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2012年8月

2012.08.16

追悼:小川巧記さん

 昼過ぎに大学の横浜文化ラボ事務局でネットニュースを見ていたら、突然以下の様な記事が目に飛び込んできた。

小川巧記さん車にはねられ死亡 横浜開国博プロデュース

 15日午後11時10分ごろ、横浜市緑区長津田1丁目の国道246号で、近くの広告会社役員小川巧記(たくのり)さん(58)が乗用車にはねられ、死亡した。神奈川県警緑署によると、現場は片側2車線の直線道路で、小川さんは横断歩道のない場所を渡っていたという。
 小川さんはイベントプロデューサーとして知られ、2009年に横浜開港150周年を記念して開かれた「開国博Y150」では総合プロデューサーを務めた。05年に愛知県で開かれた「愛・地球博」でも市民参加プロジェクトを担当した。

 思わず自分の目を疑った。

 小川さんは昨日の深夜、自宅付近で自動車にはねられそのまま亡くなってしまったらしい。はねた人が「発見が遅れた…」と言っている記事もあったから、強く頭を打ったにしても、もし治療が少し早かったら命は助かったかもしれないと思うと残念でならない。

 小川さんとは9日前に、一緒に手伝っている「ASHIGARAアートフェスティバル」の打ち合わせと懇親会で、関内で飲んだばかりだったのだ。4月、5月、7月と、4,5回は一緒に飲んでいる。何か、気が合うというか一緒にいるとリラックスできるような気がして(それが小川さんの才能でもあったのだが)、その度に長い時間一緒に飲んだ。年齢も一歳しか違わないし、とても親しくしていただいたのでこんな急な訃報に接して悲しくて仕方ない。

 自分より若い同僚の死や教え子の自殺などつらいことは山ほどあったが、元気だった仕事仲間が突然交通事故で死んでしまうという経験は初めてだ。ぽっかりと心に裂け目ができたようで今夜は何も手がつかない。気持ちの整理をするためにも少しでも関わりがあった人間として、小川さんとの思い出を少し書いてみようと思う。

 小川さんと初めて会ったのは、2008年の5月。水戸芸術館で最後にバッタの地上置きをやった時だったと思う。翌年の「Y150横浜開国博」の総合プロデューサーとして、ADKや実行委員会のメンバーと一緒に見に来て、ベイエリアにナントのラ・マシーンの象を連れてきたいので、もう一つの会場であるヒルサイドエリアにバッタを持ってきたいというような話だった。宴会で少し話しただけだったが、この時の印象はあまりよくなく、要するにバッタのバルーンを人寄せの道具の一つに利用したいだけだろうと思っていた。

 2009年の4月に、ラ・マシーンのパフォーマンスが横浜であった。実際には小川さんが望んだ「象」ではなく、少し不気味な2匹の「蜘蛛」になってしまったが、赤レンガ倉庫前の広場に何日か置かれた後、日曜日に日本大通から新港までのパレードが行われた。この時のことはblogにも書いた。 ものすごい数の見物人たちと一緒に歩いていると、高揚してパレードの後ろを跳ねるようにはしゃいで歩いている小川さんに会った。小川さんに「先生、これからが本当に凄いんですよ。最後まで見て行って下さい」と言われたので、暗くなってから新港埠頭で行われた二匹の蜘蛛の火と水と大規模照明を駆使した大スペクタクルを見ることができたが、それがなかったらパレードだけで帰ってしまっていたかもしれない。この時の小川さんは子供のようにはしゃいでいて、無邪気に飛び回っていた。その笑顔が本当に無邪気でうれしそうだったので、少し好きになってしまった。

 6月の開国博のオーブンまでにも色々なことがあった。小川さんは「愛・地球博」でも、「開国博」でも一貫して「市民創発」という理念を貫き通していた。愛知の博覧会ではメイン会場ではなく、瀬戸会場での市民参加を中心とした会場づくり、開国博でもメインのベイエリアではなく、ズーラシアに隣接した場所が不便なヒルサイド会場の担当だった。だから、小川さんが「開国博の失敗」の責任者というのは大きな間違いである。ベイエリアを担当した博報堂の企画が転々と変わり、責任者がいなくなった穴埋めとして途中から総合プロデューサーを押しつけられたというのが本当のところである。ヒルサイドはADKが担当しており、本来はそれほど集客を期待されていない別会場で市民創発の実験を好きなようにやりたかっただけなのに、ベイエリアを含めた開国博全体の責任まで押し付けられてしまった。その結果、まともなコンテンツがほとんどない有料会場の不振の責任まで押し付けられることになってしまったのだ。その上、会期途中で最終責任者である中田市長が突然辞職し、逃亡してしまうということもあって、本人は裏では「逃げ遅れた」といつもこぼしていた。それでも、そんなことを表に出すことは一切なく、毎日両方の会場を行き来しながら、何とか盛り上げようと不眠不休で頑張っていた。会場でよく顔を合わせて挨拶をする以外にも、一度ADKのKさんと三人(途中からTさんも参加して四人?)で中山駅付近の飲み屋でじっくり腰を据えて飲んだことがある。この晩のことも忘れられない。最初の印象と違って、徹底的に誠意をもって人と接する方で、終わった後の大変な時期にもバッタチームとの野毛での打ち上げにつきあってくれたり、浅草まで唐ゼミ☆を見に来てくれたりしてくれた。

 小川さんは大学を卒業してからテレビの制作会社で働いて、そのあと独立して広告・イベント会社を経営。80年代後半からは博覧会や地域振興などのプロジェクトを続けてきた。野毛の「萬里」で飲んだ時に小川さんから聞いた話が忘れられない。小川さんは高校時代にベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に共鳴し、反戦の脱走アメリカ兵のサポートなどの活動をしてきたことがある。その頃から市民が自分たちの暮らしや社会に主体的に関わるのが本当の民主主義社会だという思いをもち続けてきた。だから、小川さんがずっと取り組んできたのは、上からのコンテンツを押し付ける博覧会や地域イベントの中に、住民や市民自身による文化創発を取り込んで行くことによって、最終的には自発的な市民が主導権を握って行くような社会の実現である。とても理想主義的ではあるのだが、愛知や横浜でうまくいくことも少しはあったが、ほとんどが失敗の市民創発イベントを粘り強く続けてきたのには、そんな理由があったということを初めて知った。今回、一緒に関わっている「ASHIGARAアートフェスティバル」でも、そうした小川さんの理念が貫かれている。行政主導の「アートフェスティバル」という一種の「ブーム」に乗っているが、目指しているものはそれとは全く違う住民主導の市民創発イベントなのである。2月に突然小川さんから電話がかかってきてから、4月に会場の下見、7月にキックオフ・イベント、そして5月と先週の全体会議と懇親会と、小川さんと何度も一緒になり、酒を酌み交わした。とても楽しい経験だった。ただ、先週の会の時には、仕事で疲れているのか、宴席でずっと居眠りをしているのが気になったが、地下鉄の駅で別れる時には元気に手を振って見送ってくれた。それがまさか最後の別れになるとは全く思ってもみなかった。

 足柄では既に唐ゼミ☆の公演が決まっているが、11月のフェスティバル中には、これとは別に小川さんと一緒にシンポジウムをやりましょうという話が出ていた。これがもうできなくなってしまったことがとても悲しい。4月の下見の日の帰りに、横浜橋商店街の韓国料理屋で飲んだ後、大通り公園そばのクラシックなバーで飲みながら足柄のコンセプトについて話し合ったり、南足柄の大雄山駅ビルの居酒屋でみんなで飲んだりした日のことも昨日のように思い出される。ご家族のことや、会社の他の仕事のことなどほとんど話を聞いたことはなかったが、博覧会やさまざまなイベントを通して、小川さんに感化されたり、影響を受けたりした人たちは沢山いるはずだ。こんなに若く、こんなに仕事盛りの時期に突然交通事故で死んでしまうなんて、とても残念なことだ。

 この動画には最後の方に小川さんの元気な姿が映っている。 ベイエリアの「はじまりの森」で、バッタと蜘蛛が対面した時の映像だ。この日、朝6:00という早朝にもかかわらず、実現に尽力してくれた小川さんは実にうれしそうな顔をして参加してくれた。そして、ぼくの逆サイド(右)に居るのが、当時横浜市のY150・創造都市事業本部長だった故・川口良一さんである。川口さんもまた、市長が逃亡してしまった後の開国博の行政における最高責任者として、裁判をはじめとするゴタゴタに巻き込まれて病気になり、数ヶ月後に亡くなってしまった。川口さんにもとてもお世話になった。二人とも志をけっして曲げない頑固で素敵な人たちだった。そんな人たちがこの世界からこんなにも早く消えて行くのはとても不条理なことのように思えるが、しかしそれが現実なのだ。

 思いつくままに書いて、少し気持ちの整理ができたように思う。小川さん、突然目の前から消えてしまうなんてさみしいよ。

 心から、ご冥福をお祈りいたします。小川さんと会うことができてとても感謝をしています。ありがとうございました。

2012.08.11

やなぎみわ「1924:人間機械」

 8月3日、世田谷美術館で行われたやなぎみわ演劇プロジェクト第三部「1924:人間機械」の初日を観た。 この三部作は、第一部「Tokyo-Berlin」が2011年の7月の京都国立近代美術館での「モホイ・ナジ展」会場で、第二部「海戦」が同年11月神奈川芸術劇場(KAAT)で、そして完結編となるこの「人間機械」が4月の京都近代美術館を皮切りに高松市美術館、そして世田谷美術館での「村山知義の宇宙--すべての僕が沸騰する」展に合わせて上演されている。

 この三部作すべてに共通する主人公は、日本の前衛芸術運動「MAVO」の創設者であり、パフォーマー、画家、彫刻家、絵本作家、小説家、舞台美術家、演出家、映画監督など多彩な活動で知られる村山知義である。やなぎが焦点を当てたのは、1923年にベルリン留学から帰国し、関東大震災直後の築地小劇場の立ち上げや「MAVO」、「三科」など新興芸術の立ち上げに精力的に関わりながらも、25年には早くもプロレタリア芸術に転向し、その後日本の左翼的新劇運動の中心となっていくまるで台風のように不眠不休で動き続けた時期の村山であった。一部はモホイ・ナジとの現実にはなかった交流を通して、二部は築地小劇場の立ち上げと村山がもたらした構成主義演劇「海戦」を通して、そして第三部は村山の前半生と26年に出版された小説集「人間機械」をやなぎが自由に解釈して、ダンスと音楽と演劇、さらには美術館の建築全体を利用したメタ演劇として構成されている。目に見えるテーマはだから村山知義と1920年代における日本の新興芸術運動なのだが、そこにはもうひとつベルリンからの帰国後、MAVOを結成した直後の9月に見舞われた関東大震災直後の時代に焦点を当てていること。村山が夢中になった構成主義やダダイズムなどのアヴァンギャルド芸術運動が、すぐにソヴィエト連邦と結びついた政治的なプロレタリア芸術運動に飲み込まれて行くという歴史的な事実を現代を映し出す鏡として提出していることである。

 やなぎは言うまでもなく傑出した美術家だが、この2,3年この演劇プロジェクトに力を注いできている。昨年、神奈川芸術劇場(KAAT)で観た「海戦」は劇場を用いたこともあり、既成の演劇、特に新劇の臭いが強く、その野心的な意図がうまく伝わらない歯痒さもあったが、彼女の志の高さだけは感じ取ることができた。それと比べてみても、今回の「人間機械」は見違えるように素晴らしい出来映えだった。美術館付属のホールをメインにはしているが、玄関ロビーから展覧会場、美術館の搬入口や収蔵庫までも用いた美術館でないとできない境界横断的な演劇であり、ホールの中のひとつのコンテンツであるばかりではなく、観客をひとつの演劇的出来事の中に巻き込むような広がりのあるアートイベントだったと言っていい。久しぶりに終わった後の興奮を抑えるのが難しいほど、素晴らしい公演だったのである。

 観客たちは開演時間の30分前に集められ、レトロな衣装を身につけた「案内嬢」たちに、イアホンの使用法を一人一人懇切丁寧にされる。当然開演時間ギリギリに駆けつける客もいるわけだが、最初から待っている客も最後の観客へのイアホンの説明が終わるまで、美術館玄関のホールで立ったまま待っていなくてはならない。外からの暑い空気が流れ込む玄関口で30分ずっと立ったまま待たされるのはかなりイライラする経験だったが、これもまた「人間機械」のテーマとつながる周到に練られた趣向だったと気づくのは上演が終わった後になる。140-50人程度の観客たちは飛行機の搭乗口の乗客のようにお互いを観察しながらじっと待たなくてはならない。ちなみにこの日は数多くの美術館関係者たちの他、森村泰昌氏の顔も見受けられた。

 ホールでのパフォーマンスは案内嬢と二人の村山の台詞とダンス、紗幕の裏側でのピアノの生演奏、紗幕への映像のプロジェクションによって構成される。音声も生の声や音とあらかじめ用意された音楽、そしてイアホンから流れる音によって複雑に構成されている。二人の村山は、ひとりはおかっぱ頭の若き村山と、案内嬢の仮面を被った村山。後者は時には戸坂潤など若い時代の村山と関わりのあった別な人物にも姿を変える。前半はこれらのユニットによるシークエンスごとに、高校時代の村山、ベルリンでの村山、帰国して八面六臂の活動を繰り広げる村山などが自由に表現されていく。ピアノの生演奏とイアホンを通して聞こえてくる効果音やノイズと生の声とが交錯し合う、徹底的に稽古を重ねたことが伝わってくる、思わず引き込まれてしまいそうな見事なパフォーマンスである。三つの音だけですべてを言い表そうとする村山、偶然出会った娼婦にドストエフスキーの「ソーニャ」を重ね合わせてしまう村山などのシーンが楽しいし、銀座のデパートで開かれた「三科」展のシーンのバカバカしさも面白い。

 だが、村山が短期間のうちにアヴァンギャルドからプロレタリア演劇へと転向していく時期に差し掛かると、観客は無理矢理この没入感から引きはがされ、また表現の別な次元へとはじき飛ばされていくことになる。「人間機械」という村山のキーワード(これは元々は第一次大戦の傷痍兵たちを指した言葉だったらしいが)が、仮面を被った案内嬢たちの増殖し、痙攣しながら疾走するサイレント映画風の映像の反復によって、ソヴィエト共産党の集団主義へと雪崩れこんでいくクライマックスで、突然客席の照明がつき、案内嬢たちのアナウンスにより「特定の政治的立場は公共の美術館にはふさわしくないので、上演を中断する」と宣告される。さらに、案内嬢たちはテキパキとした官僚的な態度で、観客をいくつかのグループに分けて、順番にホールの外に誘導する。玄関ホールから展覧会場までの長い廊下を抜けて観客たちが案内されるのは、展覧会場の裏側にある美術館の搬入口だ。そこではやはり「特定の政治的立場を表しているために?この展覧会では展示されなかった」村山の拡声器で政治的なメッセージを発生する作品が自動車の屋根の上に設置されており、それはシャッターを開けられた搬入口から美術館の裏庭へとゆっくり走り去って行く。さらに、案内嬢のアナウンスによって、反対側の収蔵庫入り口で、ケースにポーズを取って収められたおかっぱ頭の若き村山が「美術館に収蔵される」ために収蔵庫の中へと消えていく。これがエンディングである。

 美術にしても演劇にしてもダンスにしても、それぞれのジャンルの内側だけにとどまる表現は物足りない。かと言って、それぞれのジャンルの内部でもきちんとしたものでなければ、それはそれでもっと物足りない。やなぎの「人間機械」はその両方を満たしているばかりではなく、また境界横断的であるばかりでもなく、社会へ、歴史へ、状況へと観客を「外」へと連れ出して行ってくれる稀有の演劇的イベントであった。それは、「アヴァンギャルドとは何か?」、「表現とは何か?」、「20世紀とは何か?」、「津波の後の生はいかにして可能か?」などといったさまざまな問いに向けて開かれている。それは何かの再現ではないし、何かの具体的なメッセージでもないし、美術でもなければ、演劇でもないし、パッケージ化された「作品」でもない。ベルリンから帰国して一瞬の台風のように回転し続けた1920年代の村山の姿に自分自身の表現の場所を重ね合わせることによって、グローバリゼーションと大震災や津波の後を生きる我々に突きつけられた答えのない大きな「問いかけ」であり、ここから「けっして逃げない」というやなぎ自身の決意表明でもあるように思われた。

 実際のところ、歴史上の村山知義がどうだったか、築地小劇場や日本の新劇運動がどうだったかというようなことはどうでもいい。それは「転向」を何度も繰り返しながら、絵本や大衆文学や児童文学や映画といった多様な活動を行い、しかしそのすべてが底の浅いものでしかなかった村山の実像ではなく、1924年前後のほんの2,3年の間にだけのアヴァンギャルド芸術家としての村山––しかも、あっと言う間に意識よりも社会システムを具体的に変えようとする政治的なプロレタリア芸術へと転向して行った村山の一瞬の姿に、やなぎ自身の表現への思いや問いかけをこめた「仮面劇」なのである。後年の小太りで偉そうな普通の文化人となってしまった実在の村山とは似ても似つかないおかっぱ頭でくるくる回りながらダンスをする前衛芸術家としての村山は、この公演では美術館の収蔵庫の中に永遠に収められてしまった。政治的なアジテーションをがなり立てる「作品」は美術館から街路へと飛び出して行ってしまった。そして、観客が取り残された場所––つまり、美術館の搬入口と収蔵庫と展覧会場の入り口がクロスする荷捌き所こそが、やなぎが、そして我々がいま位置している「状況」なのである。観客の背後にずっと隠れていて、最後に観客の前に現れて照明も音楽も何もない搬入口で「ありがとうございました」と軽く会釈をし、すぐに引っ込んでいったやなぎの背中には明るい力が漲っているように見えた。

 やなぎのこうした「演劇プロジェクト」は今のところ美術館の展覧会場を中心に、3日間とかのきわめて短い期間限定のものにとどまっている。KAATでは少し長い日程での公演だったが、正直に言って普通の劇場ではその魅力がよく伝わらないのではないかと思う。では、どうしたらいいのか? 確かに美術館や展覧会という場所とリンクするこの形態はとても面白い。だが、それだけでは限界があるようにも思われる。何よりも、もっと沢山の人たちに見てもらわなければ、とてももったいない。そのためには、劇場やホールの中での独立したコンテンツにとどまらない、より大きな仕掛けが必要となってくるように思われる。やなぎは唐十郎に大きな影響を受けており、近い将来にはテント演劇にも挑戦したいと言っているが、テント内の演劇空間を「内側から」外に向けて開いていこうとする唐十郎とは違って、やなぎにはもっと俯瞰的で開かれた外の空間と直接にリンクしていく方が、資質からしても合っているような気がしてならない。それは、どちらかというとサーカスや野外演劇、もしくは展示会のイメージに近いような気がする。たとえば、やなぎは鳥取県の「鳥の劇場」での秋の新作公演「パノラマ」を準備中だか、それは彼女の展覧会とも連動しているらしい。また、来年には京阪電車駅構内の「鉄道芸術祭」でも、やなぎ展と演劇の同時開催を計画しているらしい。演劇以外の要素も含み込んだ、サイト・スペシフィックで、場所の力も取り込んだような表現が彼女には向いている気がするし、観客が移動しながら複数のポイントを通過していくスタイルも続けていって欲しい気がする。ただ、それにはさらに大きなパワーと、さらに多くの協力者と、助成金などを含んださらに大きな金額の経済的支援が必要になってくることだろう。美術や演劇というジャンルの枠からはみ出たこうした境界横断的な企てに対しては、公的助成がきわめて難しいのが日本の現実である。

 いや、そんなことはもはや関係あるまい。どんなに苦しい条件でも、どんなに追いつめられても、どんなにお金が足りなくても、それでも彼女がこの企てを中断することはありえないと確信している。この三部作で彼女は自身の演劇(的)プロジェクトのコアとなる部分にたどり着くことができたのだから、後は先へ先へと進んでいく以外のことはもはや考えられないのではないだろうか? くるくる回るおかっぱ頭の村山知義に導かれて、彼女の次回作がどこに向かうのか、どこに我々を連れて行ってくれるのか、それを見るのがとても楽しみだ。


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