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2015年5月

2015.05.24

日本記号学会第35回大会「美少女の記号論」終了

突然blogを再開する。
大学のことは諸事情もあり、しばらく書かない(書けない? いや、そんなことはない)。

5月16日と17日の二日間、秋田公立美術大学で第35回日本記号学会大会「美少女の記号論」が開催された。
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たまたま去年秋田を訪れた時に、「あきたこまち」をはじめとするあらゆる秋田の名産品のパッケージに萌え系のアニメ画風美少女が溢れていることに衝撃を受けて、「なぜ美少女なのか?」「なぜ人は美少女に救済を求めるのか?」「美少女とはどのような記号なのか?」というような問を立てることから、この企画が始まった。もちろん「秋田美人」というイメージもあるが、いずれにしても人を集めることが難しいこの土地での集客狙いのコンセプトであり、それほど深い意味があったわけではない。Photo

ただ、元々日本では少女や幼女に対するファンタジーが強く、手塚治虫や宮﨑駿のような少女志向の文化的傾向が強いのだが、それでもこの10年間のように、同じコスチュームを着た美少女アイドルに中高生だけでなく、社会人の男が群がるのは異常事態と言ってもいいと感じてはいた。記号学会ではいろいろな議論が出たが、ぼくなりにまとめたり、考えたりしたことを列挙すれば以下のようなことになる。

・美少女は実在しない。

・美少女とは構造的に与えられる役割であって、その意味では誰でも美少女になれる。

・性的に宙吊りにされた観念としての美少女は救済のイメージと結びついている。

・そのため「萌え要素」のような紋切り型やクリシェが安易に用いられるが、それらは美少女の本質的要素ではない。

・その意味で美少女はいわゆる「データベース型消費」とは何の関係もない。

・そもそも美少女は市場における消費の対象ではない。

・そのことを隠蔽するために「グッズ」という役に立たないガラクタが交換される。グッズとは贈与経済に属するもので、グッズに市場での交換価値は存在しない。そこで行われているのは象徴交換の儀式である。

・美少女が救済のイメージにつながるのは、それがあらゆる経済連関や政治的文脈から切り離されている「宙吊り」の不安定な表象だからだ。それが不安定な十代の少女の身体によって、「演技」や「技術」ではなく、全力で「実在」に近づこうとしていく意志によって、美少女の表象は一種のイコンとして機能し、崇拝や献身の対象になるのではないか?

・もちろんAKBのような軍隊型、ももクロのような戦隊型、きゃりーぱみゅぱみゅのような男を必要としない自足型、BabyMetalのような企画物型のようなさまざまなヴァリエーションがあるし、単にピンクでふわふわした衣装をまとって笑顔を振りまいているだけの無数の凡庸な美少女アイドルが氾濫している。

・美少女のイメージ造形は男性のプロデューサーの妄想によってまるでプラモデルを組み立てるように作られる。受容者はこのプロデューサーが自分たちの欲望を引き出してくれていることに対して自覚的であり、「運営」側とのインタラクションを重視している。メカと美少女はどちらも工作物であるという点において共通しており、その工作物としての完成度を競うことが出来る。

・少女たちがなぜそれを自ら進んで受け入れようとするのか? なぜそうした男性の妄想の押し付けから自由になろうとしないのか?

・それはいまや、女性たちばかりでなくすべての世代を含めた男性までもが自分も「美少女になりたい」と欲望しているからなのではないか? ヲタ芸をするアイドルのおっかけたちは、アイドルのライブと一体化することを求めており、最終的にはメンバーと同一化することを欲望している。

・こうした「美少女願望」が社会に蔓延しているために、もはや男子中高生のみならず家庭を持つ成人男性たちや女性たちにまでアイドル文化が浸透しているのではないか? そして、本来は市場経済とは関係のない美少女表象が、資本によって経済に組み込まれ、いわば市場経済の潤滑油のような働きをしているのではないか? そういう意味では、やはりあんまり健康なことではないのだろうな。

こんなようなことを思った。

ところで、この学会でぼくが担当したのが、クロージング・セッションで秋田のご当地アイドル(地元アイドル=ジモドル=ロコドル)pramoのミニライブを含む「美少女vs記号学会」という、アイドルと学会のコラボという無茶振りの企画であった。全体を3つのコーナーに分け、最初の30分が黒板前でのpramoのミニライブ、第二部がpramoメンバー一期生3人と仕掛け人の浅野社長とのトーク、最後が学会員によるディスカッションという構成になった。その後玄関付近での物販とpramoによるファンとの交流もあった。メンバーとのトークに関しては、もう少しやっておきたい点が残ったものの、全体としてはまあまあ無事に終了し、ほっとした。

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このpramoの子たちが素晴らしかった。一期生の子たちは2011年からもう足掛け5年活動をしているのだが、ピュアで真剣で礼儀正しい(もちろん、それが彼女たちの「素」だと素直に思っているわけではないが、少なくとも処世術とか営業の戦術とかいうことではなくて、真剣に彼女たちが「アイドル」と一体化しようとしているというようなことだと思う)。終わった後にも早速公式ホームベージでの活動報告が掲載され、トークショーに出てもらったメンバーのせれんちゃん、こむぎちゃん、まゆちゃんもblogで文章を書いてくれた。それぞれ素直に感想を書いてくれてとてもうれしい。高校生くらいの女の子からこういうようなまっすぐな言葉をもらうのは新鮮な感じだ。6月6日に東京に出てきてライブをやるらしいけど、学生たちを連れて応援しに行きたくなった。

こういうのは、周りの大人達がしっかりしていて、ちゃんとしているからこそのことだと思う。事前にpramoについてはいろいろ調べてはいたのだけど、終わった後もずっと見て行きたくなる。

少女たちがこういうことに本気で向かい合うと凄い力になる。リーダーのせれんちゃんは高3なので今年で引退するということを決められていて、その一年間という定められた期間を全力でやりきろうとしているのがよく分かる。確かに、高校で部活に賭けている(高校野球とかバレーボールとか)子たちのもっている不思議な迫力と真剣さにも似ているのかもしれない。甲子園に出られるのも、またその中でプロ野球や大学に誘われたりするのもほんの一部で、大半の子はこれをやれるのは一年か二・三年の短い期間だけだということが分かっていて、まるで二週間で死んでしまうセミのように自分の持っている以上の力をそこにつぎ込もうとする。基本的に少女アイドルというものは少女じゃなくなれば終わるのだから、時間とともに成熟することはなく、少女時代の不安定な心と肉体のままで時間が止まったような瞬間=永遠の中でしか成り立たない幻影である。ゲーテが「時間よ止まれ、君は美しい」と書いたように、永遠と瞬間が重なり合う中に「救済」の幻影が浮かび上がってくるのが、少女アイドルの魅力であり、それは夏の線香花火のように儚い一瞬の幻だ。もちろん大半のアイドルは紋切り型と凡庸なクリシェで安易に作られていてとても安っぽい感じがするものであるが、pramoは違った。

こういう話をすると、すぐに「先生、すっかりはまっていますね」とからかい気味に言われる。前に「ももクロ」のことを書いた時にも、「ぼくと同じですね」とか「誰推しですか?」とか「ぼくはAKBです」とか、急に馴れ馴れしく話しかけてくる学生が多い。悪いけど君たちと同じと思ってほしくはない。はまっているのはもしかすると本当なのかもしれないが、しかしそれを口にするのは少し恥ずかしい。またすぐに「可愛いものには誰でも惹かれますからね」とか、「仔猫と同じで、みんなが癒やされますね」とか言われるのも少し違うと思う。

秋田という地方都市から全国へ、世界へと何かを発信していこうとすることと、ぼくが横浜都市文化ラボでやろうとしているように、もはや何も生み出せなくなってしまった国立大学から文化を発信していこうというのは何か似ているような気がしなくもない。何かまだ読み解かなくてはならない何かがあるような気がしている。もう少し考えてみたい。

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5/17活動報告
http://pramo-akita.com/news1/2280/

リーダーのせれんちゃんのblog
http://ameblo.jp/prm-srn/entry-12027754566.html

こむぎちゃんのblog
http://ameblo.jp/welcom-smile/entry-12027955506.html#cbox

まゆちゃんのblog
http://ameblo.jp/pprraammoo/entry-12028240049.html

早速YouTubeに投稿された当日の映像。よくもこんなに狭いところで踊ってくれたものだ。

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