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2014.06.04

雑感---国立大学がいま大変なことになっている(2…かな?)

 ひとつ前のエントリーを書いてから、色々な人にretweetされたりshareされたりしたおかげで、翌日には10万近くのアクセスがここに集中した(やっぱり内田樹さんにretweetされたのが大きい)。blogのアクセス解析によれば、そのうち半数近くはi-OSやアンドロイドOSからのアクセス―つまりはスマホやタブレット端末からのアクセスである(今回も3行以上書くので、もう読むのはやめてね)。しかし、次の日になれば―まだまだぼくのblogとしては多い方ではあるが―一挙に1/10以下に落ち、さらに3日もすると通常通りに500にも満たないページヴューに落ち着いた。つまり、本当に瞬間風速的なアクセス数の増加が起こっただけのことである。

 以前「ももクロ」についての記事を書いた時もそうだったが、毎日ネットにアクセスしている人たちはその日一日のテーマを決め、集団でさまざまなサイトに一挙に移動し、翌日にはまるでそんなことはなかったかのようにまた違うサイトにごっそり集団で移動する。というわけでしばらく放置してみたので、もう余り多くの人に読まれることはないだろう。それに大学のことはしばらくあんまり書かないしね。

 そうなると、前回もそうだったが、どうしてもこのblogやSNSというネットメディアのことについて改めて考えてしまう。

 あれを書いたことで何かが変わるなどとは思っていない。知り合いはもちろん何人もの学内の人たちからも「読みましたよ」と言われたが、それだからと言って粛々と進められている学内改革が止まるわけでも方向性が変わるわけでもない。どうせみんな文科省のせいにするし、文科省は文科省で財務省のせいにするし、財務省は単なる国費節約でやっているだけで改革の方向性については政権や文科省に任せていると言って責任を回避するだけのことだからだ。活動家の方々は、書いたり話したりするだけでは何も変わらないので、集会やデモなどをなぜやらないのですか? とよく聞いてくるが、そのつもりはない。それはぼくのやるべきことではないと思っているからだ。

 ネットのコミュニケーションの特徴はメッセージの発信者が全く予測していなかったような未知の受信者が(ごく限られた数のコンテクストを共有している仲間内での会話だと思っているところに、まるで居酒屋で他のテーブルの客がこっちのテーブルに突然割り込んで来るように)入り込んでくることである。以前、「これは玄関を開けっ放しにしているだけで、けっして世界に向けて発信しているわけではない」と書いたが、ネットの面白いところも、煩わしいところも、ネットのこうしたコミュニケーション構造から生まれている。「玄関が開けっ放しになっているから、発言には気をつけろ」と言うのは正しいが、けっしてマスコミに書くときのようにすべての人に向けて書いているわけではないし、アクセス数を増やすことで何らかの「影響力」を持ちたいなどと思っているわけでもない。”blogos”などのようにblogをマスメディアのように使おうとする考え方はどうもしっくりこない。

 「人気ライター」とか「影響力あるライター」などという言い方はネットメディアにはどうも似合わない。それは結局みんなが「得をする」情報を得られると思っているだけで、ものごとをじっくり考えることとは関係ないからである。blogやTwitter,FacebookなどのSNSは、できれば身近な人にだけ読んでもらいたい個人的な「つぶやき」や「独り言」であってくれた方がぼくにはしっくりする。だが、時にはこんな風に予期しなかった何万人もの人に読まれてしまう、ということが時々起こるのも、このメディアの構造上仕方ないことなのである。

 「予期していなかった読み手」が入り込むことによって、誤読や取り違え、ショートや断線、炎上や暴走が起こる。ネットはローコンテクストなメディアだから、コンテクストまでは短い文章では伝えきれない。だから、ネットを出版メディアと同じように考えてはならない。とは言え、「禁煙問題」について書いた時にも同じようなとんでもない誤読と暴走が生じて、それできちんと本に書いたらもう少し通じるのかと思って『タバコ狩り』(平凡社新書、2009)を出したのだが、だからと言って、それで誤読が消えたり少なくなったわけではない。相変わらずどうしようもない誤読しかできない人たちが多数居る。こういう人たちは放置するしかない。

 「話せば分かる」というのはもちろん嘘なので、むしろ「話しても分からない」人たちとどうやって共存し調整して生きていくのかということだけが重要なのだが、このハーバーマスとリオタールの論争にもつながり、それこそ養老さんの「バカの壁」にもつながる問題はそう簡単に解消されることはない。なぜなら、自分が正しいと思っていることを暴力的に他人に押し付ける人たちと、これまた時間さえかければ「話せば分かる」という理由のない思い込みに囚われている人たちは、そのどちらもこの「話しても分からない」人たちとの共存ということの重要さを認めようとしないからだ。そして、そのためには「言葉」だけでは不十分であり、肌の触れ合いや視線のやりとりなどを含めた身体的な接触や共感が必要なのだが、近代以降のメディアにはこの側面が欠落しているのだ。「誰にでも分かる」ものなんてありえないか、さもなければきわめてつまらなく無意味なことにすぎないかのどちらかにすぎない。実際、直接会えば解消されたり、あるいはそもそも起こるはずもない対立や争いがネットには多すぎる。

 そもそも既成のメディアだって誤読される宿命からは逃れられないのだ。以前、養老孟司さんが『バカの壁』(新潮新書、2003)という本を出した時に(あれが養老さんの本で一番売れたのは、自分の文章ではなくて編集者が「超訳」的に養老さんの独白を「分かりやすい」文体に書き換えたわけで、本当はそこにこそ「バカの壁」があったと思われるのだが…..)、ほとんどその中身とは関係なくタイトルの印象だけでベストセラーになったのには愕然とした。どう考えてもあれは「バカにはいくら話しても通じない」という中身の本ではなかったからだ。西垣通さんが『マルチメディア』(岩波新書、1994)を出した時にもそうだった。マルチメディアは人から思考力を奪い、僭主政治に流れやすくなる(という今のネット時代からすると極めて正鵠を射た)きわめて悲観的な見通しを述べたこの本は、「マルチメディアで世の中はどんどん良くなる」というほとんど正反対のメッセージとして受け取られた。

 要するに言葉というものはけっして正しく伝わるものではないのである。それは宿命的に「誤読」されるのであり、しかも読み手はそれが誤読であることに気づかない。それでもたとえ1~2割程度の少数でも、正しく読み取ってくれる人がいる限りあきらめることはない(もちろん、あと1割程度の予想もできないような「創造的な誤読」をする人たちに対してもそれを伝える価値はある)。

 最近のジャーナリズムが全く信用できないというのは本当のことで、とりわけ2001年の「9.11」以降はまるで治安維持法の時代のように、いわゆる「国益」に縛られた偏向報道がごく当たり前になってしまっている。言うまでもないことだが「3.11」以降の原発事故やその後の放射能汚染問題、原発再稼働問題、憲法改正問題に関しては、テレビや新聞が全くジャーナリズムとしての機能を果たしていないことに唖然とするばかりだ。佐村河内さんとか小保方さんとか、別に誰にも迷惑をかけていない人たちをバッシングしている裏では、とんでもない法案とか条例とかが勝手に作られていて、マスコミはほとんどそれらを報道しないという事態がもう20年近くも続いているので、もうそのこと自体には不感症になってしまっている。

 人間の作る世の中の仕組みは基本的にほとんどすべて間違っているというのが、ぼくの中にはずっとある。「失われた20年」などと言うが、そんなのはデタラメだと思う。結局戦後70年のすべてが間違っていたのだとしか思えない。そう考えると、基本的にほとんどが間違っているのだから、一つ一つのことにいちいちこだわっていては生きられない。そして、それでも間違っているという認識をずっと持ち続けることは結構大変である。ともすると、間違いが無数に重なりあった状態が当たり前になってしまって、自分が間違っていることさえもいつのまにか分からなくなってしまうからだ。間違わないというのが最良であることに決まっているが、それが不可能である以上、とりあえず重要なのはいま自分たちが間違ったことをやっているという自覚を持つことである。それは自分たちが「間違っていない」と主張する人たちの側にはけっしてつかないということだ。こうした「側(がわ)の論理」からできるだけ自分を遠ざけることが大切なのである。

 だがそのためには、現状から目を逸らすことなく過たず認識しなくてはいけない。たとえ、現状において自分が間違ったことに関与してしまっているとしても…。だから、ほとんどすべてが間違っていても少しずつ間違いの数が減っていけばそれでいいのだが、時代の流れによっては取り返しがつかないほど間違いが積み重ねられてしまうこともありうる。今がたまたまそんな時代なのかもしれないが、それでもどちらにしても前にも言ったように、基本的にはどの時代もダメなのだからあきらめる必要はない。

 大学がどんどんダメになっていることが事実だとしても、それでは昔は良かったかというとそれもまた疑わしい。ぼくたちの頃は、まだ欧米の学問を盲目的にありがたがり移入することばかりが文学部の仕事だと考えられていた。それが国家の成長にとって必要だと考えられていたから放置されていたにすぎない。仏文とか独文とかに区分けされ、外来の文物を輸入するだけで事足りた時代と比べると、今の方がまだしもマシな部分は確かにある。「学問」という砦に立てこもったり、そこに寄りかかって生きたりすることはもはや難しい。だが、効率や短期的な成果ばかりを追い求めるようになるのは、少なくともこれまで長い時間をかけて蓄積されてきた知的な積み重ねを無にする自殺的な行為にほかならない。

 要するに大学は今も昔もずっと間違っていたのである。だが、ひとつだけはっきりしていることは大学は社会の要請に対しては中立であり自由でなくてはならないということだ。学長と教員の関係は、けっして経営者と従業員の関係になってはならない(こんな基本的なことさえ、最近は分からなくなってしまっている人が増えてきている)。学生の学びの質が、その時の政権や権力の意志によって制御されたりしては絶対にいけない。自由に考えるとは、自分がいかに不自由な状態にあるかを認識することからしか始まらない。そういう意味で、一人ひとりの教員と学生は思想の自由、学問の自由を保ち続けるべきであり、全員が国策や学長の意志に従わなくてはならないような大学はもはや大学ではなく、工場か、さもなければ軍隊にほかならない。教員がたとえ極右思想の持ち主でも、極左でもアナキストでも、その両方の存在を認めることができるのが大学の価値であり、社会や直接的な国家の利害からは距離をとった「空き地」のようなものでなくては、大学が存続していく意味がないと思う。

 但し、そういう時代はこれまでもなかったわけではないし、大学には所属せずに自由に考えることのできる人たちがいなかったわけではない。そしていま大学教員にできることは、そういう「穴」や「空き地」を、こんなになってしまった大学の中に自分たちの力で作り、確保していく努力を続けることだと思う。もはや制度に守られたり、制度が保証してくれる場所などはどこにもない。一人ひとりの教員が(そして学生たちもだが)大学とは何かをもう一度考え、自分たちで本来の大学を自分たちの周りに作っていくことしかないのではないかと思う。そして、本当にそれができなくなって、大学を去らなくてはならなくなったとしても、それならそれで自由な「大学」を既成の大学の外側に作っていけばいいだけのことである。

 理系学部になるのがいやなわけではない。そもそも歴史的には何の根拠もない理系/文系の区分けを内側から解体していけばいいだけの話である。そして、どんなに社会が変わっても若い生き物である学生たちは自分たちをがんじがらめに縛り付けている枠組みを乗り越えていく力を失わないだろうし、失うはずがないとぼくは思っている。そう思っている教員と学生さえいれば、それがたとえ10人程度の人数であったとしても、大学は守っていくことができるのだ。その限りにおいて、大学はけっして死なない。

 あれ? やっぱり少し熱くなって大学について書いてしまったが、まあ今日のところはこのくらいでやめておこう。
 いま、ちょっと他に面白くなりそうなことがあるからね。

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