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2013.04.09

梅本さんの死

 このところ立て続けに周囲の人が死ぬ。梅本洋一さんの場合には突然の心臓発作で即死に近かった。以前心臓の手術はしているが普通に活動している途中で、しかも飲み会の時に突然訪れた死。ちょうど60歳の誕生日を迎えてまだ間がない。
 しかし、いくらなんでも何も突然死ぬことはないだろうに、あまりにもあっけない死だった。みんなから「室井さんも身体大事にして下さいね」と言われまくってしまった。去年の小川巧記さんの交通事故死もそうだったが、余りに急すぎる。
 この数年、都市イノベーションという大学院の件で彼とは少し余りいい関係ではなかった。が、考えてみればぼくが横浜国大に赴任してから20年間、ずっと身近な存在だった。彼と肩を並べて一緒に闘ったことも数多い。大体梅本さんと二人で組むとたいていのことはうまく行く(と言ったら誰かに「ヤクザが二人掛かりですものね」と言われた)。逆に言えば一緒にやらないことはたいていうまくいかなかったような気もする。だからこの二年間、彼のやることはすべてうまくいかないことばかりだった。
 一番最初の総合芸術課程(情報芸術コース/比較芸術コース:定員30名)の時に、教養教育のフランス語を担当していた彼に初めて映画の授業をお願いした。そのころうちにはドイツ語の専任でやはり蓮實重彦の薫陶を受けた瀬川裕司さんという人もいて、フランス系、ドイツ系の映画論の授業が二つもあるという贅沢な環境だった。あの頃はぼく自身も映画史の授業もしていたっけ。元々、松本俊夫さんに誘われて京都造形芸術大学の前身の京都芸術短期大学では映画史と映画理論の授業も持っていたし、もうやめてしまったが映像学会の編集委員もしていた(元々昔「イメージフォーラム」の編集長で今は東京フィルムセンターにいるとちぎ・あきらさんの前の代の京大映画部長でもあったし)。大学での映画の講義に関してはだからぼくの方が古いのだが、残念ながら映画という過去のジャンルに対する偏愛がぼくには欠けていた(大体何に対しても粘着質には「偏愛」できない体質である)。梅本さんとは横国に来る前からお互いに書いたもので知っていた。80年代には青土社が出していた『シネアスト』や、90年代、まだ雑誌を出していた『イメージフォーラム』にぼくも映画評論を書いていたのだ。だが、横浜に来てからは梅本さんが居るので、もう試写会に行ったり、年間何百本も義務的に見ることはきれいさっぱり忘れることができた。全く違う対象に関心が移って行ったのである。
 その後、学部改組の時には一緒にマルチメディア文化課程を作った。毎日夜中まで梅本さんも含めた「四人組」と呼ばれた若手メンバーで議論し、コンセプトを練って新しい学部の形を作った。その頃は、唐十郎さんや木下長宏さん、大里俊晴君、許光俊君も居て、充実したスタッフ陣が自慢だった。毎年、一年生必修の名物授業だった「メディア基礎論」は、梅本、室井、大里の3人で始まった(4年目に梅本さんが学生に本気で腹を立てて本当に途中で授業を放棄してしまったが、現在でも室井、清田、平倉、中川の四人で「人間文化基礎論IA」として続いている)。
 その後もずっと協力関係は続き、2009年に北仲スクールを作る時にも熱心に協力してくれた。ただ、その途中から梅本さんは新しく作る都市イノベーションという建築と芸術と土木と社会科学、地域研究というとても馴染みそうにない多領域を合わせた新しい大学院の設置にかかり切りになり、そして初代の研究院長になった。問題なのはこれが学部の組織解体とセットになって行われたということであり、結局理系の教員が新しく理工学部に移り、文系の教員だけが学部に取り残されて寄せ集めの「人間文化課程」が作られた。この人間文化課程の教員は主所属が都市イノベーション研究院(しかも建築系と土木系の二専攻に分断された)、環境情報研究院という二つの大学院、そして教育人間科学部所属という形で教員のコミュニティがバラバラに分断され、学部教育と大学院教育の両方がその土台から破壊されてしまった。梅本さんと前学部長のOさんによって、理念が完全に欠落したこういう設計思想が皆無の改組を強引に通されてしまったので、土台から立て直さなくてはならなくなった。ぼくたちの根っこは学部教育なので学部教育を立て直すためにいま課程長として頑張っている。この点において、この二年程梅本さんとは対立していたのである。本当にセンスのない学部改組、大学院設置だったのだ。だが、センスがない、という事実は絶対にそれをやった本人たちには伝わらないもので、この対立が埋まる見込みはなかった。
 彼とぼくとではその根本の美学と生き方に大きな違いがある。フランスのスノッブな文化(いわば「文化についての文化」)を愛し、実生活でもセンスのいいモノや食事に執着し、細部に宿る美を愛でる傾向の強い梅本さんに対して、世界は最低限の生きるためのセットだけで充分だ(ないと困るものはそんなに数多くない)と考えているぼくとの間には常に大きな違和感が横たわっていた。彼の愛する映画や音楽や趣味に対しても、そのほとんどに関しては全く共感することはできなかった。ゴダールやトリュフォーなんていなくたって世界は充分に完全なのである。もちろん、異なる価値観を認めないわけではない。普段はお互いにそうした対立を抑えて協力することができたのだが、ちょっとしたことでこうした対立が二人の関係の中で表に出てきてしまうこともなかったとは言えない。こんなことを書けるのも彼が死んでしまったからだ。全く、何も死ぬこたないのに...。
 都市イノベーション研究院は彼が愛した建築がその中心となる大学院だった。ぼくたちの芸術文化系のセクションは建築と一緒に「建築都市文化専攻」という不自然な名前の専攻に入れられ、入試も工学部に合わせて8月に実施され、そのため全く学生が集まらなくなってしまった。今年も定員を割り込んでいる。建築はあらゆるものをリソースにしようとする。神殿や大仏殿は神像や大仏がなければ建てられないし、それは必ずあるコンテクストやニーズに応じて作られるものだから、当然既成の芸術や文化理論も取り込もうとする。だが、一方のアートやクリエイティブな理論は建築やデザインを必要としない。それはそれらが作られる前提そのものに関わる活動性だからだ。場合によってはその前提を根底から突き崩すものでなければアートや理論に存在価値はない。かたちにするのが建築やデザインだが、かたちにならないものにアートや思想は関わっている。こんなところでも梅本さんとぼくには大きな隔たりがあった。
 梅本さんはこういう無理な構想を押し通そうとして多くの敵を作ってしまったと思う。そのストレスもこの突然の死に多少の関わりはあるだろう。このあたりのことはぼくの見方が偏っているかもしれないので、これ以上触れないことにする。彼から見るとぼくの方が何でも自分の思い通りにしようとしていたように見えていたらしい。大学の学内政治というものは人事と金の流れに集約されるのだが、彼はそのすべてを密室政治的にすべて自分の手中に取り込んでいた。それが悪いとは一概に言えないが、少なくともそこには周囲の人たちの合意形成が必要だと思うのだ。彼を取り巻いている人たちでさえもこのことには不満を持っていた。有能なので一人で何でも抱え込んでしまったのだろう。この点において彼はボタンの掛け違いをしたと今でも思っている。
 彼が学生を可愛がったことは事実だ。ゼミの学生の面倒はよく見たし、卒業生たちが作っている雑誌/ウェブの"nobody"が未だに続いていることも、その中身は別としてそのこと自体は凄いと思う。また瀬田なつきをはじめ映画製作の道に進んだ卒業生も多い。ただ、自分のところに集まる学生以外にはほとんど関心がなかったのもまた事実である。いい意味でも悪い意味でも彼が「側(がわ)の人」だったことは確かだ。カイエの編集委員だった彼は、フランス人たちの誤解による大島渚に対する過剰な評価の踏襲を貫き通したし、ヒッチコックやトリュフォー、キタノや黒沢、青山といった人を常に擁護し続けた。結論は最初から決まっているのだ。北野の映画に対してもカンヌで激賞された「菊次郎の夏」を一番高く評価するなど作家理論的な無理な評価を押し通したし、イーストウッド映画はどんな作品でもすべて評価するなどという〈側〉の論理を貫いた。日本の映画作家を育てようとはしていたが、それらはすべてカンヌやヴェネチアなどのヨーロッパの価値評価軸に向けられていた。多分それは自覚的なものだった。だけどそれは本当につまらないことだ。つまらないことにずっとこだわり続けたのが梅本さんだった。
 ぼく自身は映画というジャンルは80年代に死滅したと思っているが、何かの折に梅本さんと飲んだ時にそう言ったら、ぼそっと「本当は俺だってそう思っているよ」と呟いたのが印象深く残っている。だとすれば、彼は既に終わってしまった表現ジャンルと、既に終わってしまった「カイエ」的な映画評論やカンヌ的な「批評家賞」といった祭りにすべてを賭けていたのだ。そんなに目をかけてもらっていたとも思えない蓮實重彦さんのことも常に気にかけていた。だから彼は「偏愛」の人である––一度愛してしまったものをずっと愛し続けるという点において尊敬すべき点もあったが、余りに窮屈すぎると思えることもあった。こんな梅本さんのところに集まった学生たちは、結局は梅本さんには勝てないのだろうな。その点で彼自身は一貫してオリジナルではあったと思う。一時期の彼は映画監督になって大学を辞めることを夢見ていた。「俺が映画を撮るとなったらカンヌで賞を取らないとかっこうつかないでしょう?」と言っていたが、ああそれは勘違いだなあと思っていた。そもそも監督になりたいというのが本音だとしたら、何のために映画評論をしてきたのかよく分からない。結局、プロデューサーが資金を集められなくてその話は進まなかったが、その時のやりとりもよく覚えている。本気で映画を撮りたかったのなら、そんなことに関係なく撮ればいいと思うのだが、結構体面にもこだわっていた。組のボスになってしまった宿命かもしれない。ぼくも気をつけるようにしたい。
 死んだ日本美術史の千野香織と駿台予備校時代に一緒だったことをよく話していた。四方田犬彦さんも彼の自伝的著作「ハイスクール1968」の中で触れている。四方田さんとは一緒に映画雑誌を作ったり、また四方田さんが唐さんの「佐川君からの手紙」で唐さんと佐川一政の間をつないだ時に、パリで唐さんがサンテ刑務所で面会するための書類を梅本さんが作ったというようなこともあったらしい。四方田さんとはそのあと大喧嘩をして犬猿の仲だったが、奥さんの垂水千恵さんから四方田さんが病気で明治学院大を辞職した時にそのことを心配したハガキが梅本さんから届いたと聞いている。いろいろと細かいことを気にする人であったことは間違いない。その根底においては優しい孤独な人だったのだろうと思う。
 いずれにしても、彼の存在感が大学の中でも際立っていたことは確かだ。丸坊主で(出会った頃は薄くなった頭頂部を隠すような長髪だったが、丸坊主なのに中山美穂が行く青山の美容院で散髪していると変な自慢をしていた)でかくてガッツリしていて威圧的なのに、意外な優しさや弱さを見せる彼に影響を受けた学生も多いだろうと思う。とにもかくにも、目の前からかき消されるように急にいなくなってしまった、この味方でもあり敵でもあった同僚の死にぼく自身が大きく動揺していることは隠せない。それと同時にこの同年代に近い同僚の死からは、これから何年後か、あるいは数十年後かは分からないがぼくもいずれはそっち側に行かなくてはならないこともまた意識せざるをえない。せめて何かの発作を起こしてから死ぬまでに何かを言い残せるような死であって欲しいものだ。ポックリ死はその本人には理想的かもしれないが、残された者たちにはたまらない。
 卒業生から大里君、梅本さんと相次いで早く死んでしまった人と一緒に3人で「メディア基礎論」をやっていたぼく一人が取り残されて、さぞ孤独だろうというようなネットでの書き込みがあったのを見た。別に取り残されたわけではないし、他にも愛する人たちは沢山居る。まだまだしぶとくやっていくので過去の人にしないで欲しいものだ。やりたいことは山ほどあるし、今だって闘っているのだから。
 それにしても彼が残してしまった巨大な荷物である大学院とボタンをかけ違えられた学部の人間文化課程の修復に関しては何とかしなくちゃいけないな。愛する職場なのだから。
 彼の葬儀の時に書いて、一度アップした文章なのだが周囲の人たちの気持ちを考えて一度削除しました。改めて彼のご冥福を願って再アップロードしておきます。
 

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コメント

報告が遅くなりましたが、昨年末(平成24年10月27日)、弊九大・芸工大同窓会関東支部の支部長になりました。
支部の役員・事務局の人間は、若く、真剣な人間が多いです。
民主党政権から自民党政権になり、単なるパフォーマンスの馬鹿な事業仕分けは、無くなるかも知れませんが、国立大学が、独立行政法人になって、かつての自由さが無くなっているのは、事実のようですので、

今後、横浜国大と連携模索する機会がありましたら、ご連絡ください。
任期は、4年です。

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