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2012.04.24

反時代的アイドル「ももクロ」を考察する

 どうしようかな、と思いつつも...
 このところハマってしまっている「ももクロ」についてちゃんと書いてみようと思う。

 こういうイロモノの芸能ネタをについてきちんと書くのはなかなか難しい。単におっさんがアイドルにハマっているとしか受け取ってもらえないからだ。まあ、基本的にはそうなのだろうし、「まさか自分がアイドルにはまるなんて」と思っている多くの大人たちと同じ状態に置かれているだけではある。彼女たちはいわゆる「少女アイドル」というカテゴリーに分類されるのだが、思わず引き込まれてしまったのはプロジェクトとしての「ももクロ」である。だからコンセプト・メイキングの素晴らしさと、それをきちんと形にしているパフォーマーとしてのこの15〜18歳までの少女たちを含めてすべて面白がっている。ちょっと長いが最後まで読んでもらえば、なぜ関心をもち続けているのか(単なる「投影」とか「転移」と言われればそれはその通りなのかもしれないが)が分かってもらえると思う。

 学生から教えてもらって、「YouTube」などでそのアクロバティックなダンスと戦隊物やプロレスのコスプレを見ていたうちは、なるほどこれは爛熟した日本のサブカルからしか生まれない一種のバロキズムだし、まだ韓国には真似できない独自の文化だなとは思ったが、それでも冷静でいられた。ハマってしまったのは、年末近くなって「労働讃歌」と、遅ればせながら「Z伝説--終わりなき革命」のPVを見てからからである。さらに「労働讃歌」発売日の11月23日、仙台ZeppホールでのライブのUstream映像で、彼女たちがニッカボッカと地下足袋姿で歌っているのを見てから、すっかりハマってしまった(これはまだYouTubeでも残っているはずである)。この「労働讃歌」で大槻ケンヂの書いた歌詞は近年のポップスの中では本当に出色の出来である。

 震災で立ち尽くしている日本人たちに向けて、「ももクロ」は4月の中野サンプラザでの「ももクロ〜春の一大事」で早見あかりというチームの中核を担ってきたメンバーが脱退するという「喪失の儀式」を大々的に行った。その後「試練の七番勝負」というイニシエーションを経て、「ももいろクローバーZ」という戦隊物のパロディへと「脱皮」したわけであるが、そこでは大きなものを失っても「力一杯歌って、踊って、みんなの笑顔を守る」使命を通して「世界を救う」終わりなき(ももクロ)革命という、まさしく「永久革命」の理念を提起している。「労働讃歌」では、公金のバラマキとデフレ克服というバブル時代そのものの新自由主義へと戻ろうとする反動の嵐が吹きまくり、完全に錯乱した大衆が、橋下や竹中や小泉といった過去の亡霊にすがりつくという現在の絶望的な政治状況の中で、土地や株式配当などによる不労所得を否定し、「額に汗して働くことからしか未来は生まれない」というメッセージを、労働者に扮した少女たちが全力で伝えてくる感動的なシーンを作り出した。いまだに瓦礫撤去や津波で洗い流された砂漠のような町を前に立ち尽くす東北の地で、ニッカボッカと地下足袋姿で全力で踊りまくる少女たちのライブ映像を見て、思わず「ももクロ」信者になってしまったというのが本当のところである。これは本当に素晴らしい! 多分、ヒットラー・ユーゲントの天使の歌声に魅了されたナチス時代のドイツ人もそうだったのだろうな。ロリコンや百合的なくすぐりだけで全くバロック的要素のないAKB他の少女アイドルたちとはぜんぜん違う。歌はうまくはないし、音程はよく外す。踊りも全力感以外はいまひとつ。みんな背が低くて幼児体形で寸胴だ。しかし、それでも彼女たちの生命感溢れる躍動と輝きは尋常ではない。

 このプロジェクトのひとつの特徴は、インターネットを重要なメディアとして活用していることだ。「にこ生」や「Ustream」での送り手側自身によるネットでの発信はもちろんのこと、「YouTube」での「違法」アップロードされたDVD映像までもが宣伝に使われている。これらの映像はもちろん削除されるが、それでも一週間程度は放置されていて何万・何十万のダウロードは制作側で許容しているように見える。もちろん、プロモーションとしてアップロードされた映像も何百万人もがアクセスしている。したがって、営業戦略としてネットを意図的に使っているとしか思えない。これらの映像はもはや削除されてしまって見られないものが多いが、逆に言えば検索をこまめにかけていればほとんどの商用映像をネットで見ることができる。毎日ネットにアクセスするユーザーにとって、彼女たちの映像を探すことが習慣となってしまい、とても効果的な営業戦略である。映像戦略としてはそれ以外にもインディー系の映画や地方のローカル番組などにも積極的に出演すること、ネット放送で有料配信されている番組「ももクロchan」やCS番組などのインターネット流出をむしろ積極的に許容していることからも、それが意図的なものであることが分かる。とりわけ、ライブの固定カメラによる実況映像はUstreamで生配信されたり、深夜にゲリラ的に突然放送されたり、それらのYouTube転載を黙認していることからもよく見て取れる。つい毎日、ももクロの新しい映像配信を検索してしまうような仕掛けになっている。

 もっとも映像によるプロモーション自体がそれほど新しいわけではない。特徴的なのはこれらの映像が、ひとつの物語性を明確に持っていることであり、その物語とは基本的には「小さな少女たちが路上や大型電器店ライブでの下積みからのし上がって、紅白歌合戦に出演することを目指す」という––それ自体はとても陳腐な––ストーリーから構成されている。彼女たちは、路上でラジカセでのライブから始まり、インディーズ・デビュー後には空き地や大型電器店の店頭ライブなど、ワゴン車で寝泊まりしながら全国各地でCDの手売りや握手会を催してファンを増やしていく。そして一年後にメジャーデビュー。「行くぜっ!怪盗少女」でオリコン・デイリーランキング1位というストーリーが、2008年から2010年にかけて展開されている(インディーズ時代のCDもオリコン20位以内に入っていたのだから、そもそもがインディーズ・デビュー自体が仕掛けられた戦略だったとしか思えない)。そして2010年12月の「ももいろクリスマス」という初のホールコンサートで1000人以上の観客を集め、2011年の4月の中野サンプラザ、8月のよみうりランドで数千人、さらには2011年12月の「ももクリ」ではさいたまスーパーアリーナで一万人のライブを実現する。結局紅白には出演できなかったので、2012年の4月には横浜アリーナで2日連続のライブ(観客動員2万5千人+全国38会場でのライブビューイング)というのが、この一年のストーリーだ。横アリの後はNHKホールや西武ドームが予告されている。

 楽曲も普通の10代の少女たちの不安定な気持ちを表現したものから、戦隊モノのパロディ、アニメの主題歌風のもの、格闘技モノ、「労働讃歌」のように中年の男たちの気持ちを歌わせられているものとバラエティに富んではいるが、基本的にはすべて自己言及的に、こうしたストーリーと結びつけられるように作られており、消費者たちはこの「ももいろクローバー」というサクセスストーリーに自発的に参加するように仕組まれる。サイリウムを振りながらライブを全力で応援するファンたちは「モノノフ」という彼女たちの夢を支える重要な登場人物としてこのドラマに組み込まれていく。芸能人やお笑い芸人が彼女たちにハマるのはそのためであり、しかもそのこと自体がすぐさま、彼女たちのバラエティ番組への出演という営業戦略へと反映されていく。

 しかし、要するにこうした物語は制作側によって作られたフェイクにすぎない。紅白歌合戦に出たところでそれは普通の芸能人になるにすぎないわけで、そんなことを制作側は本当には目指していない(多分それが実現してしまえばこのストーリーは終わりだ。だからそれを望まないのなら、唯一の有効な戦略はこのストーリーをぶち壊し、たとえば「海外武者修行」とかの全く別なストーリーを作り出すことだが、果たしてそこまでできるだろうか?)。ただ、少女たちはその物語を本気で、全力で生きようとしており、そのストーリーを完全に身体化している。この「紅白を目指す」というストーリーは彼女たちによってまるで「甲子園を目指す」高校野球部のように完璧に再現されており、スポ根モノのマンガ、もしくはミュージカル仕立てサクセスストーリーのように構成されている。これは、この仕掛けの中心にいるマネージャーの川上アキラ氏が明らかにしているように、80年代に新日本プロレスの新間寿やアントニオ猪木、そして90年代に団体対抗戦路線を進めてきた全日本プロレス、全日本女子プロレス、さらには「FMW」、「K-1」、「PRIDE」や「ハッスル」などの格闘技イベントが作り上げてきた営業戦略をとても強く引き継いでいる。

 次から次へと現れる悪魔のように強い敵と戦うという力道山以来のプロレスのストーリーを、新間寿とアントニオ猪木はフィクションと現実の境目が分からなくなるほどにまで練り上げてファンを引き付けて行った。ももいろクローバーで凄いのは、「Chai-Maxx」という「明日のジョー」を意識した楽曲で、プロレスラーの武藤敬司の決めポーズを振り付けで使ったことから、中野サンプラザのライブに武藤本人を出演させ、さらには全日本プロレスの会場に「グレート・ムタ」のセコンドとして忍者衣装をまといムタ・メイクをした「愚零闘クローバーZ」を登場させたことである。彼女たちは毒霧パフォーマンスをした上に、何と場外乱闘に参加し、試合後のWWE風インタヴューまでこなした(ちなみにこの時の顔面メイクは相当面白い。なかでも玉井詩織の顔に黄色に赤字で「妹」と描かれていたのには愕然とした)。この辺りの営業戦略は、マネージャーの川上アキラ、ステージ演出の佐々木敦規、振付けの石川ゆみなどによるかなり周到なチームワークに支えられているように思われるが、もちろんこうした大人たちが悪ふざけのノリで作りあげて、言わば少女たちに無理矢理押し付けられた企画コンセプトを、本当にリアリティをもって素直にリアクションし、全力で実現してしまう少女たちのパフォーマンス能力が素晴らしいことは言うまでもない。大きなライブの最後に必ず歌われる彼女たちの路上時代の曲「あの空に向かって」を歌っている彼女たちは本気で涙を流し、それを見る観客もフィクションとリアリティの境目を越えて一緒に涙に飲み込まれていく。これは、新日本プロレスが次々に作り出したドラマ(ex. タイガー・ジェット・シンの池袋路上での猪木襲撃事件、その報復としてのリング上での骨折まで追い込む腕折り処刑、ブルーザー・ブロディがベートーベンの「運命」をテーマに登場したり、たけし軍団がビッグ・バン・ベイダーを引き連れて登場し、いきなり猪木を口から泡を吹かせて失神させてうろたえまくる現場に思わず引き込まれてしまった)を思い起こさせる。これらのドラマは完全に仕組まれたフェイクにすぎないのだが、プレイヤーたちの卓越したパフォーマンス能力によってリアリティを獲得し、ついには虚実が逆転して現実を乗り越えてしまうという共通した特徴を持っており、考えてみればこれは演劇がかつて有していた魔力にほかならない。ももクロは、かつてシェークスピアや鶴屋南北、そして言うまでもなく天井桟敷襲撃事件や新宿中央公園事件を引き起こした唐十郎が持っていたこのような「演劇性」を、「モーニング娘。」や「AKB48」ではなく、歌舞伎や80年代の「新日本プロレス」の形を通して実現させているという点が完全に新しいと思われる。しかし、それがパロディやパスティーシュである以上、コンセプトは本当に新しいわけではなく、「目新しい」だけであることも否定はできない。それは少女たちの持っている本当に短い少女期の不安定な身体だけが実現できる綱渡りのような危うい光景でもあり、「平成のかぶきもの」というキャッチコピーが示しているように、時代の中でかげろうのように実現された一瞬の「ケレン」なのだと言えるだろう。そして、それは、だからこそ愛おしい。多分、コンセプトを作っているブレインたちはそのことも知っている。だが、それが角兵衛獅子のような操り人形にならないところが、あの少女たちの身体のもっている輝きなのだ(しかしながら、どうあがいても角兵衛獅子にすぎないこともまた事実ではある)。

 彼女たちの楽曲もまた、こうしたストーリーに沿う形で作られてきている。とりわけ、「行くぜっ!怪盗少女」や「Z伝説~終わりなき革命」などを提供している前山田健一の存在感は強いが、それ以外にも彼女たちの楽曲には制作側の仕掛けが強く反映されている。戦隊物やプロレスをなぞり、アクロバティックな振付けや全力疾走感を意識的に取り込むことによって、彼女たちは性の垣根を乗り越えて、かつての「光GENJI」が持っていたような疾走する少年性をも併せ持つようになっている。女性のファンが多いのもそのためであろう。「Z伝説」で歌われるように「全力で歌って踊って笑顔を届けること」、「走れ」での「笑顔が止まらない、踊る心止められない」、「猛烈宇宙交響曲」での「ぼくのこと嫌いですか、声は届きませんか?でもこの声を君に届けよう」という溢れんばかりのダイレクトな愛のメッセージに、それがフェイクと知りながらも引き付けられてしまうのが「現在」というこの時代のリアリティなのかもしれない。それも無意識のレベルでである。それはやはり震災と津波、原発事故による大きな喪失感と深いところで結びついている。僕には彼女たちが歌っているその背後に津波の映像が見えるような気がするのだ。

 90年代における女子プロレスをも含むプロレスの抗争劇や、FMWの電流爆破マッチ、K-1やPRIDE、さらにはハッスルといった格闘技イベントは結局ネタを使い尽くして衰退していってしまった。だが、それらは等身大のちっぽけな人間の肉体をメディアやテクノロジーの力を利用して極限にまで増幅して、観客を夢中にさせる技術をいくつも開発していた。ももクロのライブにおいて顕著なのは、少女アイドルという異なるジャンルにおけるそうした戦略の領域横断的で強引なシフトであると言えるだろう。それを今見られるのはとても凄いことだし、何から何まで駄目な今の日本における数少ない希望であるようにすら思えてくる。勿論それはすぐに消費され尽くしてしまうだろう。すべての大人たちの少年期・少女期がとても短かかったように。

 というわけで、4月22日に横浜アリーナに行ってみた。10年程前にK-1に行ったことがあるし、その後はローリング・ストーンズの公演に行ってえらくがっかりしたことがあるが、それ以来である。さて、彼女たちの疾走はこれからどこまで続くのだろうか? そして、それは他の領域や文化にどんな爪痕を残して行くのだろうか。少女たちの肉体がどこまで持ちこたえていくことができるのだろうか? そんな風に考えてみるとこの現象にはまだまだ楽しみが残っている。

# 横浜アリーナのライブはそれなりに楽しかった。ほとんどスタンディング状態で腕と足腰を動かし続けたので疲れた。サイリウムを何本も持つのでこのライブには「拍手」という概念がない。星空のような光と歓声だけが広大なアリーナを埋め尽くす。K-1やプロレスの試合のようなセンターステージだけで、音響はとても悪い。小さな少女たちは全力で疾走していたが、小さすぎて光の波の中に埋もれていた。1日目に色々な演出を施したせいか、2日目はひたすら持ち歌を歌うライブだったので、できることならもう少し音のいい小さなホールで見たいと思った。それにしても、人って(当然ぼく自身も含めて)猿なんだなあと改めて思った。みんな同じような法被やパーカーを着て、グッズを身につけて、同じ合いの手を大声で叫んでいる。360度のパノラマの中で、人はひたすら他の観客がどう振る舞うかを観察し、鏡のようにその真似をしながら、巨大なウェイブを作り出して行く。結局、ぼくたちがあの小さな少女たちの向こうに見ているものって一体何なんだろうということが気になった。ホールだったらまた行ってもいいが、球場や大会場はちょっともう遠慮したいなあと思った。

# どっとアクセス数が増え、いろんなところからRTされてしまい伏せ字が全く有効でないことが分かったので元に戻してみたが、どうもあまりまともに読んでもらえていないような気もするので、消すこともあるかもしれません。当分コメント機能は停止します。細かい点をいくつか改訂しました。4/24,21:40

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