくことはかなり難しい。かつての演劇人は演劇論や演劇学を勉強した。ピーター・ブルックやアルトーの本を読み、翻訳戯曲や演劇批評を読み、人類学や宗教学のテキストを勉強したが、今の演劇サークル上がりの演劇人は勉強しようとはしない。彼らは単に沢山舞台を見れば、あとはセンスの良さとハッタリだけで面白い舞台が作れると思っているようだ。こうして、中身の空っぽの商品リストだけが並べられていく。

 ゾウガメのソニックライフという一見なぞめいたタイトルの意味は、舞台の後半で解き明かされる。どんどん坂道を下っていく地下鉄に乗った主人公がクラブイベントで他人の踊りをただ観ている後に帰ってみたら、そこには折りたたみ椅子に仮託された250歳になってしまった年寄りがいて、目の前で15分後に死んでしまったという語りがあった。これは「浦島太郎」を竜宮城に乗せていった大きな「カメ」の話なのだということが示される。ウミガメではなくて、より動きが緩慢での部屋の中をのたのた歩くゾウガメが、くだらないおしゃべりが蜿蜒と海のように続く「ソニックライフ」を生きて、全く輝かしくない人生を過ごしていくという話なのだが、これもあまりにひどすぎるオチだと思う。こんなものを真面目な顔をして一生懸命意味を読み取ろうとしている観客を嬲っている作り手側の姿勢がひどすぎると思った。中身も志も真剣な思考も、すべてが欠落していることに腹が立ったのだ。

 だが、考えて見ればこれと似たような表現はコンテンポラリーダンスや演劇の一部で広がりつつあることも事実だ。そういえば、横浜美術館で見た高嶺格展のパレスチナをテーマにした映像作品にも似た感想を持った。一緒に見てすっかり呆れていた劇団唐ゼミ☆の椎野裕美子も「仕方ないですよ。世間はこっちに流れているんですから」と言っていたが、そんなことはない。どんなに数が少なくともちゃんとやっている人たちは確実にいるのだ。ぼくはそっち側にずっとついていたいと思うので、もう「これ系」のものにはたとえ招待されても付き合わないことにしようと思う。

2011.02.05

高嶺格/小谷元彦/曽根裕展を見る

 文化庁の「メディア芸術祭」にちょっとだけ関わりがありそうなので一度見ておこうと思い、乃木坂の国立新美術館に行ってみた。実はこの美術館、前を通り過ぎたことはあるが、入るのは初めて。黒川紀章設計のこの建物、外から見るとまるでガラスのヤカンのような変な曲線の建物でやな感じ。内部はコンベンション・センターのようなもの。壁がガラスなので空港の待合室のような感じがする。どこかの空港で見たことがあるような逆円錐形の柱の上に空中カフェがある。威圧的ではないがやはり落ち着かない。夜になってライトアップされれば少しはきれいに見えるのかもしれないが、今後もあまり行きたくはない場所である。最近の公共建築ブームでやたら有名建築家による美術館が増えたし、ミースが設計したベルリンの新ナショナルギャラリーにも行ったことがあるが、どうもどこも居心地が良くないなあ。古い低層の美術館の方がどれほど落ち着くか分からない。特にガラス張りの建物が最近は多すぎてうんざりする。

 ところが、肝心のメディア芸術祭だが、実はほとんど見られなかった。余りの観客の多さにだ。入場無料ということもあるが、アート、エンタテイメント、ゲーム、マンガ、アニメというごちゃごちゃの部門構成のため子供から大人までごった返して展示が人の頭越しでないと見られない。ポケットゲームコーナーには子どもが群がり、インタラクティブな作品には行列ができている…のでほとんどお手上げで諦めた。この「国策」展に関係している人は沢山知っているが、この展示を見に来たのは実は初めて。妙な盛り上がりに驚いた。それでも、これだけ雑多なものを「美術展」という形式で行うのにはやはり無理がある。いっそのことコンヴェンション・センターを貸し切って、コミフェス方式でやった方がいいのではないだろうか? ついでに、「メディア芸術アンデパンダン」や同人誌即売会も併催にすれば盛り上がるのではないかと思う。そうなるときっと海外からも沢山の人がやってくるようになる。

 これだけではあんまりなので、近くの六本木ヒルズ/森美術館でやっている「小谷元彦・幽体の知覚」展へも行ってみた。地下鉄の通路に「メディア芸術祭」とともに一杯ポスターが貼ってあったが、ここも超満員だった。展望室やプラネタリウムとセットで見に来る人も多いのだろうが、入場料1500円もするのにこの混雑ぶりは凄い(ちなみに展望室とプラネタリウムのセット券は1800円。微妙な料金設定だ)。土日に六本木に来るものではないと思った。だが、さすがに一部の体験型作品以外は広い館内でゆっくり見ることができた。森美術館に来るのは昨年3月の六本木アートナイト、六本木クロッシング展以来。もちろん、大嫌いな場所なので、できることならなるべく来たくはないところだ。観終わって早々に立ち去るにこしたことはない。

 実はこの展覧会、金曜日に行った横浜美術館の「高嶺格・とおくてよくみえない」展と、オペラシティ・アートギャラリー「曽根裕・PerfectMoment」展とが、若手三人の展覧会と言うことでチケット相互割引という連携をしている。そこで、ついでにと言うことで初台のオペラシティまで足を延ばすことにした。一日に3箇所の美術展、昨日の高嶺展と連続で4つというのは、国内ではめったにしたことはなく、ぼくにとってはそれだけで大事業だ。しかも、予定外だったのでICCの招待券は持って来なかった(と言うよりも多分行くことはないだろうと捨ててしまったような気もする)ので、こちらの展覧会「みえないちから」は入り口でスルーした。三輪眞弘さんも出しているのに申し訳ないことをした。しかし、まあ展覧会があまり好きではない(たいてい落胆してぐったりと疲れることが多いから)ぼくとしては画期的なことである。まあ、曽根展は教え子の遠藤水城も関わっているのでちょっと義理を立てたこともある。

 結論から言えば、森美術館の小谷展がこの三つの中では圧勝であるという印象を受けた。これは作家論とは別に、展覧会の作り方に関わっている。小谷展は、あの息苦しいタワーの中にある巨大刑務所のような森美術館の展示空間にとてもよく似合っていた。と言うよりも、ここにあまり近づきたくないのでよく分からないが、森美術館はまさしく小谷元彦という作家のためにあったのではないかと思われるほどにしっくりしていた。とにかく、作品の点数とバラエティが豊富だ。この40歳手前の作家がきわめて多作であるせいもあるが、サイズ的にもまるでおあつらえ向きのようにうまく収まる作品も多く、天井から吊るしている作品についてもうまく配置できている。何よりも、六本木ヒルズの人工的でスノッブで空疎な空間にとてもよくマッチしているのだ。だから、「圧勝」であるということと、ぼくが「好き」であるかどうかということとは全く別の問題であり、結論から言うとほとんど引っ掛かりがない展覧会だったと言ってもいい。きっとすぐに忘れてしまうだろう。

 それに比べて、横浜美術館の高嶺展、オペラシティの曽根展は場所を全く生かしていない。高嶺展も美術館の空間に比して作品数が少なく中途半端な印象を受けたが、曽根展に至ってはスカスカである。なぜ、あのギャラリー空間にこんな中身の展覧会を企画したのかすらよく分からない。ミュンスターでの誕生日のビデオをなぜあんな巨大に壁に映さなくてはならないのか、さっぱり分からない。結果としてはジャングルの書割だけが印象に残る展覧会だった。あれはもっと小さな場所でやるべきだ。高嶺展にしても、暗い部屋でのインスタレーション作品やヴィデオ作品、写真とテキストによるドキュメントなどいくつか力の入った作品はあるものの、配置や並べ方が単調で工夫が足りない。古毛布や刺繍を額縁に入れて解説をつける作品も数が中途半端に多いし、扇風機で巨大な布を揺らす作品もあの場所でやる意味がよく分からない。そう言えば、メディア芸術祭を含めて展示に音響を入れるのが最近の流行りで、一種の演劇性というかこけ脅しの盛り上げ方をしているのはいずれの展覧会でも共通していた。これは作家というよりも企画者に問題があるように思われる。もちろん、その前提として、やたら高い天井をもつ巨大な展示室を並べただけのような美術館建築にも問題があるのだが、それにしても作家の個性と正面から対峙すべきキュレーターの存在や展覧会づくりの作法がほとんど感じられないことの方が気になる。その点でもミクロなものと巨大なもの、ミニマルな展示と過剰な展示を使い分けて変化を生み出している森美術館がもっとも優れている。

 作家に関して言えば、それぞれ全く異なるタイプの人達なので一概に比較することはできない。曽根裕に関してははっきり言えばぼくにはよく分からない。ジャングルの書割の中に、白大理石の彫刻が並べられている。別室にクリスタルの小さな彫刻作品がめちゃくちゃな数のスポットライトに照らされてきらきら輝いている。2つのヴィデオ作品が巨大な部屋の壁の両面に並べられて上映されている。それだけでおしまい。彫刻作品は白大理石を彫っているのだが、マンハッタンの3D模型、観覧車、丸みと刺が沢山掘られた雪の決勝のような抽象体と、何がしたいのか一見したところではよく分からない。おそらくは、人生の経験における一瞬を固定するという作業をヴィデオのような瞬間的に固定されるメディアを用いた作品と、大理石彫刻のように気が遠くなるほど長時間かけて固定していく作品を、空間を埋めるチープではあるが巨大な書割の中に配置することによって、「美術作品」を作ることと展示することと見せることとの間の不確さのようなものを、極私的なプライベートな映像を意味ありげに巨大な壁に投影することによって見せようとしているようにも思えるが、あまり成功しているとは思えない。そもそも、そんなことを言ったところで何の意味もない。素材と長い時間向き合い、不可視のものを紡ぎ出していくモダニストの作法とは大きく異なるように思えたが、だからと言って私的なものを社会的なものにつなげていこうという強靭な意識も見られない。どちらかと言えば、社会的な眼差しはほとんど持っていない人のように思われる。世界中を漂流しながら、その時々の記憶を時間をかけて外部化していくという営みそのものを見せようとしているようにも見える。その点で「美術」という文脈に違和を持っていて、その違和感そのものが美術家としての存在理由となるというような逆説的な生き方を選びとっているようにも思われるが、そのことの意味がぼくにはよく分からない。今度遠藤に会ったら聞いてみたい。

 それに比べると高嶺という人は、プライベートな経験を社会的なテーマへと接合しようとしている。それは「性」であったり、「美術」であったり、「アメリカ」や「パレスチナ」であったり、「在日」や「国家」であったりする。だが、彼にあってそれらはあくまでもプライベートな領域を通してしか見えてこないもののようだ。巨大なクレイアニメーションと実写を合わせた「God Bless America」や自分の結婚式と「国家」問題を絡めた「ベイビー・インサドン」。何だか、プライベートな領域にソシアルでパブリックな領域が侵入してくることの居心地の悪さのようなものを彼は作り出している。だが、逆に言えばそうした感覚は、誰しもが(とまでは言わないが、少なくともぼくを含めたかなり多くの人々が)既に感じている世界の居心地の悪さのようなもので、「あー、その感じわかるなー」とは思うが殊更何か新しい経験をもたらしてくれるものとまでは言えない。吉岡洋の「新共通感覚論」という短いテクストを、暗い部屋の中で部分的に見せたり隠したりする「ビッグ・ブロウ・ジョブ」は、自分の感じているものは他人には伝えられないし誰にも共有できないのではないかという不安を、おそらくは巨大な脳に模した部屋の中のニューロンネットワークが点滅する形で観客に何とか「共有」させようとしているが、おそらくは「暗くてよく見えない」ので誰にも共有はできないということを示している作品だろう。高嶺はいろいろ考えようとする、だがあいまいなままでよく分からないし、それを誰かと共有することはできないという微細な皮膚感覚のようなものを外部化しようとする美術家であるように思われる。おそらく彼にとって思想や言葉はあまりにも乱雑に思えるのではないかという気がするが、それでもそれを形にするためには吉岡のテクストのような言葉や思想を必要としているように思える。ただ、そのためかどうかは分からないが、あまりに繊細すぎて、限界を突破していく爆発的なパワーは持ってはいないような気もする。むしろ、すっきりと言葉を捨ててしまうというのも一つのあり方なのではないだろうか? ぼくがどうしても共感できず彼らと別れてしまった「S/N」時代のDUMBTYPEと、一番初期のIAMASという身近ではあるが遠い気もしている場所から育ってきた作家なので、これからも注目していきたい。

 小谷という人は、木彫やFRPによる造形の超絶技巧を持ったフィギュア作家のように思われた。「幽体」という難しい言葉は、英訳を見れば単なる「ファントム」にすぎず、その意味では「幻影の知覚」という平凡な概念にすぎない。入り口横にすぐに目に入る手のひらが血まみれな少女のポートレートは「幻影肢」という意味の「Phantom Limb」というオシャレな英語で表記されている。映像と立体による膨大な数の作品が、きわめて職人的な手際で造形化されており、小さなものから巨大なものまで展示されているが、それはゾンビだったり、解剖模型だったり、アダムス・ファミリーの少女だったり、太古の生物の化石であったりと、おそらくは幼年期に出会った既知の「異形」のイメージにすぎない。ちょうど、クローネンバーグの映画を実体化させたような感じであるし、綺麗なCM映像から取り出されて3D化されたものようにも見える。それは確かに3D映画のようで、モノとしての実体もなければ、創り上げられたプロセスもよくわからない3D-CGのようなものなのだ。確かに生産量も凄いし、ラカン的な「寸断された身体」イメージに対する偏執も凄いとは思うのだが、全体的にオタク的にチープで表層的なイメージを増殖させていくので、どうしても軽薄に見えてしまう。もちろん小谷には社会的な問題意識や政治的な関心は全く見受けられない。東京芸大で職業的な訓練を受けたオタク系クリエーターというような感じしかしない。それは村上隆のような先行世代と比べてみれば、より豊かで、より技巧的で、より身体的で、より親密で、しかしそれと同時により「ひきこもり」的な、まるで歌舞伎の女形のような神経質な繊細さに満ちていることが分かる。スーパーフラットでスーパーエフェメラルな時代を生きてきた人なのだろう。

 そう言えば、彦坂尚嘉氏はご自身のblogでは小谷を、「《想像界》の眼で《1流》《象徴界》の眼で《8流》《現実界》の眼で《超1流》」という評価をしており、「人格的には《現実界》と《想像界》の人」で「芸術ではなくただの気晴らし」と切り捨てている。流体としての欲動が何かに衝突し破裂する脳内感覚にしか関心がない作家だと言うのである。この評価はとても面白いのだが(それにしても8流って!)、さらに彦坂氏は筆を進めて、この「芸術ではない〈面白アート〉の系譜として、飴屋法水、合田佐和子、そしてその元凶としての唐十郎を上げている。圧倒的な廃墟的イメージと異形なもの、そして医学的に寸断された身体を問題にする飴屋さんと、レディメイドのポップなイメージを再生産しつづける合田さんに関してはいくらか分からないではないが、唐さんは全く違うと思う。だって、デリダの『尖筆のエクリチュール』を読んで名作『ビニールの城』を書いてしまうような人だもの。だが、まあこれを見ると彦坂さんが少なくとも一時期状況劇場に夢中になったことは分かるのでよしとしよう。

 ちなみに彦坂氏の現代アートの「格付け」はコンセプチュアリスト頑固じいさんの小言としてはとても面白いのだが、しかしチャートを作り、分類するだけでは仕方ないと思う。こういう振る舞いはまさしく「美術」の領域のインサイダーにとって(のみ)意味があるわけだし、結局は「芸術ではないもの」が「芸術」の王国の中にどんどん流入しているのが現実だもの。ただ、概念的にはあまり正確ではないが、直感的にはかなりわかりやすい彼によるラカンの三項図式分類法を使えば、確かに《想像界》の人ばかりが増えているような気はする(《現実界》に関しては、そんなことに意識的な人がいると言うのはかなり怪しいとは思うが)。それは仕方ないのかもしれない。だって《象徴界》がダメなのは言葉の定義上も明らかだし、何でも定量化・構造化できる形でしか示されないサイバネティックな世界の中にぼくたちが生きているからである。でも、リオタールの言う「Discours/Figure」の両極を往還する仕組みを作るのがちゃんとした文化なのではないかと思うし、身体感覚や直感的なものだけで生きるのなら動物と変わらないし、思想にしてもアートにしてもその辺りのことをきちんと考えようとしない人は《超1流》であろうが、《8流》であろうが、どちらにしても現状維持にとどまるしかないのではないかと思う。

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