« 2月23日 | トップページ | 梅本さんの死 »

2013.03.10

山口昌男さんのこと

 山口昌男さんが3月10日未明にお亡くなりになった。
 享年81歳だった。

 山口さんに初めてお会いしたのは1988年の明治大学での日本記号学会大会の時。

 この時は中村雄二郎、栗本慎一郎、中沢新一さんにも初めてお会いして、その後それぞれお付き合い頂くことになった。紹介してくれたのは細川周平だった。その後、ぼくの勤めていた帝塚山学院大学に中沢さん、栗本さん、そして山口さんをお招きしたりもしたことがある。記号学会ではパネリストに現東京都知事の猪瀬直樹さんも居て栗本さんと激しくやり合ったりそのちょっと以前から知り合いだった田中泯さんがロビーで踊ってくれたりして、とても豪華な大会だったのだ。その頃は「ニューアカ」ブームは一段落していたが、バブルが始まったところで思想界もかなり華やかな時期だった。

 まだ33歳で生意気盛りだった僕は、山口さんにずけずけと物を言って少しカチンとされたのかもしれないが、二次会にも個人的に誘ってもらって、吉岡洋と一緒に六本木にタクシーで連れて行ってもらった。めったに酒席には出ない中村雄二郎さんと長い時間話したのが印象深い。雄二郎さんとはその後、松岡正剛さんの会や日仏哲学会などで何度もお目にかかり、92年に編集工学研究所研究所が開いてくれた西垣通さんの『デジタル・ナルシス』とぼくの『情報宇宙論』の合同出版記念パーティではスピーチをしてくれた。もう長いこと活動をされていないので余りお元気ではないと思われるのだが88歳になられているはずだ。

 山口さんだがその後、京都造形芸術大学や帝塚山学院大学に来てもらうたびに声をかけて頂いて、祇園にお連れしたり、定宿まで押し掛けたりと親しくお付き合いして頂いた。山口さんはだいたい生意気な若手が好きな人なのだが、とても可愛がってもらったと思っている。その一方、その頃の山口さんは『敗者の精神史』や『挫折の昭和史』といったトリビアルな歴史学に没頭されていた頃で、その方面には余り詳しくもなく関心も薄かったので、むしろバフチンやイワノフらのタルトゥ学派、シービオクといった記号論の動向やメディア考古学的な話をすることが多かった。だから日本記号学会を通してのおつきあいが一番多い。ただ、その後唐さんのところにも再び足を向けてくれ、バッタの時や唐ゼミ☆の公演にもわざわざ駆けつけてくれたりもした。そのことも含めてとても可愛がってもらったと思っている。

 92年に横浜に移った時に、山口さんの還暦記念パーティに参加し、その後山口さんが福島県昭和村で始めた廃校になった小学校(喰丸小学校)を使った文化スクールの立ち上げにも呼んでもらった。北仲スクールや横浜都市文化ラボをいまぼくがやっていることにも大きな影響を与えてもらっている。山口さんとはその後もひんぱんに顔を合わせるようになり、その度に飲みに連れて行って頂いた。西新宿の「火の子」は必ず最後に山口さんが立ち寄るバーであり、新宿駅西口の歩道橋を何度も一緒に渡った。京都の日文研の泊まりがけの研究会でもずっと一緒だった。

 とても印象深いのは99年にドレスデンで開かれた国際記号学会にご一緒したこと。この時、深夜便で空港に着いたぼくが、第二次世界大戦の廃墟がそのまま残るドレスデン駅からホテルまでの2km近くの距離をとぼとぼと歩いていると、白いコートを着た山口さんと誰も居ない道の真ん中でばったり会って、先についた吉岡洋とバーで一緒に飲んで待っていてくれたとのこと。そのまままた引き返して東ドイツ時代のままの寒々としたホテルのバーでまた飲んだ。山口さんは駅の反対側のIbisに投宿していてそのお部屋でも赤ワインを開けて宴会をした。山口さんにはいろいろな人を紹介してもらったが、特に山口さんを国際記号学会に招き入れてくれたトマス・シービオクとの昼食会にも同席させてもらい、貴重な二人の昔話を聞かせて頂いた。あれは、山口さんなりにぼくを後継者として紹介してくれたのだと思ったが、次の年に山口さんは日本記号学会の会長にぼくをとても強引なやり方で指名した。まだ45歳で会長になるのは自分にも周りにもかなり抵抗もあったし、実際にそれが不満で辞めた人も沢山居たのだが、山口さんが徹底的にサポートしてくれたので何とかやり遂げることができたと思っている。

 もの凄くタフで休みなく元気に動き回っていた山口さんだが、2001年に最初の脳梗塞を起こしてから、何度も脳出血で倒れられた。特に2回目、3回目の時にはかなり脳にダメージを負われて、歩くことも不自由になり、大通りの交差点を信号が変わるまでに渡りきれなかったり、言語障害で話せなくなったり、満腹中枢が壊れたのか際限なく食べ続けたりということもあった。信じられないのは、そんな身体の状態なのに、オペラや演劇、展覧会やイベントにすべて参加しようとする。夕方の記号学会の集まりに出て、そのまま下北沢の芝居に行こうとしたりする。つまり絶対に自分の欲望を諦めないのだ。少し調子が良くなるとすぐに海外に行こうとする。ニューギニアに行こうとして、現地では足の不自由な老人は後ろから棍棒で殴られて金を取られますようと言われてようやく諦めたりしたこともあった。自分の行きたいところには必ず行く。そのためには車椅子でも、歩行困難でもどうしても出かけて行こうとするその姿勢は感動的ですらあった。絶対に自分には真似できないと思った。どんな状況にあっても「好奇心の人」だったのである。新国立劇場の出口で一緒になり30分以上もかけてよろよろと歩いて1Fのイタリアンレストランにたどり着き、ほとんど言語障害でまともにしゃべれないのに赤ワインをボトルでオーダーし、一緒にいた細江英公さんと話をしようとしていた(のに、言葉が出てこない)のも印象深い思い出だ。

 2008年の唐組の春公演の時に、休憩時間にテントの外に出ようとした時に入り口付近でぐったりしている山口さんを見つけた。新宿駅からゴールデン街の花園裏までタクシーに乗り、そこからテントまでの数百メートルを歩くのに40分以上を費やし遅れてたどり着いたと言う。そのまま救急車を呼ぼうかと思ったが、大丈夫だというので車で自宅まで送ってもらった。ところが、その一週間後の京大での記号学会には車椅子に乗って上機嫌で顔を出してくれたのである。二日間ずっと楽しそうに学会に参加してワインもしこたま飲んでいた。

 ただそれが最後になった。その数ヶ月後にまた脳の血管が破れ、その後意識不明状態がずっと続いた。それでも時々は意識が戻ることもあったようだが、4年以上退院することはついにできなかった。2年ちょっと前くらいから完全に意識不明の状態で、1年程前にお見舞いに行った時も意識が戻ることはなかった。ただ目は開いているのである。奥さんが毎日手入れしてくれているせいでヒゲも剃られ、血色もよく、胃瘻で栄養を取っているので顎のあたりは痩せていたが、何か山口さんは根をはやした立派な植物としてずっと生き続けるように見えた。今回も一時は危篤状態と言われたのにその後また劇的に体調が戻るなど奇跡的な生命力を見せてくれた。桜の咲く頃まで持つのではないかと思われたが肺炎の状態がひどくてとうとう今日亡くなられたらしい。

 山口さんが日本の思想界に与えた功績ははかりしれない。もちろん「中心と周縁」理論など文化人類学や記号論などの膨大な知識を駆使した理論的な業績、『敗者の精神史』などの日本近代史の闇の部分を掘り起こした歴史学的な業績などが偉大であったことに間違いはないが、何よりもそのフットワークの軽さと行動力において、書斎に閉じこもるものと思われていた知識人のイメージを大きく覆したことが大きい。テニスが本当に好きで、深酒をした翌日も早朝からテニスに興じていた。また、いつも若い世代の仕事に注目していて、中沢新一、細川周平、浅田彰、今福龍太、坪内祐三、平野啓一郎といった人たちを次々に世に送り出して行ったこと。時には煩わしがられたり敬遠されたりするようになったとしても、面白い若手を取り上げ、知的な磁場のようなものを自ら作り上げて行こうとしたことなど、なかなか他の人にはとても真似できないことだと思う。インターネットには関心はなかったが、「週刊山口昌男」をまじめに出そうとしたり、自分自身を「メディア」として捉えようとしていたりといつも時代を先取りしていた。

 いずれにしても、長い闘病生活を終えて、身体から解き放たれた山口さんの魂はいま自由に色々なところを飛び回っているはずだ。山口さん、ありがとうございました。ずっと忘れません。(2013.3.10) 

#写真は日本記号学会結成20周年を記念して、山口さんとの共編で出した『記号論の逆襲』(東海大学出版会)

 51xf4sx4mal_ss500_


#おそらく文化功労賞の時に作られたこんなウェブサイトも見つかりました。

http://masaoyama.web.fc2.com

付記:ネットでの色々な書き込みを見て、どうしてもこれだけは言っておかなくてはならないと思うことがある。それは山口さんが権力的で学界やジャーナリズムの世界でまるで天皇や将軍のような政治力を発動していたという「誤解」に関してだ。
 確かに山口さんは巨大な子供であり、わがままで、マイペースなところはあった。自分の目をかけている若手を売り込むために、文芸誌や出版社の責任者に恫喝まがいの電話をすることもあったし、それを目の前で見たこともある。編集者に対して注文が多かったのも事実だ。そのために山口さんを敬遠する同業者や編集者も確かに居た。
 だけども、それはその場限りのことで、基本的に全く陰険なところのないガキ大将のようなものであり、実際には山口さんが本当の権力者であったことは一度もなかった。むしろ、いつも手痛いしっぺ返しを受けてきた孤独なリア王のようなものだったのである。札幌大学の学長だって追い落とされたし、政治的な状況ではいつも負け組だった。お金にも縁がない人で、財布には二万円以上入っていないことが多かった。いつも損ばかりしている。
 国際記号学会でも役職についたことはなかったし、自分が作ったようなものなのに、日本記号学会でも権力争いに負けて、ようやく会長になったのは設立後20年近く経ってからのことだった。見世物学会とか温泉学会とか、そういう組織を作ってボスになるのは確かに好きだったが、基本的に権力とは全く無縁の人だったのである。
 確かに怖がる人も多かったし、自慢が好きでいばっていたことも事実かもしれないけれど、そのことと人を権力的に支配することとは全然違う。いつも天真爛漫でお茶目な子供のような人だった。


« 2月23日 | トップページ | 梅本さんの死 »

コメント

僕は、生前の山口さんとは、学会で言葉を交わした程度でした。僕の山口さんは、彼の著作を通して多大なる影響を受けた——文化人類学者になろうとしたのも彼の著作『知の遠近法』からです——アイドル意外のなにもありませんでした。『へるめす』などを通しても、きら星のごとく、各界の著名人としなやかにお付き合いされているいわば殿上人のような存在でした。この室井さんのエッセーで、ナマの山口さんの姿について知る事ができて、大変嬉しく——なにせ亡くなってもスーパースターでありつづけるからですから——また感慨深いものがありました。ありがとうございました!

はじめまして。福島在住の吉田と申します。

山口昌男さんの事をネットで検索してましたら、室井様のHPに・・・

お陰で、山口昌男さまの人となりが分かりました。ありがとうございました。

これからも、立ち寄らさせて頂きたいと思っております。

吉田精一

PS/プロフィールを拝見すると、私の「好物」とだぶっておりますので、お邪魔するのが楽しみです。

因みに、本棚の「唐十郎がいる唐組がある21世紀」にも書いていらっしゃったのですね。

・・・丁度?「福島公演」が出来ないものかと思っておりましたので「唐組」情報等教えて下さい。(一応、唐組福島公演実行委員会の世話人をやってます。)

おそらく文化功労賞の時に作られた、山口さんのスケッチなどを集めたウェブサイトがありました。

http://masaoyama.web.fc2.com

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/16230/56925971

この記事へのトラックバック一覧です: 山口昌男さんのこと :

« 2月23日 | トップページ | 梅本さんの死 »

最近のトラックバック

2016年10月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31