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2011.03.26

「9.11」と「 3.11」/雑感

 言うまでもなく「9.11」とは2001年9月11日。アメリカでいわゆる「同時多発テロ」が起きた日付である。日本の午後10時頃、アメリカでは同日の早朝に事件は突然起こった。マンハッタン島の南端にある世界貿易センターのツインタワーに二機の旅客機が衝突する映像を全世界がリアルタイムで見た。その後ハイジャックされた別の二機の旅客機がそれぞれ国防総省(ペンタゴン)とホワイトハウスに向かっているというニュースが流れ、結果的にはペンタゴンの建物には小さな被害しか与えられなかったし、もう一機はおそらくは乗客の反抗によって違う場所に墜落したが、刻々と伝えられるその情報を見ながら、世界は一体どうなってしまうのかと震撼した。アメリカの経済と軍事と政治の三つの中枢を標的にしたきわめてスマートな攻撃であり、もし全部が意図通りの結果になったらもっと凄いことになっていただろう。ちょうど、バッタのプロジェクトをやっている時で、Wodiczkoに教えてもらった巨大バッタがシカゴの町を襲うというB級映画「The Beginning of the End」を何度も観ていたのだが、いよいよ終末が始まったのかと思った。

 それが21世紀の幕開けだった。

 それまで暗黙の裡にそう簡単には動かないと思われていた文明のシステムがきわめて脆いものであることを否応なくぼくたちに突きつけた出来事であり、それ以降のぼく自身の思想や生き方にきわめて大きな影響を与えた。自分たちが生きているのではなく、個々の生命が必ず死に向かいながら、巨大な宇宙や自然の摂理の中で刹那的に「生かされている」こと。文明や社会といったシステムはすべて幻想や虚構にすぎないということ。フラジャイルな個々の生き物としての輝きを、歴史的、社会的、心理学的にどんなに限定された状況の中でも引き出していくことだけが、ぼくたちにできる唯一のポジティブなことなのではないかと考えるようになった。だから社会やシステムの改革よりも自分の周囲の人たちをいかに輝かせることができるかということをより大切に考えるようになったのである。いまぼくが取り組んでいることにはこうした考え方が強く反映していると思う。

 そして、そのWodiczkoのプロジェクトをやろうと思っていたその矢先に「東日本大震災」が起こったのである。なぜそれが「3.11」なのだろうかということがずっと心に渦巻いていた。天災なのだから、もちろん偶然に決まっている。また、カレンダーなんて所詮人間が作った虚構にすぎない。また、照応するというのなら同じ9月でなくてはならないし、中途半端に9年半ぴったりに起こったこの大災害が、もちろんその範囲が日本のローカルな出来事であることも言うまでもない。だから、この不思議な照応を気にしているのは、ぼくという個人の完全に私的な問題にすぎないことはよく分かっている。しかし、それでも気になって仕方ないのだ。
 
 それは、言い換えるなら、9.11という事件を契機にしてぼくが考えたことと、今回の地震によって、まだ言葉にうまく表すことはできないが、心のなかで渦巻いている落ち着かない感じとが、心の中で切り離せないものとして結びついているということから来ているのだと思う。

 同じ地震というつながりから、その5年前の95年に起こった阪神淡路大震災や、直後に起こったオウム真理教事件のことを思い出す人もいるようだ。確かにこれは大地震・大津波による災害と、福島原子力発電所の事故による放射能流出とが重なっている今回の事件とよく似ている点もある。どちらも「天災」の後から起こった「人災」の方に、より多くの人の関心や怒りが向けられているという構図が似ているのだ。「天災」には誰も抗議ができないけれども、「人災」には徹底的に怒りと攻撃を加えるという人の心の動きが共通して見られる。

 同じことが未だに「犯人」の組織や思想が謎のままでよく分かっていない「9.11」に関しても言える。なぜ、アメリカがそれほどまでに中近東のムスリムに憎まれ、自爆をもためらわないあれほどの攻撃を受けなくてはならないのかということをきちんと問題にすることなく、この「目に見えない敵」に「テロリスト」という一方的なレッテルを貼り、関係のないイスラム教徒たちを検挙し、監視し、「文明の衝突」とか「十字軍」とか「悪の枢軸」とかいう乱暴な構図を世界中に無理やり押し付け、また直接にはほとんど関係のないことが今やはっきりしたアフガニスタンやイラクに容赦のない攻撃を加えたのである。これも、人間の心という「自然」が起こした一種の自然現象である。ちょうど、何かを異変を感じた動物の群が一斉に走りだすように、いまぼくたちの怒りの衝動はゆるやかなレミングの群のように原発の即時廃止と責任者たちの処罰へと向かって、ほとんど盲目的に進んでいる。

 ぼくたちの生の時間は短い。それに比べて地殻変動や気候の変動などの地球の変化のスパンはきわめて長い。数千、数万、数十万、数百万年のタイムスパンの中で自然は大規模な変動を続けている。数千年前には日本の気候はきわめて温暖で、青森や岩手に縄文文明が栄えていたし、数万年前には日本と大陸はつながっていたことをぼくたちは知識としては知っている。遠い未来には日本列島そのものが消えてなくなるかもしれないことも予測できる。土地の私有とか、貨幣とか、経済とかいった人間が勝手に決めたシステムとガイアとは元々原理的に折り合わないものなのだ。

 他方、原発による放射能汚染もそれとちょっと似ている。プルトニウム等の「高レベル核廃棄物」は、今問題になっているヨウ素やセシウムのような半減期の短い物質とは異なり、5000年とか一万年とかの長い半減期を持っている。鉛やガラス繊維で厳重に閉じ込める以外にないこれらの物質はきわめてコントロールすることが難しい。10年ほど前に、人文系研究者としてこの「高レベル核廃棄物保管」の会議に参加した時の経験から言えば、いったん事故が起きると完全にコントロールすることがきわめて困難な原子力発電という技術が永遠に続くと考えているエネルギー関連の専門家はほとんどいない。ほぼ全員が半世紀以内にもっと安全でもっとコントロールしやすい技術に転換すると思っていることが分かった。それが、いわゆる「水素エネルギー」である。

 現在のところ「燃料電池」といった不十分な形としてしか実用化されていないこのエネルギーの活用には技術的にまだ数十年かかると予測されている。しかも、それらの資源は現在の石炭や石油の地下資源とは比べようのないくらい豊穣であり、地球上のエネルギーの総量は全く「限られた資源」などではなく、ほぼ人類の滅亡まで無限に残っていることも試算されている。地球は元々エネルギー的に「過剰な惑星」なのだ。原子力発電とはそれまでの限定的な「つなぎ」にすぎないというのがほとんどの人の考えだった。事故が起こらないように注意深く運転しながら、徐々に廃止していくというシナリオが前提とされていた。

 しかし、今回の事故は日本ばかりではなく世界中に衝撃を与えた。人の心もまた「自然」の一部であることを考えると、これからは急速にあらゆるところで原発の廃止が進められていくことになると予測できる。もう、放射能汚染を心配して生活をするのは耐えられないという人々が黙ってはいないことだろう。しかし、そうは言っても環境や大気を汚染する上に石油の供給に不安がある火力発電には戻れないし、発電量がきわめて不安定な水力や風力発電や、土地の狭い日本には不向きな地熱や太陽熱発電では全く代用にならない以上、重工業を捨てて農業国に戻るしか選択肢がなくなる。環境論者やエコロジストの言うような文明の転換をするならば、電化生活は不可能になるし、エアコンや自動車は使えなくなり、都市の機能は現在の計画停電などとは比較にならないほど大幅に低下することになる。個人的には、それも悪くないような気がするし、元々昭和30年代を経験しているので平気だと思うが、恒常的な食料不足や生産力の減退や社会治安の悪化が訪れることは明らかである。

 いや、そんなことはない。この地震で日本は大きく変わった、みんなが発想を大転換し新しいエコな文明を築くのだと言っている人も大勢いるが、残念ながら人間の習慣というものはそう簡単に変わるものではない。復旧が進めば、不便さに耐えられなくなることは眼に見えている。これから大規模な反原発運動が始まり、圧倒的な電力不足が常態化していくことになれば、また人の心も変わることだろう。みんな自分は「科学」や「理性」で行動していると信じているが、そうではなく人間の身体と心もまた巨大な「自然」なのであり、集団幻想に引きづられているだけなのである。ただ、資本主義という欲望のドライブを掻き立てるシステムの暴走を止められなくなっていた日本がこれで冷水を浴びせられて冷静になるとしたら、それは悪いことではない。被災民の支援や個人の利益や競争ではなく、自己犠牲や共同体の維持や共存を重視するかつての農村共同体的なエートスが戻ってくることは、それ自体けっして悪いことではないように思われる。

 それにしても、保存食の買い占め事件や、微細な量の放射能に過度に怯えるいまの状態はちょっと尋常ではない。昭和30年に生まれたぼくたちの世代は、DDT、大気中核実験(これだけで、チェルノブイリ事故の時の数百倍の被爆量になる)、アスベスト(石綿だらけの建物で育った)、光化学スモッグ、食品の化学添加物にまみれて生きてきた。なのに、いまや多くの人々によってその有害性がきわめて疑わしい煙草の副流煙や洗えば全く無害なほうれん草すらも忌避されるようになっている。二年前に「タバコ狩り」を出したのはこんな防疫都市文明に異議を唱えるためだった。自分たちの生活をこれまで通りにすることばかりに執着していると、かえって心が荒廃していくのである。

 9.11事件のあと、肥大する欲望をそのままにしておきながら異物や毒や外部を徹底的に排除し目の前から消し去ろうとする巨大な不寛容の時代が始まった。グローバル資本主義の脅威となるすべての敵は「テロリスト」の名の下に攻撃・排除され、それはSARSや鳥インフルエンザ、新型インフルエンザといった防疫にも適用され、環境ホルモン騒ぎ、禁煙運動、アスベスト問題などにも見られるように過度な衛生思想と防疫第一主義のきわめて息苦しい文明が生まれた。心理学大隆盛のPTSD/国民総鬱病時代、ゴミ箱や灰皿を街角から撤去し、ホームレスが地下街から通報される潔癖神経症の時代である。3.11以降、ぼくたちが気を付けなくてはならないのは、この傾向がさらに推し進められ、その結果ますます心が荒廃していくことなのではないだろうか。それは放射能汚染などよりさらに恐ろしい。
 
 そしてどうやら現在のその標的は原子力発電所とリビアのカダフィになっているようだ。確かにカダフィは悪いのかもしれないが、それにしても国連や各国政府による対話的解決の努力もなしに、いきなりカダフィ個人を標的にしたミサイル攻撃までが肯定される空気は不気味である。そして今の原発に対する即時廃止の大合唱にも同じような嫌な空気を感じる。現実的にはさまざまな安全対策を練りながら段階的に違う発電システムに移行していくしかないと思うのだけれどね。

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