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2014.10.03

国立大学がいま大変なことになっている(承前)

黙っているからと言って何も考えていなかったわけではない。

5月15日付けのエントリー「国立大学がいま大変なことになっている」を書いてから、いろいろな人に引用されたり、言及されたりしてきた。

国立大学関係者なら誰でも知っていることだが、一般の人たちにとっては驚くべきことだったようである。

その後、国立大学法人評価委員会が各大学に通知した「国立大学法人の組織及び業務全般の見直しに関する視点」について(案)の発表を受けて、東京新聞が9月2日付けの記事「国立大学から文系消える?」を掲載したり、またぼくの記事を引用した村田哲志氏による10月1日付けLivedoorNewsの記事「国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的『大学改革』」が出たことによって、またまたぼくの周辺が騒然としてきた。かと思えば今月号の『現代思想』の特集は「大学崩壊」というショッキングなものだった。だが、ざっと目を通したが大したことは書かれていない。

内田樹さんがツイートしているように、実はもうとっくの昔に国立大学ばかりではなく、新自由主義的な政策を採る政府の「教育改革」によって大学は死にかけていたのである。この二十年間で文部科学省はまさしく内田さんが言うように「『死にかけた大学』しか延命できないようなシニカルな仕組み」を作り上げたのだ。各大学には文科省から出向してくる理事や、産業界や行政から経営に参加する半数以上の経営協議会委員が送り込まれ、もはや大学の内部にも文科省には逆らえない構造ががっちりと組み込まれているのである。今回のことをとってみても、確かに安倍政権になってからその傾向は急速に推し進められてはいるが、90年代の自民党政権や民主党政権も本質的にはちっとも変わらない教育政策を推し進めてきた。それが変わらない限り、この方向性を停めることはできない。ストライキや抗議行動をしたところで何も変化させられないところにまで国立大学は追い込まれている。

前にも書いたように、「民間企業と同じような競争原理を持ち込む」というのが政府と文科省の最初の方針であった。しかし、政府から支給される運営交付金の金額が最初から決まっている国立大学では、横並びの同じような改革しかできない。そもそも改革の方向そのものが中教審の答申や文科省の政策に従うものだけしか認可されない仕組になっていたからである。そこで、文科省は00年代に入って大学振興課や大学改革推進室といった窓口を通して各大学に「競争的資金」を獲得するように求めることとなる。自分たちが気に入るような改革を行う大学にはご褒美で資金を提供するという形によって、各大学の競争を煽ろうとする試みである。代表的なものとしては世界的に通用する研究に対して与えられる数億円単位の「21世紀COEプログラム」(現在はグローバルCOEプログラム:COEとはCenter of Excellenceの略語らしい)と大学教育を支援する数千万円単位のGP(「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」、「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」及び「質の高い大学教育推進プログラム(教育GP)」:Good Practice)などがある。そして他にも沢山このような「競争的資金枠」を作り、運営交付金額の減額分をここで取り戻そうとする「やる気のある大学」だけを選別しようとした。

さらに、文科省は2004年の国立大学の独立行政法人化によって国立大学を「国立大学法人」として民間企業と同じように労働基準法管理下の組織に改変し、運営交付金を毎年減額させながら競争的資金枠を増やしてきており、さらに今回示された「国立大学改革プラン」においては平成28年度には運営交付金を3〜4割に減らし、競争的資金を獲得できない大学には支援を打ち切るという方針を示している。勿論、文部科学省だけが悪いのではない。その裏には年々財政状態が悪化している中で財源を確保しようとする財務省の厳しい要求があるのも事実である(たとえばこのような資料を見ると、文科省が彼らなりに大学を守ろうとしてきた経緯が読み取れるだろう。だからと言って彼らに責任がないわけではないが)。

平成28年度には国立大学への運営交付金を3〜4割に減額する! これはほぼ大学の人件費だけを残して他には一銭も配分しない額になると聞く。もしそうなったとしたら、国立大学はもはや何もすることができず、生き残ることはできない。各大学が必死で「競争的資金」を獲得しようとするのは当然であり、またそれ以外の選択肢は経営陣には残されていない! というのが、現在の国立大学が置かれている状況なのだ。しかしながら、大学改革と言ってもそれは文部科学省が唱導する「改革プラン」に沿っているものでなければ認められない。それがどういうものであるかはこの表を見れば推察することができるだろう。各大学は教職員一丸となってこのような方向性に沿ったお仕着せの「改革プラン」の申請書類を毎年大量に作成し提出しなくてはならない。そうしないとお金が足りなくなるからだ。だが、だんだんそれが習慣化していくと、お金がもらえるような計画書類を作ることの方が先行するようになって、改革の中身や、それが本当に自分たちの大学にとって必要なことなのかどうかというようなことを誰も考えなくなっていってしまう。中身はどうあれ、資金を獲得できなければ何もできなくなってしまうからだ。内田樹さんが言っている「死にかけた大学しか延命できないようなシニカルな仕組」とはまさしくこのようなことなのである。

ここ数年はさらにここに「グローバル人材の育成」とか「大学のグローバル化」という主として漠然とした財界からの要請に則した「競争的資金」の割合が増えてきた。このため留学生の倍増とか、大量の学部学生の海外への短期派遣留学、外国人教員の増員、英語による授業科目の増加などといった、果たして本当に教育の質を上げるのに有効なのかどうかわからない横並びの「改革」を取り入れざるをえない大学が増えている。ぼくの働く横浜国立大学も例外ではない。最近発表された「スーパーグローバル大学創成支援」に採択された大学では今後数年間数億円ずつが配分されることになっているが、結局は今年も落選してしまった。採択された大学と似たような申請内容だったのだが、まだまだ「積極的な姿勢が足りない」と評価されたようだ。元々それなりの努力をしている上にこの資金に応募するために少し無理をして英語による教育カリキュラムなどを導入してしまっているので、今後予算面でますます苦しくなることが予測されるが、それでもこの資金獲得レースから下りることはできないのである。こうして大学はどんどんと破滅の道を転がり落ちていく。

これが深刻なのは、こうした大学政策が単に日本国内だけではないということだ。グローバル資本主義の広がりの中で世界中の大学が似たような形で無理やり競争を強いられている。とりわけヨーロッパの大学の凋落が激しい。手続き型の合理性と、数値だけが重視され、中身よりも形(論文数、引用数、特許数など)だけで評価が行われるというのは、全世界的な趨勢である。したがって本当の問題はグローバル資本主義そのものなのだ。

こんなことを書いていると、同僚たちから非難されるかもしれない。なぜなら、年齢相応にぼくも管理職についており、もし大学が会社であるとしたらこのような内情を内部の人間がさらけ出すことは好ましくないと考える大学教員も少なくないからである。だが、大学は会社ではない。また、いくら形としては独立法人化され労働基準法管理下に置かれた組織であるとしても、教員は通常の意味での労働者ではない(「聖職」だとか言いたいわけではない)とぼくは信じている。自分の思うことや信条を口にすることができないとしたら、それこそ大学と大学人には何の存在価値もなくなってしまうと考えているので、同僚たちに直接の迷惑がかかることでない限り、好きなように発言させてもらう。

しかし、言うまでもなくこのような「改革」が正しいと本気で信じ込んでいる人たちが現実の政策を決めているのも事実である。それでは、それはどのようなものなのだろうか? ちょうどここに格好の材料になる記事があるので、それを読んでいこう。YahooJapnNews10月2日付けで木村正人という人が書いている「世界大学ランキング(1)東大23位死守も、日本は大幅後退」という記事である。ここでは外国人雇用については疑問を呈しているものの、ランキング100位以内に10校を入れたいという文科省がスーパーグローバル大学創成と呼んでいるような政策がは基本的に不可欠であるかのように書かれていて、これだけ読む人は思わずなるほどと納得してしまうのかもしれない。このような論理が政策決定者たちを動かしてきたことは事実であるように思われる。

そもそも「大学ランキング」とは何で、それは何を指標に作られているのかと言えば、主に研究論文数、被引用件数、取得特許数といった数値を中心として作られているのであり、当然のことながら工学系、医学系を中心としている。だから一位がカリフォルニア工科大学であり、スタンフォードやMITが上位に入っているのだ。そしてそのほとんどは英語圏の大学である。最初から英文の論文しかカウントされていないのだから当然である。名前を聞いたことのない大学も多い。ランキングに入っているから素晴らしい大学だということはないし、また学生の立場に立ってみれば、実際に自分がどんな教員や友達にめぐり逢えるかということだけが問題なのだから、何の参考にもならない。根本的なことであるが、なぜ日本の大学がこうした「ランキング」を指標にして改革しなくてはならないのかがぼくには全く理解できない! 少なくとも文系にはもともと何の関係もない話なのだ!

授業を英語化することに関しても、外国人教員の雇用を促進することに関しても、それ自体は良くも悪くもないが、数値目標を定めて―しかも全体の1/3も外国人教員にするなどという極端なものも多い―国際化するなどという改革は狂気の沙汰としか思えない。人文科学や日本史などの授業まで英語で行うことにいったい何の意味があるというのか? 単に日本語能力と日本語による思考能力が著しく低い、そして言語の奥に広がる豊かな文化的広がりに全く触れることなく英語を実用的な道具としてのみ考えるような学生しか生み出さないカリキュラムや教育システムを作り上げて一体どうしようというのか? こういう記事を書いたり「スーパーグローバル大学」とか本気で言っている人たちには全く分からないことなのに違いない。勘違いもここまでくればもはや狂気と呼ぶしかないのだが、政府も文科省も財界も全くそれに気づこうとしないのである。

かつて、ぼくたちが大学に何を求めていたのかと言えば、世の中の趨勢とは離れたところで自由な知性の可能性を極限まで突き詰めることのできる空間であった。考えてみれば蓮實重彦も柄谷行人も、ぼくたちが憧れていた思想家や哲学者、批評家、文学者はみんなただの語学教師や教養部の教員で、大学の評価を高めるとか、資金を獲得するとかといったくだらないことにかかわらないで、世間を気にせずにいられたからこそ自由な仕事ができたのだ。時間を忘れて若い人たちと一緒に思索をめぐらせたり、異なる意見を戦わせたりする自由な空間こそが大学に最も必要なものなのに、この度重なる大学教育改革は根こそぎそれを奪い取ってしまったのである。

大学とは人である。素晴らしい教員と素晴らしい学生は自由に議論ができ、自由に意見を言い合える、実社会からはある程度遮断された空き地のような空間の中でしか育たない。くだらない改革資金目当ての書類作りに忙殺され、何が本当に必要で、何が大切なことなのか、誰も分からなくなってしまったこの国の大学に、再び言うが、もはや未来はない。

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コメント

グローバル人材とは、日本人としての在り方を知っている日本人のことです。外国人の物まねをしている日本人なんて、世界から相手にされません。えせ外国人にしか見えないからです。日本人の在り方を理解するには、日本語をシッカリと勉強することです。日本語で成り立っている文系を軽視する日本は滅亡するしかない。これからは、しっかりとした考えのある人間が私塾を開設し、しっかりした日本人を育てることになるでしょう。それを期待するしかない。今この国の政治をしている人間は、本当にバカばっかりになってしまった。

私は大学関係者ではありませんが、
大学とほんの少し関係がある仕事をしている者です。

今回の記事を興味深く拝見いたしました。
今回の記事に共感いたしました。

独立法人化あたりから何やら、心配な雲行きだと薄々感じていました。最近はますます大変な状況なのですね。

「時間を忘れて若い人たちと一緒に思索をめぐらせたり、異なる意見を戦わせたりする自由な空間こそが大学に最も必要なもの」という点、共感しました。私の子ども達にも、このような時間を大学で過ごしてもらいたいと思っています。

しかしながら、昨今は、大学がまるで就職予備校のような取り扱われ方をされていること自体、非常に悲しいです。

完全に知性のデフレスパイラルが起きていて、小学校から大学で縮小再生産され、そのアウトプットである政治家や官僚がさらに教育を縮小させる。自分より知的な人間なんて邪魔にしかならんから。ほとんど全ての日本人が江戸時代以前の農奴レベルに平均化される他無いんだろうなあ。

「できる人という幻想」という本(https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00884332014)によれば、「グローバル人材」などというものを実は財界も求めているわけではなく、就職エントリーを抑制するために唱えているにすぎないことがわかります。
つまり政府、文科省は「グローバル」という記号を駆使するだけで、記号の背後に何を求めるかはまるで考えていない。
他方、「時間を忘れて若い人たちと一緒に思索をめぐらせたり、異なる意見を戦わせたりする自由な空間こそが大学に最も必要なもの」はなぜでしょう。
研究と教育は、社会が幸福になるための手段だと思います。
「良き社会」の提言と「良き構成員」の育成が大学の使命ではないのでしょうか。
改めて「グローバル」「自由な空間」などに意味を充填し、社会にアピールすることが、死に体の大学に必要だと思います。

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