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2014.05.15

国立大学がいま大変なことになっている

 新聞やテレビなどであまり報じられることはないのだが、現在国立大学は安倍内閣による大変な「改革」の波に曝されている。

 「スピーディな意志決定」を売りにするこの「ヤンキー政権」は、自民党が過半数を握っているこの時期に一気に彼らの言う教育「改革」を進めるつもりらしい。

 ろくな議論も反省も洞察もなく「気合さえあれば何でも解決できる」という斎藤環が言うところの社会の「ヤンキー化」は、憲法解釈の変更ばかりでなく、ついに大学教育の現場まで飲み込もうとしているのだ。その戦略的に畳み掛けるような政策の押し付けはある意味見事ですらあるが、根本的に間違っている政策なので、これによって国立大学、もしくは日本の大学教育全般が受けるダメージも半端なものではないだろう。元々腐りきっていてかろうじてふらつきながらも踏ん張っているような日本の国立大学が、これで最後の支え棒を奪われて崩壊してしまう危険性も高い。

 ひとつはこれである。

 学校教育法と国立大学法人法の改正だ。既に閣議決定されたこの法案は、すんなりと国会を通過して来年の4月から施行されることになっている。各大学の教職員組合などを中心に反対運動もいくつか起こっているがそのこと自体がほとんど報道されていない。

 これによって、教授会からは大幅に権限が奪われ、人事権もすべて学長に委ねられる。経営協議会も外部の委員を過半数入れなくてはならないことになる。

 産業界から「経営のプロ」を招き入れ、大学教育の民営化・効率化を通して「グローバルな競争力」を高めるのがその目指すところらしい。

 すべての「ガバナンス」を学長に集中させるとなると、国立大学の営利企業化、あるいはブラック企業化を危ぶむ声も出てきそうだが、実はそうではない。

 こんなに権限を集められた「学長」はとてつもなく不幸な人なのだ。あるいは、とてつもなく頭の悪い人でもなければ、これからは学長なんて務まらない。なぜなら国立大学がこれからやらなくてはならない「改革」はあらかじめ政府/文科省によって最初から道筋が決められているからだ。権力が集中させられた「学長」や経営陣に求められているのは、政府が決めたこれらの「ミッション」を忠実に履行することにすぎない。これをうまく成功させられなかった学長は責任を取って辞任することを求められるかもしれないが、ミッションを決めた文科官僚およびその事業をアウトソーシングされたどこかの総研(いまや政府の仕事はほぼ金融系などの総研にまるごと委託されている)は一切責任を取ることはない。その頃には退陣してしまっているだろう現在の首相や閣僚も同様である。誰も責任を取らないままにすっかり廃墟化した大学の死体だけが残るのではないだろうか? まあ、その頃にはぼくももう現役ではないだろうが……。

 だから、実はこの法改正に対する反対運動もピントがずれている。問題は大学の自治や教授会の自治の破壊などではないのだ。なぜなら、そんなものはもう20年前にとっくの昔に破壊されている。国立大学が政府や文科省の言いなりの奴隷になるという基本的な流れはこれまでもこれからもちっとも変わらない。(ちなみに僕は電子版の署名運動という手続きは信頼していませんのでこれに電子署名はしません)。

 昨年度6月に閣議決定された「国立大学改革プラン」に従って、呆れるほどスピーディに平成25年秋にはほとんど決定された「ミッションの再定義」によって各国立大学や各学部が目指すべき「ミッション」が、文科省によって一方的に各国立大学に通達された。「各大学との意見交換によって」と書かれてあるが、実際にはそうではない。文科省からすでに文言がほとんど書き込まれ、自主的な数値目標だけが空欄になった「ミッション」が一方的に各大学に突きつけられたのである。あまりに迅速であるために国立大学の教職員が唖然としているうちに、続く矢が次から次へと飛んできた。たとえば、これ。

 「ミッションの再定義」に基づいて改革プランを申請した大学には補助金を与えて(最初に東大・京大といった強化大学が指名され、うちのような弱小国立大では第三次補正予算で2月末という年度ぎりぎりの時期に示された)、それを遂行することを強く求める。一般運営交付金が毎年縮減されているので、国立大学はこのような補助金なしには生き残れないようにされている。横浜国立大学の場合、3億数千万円の補助金を毎年与えられここに書かれている「ミッション」を迅速に遂行するように求められた。逃げ道はどこにも残されていない。
 
 この表の2,3,4には埼玉大学、千葉大学、横浜国立大学と関東一円の地方大学が並んでいるが、文科省がこれらの大学に求める「ミッション」は共通している。
つまりは理工系か医療系に力を注げということだ。実際、文科省の担当者からは多数の私学がある神奈川県では、教育コストがかからない文学部系は私学に任せて、理工系に集中させないと税金を投入する意義を問われると財務省から言われているとの発言があったそうで、その結果ぼくたちが所属している「人間文化課程」は、実態は全く異なるのに単なる教員養成系の「新課程」と一緒くたにされて「廃止」と告げられてしまった(リンクの後ろの方に書いてあります。ほんの二行だけ。これも最初っからこう書き込まれていた)。文科省が国立大学の課程・学科を直接「廃止せよ」と言ったのである。

 ちなみに人間文化課程は人気も上々で、学生の満足度も高く、普通なら廃止させられるようなことは絶対にありえない優良学科である。それでも私学の多い関東一円には国立大学文系の学部や組織は必要ないので廃止せよということなのだ。文学部なんて一種の贅沢品なのだから私学の高い授業料を払える学生だけで十分だと言うわけである。そこに大学の意見を差し挟む余地は一切ない。今回の国立大学法の「改正」はこういう道筋で進められているのである。だから、学長の独裁が心配なのではない。そうではなく、その背後にある政府・文科省そして彼らの政策に影響を与えている新自由主義系の政策決定者たちによる大学教育や大学文化の暴力的な破壊が心配なのだ。そして、その裏には国立大学どころではなく学生減少で経営そのものが危うくなってきている私立大学の圧力があったこともうかがえる。まあ、少子化に苦しむ私学も必死なことはよく分かるが、それにしてもこの極端な「ミッション」によって国立大学から人文系の学部や学科はどんどん縮減され、最終的には横浜国立大学は東工大に吸収合併されてしまうのではないかと危惧される。

 考えてみれば、ぼくが国立大学に来た92年、いやその前の80年代後半から、この国の大学教育政策は一貫して間違った道を歩んできた。87年に設置された大学審議会が91年に出したいわゆる「大学教育の大綱化」は、各大学独自の教育・カリキュラム改革を推進させ、その結果約五年で教養部・一般教育部はほとんどの大学から姿を消した。80年代のレーガン、中曽根政権が推し進めた新自由主義経済学の影響が強いこの改革は、要するに大学教育に競争原理を持ち込むことにより、お互いに切磋琢磨することによって教育の質や効率を高めるという効果を狙っていた。だが、なかなか思い通りにはならなかった。教養部廃止にしても隣がそうするのを見て一律に同じことをしただけのことである。

 改革が思い通りにいかない文科省はさらに締め付けを強め、そして2004年に国立大学法人化が実施され、国立大学は企業の形態を取ることになった(のくせ、文科省による運営交付金を武器としての国立大学支配は強まる一方である。公務員ではなくなったはずなのに、震災時の国家公務員の給与の一斉引き下げには強制的に参加させられた。またいつの間にか年金も一元化され、ぼくが65歳になるころには「ねんきん特別便」の試算によれば文科省共済だけだと30年弱務めても月15万円程度しかもらえない。もはや公務員イジメですべての特権が奪い取られて、安い給料・低い年金という末端知的労働者でしかないのだ。もちろん、更にそれより悲惨な退職金すらもらえない非正規職員や年俸制年期付き教員がどんどん増やされる)。こんなに長い間間違い続けてきたので、もはや何が間違いなのかすらも見えなくなってしまっている。

 これまでも複数の論者によって論じられてきたように、大学に対するこのような政策は根本的に間違っていた。短期的な数値目標の設定や、競争原理の導入は、大学教育の質の向上に一向に結びつかず、大学教員は無数の計画書や評価書の作成に忙殺され、研究を行う時間を大幅に奪われ、科研費や競争的資金を獲得するための申請書づくりに追われるようになった。民間企業の論理を大学に持ち込むことが間違っていたばかりか、この数十年の世界を見れば分かるように根本的に新自由主義経済学の予測自体が間違っていたのである。大学は年期付きの非正規労働者を大量に雇用し、教職員間の格差が広がり、大学で働く誇りさえも奪われていった。財界、産業界の要請に応え「日本経済発展のため」に奉仕しなくてはならない都合のいい若年労働者供給機関にされてきたのだ。

 だが、余りにこうした考え方が広がってしまったために、共産党や社会民主党のような弱小政党を除けばそのことを認めようとしないで、「改革の不徹底」をその不成功の理由だと考える人達ばかりがこの国の政治を動かしてきた。経営学の用語がどんどん大学経営に持ち込まれ、それがうまく行かないのは大学教員や教授会が抵抗しているからで、学長のガバナンスの強化によってうまく行くようになると考える、ぼくたちから見れば根本的にポイントがずれている人たちが「大学改革」を牽引してきたのであり、このままではもう立ち直ることが困難になるまでに大学を駄目にしてきたのだ。

 というわけで、ぼくたちの大学では我々文系教員の組織は解体され「グローバルな理工系人材」を目的とした新学部作りをしなくてはならない状況である。細かいことは一応当事者なので秘密にしなくてはならないが、現在進行形で色々なことが進められている。もう少し昔なら、学長と団交するとか、霞ヶ関でデモをするとか、署名運動するとかいう抵抗もあったのかもしれないが、これらの度重なる「改革」にすっかりうんざりして牙を抜かれた同僚たちは諦め切ってしまって気力を失っている。それはそうだろう。敵は文科省の奴隷にされて苦労している学長ではないし、実際にプランを作った総研の社員や元社員は霞ヶ関にはそもそも居ないし、署名が集まってもそれを出したらそれ専門の処理班に回されるだけなのだから、どうしていいのかすら分からないのである。基本的に、自分の頭で考えずに国が与えた「ミッション」を忠実に遂行する者だけが大学教員に求められているような場所で、教員が良心を持って生きることなどできようもない。

 2004年の独法化の時には全国的な反対運動も起きたし、怒って辞職する教員も多数居た。ぼくも含めてその時に辞めなかった教員は最初から敗北者なのかもしれない。それ以降、ぼくは自分の身の回りだけのことを考えてきた。自分の回りだけに「本来の大学」の砦を作れればいいと割りきってやってきたのだ。幸運なことにその願いは部分的には実現することができた。だが、これからはそうも行かないのかもしれない。自分の定年も近いし、もう少し自由な私立大学に移ることも本気で考えなくてはならないのかもしれない。もはやこんな「改革」が完遂された国立大学に知的な自由などが存在できるはずがないではないか?

 もちろん、それじゃどんな大学改革が有効か? と言われてもそう簡単ではない。制度や枠組みから考えても、各大学にはそれぞれの個性と特性もあるし、地域性もある。だが、要するに大学とはいつでも具体的な「人」が作るものであり、教員と学生と職員という個別的な「人」の力によって成り立っているものだ。つまり、多様性を活かすことこそが大学の持っているポテンシャルなのではないかと思う。それを、これからはこうなるから、英語で教育しろとか、学長の(ということは、その学長を操り人形にしている政府の)言うことを聞けとか、一律のFDやカリキュラム改革をやれとかいうような政策の押し付けだけで何とかできるというような発想が根本的に間違っていると思うのだ。

 それよりも優れた大学教員や大学人から提案される新しい発想やイノベーションを政策に取り入れればいいのではないかと思うが、それにはだいぶ時間がかかるだろう。そういう切り替えをするには、既に遅すぎるのだ。なぜならそんな創意や工夫などを自分たちがいくら考えても仕方ない、政府が決めた「良い大学」に近づけなければ運営交付金を減らされると脅かされてきた大学の中には、もはやそんな自由な発想やダイナミックな発信力を持った教員はいないか、あるいは本当に少数派になってしまっているからである。もしかすると片隅でExcelやWordなどを絶対に使わないようにして隠れている逸材がまだ居るのかもしれないが、日常的に求められるExcelファイル作りに自動的に反応している教員たちにはもはや望みはない。

 さらに問題なのは、独法化や国立大学改革が間違っていなかったと本気で信じている新自由主義的な立場を奉じる(競争的資金を大量に獲得してきた、申請書づくりにだけ長けた)教員の数も実際に増えてきていることである。まあ、生まれた時からこんな感じなのだから、もはやこれがおかしいとすら感じられなくなっているのだろう。リストラによってしか日本は生き残れないと思っている人たちから見れば、国立大学の文系なんて単なる税金の無駄遣いにしか見えないのかもしれない。すべての人がシステムや制度ばかりを考えるエンドレスなゲームに巻き込まれてしまい、具体的な人が動かしている個別の現場をきちんと見る思考ができなくなってしまっているのだ。こんなことをやっている政府を信じている人たちが教員にも学生にも増えていることが本当の不幸なのだが、彼らは自分たちをどんどん不幸にしているのが誰かということが全く分からないので、二重三重に不幸なのである。

 だから、最低の時代と最低の社会の中でいかにしてめげずに生き抜いていくかということだけが問題なのだ。もう大学という制度や社会システムに何かを求めることなんてできない。まあ、よく考えてみれば、程度の違いはあれすべての時代は最低だし、すべての社会は駄目なのだから、そんなにこの時代だけが特殊なわけでもないのかもしれない。しかし、教育が破綻し、無知で金儲けにしか価値を見いだせない国民ばかりになっていく――最近はマジに「日経新聞」さえ読んでいれば世界を知るのに十分だと口にするような、とんでもなく知性の低い学生たちが増えてきた!――この国にこのままでは未来はない。

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コメント

私は、地方国立大学の経済学部卒の者です。室井先生のお話も理解できますが、しかし、教授たちの中で、論文を作成し学術誌に投稿している方は、ほんの一握りの先生だけでした。大半の先生は、政治運動に熱心だったり、行政のコンサルタントに一生懸命な一方、英文の文献も碌に読めず、卒論の指導もできませんでした。ほんと驚きました。

ゼミの指導教官に、その疑問を投げかけると「こんな田舎の大学に入学する奴が悪い。そんなに勉強したければ、東京の大学に行けば良かったんだよ」と言われました。

私は、論文を書かない、研究をしない学者が多い人文系学部の縮小は当然だと思いました。

旧制帝国大学が創られた戦前の文系,理系という分類が社会の実情に合わなくなりつつあることを日々実感しています。

実質180兆円を超えるとされる(所得税対象から外れるギフトカードや商品券で報酬が払われる)地下経済含め何故此の国が空前の繁栄を迎えているかというとアジア諸国からソフトの部分を請けているからです。MyanmarやVietnamで造られているpompやboilerの設計図を描いているのは半分以上日本人です。ソフトウェアの分野で五輪を開催すると3割前後のメダルを日本が獲得するそうですがソフト系人材の育成こそ此の国の根幹かと存じます。

国立高校に通っている高校一年生です。先ほど新聞で「文系の見直し」という衝撃的な記事を読み、他の人はどう思っているのか、黙っているのか気になって検索したところ、この記事を見つけました。本当にひどいことだと思います。「国による学問の破壊」が最近蔓延しているというのは若い私たちにも感じられることです。私は小学校時代、人一倍歴史が好きで、よく自慢の知識を大好きだった担任の先生にひけらかしていました。その時、どの時代だったか、飽きもせず話し続けていた私に先生が「最近は上がその辺はあんまり教えないようにと言ってるんだよ・・」と言いました。私はその時の先生の寂しげな表情を鮮明に覚えています。「知らぬが仏」とい言葉もありますが、私はどんな知識も経験もどんどん吸収するべきだと思います。知識や経験を重ねることは、世界に対する新しい視点を獲得することだと思います。視点を増やすことは、自分を深める第一歩で、想像力、理解力などもその一種だと考えます。
 今回の決定は、その機会をどんどん奪っていくことに繋がると思います。何も知らずにあるものを評価しようとする人たちがいますが、私はそんな人たちを見ると、「これからの人生、この人は永遠に知らずに生きていくんだ。かわいそうに。」と思います。しかしこれから、私も選択肢を与えられることなくそうなるかもしれないというのは、とてもとても悔しいです。でももしかしたら今それを知っている私はまだ幸せなのかもしれないと思います。何も知らず、ただただ自覚もなく流されていく同い年の人もきっとたくさんいるでしょうから。
 実は私は将来古墳の研究者になりたいと思っています。すぐ来る未来さえ考えられない今の政治にとって、遠い昔の事などお金にならないし、存在価値などないのでしょうね。「国」というのは私たちの夢さえ奪うのですね。そんなものに「誇り」など持てるのでしょうか。私たち若者の持つ財産は教育だけだということをわかっているのでしょうか。

国立大学の独法化問題の時に反対運動をやった者です.
http://ad9.org/pegasus/znet.html
重要なポイントは教員が教授会できちんと発言しているかどうかという問題だと思います.PTAにせよ町内会にせよ,ホンネは会議が終わったあとの「下駄箱」で,というのがよく見られる光景で,大学の教授会もこの例にもれません.はじめから少数意見とあきらめて,ダンマリを決め込む人が多すぎると思います.
およそこの社会の数ある職場のなかで,大学ほど自由にものがいえる場所はないと思います.そこで教員が発言責任をきちんと果たすだけでも大学は変わり得る,そして文科省にも対抗するパワーが生じ得る,そう思います.教育や研究だけでなく,教授会の時間に対しても賃金が支払われているのですから,沈黙は怠慢だと思うのですが,そのような人が多すぎるというのが私の感想です.
退職1年半の元国立大学教員の意見です.

文部省の決定が出たときから、ひどいことになりそうなのに、マスコミでの論調がおかしいと思っていましたが、ここまでとは・・・。亡国の道は、新自由主義によって敷き詰められているかのようです。一市民としてもっと危機感をもたねばなりませんね。

国立大学の部局会計に勤務する者です。2年前に係長に昇任し、係員時代には見えなかった世界が見えてきました。それは、上の人たちは作文しかしていない、霞が関しか見ていない、業務見直し、組織見直しなどには全く興味がないという世界です。
問題は深刻です。もうどうにもならないのでしょうか。

自民党政権による初等中等教育の「改革」が、財界の意を受けた外部の私的諮問機関による方針に基づいた現場への度重なる締め付けであった、といえると思うけれども、高等教育でも同じことを進めてきていた、ということがよくわかった。そして、どちらも現場を疲弊させ、壊してきたことも。

こうした「安上がりの教育政策」のかげで地方国立の財産ともいえる資料はどんどん流出しています。たとえば愛媛などは水産講習所(のちの東京海洋大)をおしのけて古文書も含めて日本の塩業関係資料ではピカイチでしたが、いつのまにか…効率化が図書館予算を切り詰め、もって大学を殺した成果です。資料の散逸、いま、日本がもっとも恐れるべき崩壊が始まっています。

高校2年生の女の子の母親です。

娘の第一希望は、横浜国立大学 教育人間科学部 人間文化課程です。

高校一年生の時、夏のオープンキャンパスに参加しました。

金曜日と土曜日の両日、講義を受け実際に先生方とお話もさせて頂きました。

偏差値で選んだ訳ではないので、娘の成績は未だ合格圏には達していませんが、高校2年生になり勉強を頑張っています。

小中高と所謂「学校」という枠組みの中で勉強と生活をする時間から解放されて、やっと大学で彼女のカラーを出して学べる場所を見つけたと思ったのに「廃止」とは非常に残念です。

室井先生のブログから文部科学省のHPに飛んで内容を読みましたが、「大学」は「企業」で働くための「職業訓練校」扱いになっているように感じました。

世の中には様々な価値観があるのに、国の方向性を一方だけに向けてそれ以外にはお金は注がないということに進んでいるように読み取れました。

結局、今回の改革の動機の根源は「お金」ということですね。
教育を「お金」の理由で国が歪めていしまう情けないプランです。
一部の人たちの偏った未来観測で随分と大きなことを決めてしまうものですね。

ただ、この改革は少し前の「世間の気分」であり、現在の「世間の気分」とはずれているように思います。
気分と言うと軽く感じますので、「集合意識」と言い換えてもいいと思います。

18歳から22歳までの「人がしっかりと形作られる大切な時期」をどこでどう過ごすかは人生においてとても大事なのに廃止なんて本当にがっかりです。

今週から中間試験が始まる娘にはとても伝えられません。。。

 国立大学の教員である。最近はミッションなる各大学のテ-マが文部省によって決められてそれに従って教育研究せよと資金が分配され、本大学では学長の権限強化と言ってほぼ70%が大学上層部に取られたあとを学部に配分して実現せよと言われてる。今に学部長は大学が決め、学長は政府が決めるという流れになるのだろう。大学なんかに金を使いたくない、政府に反抗する大学はなくしたい、直ぐに目に見えないことをやる大学学部はなくしたいという強い政府の意思が見て取れる。各分野が幅広い裾野をもたない限り高いレベルは生まれないし維持できないということを全く理解していない文部行政が行き着くところは、かってない日本の大学のレベル低下であるのに。

教育というのはもとより結果が見えにくく、政策のもたらす教育現場への影響は因果関係の証明が極めて難しいと思います。そういうことがわかっていながら(というより、わかっているからこそ)、亡国の官僚による意図的な改悪が、官僚主導で(イデオロギーのみの)無知な政治家を巻き込んで進んでいます。文科省はもともと利権の少ない職場で、官僚の中では(他に行き場の無い)最もレベルの低い人間が集まっているとはよく聞きます。そういう連中にとって、国立大学の法人化は天下り先をいっきに増やすためには、大変有効な手段だったでしょう。国立大学の理事になれば、さらにその先の天下り先も濡れ手に粟でしょう(文部官僚にしてはよく考えました)。そもそも、全部の国立大学法人に文科省の役人を理事に迎える必要があるでしょうか。いま問題になっている「理研」も、文科省の「利権」(を求める官僚)によって駄目にされました。「ミッションの再定義」云々も、要は、文部科学省の役人の、次の小遣い稼ぎの手段でしょう。

日本の大学・学術を駄目してきたのは、文部官僚であり、これから、息の根を止めるのも文部官僚でしょう。いっそ彼らに、お金と利権を少し渡して、今後一切、日本の学術に関わるなという政治家が出てくるのを祈るしかありません。

大学に勤務している者です。

最近の環境の悪化は皆疲弊しています。今でも文部省が、人間を人間扱いしない、評価制度など取り入れて疲弊しているのに、より大変になるのはコワいです。

大学組織がどうあるといいのか。
自分たちでそういったことを話し合える場を作ることが大事だと思います。
反対だと対立しか生まれませんが、何が困っているのかどうありたいかという個々の思いは、お互いの対話になるので、新たな方向性や、具体策につながっていくように思う。

室井先生、お久しぶりです。

非常に重要な観点と思います。

1989年から、日本の科学技術と社会に関する通史を作るフォーラムに関わっている(http://blogs.yahoo.co.jp/forum_shintsushi)のですが、こちらでも「イノベーション」を過度に要求する研究政策のもたらすゆがみが話題になっており、今年の秋頃にシンポジウムを東京で開催する予定です。

改革じゃなくて改悪だから反対されているのでしょう。

新自由主義の悪質さを考えればそれも当然。

改悪を改革と根拠もなく口走る人間ほど、信用に値しない人間である。

国立大学、とりわけ文系の危機と聞いて、いてもたってもいられなくなった国立文系出身のものです。ブログの内容に関して一点だけ気になる点がありました。問題の核心を新自由主義と指摘されておりますが、そうでしょうか。そもそも、日本には自由や民主主義は存在せず、むしろ日本の風土は現在でもむしろ社会主義に近いものです。つまり問題は、自由=金儲けとしか考えられない愚かさであり、その発想のもとに存在する政治や国のしくみなのです。じっくりと本物を育み、それが場合によっては利益につながるのだというのが本来であり、その利益につながることを否定しないのが自由主義、もしくは自由主義の正しい活用の仕方だと思います。正しい方向・程度における競争原理を安易に否定してはいけないと思いますし、そういう態度が逆に(未熟な)競争原理を呼び込むのではないでしょうか。日本の世情を見れば分かりますが、非本物志向の流れが加速しております。せめて政治的支配層には本物志向であり、文系は無駄だなどという短絡志向のない教養を持った人があって欲しいものです。しかし、それもこれも、小・中・高、そして大学という日本の教育、教育システムの結論だとすれば、自業自得ではありますが。

地方国大で講師をしている30代の者です。お書きになっている内容に強く同意しますし、一部については、私も重なる実体験をしています。生き残り、数値目標、ミッションの再定義、理系重視という言葉が繰り返されるなかで、日常の雑務に大幅な時間をとられて、自分が疲弊している、と感じる日も多くあります。

ブログ拝読しました。私は二年生の文系で大学は国立の文系学部に入ろうと思っているのですが、志望先が国の政策によってここまで危機的状況にあるとは知りませんでした。部外者である自分が今何をしてもこの状況が変わらないことは分かるのですが、それが歯噛みするほど悔しいです 。

愛知教育大学で哲学を担当している今村と申します。今回の先生のブログの記事を拝読して我が意を得たりと感じました。全くおっしゃる通りかと思います。私は、前年度まで所属していた埼玉大では、大学改革への取り組みを主導する部署におりました。長い非常勤暮らしの後に、国立大学に赴任して最初に驚いたことは、国立大学は文科省の傀儡に過ぎないという事実でした。今年度から勤務する愛教大では先生と同じく、「新課程」に所属しております。やはり本学にも新課程廃止の圧力がかかっているようです。古き良き文学部の知的風土が失われつつある中で、学生に哲学を教える日々です。長々失礼しました。

大学がここまで劣化しているのかと驚いた。
日経新聞さえ読んでいれば大丈夫というナイーブな馬鹿が横浜国大にもいるのかと驚いた。

改革への反対だけでは、ただの抵抗勢力なので、大学組織がどうあるといいのかが、大切ですね。

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» 理系に転身する僕が大学改革について思うこと [ゆとりずむ]
横浜国立大学教授,室井尚さんの「国立大学がいま大変なことになっている」という記事を読んで思うところがあったので,この文章を書いています。 以前も書きましたが,僕は今4回生で大学院へ進学するつもりでいます。ただし,現在の僕の専攻は社会学で,進学を希望する大学院は情報系です。僕は文系から理系へと転身しようとしています。といっても,僕は高校では理数科でしたし,現在も学部の副専攻制度を利用して情報系をかじっているので無茶な選択というほどではありません。大学院へ行こうと思ったのは,文系として就活することが僕に... [続きを読む]

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