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2012.08.11

やなぎみわ「1924:人間機械」

 8月3日、世田谷美術館で行われたやなぎみわ演劇プロジェクト第三部「1924:人間機械」の初日を観た。 この三部作は、第一部「Tokyo-Berlin」が2011年の7月の京都国立近代美術館での「モホイ・ナジ展」会場で、第二部「海戦」が同年11月神奈川芸術劇場(KAAT)で、そして完結編となるこの「人間機械」が4月の京都近代美術館を皮切りに高松市美術館、そして世田谷美術館での「村山知義の宇宙--すべての僕が沸騰する」展に合わせて上演されている。

 この三部作すべてに共通する主人公は、日本の前衛芸術運動「MAVO」の創設者であり、パフォーマー、画家、彫刻家、絵本作家、小説家、舞台美術家、演出家、映画監督など多彩な活動で知られる村山知義である。やなぎが焦点を当てたのは、1923年にベルリン留学から帰国し、関東大震災直後の築地小劇場の立ち上げや「MAVO」、「三科」など新興芸術の立ち上げに精力的に関わりながらも、25年には早くもプロレタリア芸術に転向し、その後日本の左翼的新劇運動の中心となっていくまるで台風のように不眠不休で動き続けた時期の村山であった。一部はモホイ・ナジとの現実にはなかった交流を通して、二部は築地小劇場の立ち上げと村山がもたらした構成主義演劇「海戦」を通して、そして第三部は村山の前半生と26年に出版された小説集「人間機械」をやなぎが自由に解釈して、ダンスと音楽と演劇、さらには美術館の建築全体を利用したメタ演劇として構成されている。目に見えるテーマはだから村山知義と1920年代における日本の新興芸術運動なのだが、そこにはもうひとつベルリンからの帰国後、MAVOを結成した直後の9月に見舞われた関東大震災直後の時代に焦点を当てていること。村山が夢中になった構成主義やダダイズムなどのアヴァンギャルド芸術運動が、すぐにソヴィエト連邦と結びついた政治的なプロレタリア芸術運動に飲み込まれて行くという歴史的な事実を現代を映し出す鏡として提出していることである。

 やなぎは言うまでもなく傑出した美術家だが、この2,3年この演劇プロジェクトに力を注いできている。昨年、神奈川芸術劇場(KAAT)で観た「海戦」は劇場を用いたこともあり、既成の演劇、特に新劇の臭いが強く、その野心的な意図がうまく伝わらない歯痒さもあったが、彼女の志の高さだけは感じ取ることができた。それと比べてみても、今回の「人間機械」は見違えるように素晴らしい出来映えだった。美術館付属のホールをメインにはしているが、玄関ロビーから展覧会場、美術館の搬入口や収蔵庫までも用いた美術館でないとできない境界横断的な演劇であり、ホールの中のひとつのコンテンツであるばかりではなく、観客をひとつの演劇的出来事の中に巻き込むような広がりのあるアートイベントだったと言っていい。久しぶりに終わった後の興奮を抑えるのが難しいほど、素晴らしい公演だったのである。

 観客たちは開演時間の30分前に集められ、レトロな衣装を身につけた「案内嬢」たちに、イアホンの使用法を一人一人懇切丁寧にされる。当然開演時間ギリギリに駆けつける客もいるわけだが、最初から待っている客も最後の観客へのイアホンの説明が終わるまで、美術館玄関のホールで立ったまま待っていなくてはならない。外からの暑い空気が流れ込む玄関口で30分ずっと立ったまま待たされるのはかなりイライラする経験だったが、これもまた「人間機械」のテーマとつながる周到に練られた趣向だったと気づくのは上演が終わった後になる。140-50人程度の観客たちは飛行機の搭乗口の乗客のようにお互いを観察しながらじっと待たなくてはならない。ちなみにこの日は数多くの美術館関係者たちの他、森村泰昌氏の顔も見受けられた。

 ホールでのパフォーマンスは案内嬢と二人の村山の台詞とダンス、紗幕の裏側でのピアノの生演奏、紗幕への映像のプロジェクションによって構成される。音声も生の声や音とあらかじめ用意された音楽、そしてイアホンから流れる音によって複雑に構成されている。二人の村山は、ひとりはおかっぱ頭の若き村山と、案内嬢の仮面を被った村山。後者は時には戸坂潤など若い時代の村山と関わりのあった別な人物にも姿を変える。前半はこれらのユニットによるシークエンスごとに、高校時代の村山、ベルリンでの村山、帰国して八面六臂の活動を繰り広げる村山などが自由に表現されていく。ピアノの生演奏とイアホンを通して聞こえてくる効果音やノイズと生の声とが交錯し合う、徹底的に稽古を重ねたことが伝わってくる、思わず引き込まれてしまいそうな見事なパフォーマンスである。三つの音だけですべてを言い表そうとする村山、偶然出会った娼婦にドストエフスキーの「ソーニャ」を重ね合わせてしまう村山などのシーンが楽しいし、銀座のデパートで開かれた「三科」展のシーンのバカバカしさも面白い。

 だが、村山が短期間のうちにアヴァンギャルドからプロレタリア演劇へと転向していく時期に差し掛かると、観客は無理矢理この没入感から引きはがされ、また表現の別な次元へとはじき飛ばされていくことになる。「人間機械」という村山のキーワード(これは元々は第一次大戦の傷痍兵たちを指した言葉だったらしいが)が、仮面を被った案内嬢たちの増殖し、痙攣しながら疾走するサイレント映画風の映像の反復によって、ソヴィエト共産党の集団主義へと雪崩れこんでいくクライマックスで、突然客席の照明がつき、案内嬢たちのアナウンスにより「特定の政治的立場は公共の美術館にはふさわしくないので、上演を中断する」と宣告される。さらに、案内嬢たちはテキパキとした官僚的な態度で、観客をいくつかのグループに分けて、順番にホールの外に誘導する。玄関ホールから展覧会場までの長い廊下を抜けて観客たちが案内されるのは、展覧会場の裏側にある美術館の搬入口だ。そこではやはり「特定の政治的立場を表しているために?この展覧会では展示されなかった」村山の拡声器で政治的なメッセージを発生する作品が自動車の屋根の上に設置されており、それはシャッターを開けられた搬入口から美術館の裏庭へとゆっくり走り去って行く。さらに、案内嬢のアナウンスによって、反対側の収蔵庫入り口で、ケースにポーズを取って収められたおかっぱ頭の若き村山が「美術館に収蔵される」ために収蔵庫の中へと消えていく。これがエンディングである。

 美術にしても演劇にしてもダンスにしても、それぞれのジャンルの内側だけにとどまる表現は物足りない。かと言って、それぞれのジャンルの内部でもきちんとしたものでなければ、それはそれでもっと物足りない。やなぎの「人間機械」はその両方を満たしているばかりではなく、また境界横断的であるばかりでもなく、社会へ、歴史へ、状況へと観客を「外」へと連れ出して行ってくれる稀有の演劇的イベントであった。それは、「アヴァンギャルドとは何か?」、「表現とは何か?」、「20世紀とは何か?」、「津波の後の生はいかにして可能か?」などといったさまざまな問いに向けて開かれている。それは何かの再現ではないし、何かの具体的なメッセージでもないし、美術でもなければ、演劇でもないし、パッケージ化された「作品」でもない。ベルリンから帰国して一瞬の台風のように回転し続けた1920年代の村山の姿に自分自身の表現の場所を重ね合わせることによって、グローバリゼーションと大震災や津波の後を生きる我々に突きつけられた答えのない大きな「問いかけ」であり、ここから「けっして逃げない」というやなぎ自身の決意表明でもあるように思われた。

 実際のところ、歴史上の村山知義がどうだったか、築地小劇場や日本の新劇運動がどうだったかというようなことはどうでもいい。それは「転向」を何度も繰り返しながら、絵本や大衆文学や児童文学や映画といった多様な活動を行い、しかしそのすべてが底の浅いものでしかなかった村山の実像ではなく、1924年前後のほんの2,3年の間にだけのアヴァンギャルド芸術家としての村山––しかも、あっと言う間に意識よりも社会システムを具体的に変えようとする政治的なプロレタリア芸術へと転向して行った村山の一瞬の姿に、やなぎ自身の表現への思いや問いかけをこめた「仮面劇」なのである。後年の小太りで偉そうな普通の文化人となってしまった実在の村山とは似ても似つかないおかっぱ頭でくるくる回りながらダンスをする前衛芸術家としての村山は、この公演では美術館の収蔵庫の中に永遠に収められてしまった。政治的なアジテーションをがなり立てる「作品」は美術館から街路へと飛び出して行ってしまった。そして、観客が取り残された場所––つまり、美術館の搬入口と収蔵庫と展覧会場の入り口がクロスする荷捌き所こそが、やなぎが、そして我々がいま位置している「状況」なのである。観客の背後にずっと隠れていて、最後に観客の前に現れて照明も音楽も何もない搬入口で「ありがとうございました」と軽く会釈をし、すぐに引っ込んでいったやなぎの背中には明るい力が漲っているように見えた。

 やなぎのこうした「演劇プロジェクト」は今のところ美術館の展覧会場を中心に、3日間とかのきわめて短い期間限定のものにとどまっている。KAATでは少し長い日程での公演だったが、正直に言って普通の劇場ではその魅力がよく伝わらないのではないかと思う。では、どうしたらいいのか? 確かに美術館や展覧会という場所とリンクするこの形態はとても面白い。だが、それだけでは限界があるようにも思われる。何よりも、もっと沢山の人たちに見てもらわなければ、とてももったいない。そのためには、劇場やホールの中での独立したコンテンツにとどまらない、より大きな仕掛けが必要となってくるように思われる。やなぎは唐十郎に大きな影響を受けており、近い将来にはテント演劇にも挑戦したいと言っているが、テント内の演劇空間を「内側から」外に向けて開いていこうとする唐十郎とは違って、やなぎにはもっと俯瞰的で開かれた外の空間と直接にリンクしていく方が、資質からしても合っているような気がしてならない。それは、どちらかというとサーカスや野外演劇、もしくは展示会のイメージに近いような気がする。たとえば、やなぎは鳥取県の「鳥の劇場」での秋の新作公演「パノラマ」を準備中だか、それは彼女の展覧会とも連動しているらしい。また、来年には京阪電車駅構内の「鉄道芸術祭」でも、やなぎ展と演劇の同時開催を計画しているらしい。演劇以外の要素も含み込んだ、サイト・スペシフィックで、場所の力も取り込んだような表現が彼女には向いている気がするし、観客が移動しながら複数のポイントを通過していくスタイルも続けていって欲しい気がする。ただ、それにはさらに大きなパワーと、さらに多くの協力者と、助成金などを含んださらに大きな金額の経済的支援が必要になってくることだろう。美術や演劇というジャンルの枠からはみ出たこうした境界横断的な企てに対しては、公的助成がきわめて難しいのが日本の現実である。

 いや、そんなことはもはや関係あるまい。どんなに苦しい条件でも、どんなに追いつめられても、どんなにお金が足りなくても、それでも彼女がこの企てを中断することはありえないと確信している。この三部作で彼女は自身の演劇(的)プロジェクトのコアとなる部分にたどり着くことができたのだから、後は先へ先へと進んでいく以外のことはもはや考えられないのではないだろうか? くるくる回るおかっぱ頭の村山知義に導かれて、彼女の次回作がどこに向かうのか、どこに我々を連れて行ってくれるのか、それを見るのがとても楽しみだ。


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