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2016年1月

2016.01.19

【国立大学改革】いくつかリアクションしておきます。

TwitterやFacebook上で直接議論することはしません。不毛だし。裏で色々勝手に言っているだけですからね。

一つめは前のエントリーで書いたことに対するFacebook上でのネガティブな反響についてです。

たとえばこういうの…。

>うーん…「国立」大学は運営費の半分は税金投入されてるのにねえ。
>それを「大学は教員と学生のもの」って…職員は入らんのか…
>そして、こういう主張が社会で共感されているとは驚き。
>そんなに好きにしたければ、自分たちで資金集めて
>自分たちの好きなようにできる大学を作ればいいのに。
>そしたら誰も文句言わない。なぜ「国立」にこだわるのか。
>国の関与が嫌なのに、国立にこだわる理由が不明と言えば不明。

「国のものなのに、単に雇われている奴らがごちゃごちゃ言うな。嫌ならやめろ」とでも言いたいのか?

こっちの方が「驚き」です。まあ、こういう人たちはよく居るので、もはやそれほどは驚かないですけれどね。

大学も学校も「株式会社」のようなモデルでしか考えられないから、こういう意味不明の発言になるのですね。

「国」が大学のオーナーで、経営方針もオーナーと社長が決めるのが当たり前。そして株主は俺たち「国民」。(俺たちの)税金で雇用されているだけの者はごちゃごちゃ言うな…。嫌なら自分で会社=大学作れ。ブラック企業のオーナーとかがいかにも言いそうですね。確かに「法人化」というのは、株式会社をモデルにしている法改定でした。だから、労働基準法が適用され、教職員は社長にあたる学長をトップとする「国立大学法人」の雇用者という形にされている。学生とその保護者が「顧客」。教育や研究は「業務」で、したがって研究内容や教育方法についても学長があれこれ口を出すことができる…と、まあこういうモデルなわけです。これを根拠に「学長のガバナンスの強化」とか、「意向投票の廃止」とかいう暴力がまかり通っている。

そして、こういうモデルを大学に適用するのは完全に間違っていると私はずっと言っている。

たとえば、慶應義塾大学というところには金子勝というガチガチのマルクス主義経済学者と、竹中平蔵という小泉構造改革のブレインだった新自由主義経済学者がいる。これをマルクス主義は反政府的だから発言させないとか、新自由主義者はムカつくから首にするとか言ったら、それはもはや大学とは呼べない。学問の自由というのはこういうことを言うのだ。大学は多様性を失ったらいけないというのはこういうことなのである。大学教員が時の政府におもねった発言しかできなくなったらもうおしまいだ。

ちなみに前回問題にした福岡教育大学では、授業中に「安保法案反対デモ」の「安倍はやめろ」コールを学生に言わせた先生が(オチは「学長もやめろ」だったらしい)、学生のTwitterから問題になり、何と執行部によって停職処分にされている。もはや、こんなところは大学の名に値しないと思う。他の先生たちはどう思っているのだろう?

たとえばこれが逆だったらどうだったのだろう? 授業で安倍内閣を絶賛したり、大学の入学式で君が代を歌うのは当たり前だという話を授業でした先生は「処分」されていただろうか?  

どちらも教員が自分自身の思想として語っているのであれば、たとえそれで不愉快な人が一部いたとしても「処分」の対象にしたりすべきではない。それをたとえば単位の条件にしたり、賛同しない学生を差別したりすれば問題だろうが、教壇では教員は自由に自分の考えを堂々と述べる権利があるのだ。学生はそこから自分で事の是非を考えればいいのである。

「学習指導要領」に完全に準拠することを強制されている小中高校と大学はそこが根本的に違う。

中には大学にも「指導要領」的なものを作るべきだと主張する人たちもいることはいるが、そんなことになってしまえば大学はただの「教習所」になってしまう。自ら考える力など身につくはずはないのだ。

話を続ける。

言っとくけど、運営費の半分ではなく「ほとんど」すべてが国の税金です。「国立大学」ですからね。それがどうした?

「国」や「国家」という概念は、現在政権を握っている政党や国会議員の集合体よりももっとずっと上のレベルの抽象的な概念です。「理念型」と呼んでもいい。今の政府や政権が言っていることに従わないことが理念としての「国」に従わないとか、愛していないということではない。なぜ国立大学があるのか? それは知識や学術の最高機関をきちんと運用できないような国はいずれ滅びるからです。政府が間違ってる時にそれを糺すことができないような大学など存在する意味がない。

もう一つ。職員は教員と学生の共同体としての大学の運営をスムーズに機能させるために手伝ってくれるありがたい人たちです。その意味ではもちろん「仲間」です。ですが、「学知の場所」としての大学の主たる機能それ自体には直接は関わっていません。ですから、大学は学生と教員のものと言ったのです。

最後に、「自分たちで資金を集めて自分たちの好きにできる大学を作ればいいのに」ということに関してですが、私立大学を含めて、大学設置基準法に適合し、設置審議会で承認されなくては「大学」として認可されません。そして「大学」である限り、文部科学省の支配からは自由にはなれません。私の知る限り、むしろ私立大学の方が文科省の顔色を窺って、ガチガチで窮屈な状況に陥っています。つまりはまともな「大学」などどこにも存在し得ないのです(だから、私塾しかありえないのかと嘆いているわけです)。

これを脱け出すには、国の大学に対する政策を変えなくてはなりません。そのためには、まずは国=文科省のこの数十年間の大学改革がいかに根本的に間違っていたかということを訴え続けなくてはなりません。私が言っているのはそういうことです。

たとえば、昨日(1月18日)公表されたインターネット上のメディア「nippon.com」に文科大臣補佐官の鈴木寛氏による「人材育成・日本の大学の何が問題か」という記事が出ています。

#しかし、この記事のタイトル、凄いね。日本の大学の現場の方が問題なのであって、文科省はその問題解決に努力してきたとでも言いたいのか? 文科省の大学改革政策の方がずっと問題なのに...。

この記事で鈴木氏は、文科省のこれまでの教育政策は15歳の学力向上など成功したものも多いが、大学政策では失敗したものもあると述べ、その例として法科大学院とポスドク問題(だけ?)を挙げている。また理工系人材づくりもノーベル賞受賞者を多数輩出するなど成果を上げているが、ドクター進学率の低下など今後の不安要素も高い。さらに文系教育に関しては長い間貧弱なままで放置してきたことのツケを何とかしなくてはならない。緊急に必要なのは文系のST比(教員一人あたりの学生数)の適正化である。またアメリカに学んで一層の「戦略的大学経営モデル」を確立しなくてはならない…大体こんなようなことを言っている。

全くピントのずれたことを言っていると言うしかない。少なくとも91年の大学設置基準の大綱化以降の文科省による大学改革はそのほとんどすべてが間違っているし、失敗しているというのが、ぼくの認識である。ST比の適正化などよりも、やるべきこと―というよりも、ただちにやめるべきこと―は無数にある。

だいたいこの鈴木という人は独法化の時に反対していたはずなのに、いまや文科省によるソビエト的な大学支配の総元締めみたいなことをしていて、恥ずかしくはないのだろうか?

まず、アメリカ型の大学経営モデルを導入すればよくなる(はずだ)という思い込みからして間違っている。会社経営だってそうだが、グローバルスタンダードを導入すればそれでよくなるというのは幻想にすぎない。90年代に日本の会社を合理化すると言って、さまざまなアメリカ流の経営改革を持ち込み、元々の企業風土を破壊して、組織をぐちゃぐちゃにしてしまった反省をそろそろすべきなのではないか? アメリカと同じことをしても、二番手、三番手どころか世界の五番手、六番手、あるいはそれ以下に後退するだけということを学んでいないのだろうか。そうじゃないと海外で対等に戦っていけないなどと言うが、その前に国内の教育環境や大学風土がめちゃめちゃに破壊されてしまう。自分たちの持っているいいところを伸ばしていこうとせずに、「アメリカ流」の経営改革によってそれを立ち直れないまでに破壊してしまうことが全然わかっていない。何よりも現場のやる気を著しく失わせてしまったのが、こうした文科省流の「大学改革」なのではないか?

こうして、五流・六流のアメリカ型大学のようなものを日本に沢山作り出そうとしているだけなのだ。日本各地、固有の地域性に基づく独自の文化を育んできたさまざまな地方大学に、まるで大型ショッピングモールにような(しかも規模はけっして大きくせずに)一律の経営手法を押し付けて改革しようということがそもそも間違っているのであって、文科省は地域や大学の主体性を認め、多様性を破壊する大学改革政策をやめるべきなのだ。それは一律に「地域創成学部」とか「地域デザイン学部」とかいうフォーマットを押し付けることとは根本的に違う。とりあえずは、あなたたちが余計な「改革プラン」を全部取り下げてくれるのが現在のところでは最善の策である。度重なる干渉や押し付けられた「ミッションの再定義」によって、どれだけ現場の教員や学生たちの努力が踏みにじられ、めちゃくちゃに混乱させられているかということを全く分かっていないのではないかと思う。

「大学人は、政府がそうした議論の場を設けるのを、待つのではなく、自ら論点を洗い出し、世論を啓発し、熟議を起こしていく必要がある」などと書いているが、全くどの口で言っているのかと呆れてしまうしかない。自分たちの政策に都合がいい御用学者や財界人だけで審議会を構成するような「政治主導」が続いていく限り、何も変わるはずがない。せめて、理系の学長経験者や財界人だけではなく、まともな教育哲学者や教育社会学者たちを入れて、大学教育に関する歴史的、文脈的な議論から始めていかなければ、もはやどうにもならないと思う。企業の論理を大学に持ち込んではいけないのだ。第一、百年以上続く企業なんてほとんどないが、大学はうまく維持できれば数百年は続く息の長い組織なのである。それらは全く別種のものだ。文系の研究というのもまた、場合によっては五十年、百年の時間をかけて初めて成果が生まれるものもあるのである。すべてにおいて、視点が短絡的過ぎると思う。

今日はとりあえずここまで。

2016.01.16

全国の国立大学をこのまま国(文科省)の奴隷にしていいのか!

さて、どこから書き始めようか? ここでは久しぶりの「国立大学改革」の話である。

とりあえず、このblogから生まれた角川新書『文系学部解体』が12月10日に公刊され、全国大学生協の新書部門1位になるなど沢山の人に読まれているようである。全国の大学教員から共感や励ましの声が送られてくるのはある程度は想定内のことだったが、意外だったのは大企業の人事担当の役員の方はじめ、企業や経済界からの好意的な反響が多かったことである。中には是非室井先生のゼミ生のような学生を取りたいというようなものまであった。残念ながらぼくはゼミという制度があまり好きではないので、うちのゼミ生はほかのゼミを落ちこぼれたかなりダメな子ばかり(笑)なので、あまりご期待には添えないと思う。


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それはともかく、この本を執筆してから現在までの短い期間に、全国の国立大学からはさまざまな不協和音が伝わってくる。

ひとつは学長選出をめぐるトラブルだ。

滋賀大学や福岡教育大学では、学長選考会議が指名した4月からの次期学長に対しての不満が渦巻いている。

滋賀大学の場合は教職員による意向投票で得票率が一番低い、前監事だった人(監事は文科省が指名することになっている)が学長になった。かなりあからさまな人事である。

福岡教育大学では、前回やはり下位の候補者が学長になり、そこで教職員の意向投票自体が廃止されてしまった。そして次期学長として学長選考会議が(勝手に)決めた学長の選考プロセスに関する情報開示請求が行われている。この大学では現学長の振る舞いに対して教職員からさまざまな不満の声が出ているようだ。

さらには岡山大学の学長による薬学部長と副学部長の強引な解雇が問題となって法廷で争われている。これは、医学部の論文不正に対する告発を行った薬学部長・副学部長を別件で処分したという事件で、学長が医学部出身であることから不正をもみ消そうとして、いわゆる学長のガバナンス、強化されたリーダーシップを濫用したのではないかと批判されている。

元々、学長はその大学の教職員の投票によって選出されてきた。2004年に国立大学法人化が行われて以来、外部のメンバー(過半数入れなくてはならない地元の財界や教育界の代表)を含めた経営協議会と学内の教育研究評議員会から選出された委員による「学長選考会議」を組織して、そこが指名する制度に改定された。その意図は意向投票で選ばれた学長では、強力なリーダーシップや経営力を発揮できないからということだったのであろう。

それでもこれまでは95%以上の国立大学では教職員の意向投票を行っており、学長選考会議の決定も概ねその投票結果を尊重したものてあったのが、とうとう意向投票を完全に無視した恣意的な学長選びが始まったのである。今後このような大学がどんどん増えてくることが予想される。それにしても官僚出身の前監事が指名された滋賀大のケースはかなりひどいと思う。この馬鹿げた学長選出のプロセスは法律に書き込まれてしまっているので覆すことは難しい。だから福岡教育大学のように「情報開示請求」しかできないのである。もっとも法律にはないが、勝手に教職員がリコール請求をすればいいとは思うけど。

もちろん、「民主的」に選ばれたこれまでの学長が常に良かったかと言えば、必ずしもそうは言えない。全国の国立大学の学長の経歴を見れば一目瞭然であるように、医学部出身や工学部出身の学長が圧倒的に多いのは、教員数が多い学部から自動的に学長が選ばれてきたという流れがある。少なくとも、これらの人々は大学の内部をよく知っている人たちであったのは間違いないが、それでも岡山大のように文科省が推進する「学長のガバナンスの強化」を履き違える人物が今後も出てくるにちがいない。ましてや、大学のことを知らない官僚出身や経済界出身の学長が、今後は乱発されてくることも懸念される。これらの事件はこうした暗い未来を予感させるものである。

さらに平成28年度から始まる「第三期中期目標中期計画」の概要がだんだんと明らかになってきた。

【あまりにも、ひどすぎる!】

法人化と同時に、各国立大学は六年ごとに「中期目標中期計画」というものを策定して、その達成度合いによって評価が行われることになっている。これらは最終的には文部科学大臣名で公表されることになっている(だから、全然大学の独自性などは発揮できない)。今年で第二期が終わり、来年からの六年間「第三期」が始まるわけである。もともとホップ・ステップ・ジャンプという三段階モデルで、文科省の国立大学改革がステップアップするとされていたのだが、概要を見ただけでこの「第三期中期目標中期計画」が国立大学の首を完全に絞め落として死に追いこむようなものであることがわかる。

そこには、昨年6月に明らかにされた(実態としてはその二年近く前に既に策定されていた)「国立大学改革プラン」を、具体的な数値目標をつけてすべて実行することが求められている(今更ではあるが、これは各大学が自主的に作るものではなくて、最初から文科省によって大筋決められて押し付けられているものなのである)。

国立大学に突きつけられた改革プランは以下の8項目であった。


1.「ミッションの再定義」を踏まえた組織改革
2.各地域における知の拠点としての社会貢献・地域貢献の推進
3.国境を越えた教育連携・共同研究の実施や学生の交流等、グローバル化の推進
4.学長等を補佐する体制の強化等、ガバナンス改革の充実
5.年俸制・混合給与の積極的な導入など人事・給与システム改革の推進
6.法令遵守体制の充実と研究の健全化
7.アクティブ・ラーニングの導入等、大学教育の質的転換
8.多面的・総合的な入学者選抜への転換

新聞などのメディアでは、すぐに目につく1, 2, 3, 4などを中心に報じられたが、これらの項目に関する目標を書き込むのはもちろんのこと、他の項目に関してもきわめて細かい指示が与えられている。

とりわけ5.の人事システム改革に関しては、

● 年俸制の導入を10%を目標値として実施すること。
● 混合給与制(クロス・アポイントメント制度)を推進する。*要するに別なところから給料をもらえということ。

などについて書き込むことが求められている。

そもそもが人件費の配分が大幅に不足しているのだ。

平成28年度の各大学への運営費交付金は取り敢えず前年並みということが発表されているが、恒例の追加配分が行われないということで交付金額はますます厳しくなっている。
そこに景気浮揚策なのか何なのか知らないが、アベノミクスで好景気になった(??)ということで、公務員の給与引き上げと地域手当の引き上げに関する人事院勧告が出ている。
これに合わせて給料を払うと各大学では既に今年度から赤字に転落することが予想されている。

人事院勧告に従わないという選択を選ぶ大学もあると噂には聞く。
それこそ普通民間の会社であれば収入が減れば当然給与引き下げを考えるだろうが、ここでは逆に上げろと国から脅されているのだ。そのくせ、お金は出さない。

そこで言ってきているのが、この年俸制とか混合給与制とかの導入なのである。五十五歳を過ぎた教員からこの年俸制移行への「肩たたき」が始まるらしい。

それどころか、既に新潟大学などでは「早期退職」志願者の募集が始まっているようである。しかしながら、そうでもしなければとても人件費が賄えなくなっているのだ。

ところが、これだけでは全然足りないのだ。

横浜国立大学では今後五年間に七十名程度の人員削減案が検討されている。もちろん現職教員のリストラではなくて、定年退職者の後任ポストの不補充で人員削減をしようとしているのだが、領域によっては専任教員数が不足して満足な教育活動ができなくなるおそれがある。既に非常勤講師用の人件費が足りなくなって開講できない科目があったり、隔年開講に移行したりしており、どんどん教育環境が悪化しているのだ。これはどこの国立大学でも同じ状況のはずである。

つまりは財務省の圧力で、もう充分な人件費が配分されなくなりますよ、だから給与制度を改革して下さいというわけなのだが、そのことがあたかも各大学が自主的に立てた「目標・計画」であるかのようにさせているところが、何ともグロテスクなのである。

さらにはFDやカリキュラム改善に関してもこれまでに増して細かな要求が書き込まれており、たとえば「ルーブリックを活用したカリキュラム改革」をやれ! と押し付けられている。この「ルーブリック」というのは近年アメリカで開発された教育工学の手法で、どうも政策決定者たちはこれを無理やりすべての国立大学に押し付けたいらしい。とにかく書類仕事を増やすことしか考えていない(ちなみにこの「ルーブリック」という英語の元々の意味は、単なる見出しとかヘッダーとかにすぎないが、もっとめんどくさいシステムである。今、大学関係者が必死に勉強しているようだ)。その他、入試にしても既に手間暇がかかる上にあまり成果がぱっとしないAO入試が無理やり押し付けられており、あらゆることが細かく規定されている。

こんな無理やり押し付けられた「中期目標・中期計画」を達成するためだけに六年間が費やされることになるわけであって、絶望的な気分にならざるをえない。

ああ、そうそう。こんなのもあった。

Late specialization(レイト・スペシャライゼーション)を導入せよ。

何だ、これ? 要するに専門を決めない入試をして、入学後に所属学科を選べるようにしなさいということらしい。

これは九州大学が計画中の文理融合の「新創生学部」案や新潟大学が計画中の「創生学舎」のようなモデルをどうやら全国の国立大学に広げようということらしい。さんざん文理融合型の大学院を作って失敗を重ねた末に、今度は学部にまでわけのわからない文理融合を持ち込もうとしている。それも全国の国立大学にまで広げようとしているのだ。本当に一体誰がこんなにくだらない「改革プラン」を作ったか、できることなら作ったアホの顔を一回見たいものだ。これらは春には文科省のサイトで公開されることになっている。

そして、我々国立大学の教員は、これに対して何の抵抗もできないのである。抵抗したら、金を打ち切るぞ、という単純だがどうしようもない脅しに屈しざるをえないという情けない状態が現状なのである。

いや、そんな中でも各地で抵抗運動が起こり始めている。

既成の教職員組合には何の期待もできない。だって、上のような状況を百も知りながら「人事院勧告を完全実施して給与をupせよ!」と主張しているような旧態依然とした組合に何を期待できるだろう? どんどん組合離れが進むだけのことである。

普通の学生が、そして組織されていない普通の教職員が抵抗の声を上げることが唯一の希望の灯火なのだ。そして、お互いにこうした小さな抵抗の火をつなげていくようなネットワークを作っていくべきなのではないかと思う。

新潟大学では、廃止される教育学部の新課程や研究科の学生たちが大学執行部とのやり取りを続けてる。この学生たちの主張は正当なものだ。

=> 新潟大学教育学部有志学生の会のページ参照。

また、ちょっと遅かったけれど横浜国立大学の学生たちもまた行動を始めた。
#言っとくけどぼくが裏から扇動したわけじゃないからね。

=>人文社会系学部の縮小に抗議する集団行進

今更ではあるが、大学は教員と学生のものである。

教員と学生の意志を踏みにじるような、こうした全体主義的な大学破壊に対して、大学に関わる者たち一人ひとりが抵抗の意志を示していくことはとても大切なことなのではないだろうか?

また長くなってしまったので、ひとまずここで筆を擱きます。

2016.01.04

2016年のはじまり

長いこと更新をしていなかった。

もっぱらFacebookとTwitterでの発信ばかりになってしまった。

もう一つはずっと契約していたNiftyの有料サービスを全部解約したということも大きい。

光電話サービスも、Cocologの有料サービスもそれに伴って止めた。
そのためにデザイン面とかでできないことが多くなった。無料サービスの範囲でのことしかできない。

NIftyのアカウント自体は残してある。なんと言っても1987年以来ずっと付き合ってきた会社だから縁を完全に切ることは難しい。

これまでマンションの光ケーブルをNTTとNiftyを通して使っていたのを、地元のケーブルTV一本にしたからである。

そう言えば1996年からずっと使ってきたbekkoameのサービスもほとんど使っていないなあ。解約しようかなあ。

2016年という数字を見ても今更何も思わないが、最初にホームページを開設してから20年目である。
そう言えばちょうど十年前の2006年に三ヶ月半だけではあるけれどもヨーロッパを一人で放浪していたことを思い出す。

2回も盗難にあったり、結構大変だったけど、色々な出会いもあり楽しかった。
また、ああいうことをしてみたいけど、体力がいつまで持つのかということもそろそろ少し気になるようになった。

昨年11月にニューヨークに行った。ニューヨークは2001年2月以来で、WTCのツインタワーの見えないニューヨークを訪れるのは初めてだった。

ロウワーマンハッタンのイーストヴィレッジでクシシュトフ・ヴォディチコと会って、今年二人でやろうと思っているプロジェクトの打合せを初めてやったのだが、戦時のワルシャワで生まれた73歳になるこのポーランド出身のアーティストとこんなに仲良くなって、また一緒に仕事をすることになるとは思ってもいなかった。

彼は3月に10日程度、ぼくが招いて来日することになっている。そこから一体何が始まるのか、とても楽しみだ。

今更ではあるが、人生は一期一会の連続である。とりわけ、これだけ年齢を重ねると、昔のさまざまな出来事が縁となって、それから時を経て一見重なりそうになかったことが突然重なりあってくることが多い。
年賀状やFacebookの繋がりを見ていてもそう思う。

12月に出した角川新書『文系学部解体』の評判が良い。もっとも、これから色々な火の粉が降りかかってくることになるのだろうが、ずっと過ごしてきた大学の危機とあってはもう立場とかどうとか言っている場合ではないと思う。

今月末には日本記者クラブで講演をさせてもらうことになっている。社会がどのように受け止めてくれるのか確かめてみたい。それもこれも始まりはこのblogだった。

というわけで、多分これからはFacebookがメインにはなると思いますが、時々はこうしてここに戻ってきたいと思っています。

どうぞ、今年もよろしくお願いします。


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