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2014年10月

2014.10.08

国立大学がいま大変なことになっている(その3)

前のエントリーに対して、身近な人たちや外の世界の信頼できる人たちから共感のメッセージを多数頂いた。だからと言ってそう簡単に解決されることではないのだが、同じように現状を憂いている人たちが沢山いることが分かって勇気づけられた。

それに対してネット上の表側で返ってくるレスポンスのほとんどが否定的なものばかりである。別に同意を求めているわけでもないのだが、前回もそうだったが、たとえば「はてなブックマーク」に返ってくるコメントは相変わらず邪悪で罵倒に近いようなネガティブなものが目立っている。

まあ、分からない人には分からないのだろうなと思うしかないのだが、しかしこういう脊髄反射的なレスポンスをネットで返してくる人たちは一体どういう人たちなのだろうかと考えこんでしまった。彼らは何に対して苛立ち、何に対して怨嗟の声を向け、誰に向けてコメントをしたがっているのだろうか? まず、ネットというものが元々そういう性質(匿名であるがゆえに攻撃性が露わになりやすい)を持っているということはもはや明らかだが、彼らは対象についてあまり深くは考えようとしないで、一瞬の印象だけで何かを決めつけるレスポンスを書き込んでくる。そのことに関して自分が判断する権利を持っているという一種の全能感のようなものを行使することに満足しているのだろうか? 安易にぼくが反応して論争に乗ったり、あるいはそこが炎上したりすればそこにしばらく留まり、そうでない場合には次のターゲットを探し求めて移動していく。いずれにしても、ぼくが書いている問題それ自体や、ぼくがどういう人物であるかということに関しては基本的には全く関心を持ってはいないようだ。

彼らのコメントをまとめてみると、要するに、

「(俺が知っている)国立大文系なんて全く社会の役に立たないで遊んでいるだけなのだから潰されて当然だ」<=ぼくがどこの誰で、具体的に何をしているのかは知らないし、また知る必要もないが、どうせどこだって似たようなものだろうと決めつけている/その判断を下せる側にいる自分に優越感を感じている。

「税金でまかなわれている国立大学の行く末を決めるのは納税者(俺たち)だ。」<=(俺たち)納税者(?)という多数派の中に自分の身を置いて、そんな自分には文系の学問など何の役にも立たないと言っているようだ。自分を(ちょっと信じがたいことだが)「国民」と言う人たちもいる。自分を多数派側だと考えたがり、どうも現在の政権を大多数の納税者の意志を反映しているものと思いたがっているフシが見える。また、国立のみならず私立大学も多額の税金からなる運営補助金によって経営されているのだが、とりあえず私立大学のことはどうでもいいようだ。そもそもぼくたちが給料をもらっているのはそういうシステム全体からなのであって、税金は一旦国費になった時点でどう使われるかは一人ひとりの納税者の意志とは全然関係ないところで動いているのだが、彼らは「俺達納税者の税金でまかなわれているくせに生意気だ…」と言いたいらしい。少なくともぼくは「税金で食わしてもらっている」のではなくて、もらっている金銭よりは明らかにそれを上回る労働をしているつもりだ。前にも書いたように、いまやとても安いよ。

「論文も書かず? 外部資金を集めようともせず、業績もない奴に限って、そんな社会性のないことを言う」と決めつける<=調べたのか? と言うだけにとどめよう。ホント、日々どんだけ苦労しているか知らないくせに…。

「成果を示せない以上、リストラされるのは当然」<=教育の成果はどのように数値化できるのだろうか? 授業アンケート? そんなのはどこでも「成果があった」という結果しか出ていない。研究? 中身を数値化することなどできるのか? 著書の売上? 数値化できないものがあるということを認めず、すべてを数値化しようとする手続き型合理性の支配こそがもっとも問題なのに。

「大学人なら対案を出せ!対案のない批判は無効だ」(対案などいくらでもあるが、blogやネットで発表したところでしょうがない。そもそも現在の政府の政策に反している対案を採用される可能性もないところで言っても無駄である)。<=「対案がない批判は無効だ」というのは、橋下大阪市長の常套句だが、行政責任者でもなく政策決定者でもない相手に向けるのは不適切だし卑怯だと思う。

「おっさんの気持ち悪いプロフィール写真をやめろ!」<=ほっとけ!

「国は金がないんだ。俺達は前からもっと悲惨な状況にいる。これまでぬくぬく生きてきた報いだ」<=怨嗟を向ける相手を完全に間違っている。自分たちの不幸の原因をなぜかこちらに向けている。これはバブル世代や団塊の世代に向けられる怨嗟にも共通している。君たちに富を再配分しないのはぼくでもなければ、彼らでもないというのに。

この人たちの発言動向は「ネトウヨ」と呼ばれる人たちと共通している。別に左翼でも同じことだ。反原発や反安倍内閣の立場に立つ人たちの中にだって同じような人達もいる。彼らは現状の自分の生活や政治に不満を抱いている。そして、どうやらその原因を既得権者、貯金を貯めこんでいる先行世代、中国や韓国などの外国、左翼インテリ、共産党、日教組などに見出そうとしているようだ。実際は生産拠点を海外に写している大企業や金融・経済界、新自由主義の恩恵に浴している(た、かつての)ホリエモンのようなヴェンチャー企業家たちこそが富の再配分に不均衡をもたらした彼らの敵のはずなのだが、見事なくらいに敵の姿を見誤っており、ナショナリズムと日本人(=主流派の国民、納税者)であるということを自己を強化する鎧のように思い込みたがる錯誤の中にいる。とりあえずは攻撃したい相手を探しているだけだ。安倍首相がなぜ再登板したかと聞かれて「インターネットの声に勇気づけられた」と言っているように、いまやこうした勘違いしたナショナリスト=ネトウヨ=新自由主義の被害者たちが世論を動かすまでの大きな勢力になっていることは否みがたい事実である。

宮台真司は、2000年のアメリカの大統領選において知能指数がきわめて高いと言われたゴアに対して、きわめて知的能力が低く知能指数100以下と言われたブッシュがインターネット上の多数の支持を集めて当選したことを例にあげて、何人もの家庭教師をつけても東大には入れず、ようやく成蹊大学に入学できた安倍を、だからこそ俺達が支持するというインターネット上の勢力(B層の大衆)が安倍を総理大臣にまで持ち上げたのではないかと指摘し、エリート嫌悪、感情劣化による衆愚政治が続くことは避けられないと言っている(KADOKAWAのウェブマガジン「ちょくマガ」(2014.9.30)における発言より)。かつてのような優秀なエリート層と、四年制大学を卒業した教養と知性をもちさらに上を目指そうとする層の厚い中間層の大衆が、この数十年の新自由主義経済の中で解体され、教育の機会も満足に与えられず、非正規労働者の群の中に埋没している、彼の言う「感情劣化したB層」の大衆を生み出し、インターネットで参加機会を与えられた彼らと、彼らの感情的な世論を誘導するメディアや広告代理店によって政治が動いているのではないかというような話である。相変わらずソーシャル・マーケッティング的な社会のマッピングであって、その論調には余り共感はできないが、しかしながら確かに中間層と呼ばれてきた層が完全に解体されて、一部の富裕層と数多くの低所得者層の格差が広まりつつあるのは世界的に見ても共通している現象だと思う。ヨーロッパの複数の国で極右政党や排外主義的勢力が拡大しているのも同じ流れとして理解できる。

だからこそ国立大学が必要だし、文系教育、あるいは広い意味での「教養」が必要なのではないかと思うのだ。崩れかけている日本の優秀な中間層の崩壊をさらに進めて一体どうしようというのか? さらに言えば国立大学の授業料を大幅に値下げするかあるいは無料化する政策こそが、この国の民主主義を正常に戻すためにも必要なのだとも言いたいのである。授業料が高過ぎる。ヘイトスピーチに流れる人々や、みんなが反対している原発再稼働を安倍が進めているからという理由だけで支持する人々の姿を見ていると益々そう思わずにはいられない。

一部の人に批判されたように、確かにかつてのような「高等遊民」的で社会から隔離された「秘密の花園」に対するノスタルジーと取られるようなことを書いたことは少し反省している。だが、それでも広い意味での批判的なリテラシー教育の機会をできるだけ多くの人に提供することは、この国の未来にとってとても重要なことであると思えるのだ。比較的安い授業料で、また一部のマンモス私大のようなマスプロ教育ではなく、学生一人ひとりと密接に接することのできる国立大学のいまの環境が失われることによって、この国の高等教育が被ることになるダメージは単なる効率性追求の政策によって得られる一時的な効果よりもはるかに大きいのではないかと言いたいのである。

知は力である。知識と教養を軽んじ、知識を効率と競争の道具としてしか考えないような国家に未来はない。現在の苛烈な状況の中でも、人類の歴史とこれまでの文明の流れ、先人たちがどのように思考してきたかを知り、自分が生まれてきた時代を超えた巨大な生命潮流の流れの中に自分が生きていることを知ることは、とても重要なことなのだと改めて言いたい。大学教育は守られなくてはならない。実際に若い人たちの昔も今も変わらない知識に対する純粋な欲求を間近に見ている現場の人間として切実にそう思う。

それでも、きっとまたネットでは罵倒されるのだろうなあ。勉強することができるということは、それでもすごく素晴らしいことであり、ネットを見ているだけよりはずっといいことがあると思うのだけど。

2014.10.03

国立大学がいま大変なことになっている(承前)

黙っているからと言って何も考えていなかったわけではない。

5月15日付けのエントリー「国立大学がいま大変なことになっている」を書いてから、いろいろな人に引用されたり、言及されたりしてきた。

国立大学関係者なら誰でも知っていることだが、一般の人たちにとっては驚くべきことだったようである。

その後、国立大学法人評価委員会が各大学に通知した「国立大学法人の組織及び業務全般の見直しに関する視点」について(案)の発表を受けて、東京新聞が9月2日付けの記事「国立大学から文系消える?」を掲載したり、またぼくの記事を引用した村田哲志氏による10月1日付けLivedoorNewsの記事「国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的『大学改革』」が出たことによって、またまたぼくの周辺が騒然としてきた。かと思えば今月号の『現代思想』の特集は「大学崩壊」というショッキングなものだった。だが、ざっと目を通したが大したことは書かれていない。

内田樹さんがツイートしているように、実はもうとっくの昔に国立大学ばかりではなく、新自由主義的な政策を採る政府の「教育改革」によって大学は死にかけていたのである。この二十年間で文部科学省はまさしく内田さんが言うように「『死にかけた大学』しか延命できないようなシニカルな仕組み」を作り上げたのだ。各大学には文科省から出向してくる理事や、産業界や行政から経営に参加する半数以上の経営協議会委員が送り込まれ、もはや大学の内部にも文科省には逆らえない構造ががっちりと組み込まれているのである。今回のことをとってみても、確かに安倍政権になってからその傾向は急速に推し進められてはいるが、90年代の自民党政権や民主党政権も本質的にはちっとも変わらない教育政策を推し進めてきた。それが変わらない限り、この方向性を停めることはできない。ストライキや抗議行動をしたところで何も変化させられないところにまで国立大学は追い込まれている。

前にも書いたように、「民間企業と同じような競争原理を持ち込む」というのが政府と文科省の最初の方針であった。しかし、政府から支給される運営交付金の金額が最初から決まっている国立大学では、横並びの同じような改革しかできない。そもそも改革の方向そのものが中教審の答申や文科省の政策に従うものだけしか認可されない仕組になっていたからである。そこで、文科省は00年代に入って大学振興課や大学改革推進室といった窓口を通して各大学に「競争的資金」を獲得するように求めることとなる。自分たちが気に入るような改革を行う大学にはご褒美で資金を提供するという形によって、各大学の競争を煽ろうとする試みである。代表的なものとしては世界的に通用する研究に対して与えられる数億円単位の「21世紀COEプログラム」(現在はグローバルCOEプログラム:COEとはCenter of Excellenceの略語らしい)と大学教育を支援する数千万円単位のGP(「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」、「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」及び「質の高い大学教育推進プログラム(教育GP)」:Good Practice)などがある。そして他にも沢山このような「競争的資金枠」を作り、運営交付金額の減額分をここで取り戻そうとする「やる気のある大学」だけを選別しようとした。

さらに、文科省は2004年の国立大学の独立行政法人化によって国立大学を「国立大学法人」として民間企業と同じように労働基準法管理下の組織に改変し、運営交付金を毎年減額させながら競争的資金枠を増やしてきており、さらに今回示された「国立大学改革プラン」においては平成28年度には運営交付金を3〜4割に減らし、競争的資金を獲得できない大学には支援を打ち切るという方針を示している。勿論、文部科学省だけが悪いのではない。その裏には年々財政状態が悪化している中で財源を確保しようとする財務省の厳しい要求があるのも事実である(たとえばこのような資料を見ると、文科省が彼らなりに大学を守ろうとしてきた経緯が読み取れるだろう。だからと言って彼らに責任がないわけではないが)。

平成28年度には国立大学への運営交付金を3〜4割に減額する! これはほぼ大学の人件費だけを残して他には一銭も配分しない額になると聞く。もしそうなったとしたら、国立大学はもはや何もすることができず、生き残ることはできない。各大学が必死で「競争的資金」を獲得しようとするのは当然であり、またそれ以外の選択肢は経営陣には残されていない! というのが、現在の国立大学が置かれている状況なのだ。しかしながら、大学改革と言ってもそれは文部科学省が唱導する「改革プラン」に沿っているものでなければ認められない。それがどういうものであるかはこの表を見れば推察することができるだろう。各大学は教職員一丸となってこのような方向性に沿ったお仕着せの「改革プラン」の申請書類を毎年大量に作成し提出しなくてはならない。そうしないとお金が足りなくなるからだ。だが、だんだんそれが習慣化していくと、お金がもらえるような計画書類を作ることの方が先行するようになって、改革の中身や、それが本当に自分たちの大学にとって必要なことなのかどうかというようなことを誰も考えなくなっていってしまう。中身はどうあれ、資金を獲得できなければ何もできなくなってしまうからだ。内田樹さんが言っている「死にかけた大学しか延命できないようなシニカルな仕組」とはまさしくこのようなことなのである。

ここ数年はさらにここに「グローバル人材の育成」とか「大学のグローバル化」という主として漠然とした財界からの要請に則した「競争的資金」の割合が増えてきた。このため留学生の倍増とか、大量の学部学生の海外への短期派遣留学、外国人教員の増員、英語による授業科目の増加などといった、果たして本当に教育の質を上げるのに有効なのかどうかわからない横並びの「改革」を取り入れざるをえない大学が増えている。ぼくの働く横浜国立大学も例外ではない。最近発表された「スーパーグローバル大学創成支援」に採択された大学では今後数年間数億円ずつが配分されることになっているが、結局は今年も落選してしまった。採択された大学と似たような申請内容だったのだが、まだまだ「積極的な姿勢が足りない」と評価されたようだ。元々それなりの努力をしている上にこの資金に応募するために少し無理をして英語による教育カリキュラムなどを導入してしまっているので、今後予算面でますます苦しくなることが予測されるが、それでもこの資金獲得レースから下りることはできないのである。こうして大学はどんどんと破滅の道を転がり落ちていく。

これが深刻なのは、こうした大学政策が単に日本国内だけではないということだ。グローバル資本主義の広がりの中で世界中の大学が似たような形で無理やり競争を強いられている。とりわけヨーロッパの大学の凋落が激しい。手続き型の合理性と、数値だけが重視され、中身よりも形(論文数、引用数、特許数など)だけで評価が行われるというのは、全世界的な趨勢である。したがって本当の問題はグローバル資本主義そのものなのだ。

こんなことを書いていると、同僚たちから非難されるかもしれない。なぜなら、年齢相応にぼくも管理職についており、もし大学が会社であるとしたらこのような内情を内部の人間がさらけ出すことは好ましくないと考える大学教員も少なくないからである。だが、大学は会社ではない。また、いくら形としては独立法人化され労働基準法管理下に置かれた組織であるとしても、教員は通常の意味での労働者ではない(「聖職」だとか言いたいわけではない)とぼくは信じている。自分の思うことや信条を口にすることができないとしたら、それこそ大学と大学人には何の存在価値もなくなってしまうと考えているので、同僚たちに直接の迷惑がかかることでない限り、好きなように発言させてもらう。

しかし、言うまでもなくこのような「改革」が正しいと本気で信じ込んでいる人たちが現実の政策を決めているのも事実である。それでは、それはどのようなものなのだろうか? ちょうどここに格好の材料になる記事があるので、それを読んでいこう。YahooJapnNews10月2日付けで木村正人という人が書いている「世界大学ランキング(1)東大23位死守も、日本は大幅後退」という記事である。ここでは外国人雇用については疑問を呈しているものの、ランキング100位以内に10校を入れたいという文科省がスーパーグローバル大学創成と呼んでいるような政策がは基本的に不可欠であるかのように書かれていて、これだけ読む人は思わずなるほどと納得してしまうのかもしれない。このような論理が政策決定者たちを動かしてきたことは事実であるように思われる。

そもそも「大学ランキング」とは何で、それは何を指標に作られているのかと言えば、主に研究論文数、被引用件数、取得特許数といった数値を中心として作られているのであり、当然のことながら工学系、医学系を中心としている。だから一位がカリフォルニア工科大学であり、スタンフォードやMITが上位に入っているのだ。そしてそのほとんどは英語圏の大学である。最初から英文の論文しかカウントされていないのだから当然である。名前を聞いたことのない大学も多い。ランキングに入っているから素晴らしい大学だということはないし、また学生の立場に立ってみれば、実際に自分がどんな教員や友達にめぐり逢えるかということだけが問題なのだから、何の参考にもならない。根本的なことであるが、なぜ日本の大学がこうした「ランキング」を指標にして改革しなくてはならないのかがぼくには全く理解できない! 少なくとも文系にはもともと何の関係もない話なのだ!

授業を英語化することに関しても、外国人教員の雇用を促進することに関しても、それ自体は良くも悪くもないが、数値目標を定めて―しかも全体の1/3も外国人教員にするなどという極端なものも多い―国際化するなどという改革は狂気の沙汰としか思えない。人文科学や日本史などの授業まで英語で行うことにいったい何の意味があるというのか? 単に日本語能力と日本語による思考能力が著しく低い、そして言語の奥に広がる豊かな文化的広がりに全く触れることなく英語を実用的な道具としてのみ考えるような学生しか生み出さないカリキュラムや教育システムを作り上げて一体どうしようというのか? こういう記事を書いたり「スーパーグローバル大学」とか本気で言っている人たちには全く分からないことなのに違いない。勘違いもここまでくればもはや狂気と呼ぶしかないのだが、政府も文科省も財界も全くそれに気づこうとしないのである。

かつて、ぼくたちが大学に何を求めていたのかと言えば、世の中の趨勢とは離れたところで自由な知性の可能性を極限まで突き詰めることのできる空間であった。考えてみれば蓮實重彦も柄谷行人も、ぼくたちが憧れていた思想家や哲学者、批評家、文学者はみんなただの語学教師や教養部の教員で、大学の評価を高めるとか、資金を獲得するとかといったくだらないことにかかわらないで、世間を気にせずにいられたからこそ自由な仕事ができたのだ。時間を忘れて若い人たちと一緒に思索をめぐらせたり、異なる意見を戦わせたりする自由な空間こそが大学に最も必要なものなのに、この度重なる大学教育改革は根こそぎそれを奪い取ってしまったのである。

大学とは人である。素晴らしい教員と素晴らしい学生は自由に議論ができ、自由に意見を言い合える、実社会からはある程度遮断された空き地のような空間の中でしか育たない。くだらない改革資金目当ての書類作りに忙殺され、何が本当に必要で、何が大切なことなのか、誰も分からなくなってしまったこの国の大学に、再び言うが、もはや未来はない。

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