« 「9.11」と「 3.11」/雑感 | トップページ | Krzysztof Wodiczkoのこと(4)パリでの邂逅 »

2011.05.01

togetter:横浜国立大学、(旧マルチ)人間文化課程のことについて

 twitter上でのyamasawa8911君とのやり取りがここにまとめられている。編集が不正確だし、関係者の誰にも了承を取らずにアップしたりするのはマナーに欠けるとは思うが、ともかく既にアップされてしまい来訪者数も400を超えているので、ここでコメントしてみたいと思う。なぜなら、元々は「人間文化基礎論IA」という今年から新設された横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程の授業における、新一年生からの一連のリアクションにぼくが腹を立てていくつかtwitter上に書いたことがきっかけになっているからで、この授業に現在関わっている一年生諸君や、かつてこの授業の前身の授業「メディア基礎論」に関わった旧マルチメディア文化課程(マルチ)の過年度生たちも関わっていることだからである。たまたまyamasawa君の勇み足でこうなってしまったが、こうなったらこうなったで、どうせならできるだけ多くの学生諸君に読んでもらって、考えてもらいたいと思っている。次回の授業は5月11日だ。

 この授業は98年にマルチが最初の学生を受け入れた時から、3名の教員が新入生と正面から向かい合うという形式で始まった。初期にはぼくと梅本洋一と大里俊晴。梅本さんが腹を立てて5月の授業途中で帰ってしまい二度と戻ってこないという事件があってから、基本的にはぼくと大里君、榑沼範久君の3人で続けてきた。その後、榑沼君が(疲れて)抜け、清田友則君が代わりに入り、大里君が亡くなってから平倉圭君、そして今年は見習いで中川克志君にも入ってもらっている。ぼくも2001年に学生に腹を立てて授業を途中で打ち切ったことがある。こんなことをしているのは、学生たちがどうせ「授業」だし、教員たちも単に「システム」に従っているだけだろうと観客席におさまりかえっているのが耐えられなかったからだ。これはブートキャンプのようなつもりでやっているので、学生ばかりではなく教員側にも物凄いコストとリスクがかかっている授業なのだが、十年以上続けてきて、それだけの価値がある授業形式だと思っていて、「おっさんたちの雑談を聞かされるだけで苦痛だ」という学生たちと本気で闘いながら今年もまた続けている。

 旧マルチを作った時に、少なくともぼくは大学を辞める覚悟で自分の時間のほとんどを犠牲にした。だから、ぼくはマルチを愛していたし、それがやる気のない「普通の」学生たちで占められるのはたまらなかった。初期の学生たちは多少はそれに応えようという気風を持っていて、ほとんど既存の学内サークルには入らず、大学祭にもマルチ単位で参加したり、後には学祭に反発して独自の「マルチメディア文化祭」を開催したりしてくれたが、だんだんと惰性に流され風化していった。一部の学生は今でもまだ「マルチ」にこだわってくれているが、大多数は「そういうのウザい」と口にするようになって、最近はもう終りにする潮時かなと思っていたところ、さまざまな学内事情で学部の教員養成系を除いた文系だけが統合され、この新「人間文化課程」ができたのである。これまでの学生定員90名から150名に一気に定員数が増えたところに、震災による後期入試中止のせいで想定外の190名を超える一年生が入学してきた。

 彼、yamasawa君は、アカウントから察するに89年生まれのマルチの学生で、愛すべきところはあるが、根本的に大人や社会の既存のシステムに甘えており、思慮が浅いのに反射的かつ無責任に反応してしまうという欠点をもつ、まあ言わば普通の思春期後期の学生である。彼がぼくに対して基本的には好意をもっていてくれているのは分かっているのだが、最初にぼくが彼に腹を立てた発言は以下のものだった。

>てか室井先生って大学から金もらってるくせに日本の大学は終わってるとか言ってんだよなウケる。
>大学の外から言えば説得力あるけど、そしたらたぶんぼくとは出会わなかったんだろうなあ。そう考えると微妙だ。

 この発言には@がついていない。だから彼は「空中にリプされた」(意味不明)と言っているのだが、それくらいの調べはすぐつく(笑)。ぼくがフォローしていないからと言って学生諸君はけっして安心してはいけない(笑)。

 この言い方や、その次に彼が書いてくる、

>本当は違うのかもしれないですが、でかいバッタを作ったりその他内輪ネタっぽいアート
>的行動全てに授業料なり税金なりが使われてるように見えたりしますよ。
>それあっての「金もらってるくせにウケる」でしたね。

 も同工異曲で、こういう言い方は絶対に見逃さないし、許さない。ぼくが彼に文句をつけているのはその点にほかならないし、逆に言えば一貫してその点だけである。とても失礼である。

 なぜならぼくが「大学から金もらっている」とか、ぼくがやっていることに「授業料なり税金が使われている」というような言い方が含意している当てこすりは、意味が無いばかりではなく無知と無自覚な邪悪さをさらけ出しているからだ。これらの言い方には「金をもらったら批判する権利がない」とか「金を払っている人に還元されない内輪っぽい行動に、(ぼくたちが払っている)授業料や税金が好き勝手に使われている」というようないじけているばかりではなく、自分をクレームをつける権利を留保している良心的市民になぞらえるいやーな姿勢が含まれている。ちなみにバッタ("The Insect World")はけっして「内輪受け」ではないし、事実としてぼく自身も驚くような大きな社会的な反響をもたらしている。『巨大バッタの奇跡』(アートン新社)というドキュメント本も出しているので、これを読んでもまだそう思うのなら批判してもいいが、上記のような、よく知りもしないただの当てこすりや嫌味は一緒に命がけで戦った人たちのことを考えてもけっして許せない。そう言えば先週末に3,4年ぶりに学内公演をした劇団唐ゼミ☆の新歓にも一年生たちはあまり来なかった。一度も見もしない、知りもしないで、馬鹿にしたり決めつけたりする学生にはいつも腹がたつ。北仲スクールにしても、100人以上来る授業の後にも2Fのサロンに降りてきてコミュニケーションしようとする学生はとても少ない。北仲はけっして大学ではできない様々なことを実現してきたし、今も実現している。なぜあれをやっているのかということを理解しようとすらしないで冷笑している学生たちにも本当に腹がたつ。反面、理解者もどんどん増えてきてはいるのだけれど。

 ぼくが大学から貰っている給料や研究費は、文科省の大学運営交付金からシステムに従って配分されている。これは大学に着任した時の契約に基づいている。けっして「個別な組織としての大学から金を貰っている」のではない。その時にぼくは大学教員として自由な研究と高度な教育と教授会を中心とする大学運営の三つの業務を引き受けている。これは事務職員とは違い、自由な個人もしくは自分の良心にしたがう研究者としての契約である。2004年の国立大学の独法化に伴い、大学執行部の権限が強化され、教授会の権限が制限された(そのことに抗議して退職した教員たちも全国で沢山いた)が、少なくともぼくは今でも就任時の契約が有効であると思っている。また学長は教職員の選挙で決まるので最低限の「大学の自治」は担保されている。だから大学にいる限り、金もらおうがもらうまいが、自分は自由な人間として行動するし執行部も批判する。それが違うというならすぐに退職する。しかも、国立大学の給与は大企業や私立大学と比べるととても安い上に、このところの公務員批判のあおりを食って毎年減額が行われ定期昇給を入れてもほとんど増えていない。これほど働いているのに割に合わない。もちろんこんなのは比較の問題だから、大量の非正規雇用者や派遣社員、フリーターと比べれば恵まれているとは言える。だけど、長年にわたってそれなりのコストはかけているし、それなりの実績も積み重ねていると自負している。立ち腐れつつある大学を立て直すことができるのは、大学の中にいる人間たち以外にありえないではないか?!

 そもそも税金だろうが、私企業の収益だろうが、いったんそれらが集められ、再配分される時には全く別なシステムが介在して働く。税金が国家という暴力装置が国民から収奪する財であることは確かだが、私企業が消費者から収奪する財の方がより正しい収益であるなどということはない。マイクロソフトを初めとするIT企業や、最近の例で言えばJALや東電によるぼったくりによる収益の方がより犯罪的であり、より悪質な収奪であるとも言える。そこから国家がさらに掠め取る分が税である。山賊と山賊の棟梁のようなものだ。民間が善で国家が悪などというのは新自由主義経済学の広めたデマにすぎない(そういえばyamasawa君も竹中平蔵をRTしてたっけ?)。そもそも、元をたどればすべての財は自然から人間が勝手に収奪してくる「不正な富」にほかならない。ぼくは、自分のやりたいことをやるために税金や企業の寄付金が元になっている行政組織や財団からお金を「自分の力で取ってきている」のであり、そのためには企画書づくりから、面倒な予算書や何十ページにもわたる申請書を自分の時間を何十時間も割いて、何倍か何十倍かの「競争」に勝って助成金を獲得しているのであり(負けることも沢山ある)、何も知らない奴から「税金にたかっている」みたいな言われ方をする覚えはない。だから、「ふざけるな」ということになる。

 多分こういうことを言っても、yamasawa君は「ああ、そうでしたか。すみませんね。でも若い世代にはそんなことは分からなくて当然ですから、そちらにも説明責任があるんじゃないですか」というようなリアクションをしてくるだろう。こういうところも、彼のとてもよくない点である。とにかく「説明責任」とか「コストパフォーマンス」とか「経済原理」とか中途半端な概念を中途半端に使い、自分の責任だけは回避する。甘ったれているとしか言いようがない。それなら、ぼくや相手をしてくれた大人たちのかけたコストについてどう思うのかと問いたいが、まあそれはどうでもいい。コストとかのことをぼくは一切考えたくないからね。ただ、北仲に来るための数百円の「コスト」のことまで持ち出されるとムッとする。金がなければ歩いてくればいいじゃないか。貧乏なのは仕方ないが、貧乏たらしいことを口にするのは本人の問題である。結局彼は、メディアやネットで流通している断片的な知識を適当につぎはぎしているだけなのでこういうことになるのだろう。とても浅薄に見えてしまう。

 そこで、次のように書いたわけだ。意味は、ネットをやめるか、せめて一日数時間に限定して、じっくりと物を考えたり、集中して本を読んだりする習慣を付けた方がいいよ、ということである。ぼくに面会しにくる時間がないと言うが、連休中とは言えtwitterだけ見ていてもネットに繋げすぎで、完全にネット依存症だ。これではまともな知的営為ができるはずがない。勿論彼は試しに助言に従ってみるつもりは全くないようだ。

>さっきのようなタイプの学生への有効な助言は「ともかくネットにつなぐのヤメなさい」に尽きる。
>話はそこからだ。本当に滅びるぞ。それができればちゃんと相手をしよう。
>しかし仮想空間に逃避すらせず、ダンスサークルやテニサーに埋没するタイプにその薬は効かない。
>逃げ道を断つしかないが沢山ある。

 ここからが、彼が一番こだわっている(その程度の知識で、本気か?)ように思えるネット論に関わる話である。彼はどうしてもネットで議論したいらしく、ぼくと会うことを極度に避けようとしている。実際はまあ、怖いだけだと思うけどね。大丈夫。退学になんてしない(し、またできるわけない)から(笑)。ただね、ここまで読んでみれば分かるように、きちんと文字で会話をするためにはたいていこれくらいの分量と労力は必要なので、twitterの限られた文字数で「議論ができる」と思っていることの方がきわめて異常なことなのだ。その点でもネット依存から離れることを勧めたいと思う。

>ぼくは大切なのは"論"であって顔晒すとか自己同一性とかどうでもいいと思ってるんだけどね。
>重要なのはその論に対して論破できるものがあるか否か。TL汚して本当にすみませんでした。

>先生が知っている「ネット」というのと、SNSで作られた新しい空間には違いがあるのでは、ということです。
>違わないのならその根拠となる文章が読みたいですね。

 SNS(Social Network Service)とはまた古い話を持ち出したなというのが実感である。もちろん、何の違いもない。ネットはいつの時代でも現実のコミュニケーションではできないことを補完することはできても、けっして現実のコミュニケーションに追いついたり、完全にカバーできたりすることはないし、未来においてもそうだろう。ぼくが昔書いた『情報宇宙論』(岩波書店)や『電脳交響主義』(NTT出版)を読めばいい。80年代からネットを自由な「アゴラ」と考え、夢を賭ける人たちはいた。そして、それはすべて幻想だったことが10年ほど前になるとはっきりした。ちょうど西垣通が東大の「情報学環」を立ち上げた頃で、人々がインターネットを相対化し始めるようになった頃だった。

 ネットでの論争とか議論は、ごく一部を除いていつも不毛である。それは、文字だけが残るために細部の表現に対する当てこすりや恣意的な誤読や悪意の無限連鎖に引き込まれる傾向をとても強く持っているからだ。また、現実なら、話をしてみて「こいつ馬鹿だな」とか「適当に話を打ち切ろう」ということができるが、ネットではしつこく言い募る方が「勝ち」を宣言できるのでたちが悪い。以前タバコの話の時の嫌煙者や山形☆浩生にしても、こっちがこんな下劣な奴らと話は続けたくないと相手するのをやめて議論を打ち切ったら、勝手に「逃走した」とかネットでしつこく言われまくった。だから、「トラップをかけた方が勝利する」仕組みなのだよね。まあ、こんなのも見る人が見ればどっちが正しいかはすぐに分かるのだけど、分からない人たちにはいつまでも分からないようだ。だから、顔を知らない人と議論なんてしない方がいい。もちろん顔を知っていても議論したくない人もたくさんいるけど。世の中には話が通じない人や本当に品性が卑しい人は沢山いる。そんな人たちと関わり合いにならないためにもネットで議論をしかけたり、受けたりしてはいけない。本当に重要なことなら会って話すか、せめて電話で直接話すべきだ。だから、まあskypeは代用にならないこともない。

 歴史を見れば80年代の草の根のパソコン通信時代にBBS, Mail, Chatという基本サービスが始まり、95年頃からWebを中心とした現在のインターネットの形態が定着した。このころぼくはフリーソフトウェア運動と関わり、地域BBSによるネットコミュニティ作りの手伝いをしていた。その後、日記を統合する八谷和彦の「メガ日記」やメールのコミュニケーションをデザインした「ポストペット」、クリエーターだけを会員にした「タイガーマウンテン」BBS、ヴァーチャル・ワールドを作ろうとした「World Chat」や「ハイパーメディアクリエーター」高城剛が始めた「フランキーオンライン」、松岡正剛の「イシス」など数多くのネットコミュニティ作りの試みがあったが、結局はWebだけになってしまった(濱野智史の『アーキテクチャの生態系』はこの辺りのことを全く知らないらしく議論の前提が間違っており、単に2ch.とニコ動を自慢したいだけの無内容な本としか言いようがない)。その後2003年ころにRSSを用いたblogが始まり(このころNTTのGooの設計思想に研究会で関わったりもした)、次に2005年頃からSNSブーム。当初はGreeのようなセレブと業界人たちのプレミアム・サービスだったのが、大衆化されたmixiのような匿名許容のサービスになってしまった。ただ、韓国のCyworldやMySpace、Facebookのような個人ページを中心とし、現実の人間関係の拡張につながるようなシステムから、当初は有名人やジャーナリストがリアルタイムで情報を発信する速報メディアとして始まったtwitterのように、匿名の大衆が無数の呟きを発信する「呟きの海」のようなメディアに変質していく流れにはかなり日本の特殊性が見られるように思う。結局は、それは2ch.やニコ動のような匿名による会話空間に接合されていることによって無責任なゴシップ雑誌のようなダメな方向に流されているように思われるのだ。

 端的に言って、匿名による個人批判や告発は常に「卑怯」である。トイレの差別落書きと同じく、自分が安全な位置に居て他人を攻撃したり中傷したりするのは人としてやってはいけない行為だ。yamasawa君は「匿名だから企業の内部告発とかできるんでしょ?」と書いていたが、あれだって「卑怯」で人としてやってはいけないことに変りない。ソフトの不法コピーに対して「密告」システムが作られているが、「内部告発」って卑劣な「密告」であることに変りない。自分のリスクを賭けて告発すべきなので、まるで内部告発が社会正義のように言い繕う社会の方が間違っているのである。その点で「尖閣ビデオ」を流出させた職員は辞職したし名乗りでたのでまだしも筋が通っている。もっともあれを有罪にできない社会はおかしいと思うけどね。というわけで「弱者」や「被害者」や「学生」だから、「匿名」で社会批判していいということにはけっしてならない。なぜ、もっと誇りをもって生きられないのかと思う。いつでも顔を晒して話すべきなのだ。余りに耐え難い状況に置かれて、口を開けなくなっているのでなければね。アウシュヴィッツのユダヤ人や奴隷はけっして話すことすら許されていなかったのだから。

 ただ、yamasawa君が「しがらみや、利益や、立場に縛られない自由な言説空間」を求めるのは正しい。ぼくたちもそういう古代ギリシャの広場のような空間(アゴラ)や、すべてを話すこと(パレーシア)について、ちょうど今ヴォディチコと一緒に考えているところだ(ミシェル・フーコーの『真理とディスクール:パレーシア講義』筑摩書房は読むべきだ)。

 けれどもそうした自由な言説空間はけっしてネットではないし、ましてやtwitterでもない。そんな安易なものではありえない。また、そうした空間は環境としてあらかじめ誰かによって用意されるものではなくて、自分自身を危険に晒しながら血を流して創りだしていくものでしかありえないと思う。パレーシアはつねにリスクの中に身を晒しながら自分の考えを話すことなのである。まあ、もはやyamasawa君や彼と会話を交わしているマルチの上級生たちのツイートは、下らないシモネタや情けないぼやきも含めて、ぼくに全部モニタリングされているからね。ある意味君たちはツイッターを続ける限り顔は晒さなくても、中身を晒されているとも言えるけど(笑)。

 というわけで、これだけ長い文章をぼくに書かせたのだから、yamasawa君は勝ったのだと言うこともできる。だから論争はもういいから、一度研究室でも北仲にでも挨拶に来なさい。来たことないのなら北仲に来ることを勧める(笑)。

« 「9.11」と「 3.11」/雑感 | トップページ | Krzysztof Wodiczkoのこと(4)パリでの邂逅 »

「大学」カテゴリの記事

コメント

マルチの学生ではありませんでしたが、以前先生の講義を受講していたものです。

一連のツイートを読んで印象に残ったのは、彼のネット論が先生のおっしゃるとおり、旧聞に属するものであることでした。
あの書き込みから明らかになるのは、彼が「ネットには興味を持っているがネットに関する著作をおそらくほとんど読んでいない」ことです。そういう人間は得てして勘違いしています。
何故そういえるのか。彼のようにネットのコミュニケーションを誤解している輩は、私が卒業した2007年以前にもいたし、ほとんど彼と同じようなことを言っていたからです。そしてそういう輩に限って無知でした。

>ただ、yamasawa君が「しがらみや、利益や、立場に縛られない自由な言説空間」を求めるのは正しい。

おそらく彼は、「自由な言論空間」を「礼儀や儀礼が必要ないもの」と読み替えているのでしょう。礼儀や儀礼を感情論とレッテル張りしていますし。自由な言論空間にも無礼はあるし、糾弾されるべき態度というのはあります。
もし彼が、ある程度知識を身につけていた上で、その辺をあえて無視しているのだとしたら、根気よく付き合っていくしかないような気もしますが。
それにしても、この勘違いはネット時代の一度は通らなければならない道なのでしょうか。
むかしからその辺の勘違いは根深いなと感じていたのでコメントさせていただきました。

トラックバックです 
やまざわの戯言: 室井尚短信 : 「togetter:横浜国立大学、(旧マルチ)人間文化課程のことについて」 について... http://t.co/ju6rbN2

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/16230/51543457

この記事へのトラックバック一覧です: togetter:横浜国立大学、(旧マルチ)人間文化課程のことについて :

« 「9.11」と「 3.11」/雑感 | トップページ | Krzysztof Wodiczkoのこと(4)パリでの邂逅 »

最近のトラックバック

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31